仮名遣の歴史

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著者
山田孝雄
底本
山田孝雄『仮名遣の歴史』宝文堂、1929
舩木直人氏入力

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今本書を世に公にするに及び、一言を序せむと考へしが、頃日東北帝園大學法文時報第九号に掲げし次の意見は本書の序言とすべき点少からねば、とりて、こゝに収めて序にかふる事とせり。

國語の理解と國運の消長[編集]

題は少々大袈裟であるが、簡單に要点だけ述べる。

明治維新の時、開國進取の國是を定められてから、外國の文化を吸収して、所謂皇基を振起せむと極カつとめて來た事が我が國を欧米の文明國に劣らぬ地位に導いたといふ事はいふを待たない。併しながら維新以後今日に至るまでの過ぎ來た跡を顧みると、各方面に随分危険な道を通つて來てゐるし、今後も深く注意せねばならぬ点が多々あると思はれる。

今、國語の上に就ても同じ様な事が明かにいひ得るのである。後には國家主義の文部大臣になつた森有禮が國語を廢して、英語を以て、これに代へようといふ意見を發表し、歐米の學者に或は誡められ、或は笑はれてはじめて思ひ止まつた事などは危險極まる話であつた。しかしこれは森一人だけの話ではないであらう。名はいはぬが大臣だつた事のある或る高官は數年前死ぬまでかやうな意見を懷いてゐたのは事實である。かやうな人々は國語といふものは國民の古來の貴重な精神を蓄積してある重要な寶庫であるといふ事を知らないのであるらしく思はれる。かやうな人々が國民の指導者として立つて行くといふ事ではその結果はいふまでもないではないか。今日あわてゝ思想善導などゝさわがねばならぬやうになつたのは國民思想が弛緩したと考へるからであらうが、その思想を弛緩させるやうになつた原因は種々あるであらうが、その重な原因の一として國語を虐待してゐる事をかぞへる事が當然であると考へる。

我が國のすべての國民が我が國語に對してどれ程の尊敬を捧げ、どれだけの理解をしてゐるであらうか。今こゝに假名遣を一例にとる。若し、これが英語とか獨逸語とかであれば、かの綴の一字それも發音もしない文字一つを落しても、教師は眞赤になつてきめつける、生徒は眞青になつて謝るのであつて戰々兢々として愼み畏んでゐる。それは勿論結構な事と思ふ。所が我が假名遣になると、どうであるか、教師も生徒もなんだ假名の一字や二字位どうでもよいでないかと思つてゐるのは事實ではないか。さうして文教の府が破壞の見本をつくり、他の官省が得たり畏しと之を實行するといふ恐しい物凄い状態を呈してゐる。さうしてそれが政治問題にせられさうになると、あわてゝ中止するといふ有樣であつて、國語の尊敬などが、今の大官などの頭の中に有るか無いかゞ疑はれる。

國語を尊敬せよといふ。これに對しては誰も異論は表面唱へぬであらうし、又贊成もするであらう。然しながら、どこにその國語尊敬の事實が認められるのであるか。日常見る新聞や雜誌にあらはれてくる事がどれ程の尊敬を國語に捧げてゐるといふ事を示すか。私はかへつて反對の事柄を常に見せつけられてゐるのである。

國語を尊敬するといふ事さへ、今は不十分であるが、私はたゞ尊敬するといふだけでは足らないと思ふ。國語は正しく理解せられねばならぬ。私の常に思つてゐる事であるが、私は國語の理解の正しいと否とが、場合によれば國運の消長にまで影響するといふ事を考へてゐる。

かやうにいふと、きさまはそんな大きな事をいふが、何ぞ理由でも証拠でもあるかといふ人もあらう。そこで私は一つの例をあげる。それはかの名高い慈鎭和尚の著した愚管抄の中にある語である。「天照大神は百王を守らせ給ふ」といふ様な話が古來伝はつてゐたが慈鎭は如何に之を解したか。彼は「神武天皇の以後百王ときこゆるすでにのこりすくなく、八十四代にもなりにける。」といつたり、又今「百王の十六代のこりたる程云々」といつたりしてゐる。慈鎭のやうに考へてくると、我が日本國はこの後段々に心細い事になつて行くといふ事は争はれない。さうして、かやうな説は彼一人でなくその後の所謂識者も同じくいつてゐたのであつた。かやうな心細い世の末になつたといふ思想が、日本人の精神を弱め、國民精神の統一力を弛めたといふ事はいふまでもあるまい。かやうな思想が、かの南北朝の大混乱をひき起す遠因となつて居ると私は考へる、さうして九十六代の天皇の時から大乱が起り、九十九代の天皇に至つて南北合一といふ一大事件に一往の局を結んだ。百王といふ語の慈鎭流の解釈が、事實通りになつたといふべきであるまいか。

然しながら慈鎭の解釈はもとより誤りである。北畠親房は「十々の百にあらざるべし。窮なきを百といへり。」といつて世俗の誤を正さうとした。誠にその通りである事はこれ亦いふをまたないが、親房がそれをいつたのは九十七代の天皇の時であつた。あと三四代だけしか無いと考へられてゐた時であるから大勢を挽回するといふ事は大水を片手で防ぐといふ有様で不可能であつた。しかし、親房のこの正しい解釈は當時効が無かつたが、後の明治維新を起す一指導精神となつたので、やはり國運の消長に影響してゐる。

右の一例でも國語の解釈の仕方が思想を指導し,延いて國家の盛衰にも及ぶといふ事があるといひ得ると思ふ。所で慈鎭和尚は國語を軽んじたのかといふに決してさうではないのみならず、鎌倉時代第一の國語尊重論者であつた事は愚管抄や拾玉集に明かに証拠を残してゐる、然るに、この人が「百王」といふ語に対してかやうな解釈をとつたのであつた。慈鎭和尚は生前天台座主であつて、その地位が、今ならば、大學総長といふやうなものに似てゐるのである。この知識階級の大先達が、かういつたのであつて見れば、その他の人々がさう考へたのも無理ではなかつた次第である。

そこで私のいひたい事は、國語を尊敬するといふ事だけではまだ足らない。國語を正當に理解する事がその上に大切であるといふのである。所で今の世の有様は果してどうであるか。これは世の識者に対して十分に考へて戴きたい重大な事件であると思ふのである。

昭和四年六月一日 山田孝雄

第一章 假名遣の起源[編集]

假名遣とは字義よりいはば、假名を用ゐて、言語を書きあらはす方法といふ義なるが,吾人が用ゐる所はさる廣汎なる意義にあらずして、假名を用ゐて國語を書きあらはす間に紛はしきものを正しく用ゐる上に存する一定の規律をさす。されば實地の問題としては如何なる場合に如何なる假名を用ゐるべきかといふことをさすものたるなり。

惟ふに假名が漢字より脱化して國語を記載するものとして成立せし当初にありては当時の國民が意識せる音の単位とその假名の箇々とが大体に於いて対応すべくして生成せしものなるべきは疑ふべからざるものなれば、その時代にありては、この假名遣といふ如き事は問題とはならざりしものたりしならむ。

然れども言語は不断に動き流れてやまず、時をふるにつれて漸く形をかふるに至るべきは自然の勢なりとす。然るに文字はすべて有形のものなれば、一旦成立せば固定的となりて変化を生ずることなし。さればその假名がたとひ、音字なりとすとも、そのある音に対しての假名といふものは、その語音の変化ありたる場合にもその音の変化に伴ひてうつることなきものなり。この故に假名成立以後相当の年代を経過せば、その假名と實際の國語の発音との間に多少の齟齬を生ずるに至るべきは自然の事なりとす。この齟齬は或は新しく生じたる語音をあらはすものが、その假名の中に存せぬ場合もあるべく、又假名は古のままに伝はりたれど、語音は変化して、それに相当する音の行はれずなりたるもあるべく、又その假名に相当する音は存しながら、特別の語にかぎりてその発音のかはれるものもあるべきが如き種々の場合生ずべし。

かくて新しく生じたる語音をあらはすものが從來の語音に存せぬ場合に於いて、必ずその音を実際の通りに之をあらはさむとする時には別にそれに相当すべき新しき文字を制定するか、若しくは從來の文字を借りて之をあらはさむとするに至る。かくの如くにして、新しき文字の生れ、古き文字の亡び行く場合には問題は無けれど、若し、上述の如き結果として、一の文字が二三様に用ゐられ、二三の文字が同じ様なる語音をうつすに用ゐらるる如き状態を呈する場合に於いては、ここにそれらを如何に使用せば可なるかの問題を生ず。

以上は一の字と一の音との対応如何といふ問題なるが、尚ほその外に、一の語をある数箇の文字の集團にてかきあらはせる場合(「ウグヒス」の如きに、その一綴の文字の一團が、それに対応する一の語即ちある観念を代表すと意識せられたる場合に、その一團中の或る文字の発音が、一字としての場合の発音と異なる場合を生ずることあり。かかる場合には前述の一字と一音との対応如何といふ問題ももとより存すべきが、その外に別に、その一語内に於ける或る文字と或る一音との対応如何といふ問題を生ず。たとへば、「ウグヒス」といふ場合に「ヒ」一字は「ヒ」の音をあらはすことは疑ひなけれど「ウグヒス」の場合には「ヒ」と発音せずして「イ」の如く発音する如きこれなり。かくの如き場合にそれを「イ」をかくべきか「ヒ」とかくべきかは、単に発音と文字との対応如何といふが如き単純なる問題にあらずして、これを從前の如くかきて然るべきか、改めてかくべきかは、その語の一箇としての社会的認識如何といふ問題に蓬着するものなり。これを顧みずしてこれをただ一箇の文字の使用法に止まるといふが如きはこの一綴の一團が、単なる文字の叢りにあらずして一個の観念の外形たることを忘れたるものといふべきなり。かくの如くなれば、ここにたとひ一字にせよ、その假名遣の問題は一個の音字の問題にあらずして、一の語の外形を如何に取扱ふべきかの問題にして、同時にそが文化を有する國民なる場合に於いては祖先の文化を如何なる形式によりて継承すべきかの問題とも化するものたりとす。然れども、かくの如き場合に於いてもなほ人々面々にその是とする方法をとりて之を用ゐるものとせば、ここに多少の問題は存すといふとも、一定の法則によるものにあらすとするときは未だ學術上の問題とも實際上の問題ともならざるなり。然れどもさるわがまま勝手なる事は社會生活の上には行はれざることにして早晩一定の方式によりて社會共通の使用法を立てむことを要求するに至るべきは道理を以て進退せむとする文化國に於いては必然の勢なりとす。かくの如くにして、それら文字の用ゐ方に於いて合理的の方法によりて之を一定し、各人の勝手に使用する弊を矯めむとするに及びて、ここにその文字の用ゐ方即ち假名遣といふものが、學問的又實際的の問題ごして興り來るものなりとす。

わが國の假名遣といふものは上の如き事情に基づきて生じたるものたることは疑ふべからず。今本邦の言語と文字との交渉の歴史を見るにその假名の生成せる時代は今論ぜず。その假名と語音との間に多少の齟齬を生じたりしはかのア行の「エ」とヤ行の「エ」との區別がなくなりし時代に既に起れりと認めらる。この二者の區別ありしことはかの「あめつち」歌に於いて既に認めらるる所なるが、その假名の上の實際を見るに、萬葉集の假名に於いてこの區別の略認めらるるを見る。

然れども、普通の体の假名にありては平假名にありてはア行の「エ」なるべき「え」とヤ行の「エ」なるべき「江」とが混一して考へらるるのみならず、片假名にありてはヤ行なるべき「エ」一個のみなるが、これらの事は假名遣の上の問題とはせざれば、所謂伊呂波四十七文字を如何に正当に使用すべきかの問題が実際の假名遣たりしならむ。

惟ふにわが國にありて假名遣の研究の起りしは何時頃よりなるべきか。この研究の起らむには、その前に、その混乱時代の存すべきはももとよりなるが、倭名類聚鈔にはこの混乱の存するを見ねばそれより後なることは考へらるる所なり。而してこの混乱は何時頃より起れるか。今より明確に知り難きことなりといへども、奈良朝の頃に既に端を発したりと見ゆ。而してそは「ア」行の「エ」ヤ行の「エ」の混同と並行してハ行の「ホ」を「ヲ」とせしものを見る。「杲鳥」「カヲトリ」巻十にこの字を用ゐる。(巻三、巻十に「容鳥」とかき、巻六に、「貌鳥」とかき、巻十七に「可保等利」とかけり。)「朝杲」(アサカヲ)(巻十にこの字を用ゐる。巻八、巻十に「朝貌」とかき、巻十四に「安佐我保」の杲は「カヲ」をいふ音をあらはせる文字なるが之を以て「カホ」の語を記すに用ゐたり。但しこの一二例を見るのみ。又寛平昌泰間に編せし新撰字鏡には「ウルハシ」といふ語に限りて「宇留和志」とかけり。(〓「瑳」「嬋媛の訓」)これも亦この語に限りて、發音のかはれることを見るべし。(この語のみの假名遣は西大寺の金光明経にも見ゆ。然れども、これらは所謂漸をなせるものにして、末だ大勢を支配せりとは見えず。

かくて漸く變遷の著しく見えそむるに至れるは平安朝の中期以後なるべし。

今大矢透氏の假名沿革史料によるに、

一條天皇の長保四年の点なる

法華経義疏 「石山寺藏」

には「カホ」を「カヲ」とかき、又「ヲ」を「オ」の場合に用ゐ「へ」を「ヱ」の場合に用ゐたるあり。

後冷泉天皇の天喜康平頃の点なる

大〓塵遮那成佛経(高野山龍光院藏)

自河天皇の承暦二年の点なる

大〓塵遮那成佛経(西大寺藏)

堀河天皇の嘉保二年の点なる

阿〓薄倶元帥大将上佛陀羅尼経修行法儀軌(石山寺藏)
同承徳三年の点なる将門記(眞福寺藏)

同鳥羽天皇の永久頃の点なる

大慈恩寺三藏法師伝(興福寺藏)

同保安三年の点なる

妙法蓮華経玄賛(法隆寺藏)
同天承二年の点なる金光明経(三井寺法明院藏)
同長承三年の点なる法苑珠林(法降寺藏)

などに至ればア行ハ行ワ行のイ、ヒ、ヰ、ウ、フ、エ、へ、ヱ、オ、ホ、ヲ等の混乱の漸次に甚しくなり行くを見るべく、かくて保元平治の頃より後はその混乱のいよいよ著しくなれるを見る。しかもかく混乱せるうちにもなほ正しく假名を用ゐたるものの多かりしことはもとよりいふをまたず。

さてかく混乱を生じたれども、それらを人々思ひ思ひに漠然として用ゐてある間は未だ甚だ問題とはならざるべきが、若しここに人ありて、その假名の用ゐ方の区々なるに心づき、いづれを用ゐむかと省みるに至らば、ここにこれを問題とするに至るべきは自然の勢なりとす。かくてこの問題は果たして起れり。而して、その當時之が標準を示したるものは俗に定家假名遣と稱するものなりとす。

第二章 定家假名遣[編集]

余はここに所謂定家假名遣を以て假名遣を論定せしものの最初として論ぜむとするものなるが、或はこれより以前に既に之を論じたるものなきかの疑をいだくものあらむ。これにつきては先づ悦目鈔を一瞥せざるべからす。

悦目鈔は普通に藤原基俊の著とせられる。基俊は定家の父俊成の師たる人なれば、この人の書に假名遣の事ありとせば、その源頗る古しといふべし。而してこの書には

物を假名にかくやうは

といふ目ありて、

上にかくい 下にかくひ 口合にかくゐ
上にかくわ 下にかくは
上にかくお 下にかくを
上にかくう 下にかくふ
上にかくえ 下にかくヘ ロ合にかくゑ

の十二字をあげたり。これはもとより假名遣を論定せりといふべきにあらねど、假名 遣方に於て、これらを問題とすべきことをいへるに似たり。果して然らば、これを假名遣に注意せし初めとすべきか如何。

今これを見るにその問題とせる假名は上の如く十二字にして五類の部門を立つべきものとす。然るときはこの時既にこの事ありきとすべきか。然るに、下にいふ如く定家假名遣に於いては

い ひ ゐ
お を
え へ ゑ

の三類八字を問題とせるに止まれり。而してその後の増補にかかる行阿の假名遣に至りては上の十二字五類よりも稍々多く

ほ(を お)
む(う ふ)

の二字を加へたり。これによりて之を察するにこの書に説く所は下にいふ定家の假名遣よりも後なるものといふべきなることを考ふべし。さればこの本を以て、後人の仮託なりといふ説の、少くもこの點に於いては信ずべくして、これを以て假名遣に留意せしことを語る最初の文献とはいふを得ざるべきなり。

以上の如くなれば、なほ通説の如く定家假名遣を以て假名遣を論ぜし初めとすべきが如し。然るに、その定家假名遣と称せらるるものの實體は從來往々誤まり傳へられ、近時文學博士吉澤義則氏の研究の発表せられて梢世の迷を解きしにすぎず。この故に先づこの實體を明かにすべき必要あり。

定家假名遣と称せらるるものはその俗称にして、その普通に世に知られてあるものは假名文字遣といふを本名とするものの如し。而してこれとても、所謂定家假名遣といふ名を以て行はれたりといふに止まり、定家の與り知らざる部分少からざるなり。それらの事につきてはその假名文字遣の序にいへる事を見て考ふべし。序に曰はく

京極中納言 (定家卿) 家集拾遺愚草の清書を祖父河内前司 (干時大炊助) 親行に誂申されける時親行申て云をお、え ゑ へ、い ゐひ等の文字の聲かよひたる誤あるによりて其字の見わきかたき事在之。然間此次をもて後學のためにさためをかるへき由黄門に申處に、われもしか日來より思よりし事也。さらば主爨か所存の分書出して可進由作られける間、大概如此注進の處に申所悉其理相叫へりとて則合點せられ畢。然者文字遣をさだむる事親行か抄出是濫膓也。加之行阿思案するに權者の製作として眞名の極草の字を伊呂波に縮なして文字の數のすくなきに、い ゐ ひ、を お、え ゑへ同讀のあるにてしりぬ、各別の要用につかふへき謂を。然而、先達の猶書漏されたる事共ある間是非の迷をひらかんかために、追て勘るのみにもあらず、更に又 ほ、わ は、む う ふの字等をあたらしくしるしそへ畢。其故は、ほ は を によまれ わ は は にかよふ。む は う にまぎる、ふ は又う におなじきによりて、是等を書分て段々とす。殘所の詞等ありといへとも是にて准據すへき歟。仍子孫等此勘勒を守て可神秘々々。

と。これによれば、この假名遣を定めむと企てたるは當時大炊助たりし親行といふ人にして、定家の家集拾遺愚草の清書を依頼せられたる際に、その字例を一定せむと欲して企てしものにして、親行自ら立案し、定家の同意を得て實行せしものと思はれたり。拾遺愚草は定家の侍從たりし頃(拾遺は侍從の唐名)に、その家集にみづから名づけしものなるべきが、そを清書せしめしは何時なるか。按ずるに定家が侍從に任ぜられしは前後二度ありて、前には安元元年十二月より文治五年十一月までその任にあり、後には建暦元年九月より建保二年二月までその任にありしが、現本拾遣愚草の上卷、建保四年十二月十八日院百首の末にその書をかく名づくる由自ら記せるを見れば、最初拾遺愚草と名づけしものの本體はここまでにして、そを清書せしめしは建保四五年の交にあるべきものと考へらる。

さて又その親行といふ人につきて考ふるに、この人につきては本朝書籍目録外録水原抄の條に

親行は定家卿の母方の祖父也、假名遣の作者也。

とありて往々之を信ずるものあれども、この目録にいへるは藤原親行といふ人にして、尊卑分脉によれば、親忠の女子が俊成の室定家の母にして親行はその親忠の孫とし、又別に親忠の子ともせり。いづれにして定家の外戚たるには相違もなき事なれど、祖父にはあらで、從兄弟か叔父かに當る人なり。然るにこの藤原親行には大炊助たりしことも河内守たりしことも見えず、又その孫に行阿といへる人のありし由も見えず。この行阿は如何なる人なるかといふに、この人はかの源中最秘抄の著者なりと傳へらるるものなるが、前田侯爵家に藏するこの本の奥書によりてその俗名を源知行といひ、その父は義行、義行の父は親行なることを明確に知るを得るに至れるが、その祖父といへるに合すれば、ここにいへるは源親行なるべきこと疑ふべからず。この親行は河内守源光行の子にして、光行以後行阿に至るまで累代歌學を以て知られたりし家に生れし人なりとす。この人は鎌倉幕府の祗候人として吾妻鏡に屡々その名の見ゆるものなるが、中にも建長六年十二月十八日の條には河内守親行と見ゆるを以て考ふれば、かの河内前司といへるにも合するを見るべし。この人は定家卿と學問上の交深かりしことは源氏物語の注たる紫明抄、又東野州聞書等を見ても知るべく、又頼経將軍の命を受けて萬葉集の校合をなしたるなどにて世に重んぜられし學者たるを見るべし。その大炊助たりし時は何時か明かならねど、承久の亂の時に民都大夫(五位丞)たりし由なればそれより以前の事なりしは疑ふべくもあらぬが、恐らくはかの建保の頃にてありしならむ。

今この序によれば、定家と親行との合意によりて、この假名遣は決せられしものと見ゆるが、定家が假名遣に留意せしことは、明月記(和歌事類に抄せり。現行流布の明月記に見えぬははやくその部分の逸せし爲ならむ。)正治二年九月二十七日の條に、

又参南殿。今日被進御歌於院百首御清書、色紙雖打わざとうちたると見えぬほどに打也。たけたかき色帋也。依仰一反見之、無僻事志ろたえとアルヲ志ろたへと可候之由申畢卷之。

と見えたり。此によりて考ふるに、定家は既にこの頃より假名遣の正否につきて考を有したりし人なりといふべし。然らば、その詠草を清書するにあたりて親行のこの提案ありし際には、同意を表したりしことは、有り得べき事といふべし。

さてここに注意すべきは定家の認めし假名遣と世に所謂定家假名遣といふ書とは同じものにあらぬ事なり。世に普通定家假名遣といへる書は既にいへる如く、本名を假名文字遣といひて、かの行阿の増補編纂したるものなることは、かの序にて明らかなることなり。さればその序文を見ば、その区別は直ちに知らるべきものなれど、その基本が定家の認めしものにあればといふ精神にてか、或は定家の崇拝の絶対的なりし時代にその名を唱ふる方、その行はるるに利便ありし為か假名文字遣といふ本名よりも定家假名遣の名の方ひろく用ゐられ、これが為にこの假名遣の真相往々誤り伝へらるるに至れり。これはもとより伝ふるものの罪にして假名文字遣の著者たる行阿の関知する所にあらざるべし。

さらばその定家の時の假名遣とは如何なるものなりしか。その假名遣の範囲はかの序文にも明言せる所にして、實に、

を お
え ゑ へ
い ゐ ひ

の三類八字の間にその用ゐ方の別を立てしものにして後世の假名遣と稍々趣を異にする点あるを見るべし。そは

(「を」「お」あれど)「ほ」なく

「は」「わ」の別なく

「ふ」「う」「ゆ」の別なく

「じ」「ぢ」「ず」「づ」の別なき

ことなり。即ちこれらの區別が當時問題となりてあらざりしことなり。然れども、かくいはむには、なほ多少の顧みるべき點あり。その序文には「い ゐひ等の文字」といへれば、その「等」は所謂「外等」にしてその外のものをも指してあらむかといふことなり。然れども、この事は行阿が序中に、

加之行阿思案之するに權者の製作として、眞名の極草の字を伊呂波に縮なして、文字の數のすくなきにい、ゐ、ひ、を、お、え、ゑ、へ、同語のあるにてしりぬ。各別の要用につかふべき謂を。

といへるにてこの八字以外のものは當時假名遣上の問題となりてはあらざりしを見るべきなり。

今之考ふるに、今はア行ハ行ワ行共に混同し易きさまになれるに、この頃ハ行にては

ひ へ

の二字が「イ」「エ」の如く發音せらるるものもあり、ワ行にては

ゐ ゑ を

の三字が「イ」「エ」「オ」に同じ様に發音せらるるに至りしものありしを告ぐるものといふべし。而して之をかの前章にいへる假名沿革資料等にあげたる假名遣の違例に照すに、大體一致する點ありて、たゞ「ウ」「フ」の二の存せざる點のみを異なりとするが、この「ウ」「フ」がここあげられざるは恐らくはその違例はなほ徴々たるものにして著しく社會の問題とならざりしが爲なるべし。果してこの推測にして誤らずとせば、この假名遣に上の八字を限りてあげたる事は、當時眞に混亂して統一を認め難きものありしが爲なりしなるべし。かくの如く考へ來る時は、定家假名遣の起るに至れるは當時文献の統一整理の爲、社會の必然の要求によれるものにして、世に往々考へらるるが如く、定家の獨斷專恣に出でしものにあらざるべきなり。

さてかくの如く親行が起草して定家の同意を得て定められし假名遣は如何なるものかといふに、普通には前にいへる如く、假名文字遣をさして、定家假名遣と呼べるによりて、この書にかける所即ち定家の定めたるものと認めてあるが如し。然るにその序によれば、

前述の如く、その書き分つべしとせる假名が八字三類に止まれるに、その書には「は、わ」「む、う、ゆ」「ほ」の遣ひ方をもあげたれば、そは決して定家假名遣そのままにてはあらずして、少くとも後の増補の存すべきは想像に余りあり。而してその事はその書の序の中に、

然而先達の猶書漏されたる事共ある間、是非の迷をひらかんがために、追て勘るのみにもあらず、更に又ほ、わ は、む う ふ の字等をあたらしくしるそへ畢。

といへるにても明かなり。然らば、定家の時親行の草せし假名遣はこの假名文子遺よりは簡単のものたりしことは疑ふべからず。

かくてこの定家の時の假名遣とおぼしきものには定家卿口傳と題する書あり。下官集と題する書中の嫌文字事の條あり。人丸秘抄と題する書あり。又三貌院關白臨定家卿書といふありてそれにも定家の假名遣をあげたりといふ。さてその下官集には語學叢書に収めたるもの二種ありて一は弘安七年の識あり,一は文永三年及び元徳元年の識あるものなるが、

その弘安本の方には、

を お
え へ ゑ
ひ ゐ い
ほ ふ ひ ふ(む)

等をあげたるが、その「ふ」以下には各「今入」と注せるを見れば、何人か後人の増補なることは明かなるが、それを除きてもなほ、「ほ」がかの定家の定めたりと、假名文字遣の序文ににいへる所に存せねば、これも後の増補なるべきなり。次に定家卿口伝を見れば、これには

端のへ 中のえ 奥のゑ
端のほ 中のを 奥のお
端のい 中のゐ 奥のひ

とあれば、これまた「ほ」の部の増補せられたる本にして、かの定家卿の認めし時のも

のよりも「ほ」の一項増加せるものなり。かくて文永本の下官集を見れば、

を お
え へ ゑ
ひ ゐ い

の三項八字にして人丸秘抄も亦然り。これによりて考ふるに、吾人は先づ、人丸秘抄、文永本下官集を以て定家卿の批定せし假名遣の實状に近きものならむと推定するを妥当とすべきなり。ここに於いてこの二本を比較するに、その記載する所互に出入あれど、文永本下官集の方最も簡単なれば、この本最も古き姿を伝ふるものなるべきかと考へざるを得ざるなり。この本に載する所は甚だ簡単にして今その全体をあぐることもさまで難事と

せず。曰はく、

緒之音を ちりぬるを書也仍私用之
をみなへし をとは山 をくら山
玉のを をさゝ をたえのはし
をくつゆ てにをはの詞のをの字
(人丸秘抄にはこの末に三語を加ふ。)
尾之音お うゐのおくやま書之故也
おく山 おほかた おもふ
おしむ おどろく おきのは
おのへの松 花をおる おりふし
(人丸秘抄にはこの末に五語あり。)
え枝 梅かえ 松かえ たちえ ほつえ しつえ
笛ふえ 断たえ 消きえ
越こえ きこえ 見え
風さえて かえての木 えやはいふきの
(人丸秘抄にはこの末に「いりえ」あり)
近代人多え(三貌院本ゑ)とかく
古人所詠歌(歌字三貌院本による)あしまよふえを以て可為証。
うへのきぬ 不堪 たへす 通用常時 しろたへ
草木をうへをく栽也
まへうしろ ことのゆへ(栢かへ)
やへざくら けふこゝのへ さなへ
とへ閲答 こたへて おもへは
(人丸秘抄には「栢」なくして他に七語を所々に加ふ。)
すゑ ゆくゑ こゑ こすゑ
繪  衛士 ゑのこ(詠 朗詠 ゑい)
(産穢ゑ) 垣下座 ゑんかのさ ものゑんじ怨也
(人丸秘抄には「詠」「産穢」なくして末に「つゑ」あり。)
こひ おもひ かひもなく
いひしらぬ(あひ見ぬ)
うひこと おひぬれは おいぬれは常時也
いさよひの月 但此字歌秀句之時皆通用
(人丸秘抄には「おもひ」「あひ見ぬ」をかき外に四語を加ふ)
藍あゐ つゐに 遂に色にそいてぬへき 池のいゐ
よゐのま
(人丸秘抄には外に五語を加ふ。)
にしのたい 天かい
(人丸秘抄には五語を加ふ。)

實にただこれのみなり。しかも、このうち「栢かへ」「詠ゑい」「産穢ゑ」「おもひ」「あひみぬ」の五は人丸秘抄に見えぬ所なれば、恐らくは原本になくしてこの本に補はれしものならむも知られず。さてこの下官集とは如何なるものなかといふに、これは

假名遣のみならず、歌草子などの書きしるし方を録せるものなるが、その文永本の奥書には

文永三年四月下旬新大納言以御自筆本書寫之。同點了。努々不可他見。

とあり。これを下官集と名づるは本文の中に「下官訂此説」「下官用之」などあるによりて誰人かこの名を加へしものならむが、元來「下官」とは第一人稱の謙稱にして、筆者の自ら稱へしものなれば、之を以て書名とせるは無下に拙きわざなり。さりながらここに下官と自稱せるは誰人なるか。傳説の如くならば定家その人ならざるべからす。然れどもかの假名文字遣の序を正しとせば、之をここに採録せるは定家とすども、その假名遣の草者は親行たるべき筈なり。かくてその假名遣の條のはじめに曰はく、

一、嫌文字事
他人總不然又先達強無此事只愚意分別之極タル僻事也。親疎老少一人舞同心之人最所謂道理ナリ。況且當世之人所書文字之狡狼藉過干古人之所用來心中ニ之ヲ恨トス。

とありて、その趣旨を明かにせるが、その末には

右此事は非師説只発自愚意。見旧キ草子可思之。

とあり。ここに「非師説」といへるは如何なる意なるか。この假名遣の起草者をば親行とせば、その師とは親行の師たる人ならざるべからず。その親行の師とは誰人なるか、親行の父光行は俊成の弟子なれば、定家の家は親行の師家なりといひてもよかるべく思はるるが故吉澤博士などかくの如く説かれたるやうなれど、、然りとせばこれを定家の書にとり入れしさまを見るに、稍々不穏當の感あり。按ずるにこれはさる定まりたる師ありと確かにさせる意にはあらずして、ただ、この説は師伝をうけたるものにあらずといふに止まるべく、かくて愚見の発明説なりといへるものならむ。この故に余はこの師とは特定の人をさせるものとは考へざるなり。凡そ当時にありて何事も師伝を重んじたるものなれば、こに古來未発の説にして師傳によれるにあらざる事をことわれるものといふべきなり。

然らば、この假名遣は全く親行の独断に出でたるものなりやはた何等かの根拠ありやと考ふるに、「を」「お」の下には各いろは歌の用例を以て之を証し、又「え」の條の末に上にもあげたる如く、

近代人多ふゑとかく
古人所詠歌あしまよふえを以可為証。

といひ、又

不堪 たえす 通用常時

といひたるを見れば、古來又は當時通用の事實を基礎として定めむとしたることを告ぐるものなり。而して又

いさよひの月 但此字歌 秀句之時皆通用

といへるも亦、この言ひかけの事を証としてその假名遣を証せむとせるものなり。されば、かの跋の語に「只発自愚意」と謙遜しながらも或は「當世之人所一書文字之狼藉過古人之所用來」といひ或は、「見旧草子可思之」といへる所以をも見るべし。即ち、かれは、當時行はれし前代よりの草子類の用例を見て、それを帰納したりしことはこれらの説明にて明かに知らるるなり。

然るに、その定めたる假名の實例を見るに、

をくつゆ  おしむ
おきのは おのへの松
花をおる おりふし
かえての木
草木をうへをく  ことのゆへ
ゆくゑ おひぬれは
つゐに 池のいゐ よゐのま

などの如く僅々七十餘箇の例中十五箇も正しからぬ例の存するは何故なるか。全然古来の例証により、又當時汎く用ゐたる傍例によりたりしものとせば何が故にかかる事の生ぜしか。これによりて考ふるに、古來の慣例によりて定むといふ主義によれりしことは明言せられたれど、事実に於いては之によりて一貫せりと見えざるなり。何が故にかかる現象を呈するかは深く考慮すべき問題といはざるべからず。催ふに、この時に親行がその典拠とせしものは、かれが「見旧草子可思之」といへる語にて推すに、古くとも、平安朝の中期の和歌集、又物語、日記等にありしものなるべきか。果して然らば、當時多くは既にこれらの假名遣の混乱せし時代のものたりしなり。惟ふに今にして、親行の拠とせし古き草子類の如何を見ること難しといへども試みに、平安朝末期以後の書写と傳ふる傳本につきて見るに、頗る乱雑なるものありて、この假名遣の比にあらざるものありたりとおぼし。

されば、その間に多少自己の見識を以て断ぜるものもありしならむといへどもも、そのよる所は存したりしものなるべく、ただその拠る所のものが既に混乱を起したりし時代そのままのものなりしが故にかかる現象を呈したるものならむと一往は解釈せざるべからざるなり。

さて以上はかの行阿の序文にいへる範囲に合し、しかも最も簡単なるものを以てかの親行の起草せし所謂定家假名遣の原本に近きものと見なしての論なるがその原本は果してその如きものなりしか、今これを正確に知る由なければ、姑くこれを基として、その後の変遷を論ぜむに、かの弘安七年の奥書ある下官集にありては「今入」と注せるもの頗る多く、

「を」の部に九語

「え」の部に十九語

「へ」の部に四十七語

「ゑ」の部に三語

「ひ」の部に十一語

「ゐ」の部に六語

「い」の部に七語

を算し「お」の部には「今入」といふ文字の記入見えねど五語の増加あり、その他にも「今入」の注記多くして二三の増補あるを見る。かくて又別に人丸秘抄を見るに、弘安本とは別の系統に於いて文永の下官集に比して、

「を」部に三語

「お」部に六語

「え」部に一語

「へ」部に七語

「ゑ」部に一語(但文永本は別に二語多し。)

「ひ」部に四語(但文永本は別に二語多し。)

「ゐ」部に五語

「い」部に四語

の増補あり。されば、その成りしより後漸次に人々の手によりて増補せられ來りしものなりしならむ。

かくて定家卿口伝と題する書に至りては「ほ」の假名遣を加へたれば、その項目に於いてはやくも本来の定家假名遣のままにあらずなりたり。しかもこの書にはその假名を區別し易からしめむが為に、かのいろは歌に於けるその字の位畳によりて「端のい」「中のゐ」「奥のひ」などいふ名目を立てて、記憶識別に便せるは、下官集に「を「お」の下に注記せることより進み來れるものと思はるるが、かれはその証とし、これはただ識別に便せむ為のものなれど、なほかれによりて思ひつきしものと考へらる。さてこの書にてはその語の数も頗る多くなりたれど、又語によりては出入の少からざるを見るものなれば、別にこの系統の本ありしものが増補せられしものならむか。而してこの本はその標目の外に、末に「わ」を用ゐる語四をあげて示したり。これはその「ほ」にて終れる本に更に後人の増補せしならむ。思ふに、かくの如くにして、かの定家假名遣も漸次に異本を生じ、ここにそれらをば、更に整理統一すべき運に向ひしものならむ。かくてその運に乗じてあらはれしもの、即ち行阿の假名文字遣なりしなるべし。

假名文字遣は定家の假名遣を基として行阿が増補せしことはその序によりて知らるること既にに述べし所なるが、この書にあぐる所は定家の假名遣に対して多くの語を各標目の下に加へたるのみならず、その假名遣の項目も亦多くなりて、五類十四字となり

(を お の上に)「ほ」を加へ、

(え ゑ へ は定家のに同じ。)

(い ゐ ひ は定家のに同じ。)

「わ」「は」

「む」「ふ」「う」

の二類六字を加へたり。この事はその序に、

然而先達の猶書漏されたる事共ある間是非の迷をひらかんがために、追て勘るのみにもあらず、更に又、ほ、わは、むうふ、の字等をあたらしくしるしそへ畢。其故はほはをによまれ、わははにかよふ。むはうにまぎる。ふは又うにおなじきによりて是等を書分て段々とす。残所の詞等ありといへども是にて准拠すべき歎。

といへるにて明かなりとす。

この書板本数種あり。多くは假名文字遣と題すれど、又定家假名遣と題するものあり。

(元禄十一年戊寅歳卯月吉日書林戸倉屋喜兵衛刊と署せる半紙本の如きこれなり。)

而してこの最も古きは慶長元和の頃の版なるべく思はるる美濃紙判の本にして奥に

写本云
此一冊小僧紹巴以数多之本考勘之、而舛謬猶有之。先哲言校書如塵挨風葉随掃随有云々。可俟後君子而已。
天文二十一重陽前日記之 称名野釈 御判

とあり。この奥書は称名院藤原公條の書きしものなり。これより後元禄十一年の半紙本、正保五年の美濃半截縦本、又別に美濃半截横本あり。奥書いづれも舊の如し。その他貞享の板本寛政の板本等ありといふ。

この奥書によれば、今の板本は連歌師紹巴が数多の本によりて校訂せし由なるが、然りとせば、紹巴の時に既に数種の寫傳本ありて異同少からざりしさまなりとす。かくてその古寫本は如何といふに、語學叢書には、文明の寫本及び文安の寫本の二種ありといへり。その文明本とは奮不忍文庫本にして、それには

文明十年二月八日書寫了
以禁裏御本書之  按察使親長

といふ奥書ありて、序文本文とも版本とほぼ同じけれど、版本はこの文明本より語の數多く、又語の順序も等しからぬ由にいへり。而してこの本には卷末に別に定家卿口傳及び人丸秘抄を添へたりといふ。この卷末の二書は版本には目録には載せたれど、本文には見えぬものなり。文安本とは

此双子以證本不違一字書寫之。依左衞門尉藤原氏保所望経年月也。眞實早筆之體多憚
文安五年二月二十三日  平常縁 花押

といふ奥書ありてその本文は文明本にほぼ同じくして目録及び附録なしといへり。余が藏する本は先づ

本云フ此寫本之漢字有鳥烏焉故令予正事、難〓干〓以應命。寔是最効者乎。
伏希后賢之穿鑿云。

といふ奥書あり。次に

此本之類希有也。尤重寶可秘令一考
天文二十一壬子歳卯月二十八日寫之

とあり。而して、天文云々の前に別に淡墨にて、

文安四年八月日  行年三十九 忠通在判

とあり。これ蓋し文安四年の本によりて後に記入せしものか。

さてこの假名遣は紹巴の校合せし時異本多かりしさまに考へらるるが、その校本は文明本よりも語數多きを見、又余が寫本には別筆にて補ひしものあるを見る。されば、その行阿の原本より今の板本になるまでに幾何かの増補ありしものと見らるべきものなり。これらの事の一班をいはむに「をか」の次にある。

をやまだ 小山田

「いはくらをの」の次にある

とをさとをの 遠里小野

「をす」の次にある

をしはかり 推量

「をし」(鴛鴦)の次にある

をとり 雄

「をし)(鼠弩)の次にある

うを 魚

「をこのもの」の次にある

こをけ 小桶 をほひ 〓
曉をき  み山をろし
かたをなみ  たをす
あをり たかさごのをのえ
まとをの衣 あひをひ
をし明かた をさへて
をろそかなり たをれもの
をきのゐて

「すさのをのみこと」の次にある

をのゝこまち

の如きは余が写本には見えぬものなり。次々の部も之に準じて知るべし。これらのうち或は余が写本に寫し漏したるものもあるべからむと思はるれど、他に別筆にて記入し、又一二版本文明本になきが加はりたるもあれば、これらすべてを誤りて脱せるものとはいふを得ずして、その大部分は後の増補と見るを妥当とすべきものなり。ことに「をこのもの」の次にある十五語の一團の如きは後の増補と見るべきものならむ。かくて他の部分も大体右の如くなるが、これによりて略推測せらるべきを以て、今これを詳説せず。されば、この行阿の假名遣も亦その成立後、後人の増補少からずと考ふべきものなるが、その増補は、ただ例語の上に止まりて、かの十四字の標目の範囲外に出でたるものなきなれば、根本の主義に変更を来したることはなきものなりと思はる。

さてこの行阿の假名遣は何を標準として之と定めしものか。定家の假名遣は厳密にいはば,もとより異論もあるべきなれど、それ自身が歴史的典拠なりと信ずるものを準拠とせしことは既にいへり。然らば、行阿も亦この主義によりしものか。行阿の假名遣の序にも、其の他にも之を明かにすべき点を明言せるを見ず。

ただその本文中、所々に、たとへば、「を」の部中に

花をたをる 花手折 唯折はおる(「お」の部に「花をおるはお折」とあり)
をうと 夫 おとこの時はお
をとゝ 弟 おとうとの時はお
をそれ 恐怖 おそる時はお
きをひむま 競馬 きおふ時はお也
をや 親 おやこはお

「お」の部中に

山おろし 山颪 み山をろしはを
露をおもみ お重 をもしの時はを

といへるが如きを見るに「を」と「お」との区別は同源の語ながら

折る
夫、男
恐る
競馬

等に於いて、その用ゐる場合を異にするによりて二様に區別せらるることは、その理由とする所知るべからず。これによりてこの假名の區別は四声によりて区別せるならむといふ推定を下したるものあり。これは村田春海の假字大意抄に、

今行阿がしるしおける大よその意を考へ侍るに、漢字に四声軽重などいふ事のあるになずらへてさだめたるものと見えて桶はただ桶といふ時は於の假字、小桶といふ時は乎の假字、重をおもしといふ時は乎の假字、おもみといふ時は於の假字などと、唱へによりて分たんとおもへるなり。

といへり。今この説を姑く代表的のものと見てすゝむべきが、假にこの事を認むとしても行阿自身が四聲によりて區別を立てたりと明言せる所一もなく、なほ又、かく同源の語にして用ゐ所によりて、假名のかはることを説けるものはこの「を」「お」の關係のみに止まるが如く、その他の部分に於いてかゝることを説けるを見ず。

而してたとへば同じく、「お」「を」の部にても

あをく あふくとも 仰扉
さをしか さほしかとも 牡〓
ひしを びしほとも 醤
おに 鬼 をにとも

の如くいへるは、これ旧來の慣例かくありといひてあげたるにて之を否定せざることは明かなり。さて以上によりて考ふるに、それらは別に四声によりて区別の標としたりとは見えざるのみならず、「を」「お」の他にてはたとへば「え」の部の

なえく
えふ
える

「ゑ」の部の

ゑふく 衣服

「へ」の部の

うへをく栽植(人丸秘抄に出づ)
はへ 鮠
いへぐすり いえくすりとも癒藥
うへたり飢
かつへこうじたり 飢極
ことのゆへ事故〓故(人丸秘抄に出づ)
たゝへて湛

「ひ」の部の

くひて悔
ねたひかな嫉妬

「い」の部の

ひたいくり額栗
とりかい鳥養
すいかん水干
ほたくい〓
くい くゐとも 坑
いひかい
ついて次
ういかぶり初冠
御すいしん御随身
ゆけい靭負
ゆけいまち中御門
ふけいのうら吹飯浦
あいよめ〓〓
あいむこ〓

「ゐ」の部の

えゐ 〓
くゐな水鶏
あさかれゐ朝餉
もちゐ餅
やなくゐ〓箙
かれゐひ餉
つゐに ついにとも 遂終竟(人丸秘抄に出づ)
にゐまくら新枕
しゐておる強折
あきしゐ清盲
いもゐ齋居
しゐね瘤
よゐあかつき宵曉(人丸秘抄に出づ)
ふけゐかは吹飯河
へうゐん苗胤
いもゐのには齋場
かしゐのみや香稚宮

等の如きものあり。これらは余が古寫本にも存して、しかも、その假名遣の正しからぬものなりとす。(余が吉寫本に存せずして他の本にあるものも多けれど、それらは更にこれより後の人の増補と考へたれば、今除きていはず。)而してかくの如きは何を標準とせしものか、今にして容易に知るべからざるなり。然るにかくの如き異例は主として、かの定家の原本に規定せし八項目のうちに存するものにして、その行阿の増補せし六項目にありてはかかる事は殆ご存せざるなり。即ち行阿の増補せる項目中の正しきに違ひたる假名遣の例(語數の最も少き余が古寫本による。)を見るに「ほ」の部に

かほる匂薫

「は」の部に

枝もたははに枝撓
ことはり理

「ふ」の部に

うふる栽植

の四例が今日認められたる正しき假名遣と違へるのみにして、(この他になほ少しく違へる例板本にあれど、余が古寫本になきものはそれより後の増補と認めたれば、あげす)これをその全數に比するに、實に次の如し

「ほ」の部 七十二語 の中一語違ふ。

「わ」の部 二十語

「は」の部 八十八語 の中二語違ふ。

「む」の部 三十語

「う」の部 百三十八語

「ふ」の部 百二十四語の中一語違ふ。

即総計四百七十二語のうち正しき假名遣に違へるものは僅に四語のみ(以上の數はすべて家藏の古寫本にて算せり。これ余が知れる本中最も古き姿を存すと見ゆればなり。)

されば、行阿の新に加へし部類は即ち古來の慣用例を標準としてこれによりたるものたることを首肯しうべくして、この僅々百十八分の一の錯誤を以て行阿の假名遣を指して古語を無視したるものと強ひ、又契沖以後に到りてはじめて古典に典拠を求めたる假名遣出でたりとするが如きは無拠の空言にして世を誤り人を誣ふるものといふべし。

この故に、行阿の假名遣を四聲によりて區別したるならむといふ事は全く的をはづれたる議論といふべきが、しかも、かの如何なる理由によりてかくせしかの明らかなら違例の假名遣は主としてかの定家の假名遣の標目中に存するものなり。而してその「お」「を」の区別が、定家のに準拠したるものなる如く見ゆると同じく、その他の部分も亦その主義によれりと思はるるなり。この故に若し行阿の假名遣が四聲によりて區別する主義を立てたりといはるべきならば、その論議の標的は定家の假名遣にうつさるべきものなりとす。さてかかる論議の発せられたるものは村田春海よりも遥に前、長慶天皇がその御撰の仙源抄の跋にて、論ぜられたるを管見に於いて最も古しと認む。(この書は明魏山人藤原長親の奥書ある本によりて傳はれるが為に、往々長親の作の如くに誤解せらるれど、長親が既に「此抄者長慶院法皇聖製也」と明記せるのみならず、仙源抄の名、明かに仙洞御撰の源氏物語の抄なる由を告ぐるなり。而してこの跋文も亦天皇の御製なること疑なし。)その論に曰はく、

中頃定家卿さだめたるとかいひて、彼家説をうくるともがらしたがひ用るやうあり。(中略)しばらく、いろはを常によむやうにて聲をさぐらば、おもじは去聲なるべし。定家がおもじつかふべき事をかくに「山のおく」とかけり。誠に去聲とおぼゆるを「おく山」とうち返していへば、去聲にはよまれず、上聲に転ずる也。又「おしむ」「おもひ」「おほかた」「おぎのは」「おどろく」などかけり。これらはみな去聲にあらず。此内「おしむ」は「おしからめ」といふおりは去聲になる。思も「おもひおもひ」と云おりは初のおもじは去聲、後のは去聲によまれぬ也。又え文字も去聲なるべきに、「ふえ」「たえ」「えだ」などかけり。すべていづれの文字にも平上去の三聲はよまるべき也。(中略)定家かきたる物にも緒の音を尾の音おなどさだめたれば、音につきてさたすべきかと聞えたり。しかれども、その定たる所四聲にかなはず。又一字に義なければ、そのもの其訓にかなふべしといひがたし。音にもあらず、義にもあらず、いづれの篇に付てさだめたるにか、おぼつかなし。

とあり。今この批難は定家の假名遣につきて放たれしことは明かなるが、その論ぜられたる假名の範囲も定家の假名遣の範圍を出づることなければ、この點は疑なき所なりとす。さてその定家の假名遣は一面古來又當時の用例によれることは明言せるものなるに、一面には何の故にかくせるかの點の明かならざるものあることは既に述べし所なり。而して、その「を」「お」の區別の如きは長慶天皇の御言の如く、聲の上去などの別によれりと見るほかに解釋の下し方なきを見る。もとよりその「を」「お」が上聲去聲の區別を示すものなりといふが如きことは今日より見て不條理なるに相違なけれど、しか見たるものと考へなば、稍々理由ある如く思はるるを以て見れば、この説一概に排斥すべからざるが如し。然らば、この點が、かの「自らの愚意を發したり」といふ點なるか。しかも一方に於いて、古今世間通用の事例を據としたる由をいへば、全然私見を以て定めたりともいふべからす。之によりて按ずるに、若し、然か四聲の區別によりて、「を」「お」の用ゐ方をわけしものとせば、さる事が、この假名遣を定めたる以前に既に世に多少なりとも行はれてありしものと見るべきなり。若し既にその意見世に行はれてありしものとせば、而して親行がそれによりて之を襲用したるものとせば、かれの主義と、この聲の別によりて「を」「お」を分つこととの間に何等の矛盾なくして、はじめてその制定の眞意を明かにするに足らむ。かくてこの假説はこれ以前に「お」「を」を以て平上去等の聲の別をあらはすに用ゐたりといふ實證を得ば、一定の説となるべきものと思はるるが故に、これにつきて考ふるに、袖中抄には屡々上聲平聲の區別を言語のある辨別法に應用せむとしたることは世人の知る所なるべきが、その巻三、「さほひめ」の條に、

今云さほひめは諸髄脳云春を染る神也云々。但其聲如阿、さをと上聲可詠歟、さほと平聲可詠歟。今案にさほ姫は(中略)然ればさほとのさほ山さほ川みな棹の聲也。平聲に可詠也。(中略)五條三品入道はなにとは不知只さほ姫と上聲に申付たりと云々。慥に不沙汰は大様如此云々

といへり。これははじめには

さを 上聲  さほ 平聲

とかき、後には

さほ 上聲

とかけるなれば、假名遣の上の証にはならねど、上聲平聲の區別に注意せることは明かなり。惟ふに、かくの如く聲の平上去の別といふこと當時學者間に論ぜられてあり。而してその聲の別をば、別なる假名にてあらはさむとせること既に學者の脳裡に萌芽を生じたりと考へられざるにもあらねば、それらよりして後の學者がこの區別を以て假名遣の上の一種の原理と立つべきに到ることは必すしも有りうべからざることにあらざるべきを以て、若しこの事ありしものとせば、それによりて一定の規律を立てむと試みしものが、かの定家假名遣、なりしものにあらざるかの假説はあながちに不條理ともいふを得べからざるなり。

以上説く所の如くなれば、行阿の増補は古來の慣例に準拠したるものにして、所謂その時代の発音によれるものにあらざるはもとよりなるが、所謂定家の假名遣とても、その精神と主義とは世の慣例に從ひて之を合理的にせむとせしことは明かにして、独断的のものにあらざるのみならず、又表音主義なりとも断ずべからざるものなり。その正しき假名遣と異なる状態を呈するに至りしものは、一にその標準とせしものが正しからざりしが故なるべく思はるるなり。然るにこの二者共に明治時代の國語學史研究家に語勢的假名遣などといふあらぬ名目をつけられて契沖に至りてはじめて歴史的假名遣の起れるとやうに説かれたるは奇なる現象にして、これ或は從來の國語學史研究家がこの定家假名遣行珂假名遣を精査せざりしによるものならむ。

定家行阿の假名遣出でてより歌を記載するはもとより、諸の物語草子また連歌俳諧などに至るまで皆之に準拠したりしものにして、それらの道の名家共或は之を寫し伝へ、或は之を校訂し、或は之を増補して江戸時代に及べり。今その間に於ける著しき事例をいはむか、先づ「行能卿家伝假名遣」といふ寫伝本一巻あり。これは世尊寺行能卿の子孫の家に伝へたるものにして行阿假名遣の亜流たり。又「寺明院家伝書」と称するものの第五に「後普光園院御抄」一巻あり。これは二條良基の撰と伝ふるものにして行阿假名遣に基づきて末に多少の増補あり。又一條禅閤兼良の作と伝ふる「假名遣近道」と題する写本(東北帝国大學蔵詞林三知、抄と合綴)あり。上の良基撰の書と似たれど、別のものなり。又「持明院家伝書」第四巻に「假名遣近道抄」といふ写本あり。これは三篠西實の著にして、上の兼良の撰に似て異なるものなり。勢州軍記上巻に北畠教具が定家假名遣を補へる由見ゆ。なほこの他にも之が増補をなしし人はありしならむと思はる。かくて又紹巴は前述の如く、行阿假名遣を異本をあつめて校合せしなり。

定家假名遣はその精神に於いては明治時代の学者の論ぜし如きものにあらずして、なほ慣例を重んじ、之によりたるものたることは明かなるが、しかし「を」「お」の遣ひ分けの如きはなほ一種の独断といふの外になく、之に対して何等合理的の根拠をを、示しうべきにあらざるはいふまでもなし。然れども、鎌倉時代の中期以後歌文界を通じて定家の名は絶大の威権を有し、苟も之に反抗せむとするが如きものは殆どなかりしものにして、かの正徹をして、

抑於歌道定家を難ぜん輩は冥加あるべからず、罰を蒙るべきなり。

と語らしむるに至れるものなれば、この時代道じて定家の名によりて行はれたるこの假名遣の絶対的権威を有したりしは勿論の事なりとす。

然れどもさる間にもなほこの假名遣に対してその条理なきを批難したるものなきに

あらざりしなり。その一人は萬葉集研究家として名高き成俊にして、

一人は上に述べたる長慶天皇なりとす。

成俊は三井寺の僧にして権少僧都たりしなり。元弘建武の頃世の乱を避けて信濃に下り、姥捨山の麓に草庵を営みて、住みしが、その萬葉集研究の結果、定家の假名遣の之に合せざるをさとりて、之を批難し、自家の見識を示せり。曰はく、

抑於和字音義従京極黄門之以降尋八雲之跡之輩高卑伺其趣者歟。仍天下大底守彼式而異之族一人而無之。依之人々似背萬葉古今等之字義者也。僕又專、彼式而用來年久。今時又不背之将来又以可然者也。但特地於萬葉至干書加和字於漢字右而聊引散愚性之僻案偏任当集之音義所令点之也。是非自由是非無所詮。其故依當世之音義書用其和字乞則違萬葉集儀理之事在之。所謂當集者遠近之遠字之假名者登保登書之、草木枝条之撓乎者登乎登書之。當世遠近之遠字和音者登乎登書之。然者用書此和音者所可令集之語相違也。又書字恵者殖也書宇辺者上也 此外此類難有之、恐繁而註別紙略之而已。

とあり。これ北朝文和二年八月二十五日に加へし跋の文なり。即ちかれは一面に於いて自己は定家假名遣を用ゐて違背せぬことを明言しおきながら、一面に於いて、その假名遣が萬葉集古今集等の字義に背けることを指摘し、萬葉集の假名は萬葉集の實例に随ひて定めざるべからざるを論じ、その仔細は別紙に之を注せる由いひたるが、その別紙なるものは今伝らずと見ゆれば、その委細を知るに由なし。

長慶天皇はその御撰仙源抄跋に於いて定家の假名遣を批難せられしことは既にいひたる所なるが、その假名遣の從ひ難きことをいひて、

抑文字づかひの事此物語を沙汰せんにつきては心うべきことなればついでに申侍べし。(中略)おほよそ漢字には四聲をわかちて、同文字も音にしたがひて心もかはれば仔細にをよばす。和字は一文字一に心なし。文字のあつまりて心をあらはす物なり。されば古くより聲のさたなし。(中略)まづいろは四十七字の内同音有はい ゐ、を お、えゑ也。此外にはひふへほをわゐうえをとよむは詞の字の詞に付てつかふ文字也。(中略)すべていづれの文字にも平上法の三聲はよまるべき也。たとへば、か文字とみもじとをあはせむに、かみ神也かみ上也かみ紙也又一字にてはは木葉也は樂破也。しかのみならず同心にて同字をよむに上字にひかれて聲かはる事あり。天竺悉曇の法に連聲といふことあり。又内典の経など讀にもに聲明の音便によりて聲よみかふることのあるも皆此類成べし。かみかみ神々といふにはじめのかもじは去聲によまる。又一字にとりても序破急といふおりははの字平聲によまれ、破をひく、はをふくなどいふおりは去聲になるたぐひのごとし。これにてしりぬ。和字にももじづかひのかねてさだめをきがたき事を。定家かきたる物にも緒の音を、昆の音おなどさだめたれば、音につきてさたすべきかと聞えたり。しかれどもその定たる所四聲にかなはず、又一字に義なければそのもじその訓にかなふべしといひがたし。音にもあらず、義にもあらず、いづれの篇に付てさだめたるかおぼつかなし。然れどもにはかに此つかへをあらたむべきにあらず。又ひとへに是を信ぜば、義に叶べからざるによりて此一帖には文字つかひをさたせず。かつは先達の所為をさみするに似たりといへども、音に道ぜむものはをのづからこの心をわきまへしれとなり。

即ちこの跋に於いては音によりて假名を分ち遣ふことの非を十分に指摘せられしものにして、定家の假名遣が、音によれるにあらず、義によれるにあらず、其の根拠なく一定の條理なき難じ、殆ど完膚なきまでに攻撃せられたり。この、音によりて假名を遣ひわくる事の不可能なるはいふをまたざれど、こは定家假名遣の根本主義にあらざることは既に述べたる所なり。されど、もとよりこの批難は定家假名遣の避くるを得ざる弱点なるはいふまでもなし。而してこの御著に於いて「文字づかひを沙汰せず」といはれて別に之にかはるべき方法を示されざりしなり。

以上の如き條理ある反対と攻撃とのありしに關せず、それらの反対攻撃に共鳴を起すことなくして大勢は滔々として進み、ますます之を祖述するものを多く生じて、殆ど動かすべからざる状を呈して江戸時代に入りしが、契沖の出づるに及びて漸くに勢力を失ふに至れり。

第三章 復古假名遣[編集]

契沖は近世國語學の大先達にして、萬葉研究の大家たることは人の熟知する所なるが、實に、嚴密なる意味にてのわが國語の學術的研究は契沖が古語を學術的に討究せしよりはじまるものといふべく、而してその國語研究史上重きをなすものは實にこの假名遣の研究にして、それに關する書は和字正濫鈔、倭字正濫道妨抄、和字正濫要略の三なり。

和字正濫鈔は從來の假名の遣ひ方の濫りなるを正すを目的として著したるものにして、元禄六年二月廿一日の序あり。版本は五册に分れ、元禄八年九月に京都の書林中河喜兵衞、江戸の書林中河五郎兵衞の出版せしをはじめとす。この本は美濃版なり。次いでその旧版を求めて元文四年五月に大坂の柏原屋澁川清右衞門の出版せるあり。更に轉じて文政十一年冬、大坂の加賀屋善藏の出版せるあり。これらはいづれも半紙本なり。

この書の巻一は序説として本書の組織よりして音韻文字の一般論をなし、巻二より巻五の初までは假名遣を一々に説けるものにして主として日本紀、古事記、和名抄、萬葉集等及び文選遊仙窟等の古訓等證あるものによりて之を論定し、又合成語の類はその起源に遡りて之を論定し、まま古きものに證見ざるものは慣用に從へる由にいへり。その説明の順序次の如し。

い 中下のい
ゐ 中下のゐ ひ(以上卷二)
を 中下のを
お 中下のお
中下のほ (以上卷三)
え 中下のえ
ゑ 中下のゑ
中下のへ
中下のわ
中下のは
中下のう (以上卷四)
中下のふ

以上はすべて行阿假名遣にいへるものを目安として各語につきて正しき假名を示し、さて次に

「以上依舊假名遣斟酌以下今加之」といひて次の如く

むとうとまぎるゝ詞
うとむとかよふ類
うとぬとかよふ類
むとぬとかよふ類
むともとかよふ類
むとぶとかよふ類
ぶともとかよふ類
べとめとかよふ類
めと聞ゆるべもじ
むにまがふぶ
みにまがふび
をと聞ゆるふ
みをうといふ類少々
みをむといふ類少々
假名にたがひていふ類
中下に濁るち
中下に濁るし
中下に濁るつ
中下に濁るす
何ろふといふ言の類 (以上卷五)

といふ項を立てて、その紛れ易きものを示し、所々、發音の方法等をも示し、末に國語の音韵につきての特色、その他文字音韵に關する種々の説を載せたり。

契沖はかく假名遣に一定の條理あることを發見し、之をその著に於いて論證せるものなるが、この發表は當時の歌人和學者の間に異常なる反響を起さしむべき筈のものなるが、從來定家の名を以て壓倒的威力を以て文壇を支配し來りし定家假名遣はこの書によりて其誤謬又は根據なき點を指摘せられたり。而してその主張する所は確たる根據を有するものなれば定家假名遣にとりては根柢を覆されむとする虞ある脅威なりしなり。然れども、當時さばかり勢力ありしその假名遣が直ちに亡滅すべきにもあらずして之が反動を起すべきは自然の勢なりとす。

抑も定家流の假名遣は室町時代を経、江戸時代に入りても盛んに行はれしが、この時代には先づ林永喜(道春の兄)の東福門院に献れりといふ假名遣書一卷(寫本)ありて、これには寛永四年の奥書ありといふ。未だこの書を見ねど、行阿の假名文字遣を見やすく記したるに止まるものの如し、次には伊勢の神官荒木田盛澂の著せる新増假名遣寫本二卷あり。この書は假名文字遣に基づきて之を布衍増補し、詞をばその頭字によりて伊呂波分にし類聚したるものなるが、更に之を増訂して類字假名遣と題して出版せり。この書は七巻に分ち寛文六年九月に出版せられたり。而してこの書には林鵝峯(向陽子)のものせる新増假名遣の跋ありて「庚子仲秋」と署せるを見れば、本書の成れるは萬治三年にありしものたるを知るべし。この書にも日本紀萬葉集等を徴とせるものあれど、その根本の主議は定家假名遣に從ひ「を」「お」の別など全くそれに盲從せるものなり。又延寶四年正月に出版せられし一歩といふ二巻の書(著者未詳)ありて、その下巻に假名遣を説けるあり、又元禄四年八月に出版せられし初心假名遣といふ書一卷(これも著者未詳)あり。これらの中には定家假名遣の誤を訂せりと称するものもあれど、要するに、この主義の範裡を出づるものにあらざるなり。

契沖の同時に橘成員といふ人あり。江戸芝の人にして山崎吉里といふ人なりといふ。定家假名遣に基づきて増訂を加へ、假名字例といふ四巻の書を著し延寶六年に江戸にて出版せしが、和字正濫鈔の出づるや、更にそれを増訂して倭字古今通例全書八巻をあらはして契沖の説に反抗せり。この書は元禄八年七月の自序ありて同九年八月に出版せられたるものなれば、正濫鈔に後るること約一年なりとす。この書は紛らはしき假名のある詞を頭字にていろは分にし、そのいろはの字毎に節用集の如く、乾坤、氣形、生植、服器、雜事の五部類に分ち各の詞毎に漢字を添へ、解釋を加へたるものなり。その總論に於いて、次の如くいへるあり。

近年かな遣の書あまた出たり。或雜淆し、或古書を證據にたて愚昧のたしかに
おもふやうにしなせり。徴とするにたれとおもふらめ。一向かなを不知ゆへなり。
假名のゆへんをつまびらかにせば、古今の是非得失たなこごころを見るがごとくならん。

と。これにてはたゞ當時多く出でたる假名遣の書を汎く難じたる如くに見えて、必ずしも契沖に當れりといふべからざるが如し。然れども、畢竟かなづかひの法往昔いまだ不足。日本紀より三代實録までの國史、万葉集、新撰万葉、古語拾遺、舊事記、古事記、延喜式、和名抄、古今和歌集、其外家々の集のかな、よみこゑとりまじへ、又はをおえゑ亂てあり。今かやうの書を假名の證據とさだめがたし。しかれども其中に用不用あり、とるべきものをとり、取がたきものはとらざる也。右の書を證據とする時は假名遣の法はなき也。いかやうにかいてもくるしからぬになるべし。

といへるはまさしく契沖の根本主義に對して反抗せるものにして當時契沖以外にこの主義を奉じたるものあるべからざるなり。かくて彼は自己の主張する假名遣の根本主義を揚言して曰はく

假名の法は平上去入の四聲にしたがひてさだまりぬ。……なんぞ舊記になづまんや。只理の正道にしたがひて可也。

といへり。この成員は定家假名遣の擁護者なりしが爲に、この言論は近頃まで親行、行阿の假名遣の主義が四聲によれるものなりと誤認せしむるに至りし根源にして、所謂贔屓の引倒ともいふべく、定家假名遣をして冤罪を蒙らしむる基をなせるものとして親行、行阿の身にとりては迷惑千萬の事といふべし。かの假名遣は既にいへる如く、なほ從來の慣例を基としたるものにして、たゞ契沖及びその祖述者のは紀記万葉等最古の文獻に遡り、親行行阿のはその時代より少しく前なる例によれるの差あるに止まれるなり。然るに成員はこゝに「四聲にしたがひて定まりぬ」といひ、「理の正道にしたがひて可也」といへり。

然らば、かれは四聲によりて如何に區別するが正しき道理によれるものなるかを示したりや。その著一部八巻を精査するに、一もこの正理正道のこゝに在ることを示したるを見ざるなり。而して彼は秘傳を重んじたることはその序説中「端い」の末に「委口傳」といひ「中ゐ」「奥ひ」の末に各「口傳」といひ「端へ」の末に「何も口傳」といひ、「中え」

の文中に「但口傳有」といひ「奧ゑ」の文中に「ゑえの差別傳受の上詳也」などいひ、なほ他の條にも盛んに「口傳」又「傳」といふことをいへり。その口傳といふものの、如何なる事のありしか、外間より知るを得ざるものといはものといへ、成員のいふ所の四聲によりて「い、ひ、ゐ」「お、ほ、を」を分ち用ゐるが如き道理の存すべきいはれなきことは仙源抄の跋に既に喝破せられたる所にして今更識者をまたずしても知らるることなり。

成員のこの書は名をこそささざれ、契沖をさして、「一向かなを不知ゆへなり」とまで漫罵せるものなるはいふをまたず。こゝに於いて契沖は倭字正濫通妨抄をあらはしてその説を反駁せり。この書は五卷ありて、元禄十年八月に成稿せる由末に記せり。

本書は京都北野神社に自筆の草稿一部存するのみなりしが、近時契沖全集によりてはじめて世に弘まれり。この書は徹頭徹尾通例全書を的として、その誤謬僻説を駁撃せしものにして、その巻一を總論とし、卷二以下は通例全書の誤謬ある語をば順次に摘出して批評せり。而してその批評の態度を見るに、序跋の言句に至るまでも、一言一句をも捕へて反駁批評し、殆ど餘す所なしといふべく、言辞激烈にして、その人を罵りて背面先生といひ、その著を嘲りて千歳笑又は貳過集といひ、或は所々狂歌をつくりて罵倒したるなど、殆ど契沖の性格を疑はしむるに至るべきものあり。當時契沖五十八歳なるに少壮血氣の徒の言動にも似たりと評すべき點あり。今その何故に、かく激怒せしかの所以を知らず。然れども、その學術上の論證を下せる所は確乎として決して感情に走りて是非をいひくろめむとするが如き弊なきなり。しかも、かく大人氣なき言を弄する間にも學術的には進境あるを示し、正濫鈔にいはざりし事項を補ひ、足らざりし證を加へ、考説の上にも訂正を施したる所あり。さてその通妨抄はさすがに之を世に公にするを憚りしものと見え、後この通妨抄を更に改め補ひて、和字正濫要略一卷を著せり。この書は元禄十一年五月に成れるものにして久しく寫本としてのみ傳へられしが、明治三十四年語學叢書の中に收められてはじめて版本となれるものなり。この書はその本文のはじめに「和字正濫通妨抄補改」と記せる如く、通妨抄を改めて綴れること明かなるが、恐らくは通妨抄の過激なりしを改めてかくせしものなるべきか。その體裁は先づ序説ありて次に正濫鈔の順序に基づきて、自著正濫鈔の誤を正し、同時に通例全書の非を指摘せり。而して通妨抄に於いて自ら發見せし新説は大抵この書に收めたり。

以上三書によりて契沖の假名遣に對する主義とその研究方法と同時にその研究の結果も見るを得べきものなるが、契沖は如何にしてかかる主張をなすに至りしか。契沖もはじめは定家假名遣に從ひしことはその自選歌集延寶集の和歌等にその假名遣を遵奉したりしにても知らるべし。然るにその萬葉集の研究よりして汎く古典を見るにつれて、終に彼をして、定家假名遣の根據薄弱なることをさとらしめ、歸納的に古代の假名遣に一定の規律あるを認めしむるに至れるものと見ゆるなり。契沖の前駆ともいふべき成俊は定家假名遣の根據なきを指摘したるが、契沖に至りてそれを事實上より證明せりといふべきものなり。今契沖の假名遣研究の發展の跡を見るに、代匠記の初稿に於いて、既に假名遣を論ずる所あり。されど、その論極めて粗なり。その清撰本に至りては總説中に「集中假名の事」と

いふ一目を立てて之を詳論せり。この時既に正濫鈔の基礎はなれりといふべく、正濫鈔の總説にいへる事の大體はこの中に見えたるなり。さて正濫鈔及び正濫要略にあげたる假名遣の總數千九百八十六語に上れるが、それらの大部は證たる文献を示したれど、文献の明記なきもの六百五十六語あり。その文献の明記なきものを如何にして定めしかと見るに、所謂語のはたらきによりて推定したるあり、又音通、音便によりて推定したるあり、又音の縮約、省略によると推定したるものあり。又語源を考へて推定したるものあり。又たゞ從來の例によるといへるものあり。これらは多く定家假名遣によれり。そのうち語のはたらき、音通、音便、音の縮約、省略によりて推定したるものは大體に於いて學術的の推定によるといふをうべきものなるが、その語源を考ふることに於いては多少學術的のものもあれど、また常識的のものも少からず。この常識的語源説によるものとたゞ從來の例によるとせるものとは學術的に價値ありと認められざるものにして後世まで、その説の弱点と目せらるべきものなるが、その他の點に於いても、もとより缺點なきにあらずその二三をいはば、その説く所の聲音の理論は主として彼が悉曇を学びしより來る所にして尋常歌學者の及ばざる所なりといへども、しかも又その眞言宗の僧たりしが爲に、その言説中往々密教に附會せる如き點の存するを著しき點とす。而して當時に流布せる五十音圖が「オ、ヲ」の所屬をあやまり、「ヲ」をア行に「オ」をワ行に屬せしめしを、さすがの契沖もその誤に心づかず、それが爲に假名遣の上に一貫の理論を立つること能はざりしが如き最も大なる欠陥にしてこれが爲に正濫鈔に

  ア  ヲ
   \/ 
   /\ 
  ワ  オ
かくの如くすみちがへにかよへり。

などいふが如き僻説を立つるに至れるなどの事あり。或は又仙源抄の跋を明魏の言と速了し、なほその言を誤解して的はづれの攻撃をなせる如き缺陷も存す。然れどもその説の最大部分はもとより根據確實なるものなれば、これより後契沖のこの研究は永く後世の摸楷となれり。

契沖の功績は假名遣の上に確たる根據を與へし點に存し、永く後世の仰ぐ所となれるが、しかも、この後なほ定家假名遣を奉ずるもの少からざりき。たとへば、元禄十二年に出版せし貝原益軒の著なる和字解一巻、寶永五年に出版せし假名遣拾芥抄一巻(佐々井祐清著)享保五年に出版せし假名遣秘解二巻(水溪居秀「善藏」著)寛保元年に出版せし假名遣問答抄五巻(服部吟照著)寶暦四年五月に出版せし万葉假名遣一卷(青木鷺水著)。この万葉とは万のことばの義にして萬葉集には關係なし。假名文字遣の應永本によりて増補せる由明かにいへり。)寶暦四年八月に出版せし僧文雄の和字大観抄二巻など、みなその説く所の假名遣は定家假名遣を標準とせるものなり。

かの如く定家假名遣の継承者續々世に出でたれど、契沖の主義は漸次に世の信任を受くるに至れり。然れどもなほ契沖の主義に反對する學者なきにあらず。その著しきものをいはむに先づ上田秋成の靈語通をあぐべし。靈語通はその序によれば、神名、國號、名物、咏歌、用語、假字の六編より成れるものの由なれど、出版せられたるはその第五假字篇の一卷のみにして、他の五篇は如何に言しか詳かなりしか詳かならず。この假字篇は寛政七年十一月越魚臣の序ありて寛政九年二月に出版せられしものにして、音韻文字につきての或人の御説といふものを説きて、之を敷衍したるものなるが、便利主義或はは放任主義といふべきものを主張し、主ちして契沖の説に反對せるものと見るべく、その説極端に走りて

假名遣は古則今法何れによるとも人工の私物なるには何の是非をかいふべき

といひ、終に上代の世に假名の用ゐ方に一定の條理などあるべきにあらずと放言するに至れり。されど、その放言にはもとより根據なく、事實上の反證存するのみならず、之を私物なりなど論するに至りては文字の社會性を知らざる漫罵にすぎざるが故にこの説に行はるるに至らざりしなり。然れども、この説に對しては後に寺田長興の太津可豆衞三巻(弘化四年九月成、嘉永二年五月刊)岡本保孝の靈語通〓鍼一卷(明治六年二月十二月成寫本)等駁撃を加へたるものありて、世に之を信ずるものなくなりぬ。

以上の如く反對者も出でたりしかど、契沖の主義は漸次に世にひろまるに至れり。さてその契沖の假名遣研究は大體確實なる學術的の根據に立てりといへどもそのあげたる語の約三分一は例證を缺けるものなり。而してかくの知きは古代の文献に徴證を求めむとする主義に於いては著しき缺陷といふべきものなり。契沖の後約七十年にして揖取魚彦の古言梯出づ。この書は一卷にして明和元年八月に成り同二年五月に大阪河内屋源七郎の出版せしものなり。その書はじめに總説あり、次いで各語を頭字によりて五十音順に類聚しあげたるものなるが、契沖の主義を奉じ、契沖の時未だ知られざりし書たとへば、新撰字鏡の如きものなどにひろく證を求めてその誤れるを正し、不足を補ひたるものにして、あぐる所の語すべて千八百八十三語悉くその理由を示せり。この書出でてより後、假名遣を論ずるもの多くは之により又、之が補訂を企つるものあり。村田春海は假字大意抄一巻(享和元年八月成、文化七年刊行)をあらはして假名遣の事を論じ、假字拾要一巻(寫本)をあらはして古言梯に誤り、又は洩らしたる假名遣を集めてその例證を示したり。古言梯には又再考せる本ありて、文政三年に出版せり、この再考本には増補標注と注せるが、その標注は村田春海、清水濱臣の説を加へたるものなり。その標注にあげたる春海の説は假字拾要以前のものにして自ら別のものなりとす。又文化四年に出版せし市岡猛彦の著雅言假字格二卷(もと増補古言梯といひしものと見ゆ。文化十三年に訂正せり。)文化十一年に出版せし同拾遺二卷あり。これらは古言梯を増補訂正せしものにして假字格に於いて二百六十言を補ひたるが、これには一切例證を省けるが、拾遺に載する所凡そ七百七十七言はすべて出典を示せり。されば市岡の補ひしものすべて千餘言なりとす。又弘化三年に山田常典の古言梯に増補して同四年に出版せし増補古言梯標注といふものあり。これはかの春海濱臣の標注せし本に、更に増補せしものにして、常典の増補せしもの凡て百五十言なりといへり。はじめ古言梯にありても當時の五十音圖の誤を襲ひて、「オ」をワ行に「ヲ」をア行に加へ、その順序に從ひしが、雅言假字格及び山田の標注古言梯にはこれを正し本文に於いてもその位置を正しきにおきかへたり。こは本居宣長の研究、をお所屬辨によりて明確にせられしものなるが、こゝにそれに基づきてかく改めしなり。こゝに於いて假名遣の書ははじめて大成せりといふべく、假名遣の標準確立して明治時代に至れり。

以上の外なほ契沖の主義を奉ぜる書として正誤假名遣一巻(賀茂季鷹編、天明八年成、刊本。但しこの書にはかへりて誤れる點あり)。古今假字つかひ一卷(橋本稻彦編、文化十年刊)等あれど、要するに契沖の主義を奉ずるものとしては古言梯、雅言假字格をその主なるものとすべきなり。かゝる間に黒澤翁滿が假名遣暗記法といふことをいひ出したるは學術上の事ならねどこゝに附記する價値あるべし。その法は先づその假名の誤り易き點を明かにし、而してその最も少き部分を暗記して他を推すべしといふにあり。

以上の外に弘化の頃に高橋殘夢といふ人ありて、その主張する言靈説を基として古假名にもあらず、定家の假名遣にもあらぬ一種の假名遣を唱へて國字定源二巻(弘化元年八月成、寫本)を著せり。然れど世に反響なくして終れり。

第四章 字音假名遣[編集]

字音の假名遣は上代には問題となりしを見ず。定家假名遣に往々字音の語を交へ上げたれど、特に字音として取り出し論じたるにあらず。契沖の和字正濫鈔にも往々字音の語を交ふれども、これとても字音として特に論ぜるものにあらず。字音として特にその假名を論定せるものは本居宣長の字音假字用格をはじめとすべし。この書は主として漢呉二音につきて、その音の記載法を論じたるものにして、はじめに總論として喉音三行辨ありて「アイウエオ」「ヤイユエヨ」「ワヰウヱヲ」の差別を論じ、次に「をお」所属辨ありて中世以來の五十音圖の「オ、ヲ」の所属を誤れることを辨じて之を正しきにかへし、次に字音假字總論あり、かくて各論にうつれるが、これに關聯して漢字三音考ありて二者によりて字音を論定せる點頗る多く、從つて字音の假名遣もこゝに基礎を立てたりといふべし。

爾來字音の研究は自然にこの假名遣の研究を誘起し太田全齋の漢呉音圖(文化十二年成刊本)黒川春村の音韻考證(文久二年に稿す。寫本二十二巻と称す)等ありて、本邦古代の字音の研究も漸く精密になれり。春村の門人白井寛蔭は音韻假字用例三巻(圖一巻、附説二巻、萬延元年に出版せり)を著して字音の假名遣を研究せるが、その附説に於て本居の字音假字用格を批評是正して餘蘊なきものにして字音の假名遣はこゝに至りて略大成せられたり。然れどもその説は多く師たる春村の説なりと傳ふ。その後岡本保孝の音韻答問録(寫本)ありて正確を以て称せらる。

要するに字音假名遣はその研究史は頗る單純にして以上述ぶる所を多く出づる所なきが、その研究の基礎とする所は古典に見ゆる實例と古字書に見ゆる反切とを參照して定めしものにして細部につきては種々異議も立てうべしといへども大體に於いて合理的のものといふべきなり。

第五章 明治時代以來の假名遣[編集]

契沖出でゝ復古假名遣の基礎確立し、揖取魚彦の古言梯出でゝ、その假名遣を大成してより天下の勢はこゝに一定して、これより後、多少之を増訂せしものありしかど、著しきもの出でざりしことは既に説ける如くなるが、かくして假名遣の世界は平穩の状態に歸し、これに關する論議は稀なるさまになれり。かくの如くして世は改まりて明治の王政復古となりしが、その政府に於いて用ゐし假名遣はもとよりこの復古假名遣たりしこといふまでもなく、新聞雜誌、諸種の報告著述すべて之によりて天下眞に統一せられたる観を呈せり。

されば學校を興し、教育を普及せしめらるゝに及びても、その致科書はもとより一切この假名遣によりて行ひしことなるが、これらの爲に、夙に書をあらはせるものは物集高見氏なり。氏は明治十五六年の頃東京大學、東京師範學校、華族女學校に於いてかなづかひを教授せられしが、その教授草案は明治十八年十二月にかなづかひ致科書といふ名を以て出版せられたり。この書は清音、濁音、音便の三項に分ちて假名遣をあげ、同異を辨ずべきものにつきて、少き語を記憶し、他を類推する法即ち黒澤翁滿の發明せし方法に則りて之を教へられしなり。氏は又「かなのしをり」といふ書を著して明治十七年九月に出版せり。これは小なる假名遣の辭典なり。これより後、かなづかひの教科書、便覧、及び辭典等の類屡々出版せられ又多くの文典中にも之を説きたるが、今一々それらを枚擧する遑を有せず。而してこれらはいづれも、契沖及び宣長の主義を奉ぜしものにあらざるはなし。

さてこの時代に於いて假名遣につきて異論の起りしは何時頃よりなるか、末だ之を明かにすること能はずといへども、その事の著しく見るは、明治十六年に「かなのくわい」の起る時に、その會員中に、正しき假名遣を守らむと主張するもの、正しき仮名遣を守らず、発音の實際に近き形に書き出さむと主張するものとの争の生ぜし時なるべく思はる。かくてその「かなのくわい」は月雪花の三部に分れ、月の部は正しき假名遣により、雲の部は発音の實際に近き形に書くを主義とし、花の部は五十音の原を正して假名の数を増やさむとし、各その主義によりて純假名文をものして世に廣めむとせしが、これらの運動も明治二十年頃より漸次に消滅せる姿になれり。かくてかの正しき假名遣は益々弘く行はれたり。

然れどもこの假名遣の問題は一部の人々の間に残り伝はり多少之を識る人も無きにあらざしかば、明治二十六年の頃、時の文部大臣井上毅氏は文科大學及び、第一高等學校に假名遣に關する意見を諮問せしことありしに、それら諸學校の諸教授は從來の假名遣を擁護したるものと、之を改定するを可とするものとありきといふ。かくて明治二十七八年の戦役後國字國語の改良論勃興したる際假名遣を論ずるもの亦あらはれ、明治三十三年七月に帝國教育會の國字改良の假字部門に於いて假名決議といふものを発表せしが

國語及び字音の假名遣を全廃して發音通にすること

といふこと、その内に加へられて公表せられたるが、同年八月に文部省は小學校令を改めて、その施行細則に於いて、從來の字音假名遣を全廃して、発音の姿に近き形をとり、数箇の類似音を一にし、又「くわ」を「が」に合せ、「ぢ」を「じ」に「づ」を「ず」に併することとし(但「くわ」「ぢ」「づ」は從來の例によるも妨なしとせり。)その長音符なるものは、「おー」「こー」の如き記載法をとるべきことを令せり。世に之を文部省の棒引假名遣といひ、その當時世論囂々として或は賛成或は反対せり。然れども、明治三十四年四月よりこれを實地に小學校の教育に行ふに及び、その不合理と、その字音の假名遣と國語の假名遣とに主義の矛盾ある為に、之を厳重に區別して教育することは到底不可能にして、その實施の結果、その記載法の混乱名状すべからざる醜態を呈せることは保科孝一氏の改定假名遣に特筆せられたるを見ても一斑は知らるべく、又明治三十八年に視學官吉岡郷甫氏が熊本、宮崎の二縣に出張して各地の小學校、中學被、高等女學被に於いて調査せられし結果をば當時文部省より假名遣試験成績表と題して出版せし報告書にても明かなりとす。而して世論また之に賛するものもありしかど、この新定假名遣の撤回延期を主張するもの少からざりしなり。これらの事は國字國語改良論説年表にて明かなれば今言はず。

明治三十五年四月に至り文部省は國語調査委員會を設置せしが、同委員會は六月に至りて調査方針を決議し、又応急調査事項のうちに、國語假名遣及び字音假名遣につきて調査すべきことを加へたり。かくて明治三十七年より、文部省は教科書國定の制度を實行することとなりしが故に、この假名遣の問題即ちかの棒引假名遣をそのままに存すべきか、若くは、その棒引法の主義をば、國語にも及ぼすべきか、或は全く復舊すべきかを考へて一定せざるべからざる急に迫れるが為に、文部省自ら假名遣改定案を立てて、之を明治三十八年二月に高等教育會議國語調査委員會及び各府縣の師範学校等に諮問してそれらの意見を徴したり。その案には大體の方針としては前の棒引法を國語にも及ぼして統一するを主義とせるものなるが、そのうち「ヂ」と「ヅ」を廃する主義なれど連濁の場合又「チヂム」「ツヅム」の如き場合の「ヂ」「ヅ」を例外として許し、又長音をば「ー」にて記す主義なれど、用言の音便の「ウ」の他一二の場合、「ウ」を用ゐるを許すとせるものなり。而して、これを文章にも及ぼし、又小學校のみならず、中等教育にも實行せむことを期待すと聲明せり。而してなほ別に一案を立てて之をも諮問せるが、この案は前の案よりは稍々緩かにして動詞の活用より起る假名遣と、弖爾乎波とは従來のままとするものとせり。

高等教育會議はこれが為に、明治三十八年三月に召集せられしが、その決議の結果、その改正の趣旨には賛成なりといへども、この案につきてはなほ攻究の餘地あり、ことに國語調査委員會にて審議中なれば追て時機を見て再び諮問せられむことを望むと答へたり。國語調査委員會は之に対して同年十一月に答申せり。この答申案は大體文部省の原案の主義に從へるものなるが、「ヂ」「ヅ」の假名遣を國語にても字音にても復活し、なほ長音には、「ウ」を用ゐるを原則する如きなどの改定を加へたるものなり。

さて文部省はこの國語調査會案をとりて原案として、明治三十九年十二月再び高等教育會議に諮問したりしに同會議はそのまま之を可決したり。然れども、この前後よりして又世間に賛否の論かまびすしくして終に帝國議會に於ける問題となり、明治四十年三月に貴族院より假名遣改正に關する建議をなしたりしかば文部省は之を解決せむと欲して、更に別箇の案をつくり、臨時假名遣調査委員會といふものを明治四十一年五月に設け、これが可否を諮問せり。その案は國語調査委員會案より多少緩和せられたる點なきにあらずといへども、もとより主義は異なるものにあらざるなり。かくてその調査委員會は、七月まで五回の會議を重ねしかど、異議多くして可否を決するに至らざりしかば、九月に至りて文部省は諮問案を撤回し、幾くもなくしてその會も廃止せられたり。而して文部省は教科書にその改定せむとする假名遣を用ゐることをせずして明治四十三年四月以降はかの棒引の字音假名遣も廃止せられてすべて舊に依ることとなれり。

大正十年文部省また臨時國語調査會を設けしが、大正十三年十二月二十四日に至りてその會の國語及び字音の假名遣案といふものをば、文部大臣参列の上にて議決せり。その案の内容につきては本書の附録に述べたるを以てここに略すべきが、反対諭者沛然として起り、余も亦これが不合理なることを認めたるによりて驥尾に附して反対を表明せしが、文部省關係の人々は之が防禦反駁に日も足らざる有様なりしが、大正十四年二月三日衆議院の委員會に於いて議員松山常次郎氏の質問に対へて文部大臣岡田良平氏は、之を教育上に用ゐる意志なき由を言明せり。その間の事情は本書の附録に載せたれば、ここに略せり。然るに如何なる事情によるか、鐵道大臣小川平吉氏は昭和二年七月に鐵道掲示例規を改めて「假名遣は臨時國語調査會の定めたるものによる」と規定せり。かくてこの假名遣はこの規定により鐵道の各駅名の標示に用ゐられたれば、世人をしてその不合理を暗默の間に識認せしめし結果、再び帝國議會の問題となりしが、鐵道大臣は昭和四年四月十一日に再び其例規を改めて、假名遣は「國定教科書に用ふるもの」によるべしとせり。

第六章 囘顧[編集]

以上吾人は、假名遣の起りし時より最近時に及べるまでの事實を略述せり。今ここに本書の記述を終ふるに当りて、歴史上の事實を回顧し、假名遣の本體と假名遣そのものの言語及び文献に關する性質とを観察して識者の教を請はむとす。

今明治以前の歴史上の事實を通観するに、假名遣は實際上止む能はざる要求より起りたるものなるを見る。即ち、その假名遣の起らむとする前には、混乱の状態ありて、心あるものをして統一を企てしめずしてはあらざる状態にありしものにして、定家假名遣の起れるはこれが為なりとす。次にはその假名遣は何を標準として定めたるかといふに、いづれも、その制定者が、正しと認めたる歴史的の例證によりて確定を求めたるものなりとす。この点は契沖以後の假名遣はもとより行阿の假名遣また然ることは既に証したる所なるが、定家の假名遣も亦然るべきことはこれ亦既に述べし所なりとす。

然らば假名遣は何が故に以上述ぶる事情に即して生ずるものなるかといふに、これには又第一に人たるものが、一は混乱を避けて整頓せることにつかむとするが故なりといふべく、一は不正を忌みて、正当につかむとするが故なりといふべし。而してその整頓し正当ならむことを望むが為に、假名遣が標準を舊例に求めたるその根源如何といふに、蓋し、その混乱を生せざりし以前の時代の整頓せる状態を以て、正当なるものと認めたるが故ならむ。然らば、何が故にしかく古代の例を以て假名遣の標準とするかといふに、これ實に文字の根本性質に基づくものといふべし。文字はいふまでなく視覚に訴ふるものにして平面的延長を有し固定的のものなり。音は聴覚に訴ふるものにして流動的無形のものなり。この故に文字にて記されたる語が一旦成形すれば、それに対する音が、変化を生ずることありとも之に対応して文字は変形することなし。而して文字はそが音字たる場合に於いても、一定の字又は一定の一綴は、決して各一箇づつの音を箇々にあらはすに止まらずして、その字その一綴にてあらはされたる言語の平面的延長を有する可視的固定的の一定形たるものなりとす。この点は語音の可聴的流動的なるとは頗る趣を異にするものなり。従来の論者多くは、この文字と聲音との特異性を考慮に入るることなくして音文字はたゞ音の代表となりといへり。されど、そは一を知りて二を知らざるものといふべし。この故に、若し、文字をして流れうつる聲音につれてたえず変化せしむべしとせば、文字を用ゐての定形的可視的言語は殆ど存せざるに至るべし。この故に、一旦成立せる文字上の語形は、頗る保守的のものにして、その一綴のうちに一字を改めてもわれらの可視的言語は形を破壊せられたる感を起すに至るものなり。これ外國語にても無音の文字をその綴より容易に除くこと能はざる理由なり。この理を以て、又人の見なれぬ綴り方をなす時にはたとひそが合理的なる場合にもその一綴が、端的に從來用ゐ來れる綴の語と同一の語なりといふ意識を生じ難き筈なり。これ假名遣が、その正しとする形を古の用例に求る所以にして又新しき用方をなして、理論的には不可ならずとする人々も心の奥に於いては嘉納すること能はざる理由もここに存するなり。

さて綴りて明治以來の假名遣改革運動を見るに、その大規模にして一時燎原の勢あるが如くにして、しかも一度も成功せざりしなり。これ果して如何なる理由によるか。今上に述べし事實と道理とを顧みて、その改革運動に照し考ふれば、その運動が正鵠を失するものあるによるを見るべし。先づ第一には本邦に於いて文字をはじめて用ゐたる場合はとにかく、然らざる場合に、舊來の用ゐ方を全く覆して新しき用ゐ方を一擧にして施さむとするは一國文化の基礎を動さむとすることにして、いふべくして行ふべからざる所なり。何を以て文化の基礎を動すかといふに、凡そ高尚なる思想は言語を待ちて、その運用進展をなすが如く、

高度の文明は文字なくしては十分の發展をなすこと難きものなり。されば文字は言語の外的符號に止まるが如くなれど、文化の上より見れば、頗る重大なる關係を有するものなれば、その文字の用法を一擧に改めむとするが如きは文化の基礎を動かすものといふも誣言にあらざるなり。即ち全く發音のままに假名を用ゐたる時代を本邦の史上に求めば、萬葉假名を用ゐ初めし時代にありしならむと想像すべし。されどそれより後は、こゝに定形を生じて、これを以てわが文化の基礎を築き來れるものなれば、之が動揺は往々思想的の危険を伴ふ惧ありとす。明治よりの假名遣改革運動はその精神は國家を愛する熱誠より出でたるはいふをまたざれど、これが爲めに往々國家の文化を根本より動さむとする惧あるものなるを忘るべからず。

然れども、はじめて新しき文字を用ゐるときには吾人の腦裡に可視的言語の定型なきが故に發音のまゝに之を記載しても怪まざるもの往々あり。今の羅馬字にて國語を記載せる場合の如きこれなり。この羅馬字綴は發音のまゝに綴れるものなるに之に對して吾人は別に甚しくその綴り方によりて國語の破壞せられたる感じを起さざるなり。その理由は即ち上に述べし如き事あるによると考へらる。而してさる羅馬字綴とこの假名遣正しき假名綴とが同一所に併記せられありても甚しく矛盾の感を起さしめざる原因も亦こゝに存す。

明治時代に彼の假名遣改革運動の功を奏せざる他の一の原因は今の文章が漢字交り文にして假名遣が實際に用ゐらるる部分が用言の語尾と助詞との上に限られ、他はすべて漢字にてかゝるゝが爲にも存すると考へらる。即ちかくの如くなれば、その假名遣は實地の上には用ゐらるる場合極めて少ければ、一般世人にはそが如何にもなれ、實は大なる影響を感ぜざるが如く見ゆ。即ちこの問題が実際問題として痛切に之を感ずるもの多からぬが故に、その賛成者も眞の賛成者にあらず、反對者も眞の反對者にあらずしていつしかその運動も消失するに至るを常とせるなり。若し、その少數の假名の部分につきても必ず之を文部省式の假名遣にすべしと強制せば、決して何人もしか冷淡にすぐすを得ざるべし。況んや若し眞に假名のみを用ゐよといひてかの如き改革運動起らば、從來の如く、冷淡の態度をとり得ざるに至るべし。この事は最近の鐵道驛名の記載の變更せるを屡せる事實に徴しても察せらるべし。

次にこの種の改革運動はその前に紛錯を極めたる事實ありて、それが統一を企つるに至りてはじめて起るべきなり。今明治時代以後は確乎と統一の姿を呈し來れるものにして、これが統一改革を要求する國民的運動の起るべき原因なきなり。混亂なくしては統一運動の必要なきことは三歳の幼兒といふとも之を知らむ。わが文部省はかつて棒引假名遣を強制して徒らに混亂を起さしめ國民を害せしこと少からざりしなり。凡そ政治の要は中正の道を進み、止む能はずしてはじめて行ふを要諦とす。衆に先んじて言語文字の改革を企つるが如きは行政官の行ふべき事にあらず。況んやこれによりて紛亂を釀し、害毒を流すに於いてをや。

されど、余輩は一切改革すべからずといふにあらず。これを行ふに道あり。その道は徐々に之を行ふにあり。何が故に徐々に行ふべきかといふに、國民の十分なる納得を経たる上にて行はざべからざるを以てなり。而して國民の十分なる納得を経る所以の道はその改革方法が合理的基礎の上に立てることを示すことによらざるべからす。而してその合理的の基礎は何によりて得べきかといふに根本的調査を経てはじめて得べきなり。かくの如くして着々進まば道理の正しき限り行はれざらむことはあるべからず。十分の理由示さず、一擧して根本的改革を施さむとするが如きは一國の文化の基礎を動かさむとする虞あるものにして一種のクウデタアといふべきものなり。

附録一 文都省の假名遣改定案を論ず[編集]

新聞の報道する所によれば、大正十三年十二月二十四日文部省臨時國語調査會は文部大臣以下參列の上總會を開き、滿場一致を以て國語及び字音の假名遣の改定案を可決したりといふ。かくてその改定案なるものは二十五日以後の國民新聞によりて報道せられたり。今これに就きて熟讀するに、吾人が學術上の立脚地より見ても國民の一員として見ても、遽に是認し得べきものにあらざるを以て、その理由を明かにして世論に訴へむと欲す。

第一 假名遣改定の權能何處にあるか[編集]

余は先づこの假名遣を改定する權能の何處に存するかを知らむと欲す。今吾人は新聞紙の報道によりて國語調査會がこの案を決議したるを知れり。然れどもこれが案たる以上實行の能力は何處に存するを知らず。然るにこの決議はたゞ國語調査會の意思表示たるに止まらずして、これを國民に實行せしむることを目的とせる由に新聞紙は報ぜり。果して然らばこの國語調査會は國民にその新に定めたる假名遣の實行を強要する權能あるものなりや。

假名遣の改定案は若し實行と否とを問はず、單に國語調査會が決議せしのみといふ事ならば、吾人がこれを大事件と思ひて論議することは聊か滑稽の感なきにあらず。然れども政府が巨額の國費を投じてさる遊戯に等しき事をなさしむべき筈もなく、委員諸公も亦さる無用の事に貴重の時間を費さるべき筈もなきなり。されば人ありてこの國語調査會の決議即ち國民に實行を義務として課するものなりといはむか。これ決して不條理の観察にあらずして寧ろ當然の観察なりとす。然れど今の國語調査會の官制を見るに「普通に使用する國語に關する事項を調査す」とありて、一種の調査機關に過ぎずして、國民に強要すべき事項の決定をなしうるか否かは疑はしきことなりとす。

抑も民族常用の文字の如きは官府の力、法令の力を以てして、直ちにこれを改廢すべき性質のものにあらざるは明かなる事實なり。文部省は假名遣の改廢を數囘企てて、しかも常に失敗せり。然るに拘らずこりずまになほこれを企つるものは抑も何の信ずる所あつてぞ。惟ふに本邦に漢字入りて後襲用久くして、その繁に堪へずして假名を案出せり。この假名はその發明者と称せらるるもの一二傳へられるども、これたゞ傳説たるに止まり、事實は民族の要求によリて徐々に完成せられたるものといふを妥當なりとす。かくの如く文字言語の如きは自然の推移に待つべきものにして、人力を以てしてはたゞその方針を示して邪路に陥るを防ぐに止まるべきものなり。しかるを一挙にして根本的に之を改めむとするが如きは、政治上の大革命に乘ずる場合の外には夢想するだに難しとする所なり。否、政治上の大革命に乗じてもなほ且その事を遂げ得べからざるは、かの秦始皇の暴擧の顛末を見ても思ひ半に過ぎむ。實に言語文字の改革の如きは非常に變態なる事情の存せざる限りは決して強制的に行ふべきことにあらず。若し強ひて平地に波欄を起すが如き事をなして之を強制する事あらば、その反動はゆゝしき大事件として起るべきを十分に覚悟せざるべからず。

第二 改定の必要何處にあるか[編集]

假名遣を改定する必要若しありとせば國語調査會はその必要なる理由を報告して十分に國民に知らしむべきものなり。この報告の類續々として出で、國民がその必要を十分に感じて後にこそ其の改定の目的は自然に達せらるべきものなれ。然るにこれが報告は吾人未だそのありし事を知らず。その必要を感ぜざる國民に如何に改定を強要すとも、そは勞して效なきものといふべきなり。然るに新聞上に同會の要路の言として假名遣の改定の必要なる事は既定の事實にして今や實行の時期に入れりといふやうの言あるを見たり。然れどもその新聞の報道は信ずべからぬものと思はる。何となれば、假名遣改定の必要は既定の事實として國家はた國民の公認を経たりといふ事あらざればなり。

抑も文部省が明治維新以後尊守し來りし假名遣の改廢に着手せしは明治三十三年小學校令施行規則制定の際にその附表第二號に於いて字音に棒引を用ゐたる時にはじまるものにして、これが實施の結果かへつて學校に於ける假名遣の混亂を惹き起したるによりて、それの弊を矯めむと称して國語の假名遣をも同時に改めむとの意志を以て、明治三十八年に至りて一の案を製して國語調査委員會と高等教育會議とに諮問せしがその案は今の改定案と大同少異のものなりしが、朝野の反對に遇ひ、終には帝國議會の問題とまでなりしものなり。かくて明治四十一年に至り、文部省は窮餘の一策として別に假名遣調査委員會といふを設け、新に折衷案を作りてこれに諮問せしが委員會を開くこと五囘にして大勢文部省に非なりと見てか、その案を撤回し「ついで委員會も廃止せられたるものなり。これより後かくの如き假名遣の改定が再び起るべしとは豫期せられし事にはあらず。然るに今にして改定の必要は既定の事なりといふを得べきか。吾人はかくの如き事は道路の風説にして當路者の言にはあらざるべしと認むるものなり。

若し、又この改定の必要が國語調査會に於いて既定の事となりてあるものならば、同會は既に今日までにその必要なる理由を國民に報告せざるべからざりしものなり。この事の順序を踐まずして今急遽としてこの案を決せるものは何の故ぞや。

假名遣改定の必要を説かむと欲するものは、先づそれぞれ學理上歴史上の調査を経たる報告を公表してその理由を國民に知らしむるを要する事は既に述べたる所なり。この調査報告は僅々一字一語の改廢に於いても必ず之を要するものなり。かくの如き調査を経、かくの如き公認を経て後、その改廢は決定的のものとなるべきものなり。而して假にその改革は決定的に必要とせらるとしても、その實行は徐々にせらるべきものにして、非常に多き事項を一擧にして改革するが如きは非常に愼重の態度をとらざるべからざるものなり。況んやその改廢が單に文字の置換たるに止まらず、言語の諸現象に影響するが如きことは、前後左右一切の場合を十分に考究してそれの處置を妥當ならしめて、後徐ろに決すべきことなるをや。抑も文字言語の改革の如きは一種の社會革命たるものにして、その措置はくれぐれも愼重に考慮すべく、決して軽率に實行すべからざる重大事件なりとす。

吾人は今回の改定案を見るに先だちて、これに對して十分の調査の行はれたる事の何等吾人國民に公示せられたるものあるを知らず。而して今や國語及び字音の殆ど全般に亘りて根本的に改革を施さむとするにあらずや。かくの如き大規模の改革を遽然として一擧に行はむとするが如きはこれ一種のクウ・デタアにあらずや。吾人はかくの如きクウ・デタアを行ひてまでも改革を施すべき必要の存するを知らざるのみならず、かゝるクウ・デタアを行はざるべからざるまでに切迫せる事情あることをも全く知らざるなり。

今こゝに論議の必要上假りに數歩を譲りて、これが必要あるものとせむ。しかもその必要の理由は當局の示す所とならず。然れどもかつて文部省が改革を企てし時、その改革に賛成せしものゝ言論を概括するに、

一、假名遣はむづかしきによりて改めむとする説

二、假名遣は行はれざるが故に改めむとする説

三、假名遣を正しきものとするは迷へるなりとする説

四、言語に變遷あるによりその變遷に伴ひて改めむとする説

の四點に歸したりしが如し。今これにつきて意見を述べむ。

假名遣はむづかしきものなりといふ説は元來假名遣改革論者の唯一の論據とせしものなり。されどこの説は迷へるものなり。かくの如き論は全く感情論にして何等の根據あるにあらざるなり。字音假名遣の如きはむづかしといはゞ或はいはるべきが、これとても一定の條理をたどりて進めばさほどむづかしき問題にはあらず。されどそは姑く措き、國語の假名遣の如きは決してむづかしきものにあらぬは明かなり。すべて最初よりこれを無視する破壞論者にはその反對の對象は何等かの批難を附せらるべきは當然なるを以て、これらに對してその可否を問ふは無益なり。公平に考へてわが國語の假名遣は諸外國語の綴字に比して決してむづかしきものならざるのみならず、英語の綴字などに比ぶれば信に易々たるものなりとす。然るにこれをむづかしといふは要するにこれを用ゐむと欲せざるものゝ言のみ。若しその人にして信によくこれを知らむと欲せば、一週間にして國語假名遣を記憶せしむることを得るは吾人多年の經驗に徴して明かなり。若し又それが假りに難儀なりとすとも、一國の言語文字をたゞ難儀なりとして放棄するが如きは國民として斷じてあるまじき態度なり。かくてこの難儀なるによりて改廢せむとする論は成立せざること明かなるに至り、思慮ある改革論者は次の論旨を案出せり。

第二に出でたる改革論は從來の假名遣は行はれてあらざるが故に改めむとする説なり。この論者の假名遣の行はれてあらずといふ説は事實を誣ふるものなり。即ち次の如き諸點は現に行はれてあるなり。

一、ゐど(井) ゐのしし(猪) まゐる(參) ゐる(居)

二、すゑ(末)等

三、をか(岡) をけ(桶) うを(魚) あをい(青) をしい(惜)

四、ふぢ(藤)等

五、みづ(水)等

六、けふ(今日) きのふ(眸日)

七、ハ行四段活用動詞の活用の「は、ひ、ふ、へ」

八、形容詞の運用形の音便の「う」

九、四段活用動詞及び「ある」の未然形に「う」をつけたるもの

この九項にあげたるものは多少の教育ある人ならば十中の八九は誤らざるものなり。

この事實は虚心平氣にして世人の記述せる文章を観察せば、直に首肯せらるべき明白の事項なり。而してこれらは國語調査會の國語假名遣の改定案の要部を占むるものなり。吾人はこれらが、行はれてあらずとは決して認むる能はざるなり。かくてこれらの事項以外の假名遣は實際上世人に誤用せられ易きは事實なること吾人これを否認せず。されどこの改革論者はこれらの語が何の故に誤らるるかの理由を眞面目に考へたりや否や。惟ふにこれらのものを世人が往々誤るに至れるものは蓋し二の原因ありてこれを起すによるものなるべし。一は世の軽薄者流が、外國語といへば一字一句もこれに誤あらむをおそれ、戰々競々たるに反し、國語を尊重することを一種の恥辱の如くに考へ、細事に拘泥せざるを大人物の態度なりなど唱ふる弊風あるによりてこれを尊重するを憚らしむるものあるなり。一は假名と漢字と混用するが爲にして、この事寧ろ大なる原因なるべし。主要なる語に漢字を用ゐて其の意の通ずる如き現代の文章にありては、それらの漢字に相當する語に假名を用ゐずとも略ぼ用の達せらるるは、これ現實の一大事實なり。この事相の改められざる限り、それら漢字に相當する假名は如何樣に改められたりとも、行はれずとせば、やはり行はれざるべし。而してそれら漢字に隠れざる語の假名遣は前述の如く國民的に生動せる事實を何人か否認しうべき。假名遣のむづかしといはるゝも、かく漢字に隱れるゝ部分をば多くの人が無意識の態度を以て接せるに、遽にこれを正しく假名にて書けと迫らるるが故に狼狽するのみ。然れどもこの理由を以て假名遣を改めむとするが如きは全く無意義の事に屬せずや。何となればかくの如く改めたりとも、その漢字を用ゐる限り同じ假名遣は實地の用をなすことなければなり。同じく實地に用ゐられずとせば、改むるも改めざるも同じく不要なれば歸する所は一にしてその改定は徒勞なるのみ。否、徒勞といはむよりも無用の勞を國民に強ひて二重の負擔をなさしむるのみならず、國語は混亂を起し、とるべき所は一も存せざるに至らむとす。この故に現代の文章に於いて假名遣のある部分が正しく行はれざることありとも、そはこれが改廢の理由にはならぬことなり。況んや凡そ正しき事は若し行はれずとせば、よくこれを行はるるやうに努力するをこそ學者識者の任とすれ。少數の語に誤をなすを理由とし他の大多數の正しきものを改むべしとする理由何處に存するか。これ全くとるべからぬ論なりとす。こゝに於いてそれらの論者のうちには方向をかへて從來の假名遣は必ずしも正しきものにあらずとする論を生じたり。

從來の假名遣といふものは古來の國語學者が多年の研究を經て考定せし結果にして學術上正しと認められたるものなり。勿論多少未決の問題殘れりといへども、それが爲に他を正しきものにあらずとすることは論理上成立すべきにあらず。この故にこれを不正のものなりといふが如きは言語道斷の事にして、畢竟爲めにする所あるものゝ妄言なり。この假名遣は契沖以來幾多の學者の古語古書に標準を求めて正したるものにして、これを定家假名遣の如き獨斷的のものと同一視せむとするが如きは誣妄の甚しきものなりとす。而してこれらの論者は文字は表音的にすべきものなりと稱して、從來の假名遣をば歴史的假名遣などいふ新名稱を以てこれを呼び、暗にこれが過去の廢物なるかの如く世人に思はしめたる疑なきにあらず。されど、文字にしても言語にしてもそれが文化の存する民族に傳はれる限り歴史的ならぬものありや。かくの如きは言語文字の社會的歴史的に尊重すべき所以を忘れたるものの放言にすぎず。されども假名遣にかゝる名稱を與ふる人といへども、これを以て不正なりなど放言しうべき筈は寸毫も存せず。ここに於いて論者は一轉して次の説を生ぜり。

この論者はいはく言語には變遷あり。假名遣はこの變遷に伴ひて改めらるべきものにして、假名遣の改定の必要こゝに存すといふものこれなり。假名遣改定論の最も理由あるさまに見ゆるはたゞこの一なるのみ。然れども吾人はこの論に無條件に賛同し得ざる道理あり。次にこれを論ぜむとす。

第三 改定の目的如何[編集]

言語に變遷あるは何人も否定すべからぬ明白の事實なり。而してこの變遷には言語の内容即ち意義の變遷と外形即ち聲音の變遷との二因子あるは明かなり。而してその變遷の假名遣と交渉を生ずる點は外形即ち聲音の變遷に存するはこれ亦明白の事なりとす。この故に言語に變遷あるを以てその變遷に伴ひて、その假名遣を改めむと欲すといふ論はこれ一往の道理ありて改定論中根據ある唯一の論なりとす。然れどもこの論者の所論は如何にして實現せらるべきか。

これらの論者の言論を総括するに、いづれもその目的を文字と發音との一致に置くものゝ如し。この事いふが如くに行はるべきものならばそれ或は可ならむ。しかもその可否を論ずる前に先づ顧みるべき二三の要點あり。

第一、文字は社會的歴史的の産物なり。この故にこれが根柢には國民の精神的生活の或物が附着してあることを忘るべからず。これ文字の改廢が破れ草鞋を棄つるが如きものにあらざる第一の事情なり。而してこの國民の精神的生活の或物は頗る根深き勢力を有するものにして、文字改革の言ふに易くして行はれざる所以實にこゝに存す。文字がかく社會的歴史的の産物にして國民の精神生活と深き關係ある事を顧みざる人々は、文字の革新を一擧手一投足の勞の如くに思惟するが如しといへども、その事を實行せむとするに及びて、意外の反動に逢ひてはじめてその根強き勢力に驚くべし。これ文字の改革が一種の社會革命なりといはるる所以にして、強ひてこれを企つるに至らば非常の事件を生ずるに至らむも知られず。この故にこれらの改革は理論上可なりとすとも、これが實行は徐徐にせざるべからざるなり。

第二、文字は固形的のものなり。しかるに聲音は流動的のものにして、極端にいへば、時々刻々變化するものといふを得るものなり。文字は固形的なるが故に一旦之を用ゐれば、その時よりして形を改むること無し。今某の時の某の語を某の文字を用ゐて記すとせよ。その當時はその音とその文字と全く同一なりとすとも、時を経るにしたがひて聲音は變遷し、終にはもとの形といたく異なる相を呈するに至らむ。しかも文字は依然として形を變ずること能はず。こゝに於いて某の語に與へられたる文字とその語をあらはす聲音とは或時期を経れば多少の差異を來すべきはこれ自然の事情なり。かくて文字は一旦これを用ゐればこれを改めむことは容易の事にあらず。この變遷止まざる聲音を寫すにこの固形的の文字を以てするものなれば、これ如何にしても多少の矛盾衝突の生ずべきは永久に避くべからざる所なりとす。

第三、以上の如くなれば、言文の不一致といふ事は實用上の文字を用ゐる限り永久に實現し得られざるなり。この故に言文の不一致はこれ永久的の事實にして、何人かゞ非常の英斷を以てこれが一致を企て一時これを爲果せたりとすとも、その翌日よりして早くも不一致の方途に進むものなることを忘るべからず。かくの如き事實は專門の學術を學ばむまでもなく、常識のよく知る所にあらずや。假名遣改定論者はかかる明白なる一事を知らざるべきにあらねば、その改革といふもたゞ部分的のものに止まるべきものを、恰も純然たる發音通りの假名遣なるものが新に制定せらるべき如くに論ずるは、不用意の間に起りし事なるべけれども、人をして迷はしむる責は論者自ら之を負はざるべからず。

第四、この故に眞に絶対的に言文の一致を望まむとせば、從來用ゐられたる文字を顧みることなくして、ただ抽象的に某の聲音に某の記號を用ゐるといふ如き機械的記號を案出し、これを言語の記號とすることなく、單なる聲音の記號としてのみ用ゐるより外に方法なきものなり。かくの如き機械的記號の標本は即ちかの聲音學に用ゐる記號にして、これらはその言語の如何を問はず。たゞ聲音の種種の相を標準として記載する主義をとれるものなり。かくの如きに至らば、これ即ち世界共通の聲音記號といふべきものなり。されどかくの如き記號は果して通常人の日常用ゐ得る所なりや。

第五、以上の如き主義を以て進まば、その發音の記號は吾人の現時用ゐるが如き少數のものに止まらざるべきは豫想し難からず。かの聲音學的記號を見て思半に過ぐべし。かの記號の如きはよく人の聲音の委曲を寫しうべしといへども、もとこれ學術の研究上繁雑を厭はず、正確と精密とを目的として定めたるものなれば、實用上の文字にあらず。而してその聲音學的記號の如き繁雑なるものは決して普通人日常の用として堪へ得るものにあらず。さらば實用上の文字を以てよく聲音を如實に寫し出し得るかといふに、これ亦一層繁雜にして、不正確の度は甚しきものあらむ。而してこれ亦常人の堪へ得る所にあらず。かの聲音學的記號はもと聲音學者が研究の方便として案出せしまでのものにして、世人の常用文字にかへむことは彼等の豫期せる所にあらざるなり。

第六、この故に世人日常の文字は古來決して聲昔を嚴密に代表せるものにあらざるは明かなり。然らば日常文字と聲音との交渉は実際如何なる状態にありやといふに、たとへばこれを母音にていはむに、通常ア、イ、ウ、エ、オの五の母音ありといふ。されど、これ實は世俗の見解にして嚴密に學術的にいへば開口の「ア」より合口の「ウ」に至るまでには多數の母音の遷移は存するなり。この事は西洋にては聲音學者の實証する所にして、わが國の母音にもかゝる現象の存するは疑ふべからず。たゞわが聲音學は未だ幼稚にしてこれを學術上に立証することは能はざるのみ。かくてこの多數の母音中よりその代表的の型をとってア、イ、ウ、エ、オとしたるのみ。されば實際「ア」と書ける音にも「オ」に近きも「エ」に近きもあるべきはもとよりなり。その他の諸の假名またかくの如し。かくの如きものなれば假名を以て表音的に記すといふともそはたゞ比較的の事にして、これを以て絶對的に表音的なりと主張するを得るが如きものは一も存せずといふべし。

以上述べたる所を概括すれば、文字はこれを改革すること容易の事業にあらざると共に、言文の一致といふことはいふべくして實は行はるゝものにあらざるなりといふに歸す。然らば假名遣は全く改めざるを可とするかといふに必ずしも然らず。その改革にして眞に止むべからざる事情によるものならば、これを行ふには國語の本性に基づきてこれを害せず、國語の法則に依つてこれに戻らず、國語の歴史に照してこれに基づき社會の慣習を顧みてこれを調節し、而して後國民の公認を経、その後徐々に行はるべきものなしリとす。勿論これが爲には正確にして親切なる調査を施して十分に社會の容認を経ざるべからざるものなり。

吾人は以上の前提を以てして、今の假名遣改定案を観察し、その果して賛すべきか否かを次々に縷述せむと欲す。

第四 現代の文章に於ける假名遣の實状[編集]

余はこゝに假名遣が眞に改定せざるべからざる事情に迫まられてありや否やの問題を、現代の文章に照して観察せむ。

假名遣改定案の凡例によれば、それは現代文の口語なるにも文語なるにも適用する由聲明せり。現代文といふ以上、上は詔勅法令より下は市井の地口駄洒落に至るまでを包含するものなるべきが、所謂文語の文章をこの案の如き假名遣を以てせば、恰も佛頭に糞するが如き醜状を呈すべきは明かにして、その事の行はれざるはいふまでもなければ、これは事々しく論ずるまでもなきことゝして論外にさしおかむ。

現代の文章の一體として口語と称せらるゝものあり。これは口語體といはるゝものゝ、純粋なる口語の記述にあらず。これが文語と異なる点は「なり」を「である」「だ」「であります」の如き語に代ふると、用言の活用を口語の活用の形にせるとの二點を主たるものとして、その他は文語と大差なきのみならず、口語には全く用ゐぬ副詞用言等をもたゞ口語の形式として盛んに用ゐるものなりとす。されどこれらの文章の體裁は吾人の今の論の目的にあらず。

今以上の如き現代の諸の文章を通観して、假名遣の眞に必要として用ゐらるゝ點をあぐれば、要するに殆ど古来「てにをは」と称せられたる範圍に止まれり。なほこれが大綱をあぐれば、

一、助詞「が、に、を、へ、と、より、だに、さへ、ば、ども、は、も、等」

二、用言の活用及び世の所謂助動詞

三、接辞(接頭辞接尾辞)

等を主たるものとす。而して

一、體言。

二、用言の語幹

三、副詞の類

は大體漢字を用ゐてあるものなり。されば現代文の實際に於いて假名遣の難問となるべきものは殆ど一も存せざるは明かなり。なほ上の假名にてかけるもののうちに於いて假名遣の問題たるべきものをあぐれば次の如し。

一、助詞(四)を へ さへ は

二、用言の活用

四段活用

ハ行四段の活用  逢は ひ ふ ヘ

ヤ行ワ行等に四段活用なければ、紛るべき虞なし。

上一段活用

ハ行上一段の活用 生ひる 強ひる 誣ひる

ヤ行上一段の活用 射る 鋳る 老いる 報いる 悔いる

ワ行上一段の活用 居る 率ゐる 用ゐる

  普通に用ゐるは上の數語にすぎず。

下一段活用

ア行下一段の活用 得る  の一語のみ

ハ行下一段の活用 誂へる 抑へる の類

ヤ行下一段の活用 覚える 消える の類

ワ行下一段の活用 飢ゑる 植ゑる 据ゑる の三語のみ。

以上ハ行ヤ行の下一段活用が多少紛れ易き點あゐのみなり。これとても文語に照せばハ行の方は「フ、へ」と活用し、ヤ行の方は「ユ、エ」と活用するによりて発音の差あるによりて紛るゝこと無し。若し又これを機械的に覚ゆるにしてもヤ行の語二十三四を覚ゆれば足れり。

以上の外には漢字交り文を用ゐる限り紛はしき假名遣は甚だ少しといふべし。而して世人はかくの如き程度にて紛はしき事も無くして現代の文章を草しうるなり。上述の數條の假名遣の如きをむづかしいといはゞ、天下にむづかしからぬもの一も存せずといふべし。

以上論ずる所によりて、現代の文章に於いて假名遣が實際に如何に用ゐられてあるかを知るべし。この故に現代の文章に於いて假名遣を改定せざるべからざる切迫せる事情ありといふことは吾人の信ずる能はざる所なりとす。

教育上の實際問題につきて考ふる場合にも上述の事實は十分に考慮せらるべきことなりとすり日常の必要なき假名遣に全力を注ぎて教へても彼等生徒は學術上の問題として記憶するに止まり、日常の實用に供せざれば自然にこれを忘れこれを等閑に附するもまた阻止すべからぬ事實なるべし。

この故に假名遣の励行主義と漢字交り文とは相容れざる點あるをさとるべし。したがつて、漢字を全廢して假名を專用すとせば、こゝに假名遣は必然國語の記載に關る當面の問題となるべきものなり。この故に今文部省が文章の記載を現状のまゝ漢字交り文として存続するものとせば、この假名遣改定案の過半はやはり何れにてもよき事にして、結局、上の助詞用言の活用の記載のみを改むる結果となるにすぎざるべし。

かく論じ來れば、今遽にかく假名遣を改定することは漢字全廃を豫想するものと判せざるべからず。若し果して然りとせば、これ假名遣改定よりも更に重大なる事件として國民全般の慎重なる考慮を経ざるべからざるものなりと考ふ。吾人は勿論國語調査會が漢字全廃の豫備事件としてこの假名遣改定を企てたるものなりと認むるものにはあらざれど、現代の文章に於ける假名遣の實状より推論すればかくいはざるを得ざるに至らしむ。若し又然らずとせば、徒らに平地に波欄を強ひて起すが如き疑は起らざるを得ざるなり。

以上現在の實状よりして假名遣の改定に迫られてあらぬことを察知すべし。されど吾人はこれを以て直ちにこの改定案に最後の断案を下すべからず。茲に方向をあらためてこの案に如何なる條理あるかを検せむとす。

第五 改定案に一定の標準ありや[編集]

今の假名遣案は何を標準として立案又議決せられたるものなるか。その凡例を見るに大體東京語の發音によりたりといへり。されば、かの改革論者の所謂表音的假名遣と唱ふるものなるべし。この故にそれらの實例を見るに「あおい」、「みよう」などの如く古来かつて見ざりし新形式を案出せり。これ即ちこれらの假名を以て音のまゝに書きあらはしたりとする所なるべし。果して然らば、これがうちに助詞の「は」「へ」「を」の三のみに古來の假名遣を保存する理由如何。これ表音主義を是なりと認めて古來前例なき新用法を案出せる國語調査會が、この三字のみに正しき假名遣を保存せるはその表音主義を破るものにあらずして何ぞや。更に又顧るに、助詞のうち「は」「へ」「を」の三語は改めずして「さへ」は「さえ」とせる理由如何。助詞はすべて改めずとならば、なほ多少の條理は存すと認むべきが、一を改めて三を改めざる理由如何。吾人は其の根據の奈邊に存するかを想像する能はざるなり。

これを以て察するに、この改定案には一貫の標準なきものなりといふべし。この故に吾人は更に方向を轉じて、その個々につきてその改革が合理的なりや否を討尋せざるべからざるなり。

第六 「ゐ」「ゑ」の廢棄[編集]

この改定案を見るに「ゐ」「ゑ」の假名は廢棄せられたるなり。世人は果してこれを是認するか如何。吾人かくいはば、國語調査會は或はこれらの假名は廢棄せるにあらず、使用せざるなりといはむ。然れども一時使用せずといふならば、廢棄とは異なりといふを得べけむかなれど、永久に使用せぬことを称して廢棄といふ以上、國語調査會がこの二字を廢棄せるにあらずして何ぞ。

抑もこの二字を廢棄する理由何處に存するか。國語調査會は或は使用せられざるが故にといはむ。されど

ゐど(井) まゐる(参) ゐる(居) すゑ(末)

の如きは現代人の使用してこれを誤るもの甚だ稀なるは極めて明白なる事実なり。使用せられざるが故に廢棄すといふ論は成立すべきにはらず。

次には「ゐ」「ゑ」の二音は発音上、「い」「え」となれりといふ論あらむ。如何にも國語調査會の例示せる如きにはその如くに発音すといふを得む。されどこの文字のあらはす發音は國民間には存在せるものなり。これは少しく聲音學の智識を有するものならば、誰にも心づかるべきことなり。粗雑なる世俗的の智識を以て俗人にこの音の有無を問ひ、彼れらが無しと答へたりとて、直に無しとするが如きは大早計の事なりといふべし。眞に國語を発音通りに記述せむと欲し、又それによりて假名遣を定めむとならば、あらゆる発音を厳密に科学的に調査し、それらの有無変化等を十分に明らめざるべからざるものにあらずや。かつて國語調査委員會の調製せし聲音分布図の如きは根本的の調査を経たる資料にあらぬことは今更いふまでもなきところなりとす。この故に今急にこれを廢止するが如きは學術上大早計の事に属す。他日「ゐ」「ゑ」の音の國民的に存することの確証せらるゝに至らば今の國語調査會は如何にしてこれに處せむとするか。

かくて又「ゐ」「え」の廢棄よりして五十音図と伊呂波歌とは當然廃棄せらるゝに至らむ。國民は果してこれを容認すべきか。今伊呂波歌は姑く措き五十音圖の如きは國語の組織を説明せむが爲に案出せられしものにしてこれによりて國語の理法に幾許の便宜を与へたりや量り知るべからず。然るに、これらの論者は多くは五十音圖の如きは舊時代の遺物と貶して學術上何等の価値なきものゝ如くいへるもの多し。然るに今の改定案にア列、イ列、ウ列、エ列、オ列の名称を用ゐるはこれ何ぞや。これらは實に五十音圖によりて起れる名称にして、五十音圖を離れては意義をなさざる語なるにあらずや。一方に五十音圖を破りながら、一方にそれによりて認めらるべき術語を用ゐることその矛盾撞着も亦甚しといふべきにあらずや。

第七 「ぢ」「づ」の廢棄[編集]

この改定案には「ぢ」「づ」を廢止せり。從來文都省より發案せる假名遣案にはこの「ぢ」「づ」の廢止を主張しつゝも多少の除外例を設けたり。然るにこの度の改定案には絶対的に廢止せるなり。この點は如何なる理由によれるかを知らずといへども、蓋し、これを使用するものなしとするか、若しくはこれが文字に相當する發音無しといふ見解に基づくかの二者のうちなるべし。今この事につきて論ぜむ。

先づこの「ぢ」「づ」の文字は現代人に略ぼ誤りなく使用せられてあり、即ち

ふぢ(藤) わらぢ(草蛙) はぢ(恥) うづら(鶉) みづ(水) めづらしい(珍) まづ(先)

等の如きは殆んど何人も誤らずといふべし。たゞ時として「ぢ」「づ」の假名を誤るものは極めて用ゐること稀なる語、たとへば「よぢる」(口語に用ゐることなき單語なり)の如きものゝみなり。この故に現代人に誤用せらるといふは事實を顧みぬか、若くは知りても殊更に知らざるまねする人の言なりとす。

次にこの二字に相當する音なしといふ論につきては深く考へざるべからざる點あり。「ぢ」「づ」の二音が土佐國及び九州のある地方に存することは世人の熟知する所なれば、この音の現代の國語に存せずとは學者たるもの一人もいふもの無し。されども吾人はこの事實を以て直ちにこれが廃止に反對するものにあらず。吾人が反對を主張するは次の二の事項によるなり。

第一、九州の「ぢ」「づ」は吾人これを知らねど土佐に存する「ぢ」「づ」は實際に聞くに單なる「ち」「つ」の濁音にあらずして、寧ろ羅馬字にて、di, duと書くものに近き(全く同じといはず)ものなるを吾人は知れり。かくて「ち」「つ」の濁音なるものは思ふに決して現在の國語には全く亡びずして人々の「じ」「ず」なりと思へるうちに存することは疑ふべからず。

すべて人の存すとせるものを否定せむものはそれが非存在を證明せざるべからず。これを精査せずして世人が「じ」「ず」と書くが故にこの區別なしとするが如きは學術を以て世に立つものの言にあらざるべし。前の國語調査委員會の音韻分布圖の如きは聲音學の心得なきものが、問ひに誘はれて答へたるまでのものにして、精密なる研究を経て答へたるものにあらざることは、地方の當時の應答者の實情を知れる吾人の明言するに躊躇せざる所なり。眞に學術上これが存在を否定せむ人は聲音學上の理法によりてこれを精査し、而してその非存在を證明せざるべからず。この討究を施さずしてら直にこれを廃棄するが如きは大早計に属す。

第二には國語には連濁といふ現象あり。連濁といふはもと濁音ならぬものが、語を組合するとき上の語の尾音との連續によりて下の語の首音が臨時に濁音となる現象をいふなり。而してその連濁は眞に一時の現象にして、その語は國民の意識内に活溌に生動するものにして、その組合せを解くときには濁音より清音に復歸するものなり。これ國語操縦上の一現象たるなり。然るにこゝに「ぢ」「づ」を全く廢して必ず「じ」「ず」を用ゐるとせよ。その連濁音の「ぢ」「づ」は必ず「じ」「ず」とせざるべからず。かくしてなれる語はその組合せを解く時に必然的に「し」「す」とならざるべからず。これ復歸にあらずして音の轉換なり。かくてもとの「つゑ」が「すゑ」となり、もとの「ちり」が「しり」とならざるべからざるの奇観を呈せむ。かくの如きは學理上あり得べき事にあらざるのみならず、國民の堪へざる所の壓政なり。

今、古語雅言など稱せらるる範圍の語を除き、又全く成熟したる語中の「ぢ」「づ」をを除外し、國民が現に日常用ゐる語につきて連濁の現象を起すべき例をあぐべし。

ちかぢか(近々) ちりぢり(散々) 入れ智慧 猿智慧 附け智慧

はしぢか 手ぢかい (近) 弓張ぢやうちん(提燈) 葉ぢやや(茶屋)

酸漿ぢやうちん 緋ぢりめん(縮緬) 紋ぢりめん 馬鹿ぢから

飯ぢやわん(茶碗) 貰ひぢち(乳) 鼻ぢ(血)

等は「ち」の連濁音なるが、これを「じ」とかけ、而してこれを解き還元する時に、

「近」は「しか」「近い」は「しかい」「智慧」は「しゑ」「提燈」は「しやうちん」「縮緬」は「しりめん」力は「しから」「茶碗」は「しやわん」「乳」は「しち」「血」は「し」「茶屋」は「しやや」

とならざるべからず。

つきづき(月々) 三日づき(月) つねづね(常々) 松葉づゑ(杖)

箱づめ(詰) 立づま(棲) 馬鹿づら(面) 鷲づかみ(掴)

丸づか(塚) 小づかひ(小遣小使) 手づかへ(支) 條件づき(附)

利札づき 醤滴づけ(漬) 胴づき(搗) 手づくね(捏)

鬼づた(蔦) 木づち(槌) 小づゝ(筒) 紙づな(綱)

小づの(角) 手づよい(強) 氣づよい(強) くろづる(鶴)

鍋づる(鉉) こづらにくい 三人づれ(連)

等は「つ」の連濁なるが、これも亦「ず」とかかざるべからずとして、これを解體還元するとき

「月」は「すき」 「常」は「すね」 「杖」は「すゑ」 「詰」は「すめ」

「棲」は「すま」 「面」は「すら」 「つかみ」は「すかみ」 「塚」は「すか」

「つかひ」は「すかひ」 「つかへ」は「すかへ」 「付」は「すき」 「漬」は「すけ」

「搗」は「すき」 「捏ね」は「すくね」 「蔦」は「すた」 「槌」は「すち」

「筒」は「すつ」 「綱」は「すな」「角」は「すの」 「強い」は「すよい」

「鶴」「鉉」は「する」 「つらにくい」は「すらにくい」 「連」は「すれ」

とならざるべからず。而してかくなりたるものはもはや日本語にあらざるなり。

余がかくいはゞ、論者ありて或は「汝は強ひて反對せむが爲に、詭辯を弄するなり」といはむか。されどこれ徒に辯を好むが爲めにあらずして事實なるを如何にせむ。何となれば上にあげたる諸例の如きはみな吾人が國語操縦上随時組合せて連濁を起さしめたる現象にして、日常頻繁に起る事なればなり。

今われらは瓶に詰めたるものを一語にていはむとする時は「瓶詰」の語を用ゐる。この時には瓶に詰むるものなるが故に直ちに「びんづめ」と書くは自然の事なり。これ瓶詰といふ語が必ずしも過去に成立せずともいひ得る事なり。行李に詰むれば「行李詰」といひ、箱に詰むれば「箱詰」といひ、ぶりき罐に詰むれば「罐詰」とも「ぶりきづめ」ともいふ。この場合の罐詰は既成の商品の罐詰とは意義異なり。商品の罐詰は既に成熟せる一の名詞なり。ここの罐詰は臨時につくりたる語にして固定的の語にあらず。かくの如きを吾人は國語操縦の過程中に起る随時の現象なりといふなり。その他「風呂敷包」「紙包」「大包」「小包」の「つゝみ」の如きまた然り。小包郵便の「小包」は二個の成語なり。されど上の種種の「つゝみ」の場合は異なり。この故にこれらの國語操縱の過程中随時に組合せ、又は離るゝ語は國民の意識内に活溌に生動せるものにして、その「つめ」「つゝみ」等は合成しても又單獨にても同一語にして、決して別語たる意識を生ずるものにあらず。然るに文部省の改定案に從へば、この「つゝみ」「つめ」等上にあげたる諸例の語は自由の操縦を阻止せらるることゝならざるべからず。加之現に「智慧」なり「月」なり「杖」なりと意識せるものを「じゑ」、「ずき」「ずゑ」と書くべしと強制したりとて果して國民の反抗を買はずして止むべきか。實にかくの如きはいふべくして行ふべからざる事なるのみならず、一は國語の組織を破るものなるべし。國語調査會には斯道の大學者を網羅せられたるに何故に連濁のこの重大事實を無視せられたるにか。これ或は連濁音といふ名稱にとらはれ、たゞ成熟語に存するものと認めて國語操縦の過程中に起る随時的現象たるものあることを忘れたるによるか。なほ一歩を進めて論ずれば、この連濁音を有する成語といふものは、本來この自由操縱によりてなれる臨時の組合せになれる語が、固定的のものとなりたる第二次的のものにして、連濁の本義はこの自由操縦の過程中に起る随時現象にありとす。この故に若し連濁音を固定せる名詞動詞等の内部の現象に止まるといふものあらば吾人はこれを目して未だ連濁の眞相を知らざるものといはむとす。

以上の理由によりて吾人は「ぢ」「づ」の假名は廢棄すべからぬものなりと主張す。

第八 「くわ」の廢棄[編集]

國語調査會の改正案には「くわ」の假名遣を廢止せり。これにつれて「くわ」の音も廢止すべきことはいふまでもあらざるべし。これが廢止の理由は蓋しこの音無しといふに歸すべし。

然れども「くわ」の音の全國に多く存するは事實なり。この故にこれらの廢止を主張する人はそが全國に存せぬといふ事と東京語に存せぬとの理由を以てこれに答へむとすべし。されど、東京語がしかく正確なるものなりや。東京語に存すると否とを以て絶對的の標準とせむことは危険なり。況んや世の文明に進むにつれて聲音も亦精密になり行くは必然の事なり。東京語に無くばこれを教へて可なり。過誤を知りて強ひてそれに傚ふの要何處にかあらむ。この「くわ」は字音にのみ限られたれど、吾人はこれを廢止することの文化の進歩に逆行するものなるを思ふが故にこれに反對を表明す。

なほ從來この「くわ」の廢止を主張せる論者の中にも、字音には廢止を主張して外國語の記載にはこれを採用すべしといへるものあるを見たり。かくの如き論者は外國語の記載法を制定せむ際には必ず「くわ」の存續を主張すべきこと明かなり。外國語の記載に「くわ」を用ゐ、國語化せる字音には廢すべしとせばその説自體撞着なりといはざるべからず。この故に吾人は假にこれを廢止すとしても、そは外國語の記載法の制定と相俟つものとして、これが廢止は尚早なりと主張するものなり。

第九 長音符の不合理[編集]

今、假名遣改定案を見るに、國語假名遣の部にありてその長音をあらはす方法を見るに、ア列長音には「ア」を長音符とし、イ列長音には「イ」を長音符とし、ウ列長音には「ウ」を長音符としたるは一貫の條理を認め得べし。然るにエ列長音には「イ」をその長音符とし、オ列長音には「ウ」をその長音符とせること理由如何。これ決して表音的といふことを得ざるなり。そのかくするに到りし理由は恐らくは字音の未尾は「イ」「ウ」を用ゐるによりてこれに準據せりといふにあるべし。然れどもこれ決して首肯すべからず。

字音の末尾に「イ」「ウ」を用ゐるは決してこれが長音符たるの故にあらず。たとへば、

英(エイ)計(ケイ)制(セイ)定(テイ)寧(ネイ)平(ヘイ)命(メイ)例(レイ)衛(ヱイ)

の如きは、今日の發音にては、いづれもエ、ケ、セ、テ、ネ、へ、メ、レ、ヱの長呼音の如くなれるもあれば、いかにもその「イ」がエ列長音の長音符たる姿を呈せりといふべし。然れども、これらは本來その假名の示すまゝに、エ列母音の次に「イ」音の來りたるさまに發音せられしものにして、決して「イ」が長音符の用をなしたりしにあらざるなり。今日にては「イ」がエの長音符の如く見ゆることありといへども、これ「エイ」「ケイ」等の字面が發音上「エー」「ケー」等とかはれるものにして、これも亦假名と發音との不一致を來したりし結果なり。この故にエ列の長音符に「イ」を用ゐるは字音の記載法に傚ふといふまでの事にして學理上の根據あるにあらざるなり。

次にオ列長音なる字音の末尾に「ウ」字を用ゐるも亦表音主義より見れば、不合理たるなり。字音の「ウ」のオ列長音の長音符の如く見ゆるものには、二樣の別あり。一はア列音の下に「ウ」のつけるものにして、

鸚(アウ)高(カウ)草(サウ)當(タウ)脳(ナウ)方(ハウ)盲(マウ)陽(ヤウ)郎(ラフ)王(ワウ)

の如き文字なり。これらは本來は假名の示す如く「アウ」「カウ」乃至「ラウ」「ワウ」等の如く發音せられしものなるが、慣用久しくしていつしか上の「ア」韻と下の「ウ」音とが相影響し融合してオ列の長音の如くになりしまでのものにして、「ウ」がオ列長音たることを示す作用をなせるものにあらず。これらの例を以て「ウ」にオの長音符たる資格ありとするは迷へるものなり。又オ列の音に「ウ」を添へたる字音あり。すなはち

應(オウ)公(コウ)送(ソウ)東(トウ)農(ノウ)奉(ホウ)蒙(モウ)用(ヨウ)樓(ロウ)翁(ヲウ)

の如き文字これなり。これらも本來は假名の示せる如くオ列の音の下に「ウ」を添へて正しく「ウ」を發音せしものにして、決してオ列の長音にてはあらざりしなるは、字音の歴史を知るものの誰も認むる所なり。それが慣用久しきにつれて、オ列の長音の如くなりしものにして、これにも「ウ」にオの長音たることを示す要素は無き筈なり。この故に「エイ」「ケイ」を「エー」「ケ一」の如く發音するも、「アウ」「カウ」「オウ」「コウ」を「オー」「コー」の如く發音するも、いづれも一樣の事情によるものなり、その事情とは本來假名にて示す如くに發音せられしものが、慣用久しき間に一長音の如くなりしにて、これまた假名遣と發音との乖離に基づくものなり。然るに世人往々この理を忘れて「イ」をエ音の長音符「ウ」をオ音の長音符たる如く思へるは、これ即ち論者の所謂歴史的假名遣にあらずして何ぞや。實にこれを表音主義によりてあらはさむとし、而してア列の長音に「ア」を用ゐイ列の長音に「イ」を用ゐ、ウ列の長音に「ウ」を用ゐる主義を以て推さば、エ列長音には「エ」を用ゐ、オ列長音には「オ」を用ゐざるべからざるは理の

當然なり。然るにこれを改めむとせずして以て表音主義なりと、称せむとすとも誰かこれに心服せむや。字音の「イ」「ウ」を改むることなきは古來の慣例を重んじたりといはゞいはるべきが、國語にこれを及ぼせるに至りては吾人これを評する辭なきに苦しむものなり。

字音に於いてその表音主義をば末尾の「イ」「ウ」の形式に及ぼすことなき穩當の主義をとれるものならば、國語に於いても用言の活用などに變更を施さざるを可とせずや。然るに改定案はこれらには顧慮すること無し。これを以て論ずれば字音には寛にして國語には酷なりといふ譏を免れず。よし其れらの點は姑く論ぜずとしても、その字音の形式を國語の假名遣に應用するに至りては、自己の論理を不徹底ならしむるのみならず、國語を以て字音の奴隷たらしむるものにあらずして何ぞや。

加之、上の如く「イ」「ウ」を「工」「オ」の長音符として用ゐることはこれ一字一音の所謂表音主義に背馳するものにあらずや。同じ「イ」にして一方に於いては文字のまゝに發音し、他方に於いて「エ」の長音を示し、同じ「ウ」にして一方に於いては文字のまゝに發音し、他方に於いて「オ」の長音を示すこと、これ一字にして二樣の音を表明するものにあらずして何ぞや。かくの如きはその表音主義の下に於いても一貫の條理なきものといはるべきにあらずや。

要するに國語調査會のこの長音符に關する點は不合理自家撞著等種々の弱點を有するものたること明かなりとす。

第十 動詞の終止形を長音と稱することの不合理[編集]

改定案の國語表記通則といふを見るに、ア列、イ列、ウ列、エ列、オ列の五列にわたりて、その長音といふものあり。この長音といへるものにつきてその實例を見るに体言、用言等雑駁なれば、今先づその動詞に於けるものにつきて論ぜむ。先づウ列長音としてあげたる例中

くふ(食)すふ(吸)ぬふ(縫)おぶふ(負)ゆふ(結)くるふ(狂)いふ(言)

等はハ行四段活用の動詞にして、調査會案に「う」とかける所はその終止形(連体形)の「ふ」を書き改めたるなり。かくの如くなれば、たゞ字面を見たるのみにては「う」と「ふ」との差のみの如くに見ゆれど、その説明を見れば、甚しき不合理の存するを見る。

何となれば、吾人の見る所を以てすれば、この「ふ」はその用言の一活用形にして、音としては一個の音の価値を有するものなり。されば「くふ」「すふ」「ぬふ」「ゆふ」等の二音より成れる語にして、その「ふ」は事實上「う」と發音せられてあるは勿論なれど、その「くふ」「すふ」「ぬふ」「ゆふ」は「く」「す」「ふ」「ゆ」の長呼音にはあらず。又「おぶふ」「くるふ」は三音の語にして、その「ぶふ」「るふ」は二音にして「ぶ」「る」の長呼音にあらぬは明らかなり。これらの事実は明白なる事にして何人も否定し得べきものにあらず。然るに國語調査會はこれらをすべて一の長音とせり。長音といふことは世人には軽々しく見過され易きか知らねど、これは一音にして二音にあらぬことを言明せるものなり。かくてこれらが二音にあらぬことを言明せる確証は「いふ」を「ゆう」と改むべしといへるにても明らかなり。

今若し國語調査會の如く、これらを二音にあらずして一の長音なりとせば、これの動詞の活用は如何にして説明せられむとするか。殊に甚しきはかの「いふ」なり。國語調査會の案によらば、「いふ」は

未然形 連用形 終止形(連體形) 已然形(命令形)

いわ いい ゆう  いえ

とせむより外なかるべし。かくの如くにしてわが國語は甚しく不規則なりとせらるゝに至らむ。「いふ」の「ふ」が「う」の如くに發音せらるゝことは事實なり。又その「いう」が「ゆう」の如くに聞ゆるも事實なり。然れどもこれ「い」と「う」との相互の影響による臨時の現象にして、これを以て全く假名を改めて言語の組織を破るべきものにあらず。

次にオ列長音としてあげたる例中

うけおふ(請負) あらそう(争) おもふ(思) まよふ(迷)

の數語も亦ハ行四段活用の動詞にして、調査會案に「う」とかける所はその終止形(連體形)の「ふ」を書き改めたるものなり。これも亦唯字面のみを見れば、単に「う」と「ふ」の差のみの如くに見ゆれど、この説明を見、又その實際を察すればウ列長音の例中にあげたるものよりも一層不合理なるを見るべし。先づこの「うけおふ」「あらそふ」「おもふ」「まよふ」等の「ふ」は本來一音たるものにして、これが「う」と發音せられてもなほ一音たることを失はず。然るに調査會案はこの「う」をばオの長音符として上の「お」「そ」「も」「よ」の長呼せらるゝものとせり。これ一方に於いては二音を一長呼音とせることの既に述べたる如き不理をなせると共に、これが眞に「お」「そ」「も」「よ」の長呼音なりとせば、「う」を書けることの不条理なるを思はずばあらず。かくてそれらは發音上明白に長呼して

うけおー あらそー おもー まよー

と呼ばざるべからざることゝなるが、かくの如き発音をこれらの語に實際なす人ありや。吾人はこれを知らざるなり。加之これが、眞に長音ならば、「う」をかくは人を迷はすものにして、既に述べたる如くに「お」をかくべき筈のものなり。されど吾人はこれらすべてを否定し、たとひ表音的にすとも、それらは「う」をかくべきものとして、その「う」は長音符にあらずして一音たるを失はぬものなることを主張す。

抑も假名遣といふものは何を目的としてあらはれたるものなりとするか、たゞ發音を忠實に記載すれば足れりとするものなりや。単に發音のみを機械的に記述する目的ならば聲音學的記号によるを可とせずや。されど假名遣は言語の記載をなすものにして、單なる聲音の記載にあらず。この故にこれが記載の方法は國語の法格に依拠してその範圍内に於いてなるベく發音に近きを求むるはもとより妨なしとす。然れども發音のまゝ記すと称して國語の法格を破壊せむが如きは断じて容すべからず。

かくてこの問題は「ふ」を「う」と改むるといふが如き一の文字の置き換へに過ぎざる如き小問題にあらずして、既にいふ如く、この「う」は長音符としての「う」なれば、「くふ」「すふ」等が二音なりや。又「く」「す」等の長呼の一音なりやといふ學理上の大問題をも含むものなりとす。吾人は國語の語幹と語尾との關係よりして、それが二音たるべきことを信ずると共に、それが聲音上にも現實に二音たるものにして、表音的に「う」とかくとしてもそは「う」にて一音をなすものなるを主張す。

この點に於いて國語調査會がその説を主張せむには、語法上の問題と發音上の問題との二重の點に於いてこれが合理的事實的なることを立証して、吾人をして首肯せしむべき責任を有するものなり。

かく論じ來りて、その改正案の國語假名遣の部の第六を見るに「うに發音されるふはうに改める」とある例に

あらう(洗ふ) まう(舞ふ) やとう(傭)

といふものあり。これによればその「う」は「ふ」の変化せるものにして、これにて一音をなすと認めたること明かなり。而してこれらの「ふ」はハ行四段活用の動詞の終止形の「ふ」なること明かなり。然るに既に述べたる如く「ウ列長音に發音されるもの」といへる第九には

くう(食ふ) すう(吸ふ) ぬう(縫ふ) おぶふ(負う) ゆう(結ふ) くるう(狂ふ)

「オ列長音に發音されるもの」といへる第十の例中には

うけおう(請負ふ) あらそう(争ふ) おもう(思ふ) まよう(迷ふ)

といへる例あり。これらの諸例の「くう」「すう」等が長呼音にあらずして二の音たることは既に論ぜし所なるが、今國語調査會はその第六の例にて吾人が論ぜし如く、二音と認めたる証を残せり。然るに一方に於いては同様のものを長呼の一音とせること上の如し。見よ。

あらう まう やとう

の場合には「らう」「まう」「とう」が二音にして

くう すう ぬう おぶう ゆう くるふ うけおう あらそう おもう まよう

等の場合には、同じハ行四段活用の終止形にして、それらの二字が一音たるの理由果して存するか。ことに

やとう

の場合

うけおう あらそう おもう まよう

の場合と共に終止形の「ふ」の変形せる「う」にして、上の音が共に「オ」列の音なるに、一方は二音にして一方は一音なるの理由は、吾人の如何にしても首肯し得ざる所なり。これを以て察するに、國語調査會のこれらの音韻の説明はたゞ一時の思ひ付きにして深き根柢なきものにあらざるなきかを疑ふ。

第十一 形容詞の連用形を長音とせることについて[編集]

次にオ列長音といへる中にあげたる次の例

あかう(赤) ちかう(近) ながう(長) あさう(淺)

くさう(臭い) いたう(痛) かたう(堅) つめたう(冷)

あぶなう(危) こはう(強) しはう(吝) あまう(甘)

せまう(挾) はやう(早) くらう(暗) からう(辛)

あらう(粗) よわう(弱) 

これらはいづれも所謂形容詞の連用形の「く」が音便にて「う」となりたるものなり。かくてそれらの語幹は

あか ちか なが あさ くさ いた かた つめた あぶな こは

しは あま せま はや くら から あら よわ

等なる事實は、日本人として知らざるものあるまじ。而してその連用形が本來「く」にして、その形は

あかく ちかく ながく あさく くさく いたく かたく つめたく

あぶなく こはく しはく あまく せまく はやく くらく からく

あらく よわく

の形にて現に日常使用せられてあるはいふまでも無し。この「く」が音便にて臨時に「う」となることも、理論はさておき、事實は國民周知の事なり。かくてこの「う」が附屬する場合に上の語幹の「ア」韻が「ウ」の影響を受け、「う」も亦上の影響を受け相反映して「オ」韻の音に近づきてあることも事實なり。かくてこの場合に於ける發音がオ列音の長音となれりとせば、こは發音のまゝに「こお」「そお」といふ如き文字を用ゐるべき筈なり、然るにこゝにはその長音符として「う」を使用せり。この故に調査會案にてはこの「う」も亦音便の「う」をあらはすものにあらずして、長音符としての「う」なればその價値は全く別なりとす。

こゝに於いてか問題生ず。この音便といふものは本來發音上の一時の現象にすぎざるものなり。しかもこれらはたとひ一時の現象たりといへ、「く」の變形なる以上明かに語幹と語尾との關係を有するものなり。今調査會案の如くにせば、その語幹に變化を來すのみならず、語幹の長呼によりて一の活用形をなすことゝならざるべからず。かくてこれと同時に國語の法格の上に重大なる變動を呈するに至らむ。この故に調査會がこれを主張する以上、同時に形容詞の法則の上に如何なる改革を加ふべきかの合理的説明を下さゞるべからず。假名遣を改むと称して語法をやぶりてそのままにあるべきにあらざればなり。

第十二 四段活用動詞の未然形に「う」のつけるものについて

國語の假名遣改定案のオ列長音といふものゝ例中

あはう(逢) かはう(買) まはう(舞) さかう(咲)

きかう(聞) いそがう(急) はなさう(話) かへさう(返)

ちらさう(散) うたう(打) かたう(勝) たたう(立)

しなう(死) あそばう(遊) とばう(飛) はこばう(運)

あゆまう(歩) やすまう(休) たのまう(頼) いのらう(祈)

かへらう(歸) とほらう(通)

の諸例は、四段活用(奈行良行變格活用をも合む)の動詞の末然形にこの所謂助動詞「う」のつきたる場合のものなり。面してその未然形の「ア」韻なる音と「ウ」が相互の影響によりて「お」韻の長呼の如くになれるは事實なり。されど、これあるが爲に動詞の語幹をまで「おう」「こう」「そう」「とう」「のう」「ほう」「もう」「ろう」等と書き改めざるべからざる理由は成立せず。況んや調査會の改定案の「う」は一の所謂助動詞にあらずして、たゞの長音符なること明かなれば、同じく「う」を用ゐたりとも世人の用ゐる「う」とは學理上全く別のものなり。かくてこの「おう」「こう」等は動詞の活用に變動を與へて、新にオ列長音なる一活用を設くることゝなれるなり。この故に調査會のこの案は從來四段活用と稱したりしものを五段活用とするものにして、名は假名遣の改定に止まるが如しといへども、實は語法上の改革を企つるものなり。さればこれに對して吾人は假名遣の問題としてこれを決定するはその問題の範圍外に逸したものと認め、必ず先づ語法上の問題として論決すべきものとし、これを假名遣改定案の中より除き、別に慎重なる論議を経べきものなりと主張す。假名遣の改定の名によりて語法の改革を行はむざすなが如きは、そが假りに無意識に行はれたる事なりとすとも、國語調査會の爲に断じて賛成すべき所以を知らず。

余がかく論ずれば、國語調査會は前の國語調査委員會の革案なりし口語法の中に五段活用を建てありしによりて或はこれを既定の事なりといはむか。かの口語法は審議中にして議決を経ざりしものにして、その間に官制廢止となりしを、後に文部省の名によりて出版せしまでのものなれば何等の權威あるものにあらず。且つ又實際にかの口語法が世間に如何に取扱はれてあるかを知るものは、五段活用が既定の事實なりなどいふことは思ひもよらぬ事實なるをさとるべし。

第十三 名詞又は用言の語幹中に長音なりとて改めたるものについて[編集]

國語調査會の改定案に長音なりと稱して名詞の中間又は末尾の音の文字を改めたるものの中に、長音と認むべからぬものあり。

「ゆふだち」を「ゆうだち」「きのふ」を「きのう」「ふくろふ」を「ふくろう」

等の「ふ」は現實の發音にては「う」となれるはもとより事實なり。されど、これが一音たることを失へるにはあらざるものなり。この故にこれを上の「ゆ」「の」「ろ」と合せて一音と「ゆ」「の」「ろ」の長音とすることは事實に反するものなり。又

「おほかみ」を「おうかみ」 「おほやけ」を「おうやけ」

「こほろぎ」を「こうろぎ」 「ほほづき」を「ほうづき」

「ほほ」を「ほう」 「ほほのき」を「ほうのき」

とせるは如何。これらの「ほ」が發音上「お」の如くなれるは事實と認むとせむも、その音を写すに「う」を用ゐてこれをあらはし、同時にこれを上の「お」「こ」「ほ」の長音とせることは首肯すべからず。これ既にいへる如く「う」の字の價の上に不合理あると共に、二音を一音とせる誤あるが故に、二重の過誤ありとす。

次に同じき事が用言の語幹中にも行はれたり。即ち

「おほい」を「おうい」 「おほきい」を「おうきい」 「とほい」を「とうい」

「しおほせる」を「しおうせる」 「とどこほる」を「とどこうる」

「とほる」を「とうる」 「もよほす」を「もようす」

の「ほ」は事實上「お」と發音せられるとも、これが一音たることは疑ひなきところなるが、それらを長呼の一音とせることは事實にあらざるのみならず、長呼の音なりしとてもこれを「う」にてあらはすことは發音を忠實に示さゞるものなり。この故に國語に心得なきものをして文字通りにこれらを發音して、

おうかみ、おうやけ、こうろぎ、ほうづき、ほう、ほうのき、おうい、おうきい、とうい、しおうせる、とどこうる、とうる、もようす

と發音せしめ、以て國語を乱る虞なしとせす。この故にこれらは實地問題としても理論上よりしても賛すべき所以を知らざるなり。

以上數項にわたりて説く所を見て、調査會が國語の長音と認めたるものには種種の不合理と矛盾と難問とを包含するをさとるべし。この故に調査會は宜しくその國語の長音の假名遣といふものを解放してこれを二音と認め、それと同時に國語の法格を破る如き點は、すべてこれを撤廢すべし。

第十四 ウ列拗音の長音として示せる例は拗音にあらず[編集]

國語調査會が國語假名遣の中に、國語のウ列拗音の長音なりと示せる例を見るに、

「しうと」を「しゆうと」 「しうとめ」を「しゆうとめ」

とせるあり。この場合の「しう」は吾人の耳に「しゆう」の如くに聞ゆることあるは吾人必ずしもこれを否認せず。然れども、吾人はこれを以てこれを拗音となりおほせたりとは認むる能はざるなり。これらは上の「し」音と下の「う」音との接触によりてその音が相互に關渉を起し、その「し」より「う」に遷移する際に拗音の如き現象を呈するに至るは自然の事なれど、これが拗音に変化し、二音の資格を失ひ一の長音となれりとは認むべからず。

次に

「おほきう」を「おうきゆう」 「あたらしう」を「あたらしゆう」

「かなしう」を「かなしゆう」 「すずしう」を「すずしゆう」

と改めたるあり。これらは形容詞の連用形の[く」が音便によりて「う」となりたるものなれば、それらを「う」とかくことは古來の定則たり。これを以て卒然として見れば國語調査會案の

おうきゆう、あたらしゆう、かなしゆう、すずしゆう

の「う」と同じやうに見らるべけれども、その文字の價値は全然別なり。形容詞の音便の「う」は一音の價値を有するものにして一の文字たる資格を具有するものなれど國語調査會の「う」は所謂拗音の長音の記號たるに止まり、いはゞ棒引の「ー」と大差なき附属的記号に過ぎざるなり。こゝに於いて問題はその形容詞の連用形の音便が「う」にありや又「きゆ」「しゆ」にありやといふ點に移るべし。然れども吾人は形容詞の音便が

大きゆ、凉しゆ、新しゆ、悲しゆ

となることの所以を知らず。或は又別に「きゆ」「しゆ」の活用が、形容詞に新に生じたりといはざるべからざるに至らむ。かくなれば、わが國語學上に形容詞の法格の上に一大變動を起し、たとへば「大きい」といふ語につきては

おほきく、おほきゆ、おほきい、おほきけれ

の如き形式を認めざるべからず。かくてこれら形容詞の語幹は

おほき、 おほきゆ

の二様ありといはざるべからず。上述の如く拗音の長呼音なりといふ論を主張せむものは、これらの事を肯定するに足るべき立証をなすべきなり。この立証をなさずしてこれを國民に首肯せしめむとするが如きは不可能の事に属す。

この

おほきう、 あたらしう、 かなしう、 すずしう

の「き」「し」と「う」との間の音の相互の關係によりて拗音の如き感を起すことあるは既にいひたる如く事實なり。されど、拗音とは二重の母音のありて一に成熟せる一個の音を示すものにして、かくの如き一時の假現的現象をまで一の熟成せる音となすことは末だかつて聞かざる所なり。かくの如き二音の關渉によりて起る一時の現象は他にも存し、しかも頗る頻繁なるものなれば、かゝる一時の現象をも一一特別の記號にてあらはせむと欲せば、上に述べたる如く聲音學的記號を用ゐるの外なきなり。然るに、こゝに至りては極端なる音の機械的写真を主張して國語の法格を破壊するを顧ずして、他面には「は」「を」「へ」の如き古來の假名遣を保存せるが如きは、吾人その眞意の奈邊に存するかを知るに苦むものなり。

第十五 結論[編集]

今回の改正案の目的如何といふことは吾人その明示せられたるを知らねば遽に忖度し難しといへども、その案に一貫の條理なく學理上の根據なくして一方に極端なる表音主義をとりて國語の法格を無視するかと思へば、他方には全く舊來の假名遣を保存せり。而してその末尾の音の假名遣に至りては字音に於いては全く舊式を墨守し、國語に於いては條理一貫せず。而して從來國民間に殆ど誤りなく行はれ來れるものをも改めたること、上來述べし所によりても明らかなるべし。

吾人はなほ仔細に各語の用例につきて論せば論すべきこと無きにあらざれど、この案の大體の価値既に上述の如くなれば今更論じ立つるまでもあらざるべければ、こゝに結論を述べむと欲す。

要するにこの改定案は學術上の根據を缺けるのみならず、國語の法格を破壊し國民の習慣を無視するものなるを以て吾人は総括的にこれが廃棄を望み、又漢字全廃の行はれむまではかゝる企を見合せられむことを望むものなり。而して将来に於ける漢字全廃の可否は吾人こゝに絶対的に中立の態度をとるものなるを聲明す。然れども若し現代直ちに漢字を全廃すべしといふ論あらば、吾人は國民生活の現状よりしてこれに反対することを豫め言明す。而して今の改革の如きは漢字全廃の前定にあらざる以上、全く不急の事業たること既に述べたる所なり。

然れども或は人ありてこの案の如きが、初等教育に必要なりといふものあらむか。かくの如きことをば初歩の教育に於いて正しき假名遣を教ふるる豫備の方便として教育者の行ふことは、必しも咎めざる所なれど、これあるが為に、假名遣を改定すべしといふが如きは本末を顛倒せる論なり。

惟ふにわが國語國文を整理するが如きは、一の極めて重大なる國家及び民族の問題にして一朝一夕の事業として成就すべき輕微の問題にあらず。吾人の望む所は國家が永久的の機關を設け百年若くは五十年以上の計畫を以てしてその事業を起し、時間的には過去より現在にわたりてこれを調査し、空間的には現代の各地方に行はるゝ語より各關係語族に至るまでの調査を施し、以て國語の歴史と現状とを明かにし、しかして後徐ろに將來の國語を如何にすべきかの問題を解決すべし。かくの如き大事業はたとひ非凡の大學者ありといふとも一二少数の學者のよくすべき事にあらねば、國家は宜しく別に國費を投じて多數の國語學者の養成に努力すべし。かくの如くせばかの明治時代に法典編纂の大事業の成就せしが如く國語整理の大事業も大成すべし。今の如く二三の國語學者あるのみにして後継者なく、たまたま國語學を專攻するものも上下の壓迫に遭ひて驥足を伸すこと能はざるが如き時代にありては如何にしてこの大問題の解決せらるべきか。余は衷心よりして國家の為にかくせざればわが國語問題の眞の解決は決して期待せらるべきにあらざるを信ずるものなり。人或は五十年百年といはばその長きに驚かむ。五十年は人一人の生命期間に過ぎず。過去數百年間放棄せられし問題を五十年百年にして眞に解決するを得ば寧ろ僥倖といはむ。何の長きに驚かむ。見よ、水戸の大日本史は二百年の繼續事業たりしにあらずや。又今の史料編纂事業の如きはその編纂方法は必ずしも吾人の賛成する所にあらずといへども、既に五十年を經て、なほその成績半に達せざるにあらずや。わが國語問題の根本的解決の如きは決して短時日の間に行はれ得べき輕微の問題にあらず。短時日の間に少數の學者の手によりてこれを解決せむとするが如き事あらば、その事常に失敗に終るのみならず、これが爲に國費を徒消するに止らむ。切に當局の反省を望む。

二、右の意見發表前後の事情[編集]

以上は大正十四年二月一日の雑誌「明星」に登載したるもの及び三月國學院雜誌に掲げたるものの稿本を改修し、大正十四年二月九日に著者みづから非賣品として發行したる小冊子の内容なるが之を明星に登載せる際、附言として次の文を加へたり。その文次の如し。

森林太郎博士苦心の事[編集]

余はこの機會を利用して故森林太郎博士が國語問題に如何に心を勞せられしかについて余の知れる限りの事を世人に告げおかむと欲す。同博士の假名遣問題に対する意見は明治四十一年に設けられたる臨時假名遣調査委員會に委員として開陳せられたる意見にて明かなり。この意見は明治四十二年に文部省が發行せし同會の議事速記録に記載せられ、一昨年の「明星」にこれを載せ、鴎外全集第二巻にもまたこれを載せたり。その論中正穏健にして同じ委員伊澤修二氏の熱烈なる議論と相表裏し以て文部省をして議案を撤回せしむるの止を得ざるに到らしめしものなり。かくてその後その會も廃止せられたるなり。大正十年今の國語調査會の設けらるゝに當り、同氏會長の任を受けられしが常に余等に語りて國語間題の慎重に論議すべきことを以てせられたり。しかるに大正十一年六月上旬に至り、濱野知三郎氏が面謁せられし時同問題の将來をいたく憂慮し、慷慨淋漓たるものあり、終に旨を濱野氏に含めて不肖に傳へらるゝ所ありきといふ。この時同博士既に前途を覚悟してあられしが如くに見え、その後會長の職を辞せむとして辞表を提出せられたりざいふ。この前後に際し、余は近親の不幸にあたり、その生前よりの遺嘱を果さむ為に寧日なくして同博士に面謁するを得ず、濱野氏再三余が居を訪はれしかども常に不在なるが爲に、これ亦面會の機を得ざりしが、七月八日の夜濱野氏の來訪あり。この時はじめて森博士の重態を聞きて大いに驚きしが、それと同時に同博士の命を承くるを得たり。濱野氏は同博士の生前にこれを余に傳へおかむと焦慮せられしが、幸にして目的を達したりといひて夜半に歸られる。その翌九日は實に同博士薨去の日なり。余これが旨を承けてよりは國民としての自己の責任と共に森博士の誠意を思へば、常にこの國語問題に重大なる責任を感ずるものなり。今たまたま「明星」の諸君が森博士の遺志を體して、國語の爲に誠意を披瀝せられむことを企てられ、不肖にも亦一言を寄せよと求めらるるによりこの文を草せり。余が上述の言論はもとより余一己の私見にして毫末も森博士の名を汚すべき關係無し。森博士また、その生前にも余に向ひて命令がましき事を言はれたる無きを以て、余が言論を以て森博士の指囑に出づるものとなすなかれ。たゞ要は國語問題の正路を失はむことを憂慮せられたるにあるのみ。余もとより不敏なりといへども、森博士の名にかりて私見を逞くせむの卑劣なる考あらむや。たゞ同博士の生死の際に國語問題に非常なる憂慮を費されしその誠意は後進たる余が責務として何の時かこれを世に公に傳へおかざるべからざる責任を深く感ずるによりて、こゝに同博士に縁故深き「明星」誌上を通じてこれを世に皆げむと欲するなり。而してこゝにかく公にするはその旨を傳へし濱野氏の認諾を経たるものなり。(大正十四年一月十六日正午稿了)

さて余がかく、かの假名遣案に対して意見を發表するに到りしは「明星」主宰者与謝野寛氏より大正十四年一月一日にこの假名遣案が故森先生の生前の意志に反するものなれば、之に抗議せむと欲するによりて意見を述べよと促されたるにはじまれり。こゝに於いて余はじめて、故森博士が憂慮措く能はず、それが為に、死期をも早められし問題のこれなるをさとりぬるなり。かくて「明星」の同人諸君はその誌上及び他の場合にもその意見を發表せられ、つゞいて世の識者文學者等の反対論囂々として起り終に帝國議會に於いてもこの事を問題とするに至り、衆議院議員松山常次郎氏が文部大臣にこの事につきて質問するに及びて文部大臣は之を實施する意志なきことを言明するに至れり。その際の質問應答の議事録次の如し。

第五十四帝國議會衆議院 教育改善及農村振興基金特別會計法案等委員會議録第一回

大正十四年二月三日(五類七號)

○ 松山常次郎君 私ノ質問ハ予算ノ分科會デ致ス考デアツタノデアリマスガ、分科ノ方ハ既ニ質問ヲ打切ツタト云フノデ、河上参與官ガ文部省ニ関係アル特別委員会デ質問シタラ宜シカラウト云フ御注意ニ依ツテ、茲ニ質問サシテ戴ク訳デアリマスガ、ドウカ暫クノ間御許シヲ願ヒマス。昨年ノ暮ニ文部省ガ假名遣ノ改良案ヲ考案セラレマシタ、其以前ニ漢字制限案ト云フモノヲ発表セラレテ居リマスガ、是等ニ対シテ大ナル欠点ガアル、大ニ論議スベキ余地ガアルト吾々ハ考ヘテ居タノデアリマス、併シ之ヲ委員会ニ於テ一々承テハ時ガ経テ多クノ方ニ迷惑ヲ掛ケルト思ヒマシテ政友会ノ政務調査会ニ於テ、文部省カラ來テ戴キマシテ、御説明ヲ承リ質問ヲ致シタノデアリマス、其結果トシテ改正ニナツタコトハ、吾々ガ之ヲ不十分デアルト感ジテ居ルト同ジヤウニ政府ノ方デモサウ感ジテ居ラレルコトヲ明カニシタノデアリマスガ、之ヲ公表セラレマシタニ付テハ、文部省ハドウ云フ御考ヲ持ツテ居ラレルノデアルカ、之ヲ國民ニ使用ヲ強ユルト云フ御考ヲ持ツテ居ラレルノデアルカ其コトヲ第一ニ御尋シタイト思ヒマス。

○岡田國務大臣 國語調査ノコトハ文部省トシテハ多年ヤツテ居ルコトデアリマシテ、色々ナ変遷ヲ経テ居リマス、最初文部省ニ於テ一種ノ假名遣法ヲ定メテ之ヲ教科書ニマデ採用シタノデアリマス、然ルニ其際ニハ随分盛ンナル反対ガ起リマシタ、ソレカラ國語調査会ニ於テ更ニ審議スルヤウナコトニ致シタノデアリマスガ、其國語調査會デ審議シマシタ結果、是モ亦非常ナ反対ヲ受ケマシテ、遂ニ教科書等ニ採用ニ至ラナカツタノデアリマス、而シテ國語調査會ハ一旦之ヲ廢止スルコトニ至ツタノデアリマスガ、併シ國語調査事業ノ必要デアルコトハ疑ヒナイコトデアル、我國ノ國語ガ非常ニ複雑ナモノデ教育上ニ於テモ其他ニ於テモ之カ爲ニ受ケル所ノ困難ト云フモノハ少カラヌモノデアリマスカラドウシテモ此改善ヲ圖ラナケレバナラヌト云フノデ、再ビ之ヲ設ケタノデアリマス、ソレデ今回設ケマシタ國語調査會ハ主ニ國語ヲ實際ニ最モ多ク使用スル人ヲ委員トシテ選定シテ居ルノデアリマス、即チ新聞、雑誌等ニ關係ノ人、或ハ印刷事業ニ關係ノ人又教育シ關係ノ人々ガ、這入ツテ居リマガ、色々ナ方面カラ網羅シテ調査致シタノデアリマス、其結果トシテ先頃漢字制限ノ調査モ出來マシタ、又國語假名遣ノ改正調査モ出來上リマシタ、ソレハ發音ヲ標準ニシテ之ニ基イテ假名ヲ定メルト云フ主義ニ大體ハ致シテアルノデアリマス、委員ハ此事ニハ非常ニ熱心デ自ラ進ンデ之ヲ實際ニ使用シテ國民ヲシテ之ニ慣レシメヤウト云フ考ヲ持ツテヤツテ居ルノデアリマス、ソレデ文部省ハ既ニ此案ニ対シテ如何ナル方針ヲ採ルカト申シマスト、文部省ハ既ニ屡々此点ニ付テハ失敗ヲ致シテ居ル、マダ研究ノ中途ニアルモノヲ教科書ナドニ採用致シマスト児童教育上ニ一層ノ混乱ヲ生ズルコトガ出来マシテ教育上ニ却ツテ弊ガアルト考ヘ居ルノデアリマスカラ、此委員會ノ報告ヲ直ニ教科書ニ採用スルトカ、或ハ文部省ノ公文書ニ採用スルト云フコトハセヌ積リデアリマス、又調査會ノ委員モ今日ニ於テハ之ヲ豫期シテ居ル訳デナイノデアリマス、併シ此等ハ委員ソレ自身ハ皆實行スル積リデアリマス、又委員外ノ人デモ成ベク之ヲ用ヒルヤウニシテ是ガ實行ヲ許ルト云フコトニナツテ居リマシテ現在既ニ之ヲ採用シタ所ノ新聞ガ何種類アリマスルカ、モウ余程多クノ新聞ハ之ヲ採用シテ居ルヤウニ思フノデアリマス。文部省トシテ此効果ガ分リマシテ愈々是デ宜シイト云フコトニナレバ格別デアリマスケレドモ、マダ成績ノノ判ラヌ中ニ、唯委員会ガ報告シタカラト云ウテ、直ニ之ヲ採用シテ実行スルト云ウコトハセヌ積リデアリマス、左様ナ事情デアリマス。

○松山常次郎君 更ニモウ少シハツキリト諒解シテ置クガ爲ニ御尋ネヲ致シマスガ、アノ委員ノ顔振レヲ見マシテモ、其実情経過ヲ見マシテモ大體ニ於テ是ハ先ヅ新聞、雑誌トカ、オ伽噺ヲ書ク人トカ云フ實用ノ便宜主義ヲヲ主トテ此案ガ出來タモノデアルヤウニ思ハレルノデアリマス、併シ、國民ノ國語ニ対スル要求ハソレダケノモノデハナイ、モツト広イ意味ガアラウト思ヒマス、ソレデ、此所ニ私ノ伺ヒマスルコトハ文部省ノ発表セラレタル彼ノ案ナルモノハ是等ノ實用ノ便宜ト云フコトヲ新聞トカ雑誌トカ云フヤウナモノニ使フガ宜シイ、是ハ案トシテ斯ウ云フ案ガ出来タ、其参考トシテ茲ニ発表スル意味ノモノデアルト云フ程度ニ吾々國民ガ了解シテ宜シイノデアリマスカ。

○岡田國務大臣 全ク其通リデアリマス、委員會ニ於テ調査ヲ致シテ、サウシテアア云フ案ガ出來上リマシタガ、文部省トシテソレニ対スル態度ハ只委員會ノ報告トシテ斯ノ如キモノガ出來タト云フコトノ発表ヲシタニ過ギマセヌ、サウシテ委員ノ方デハ之ヲ實際ニ行フト云フコトヲ皆ヤツテ居リマスカラ、或ハ其結果トシテドウ云フコトニナリマセウカ、是デ國民ガ萬々差支ヘナイ、是ハ至極結構デアルト云フコトニナツテ、國民ガ皆其新シイ方法ヲ實行スルヤウニナツテ行キマシタナラバ、文部省トシテハ其時初メテ之ヲ教科書等ニ採用スルコトヲ考ヘルベキ時機デアラウト思ヒマス今中々其処マデニハ達シテ居ラヌヤウナ訳デアリマス。

以上によりて文部省が之を實地に採用する意志なき事は表明せられたれど、そは議會内部の事にして外間は多くは之を知らず。世論は賛否囂々たりき。余は上に掲げたる論文を草し了るさ共に、別に之を単行の印刷物とせむことを企て二月五日に印刷を了し著者自ら發行者となりて九日非賣品として發行せり。これ他人に精神上物質上の迷惑をかけざらむことを希ひしが爲なり。然るに、その印刷の進行中偶然知人某氏あり來て若干金を投じて有益なるべき事べき事に消費せよといはれたるあり。即ち之によりてその冊子を三千部發行し、家族のみの手によりて朝野に之を寄贈したりしなり。然るにその二月二十三日午前に千駄ケ谷警察分署の高等係野崎殿次郎といふ名刺を通じて面會を求むる人あり。之にあひて來意をただせば警視廳の命を受けて取調に來りたりといひて、かの册子の出版につきてその趣旨、印刷部數、配付先などを問ひ、はては普選の可否につきて如何なる意見を有するかなどの事にまでも及び、その状、余を窮地に陷れむとするものの如くに思はれたり。余はもと法定の手續を完全に踐みて發行し、且つその目的も手段も明かなる事なれば、一々有のまゝに答へ、なほ余の行へる事が國家の爲に利あるか害あるかの判斷を公平に考へられむことを上司に請ふべき旨を告げてその册子五册を贈りて、余が主張は必ずや警察官とても賛成すべき筈のものなるを告げ、なほ政府が警察カを以て余を壓迫するに先だちて文部大臣は既に之を固執せざることを帝國議會にて言明せるによりて心を安んぜらるべしとてかの衆議院の速記録を示し、假名遣に關する議論と普通選擧との間に如何なる關係ありてかかる質問が發せられたるかを反問して反省を促せり。これ余が警視廳の取調といふ事を受けたる唯一の經驗なるが、今に至りても何の爲にかゝる取調を受くるに到りしかの理由を知らざるなり。

山田孝雄著 假名遣の歴史

寶文館藏版 昭和十一年一月二十日五版發行