中国童話集 (佐藤春夫) 仙術のいたずら

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仙術(せんじゅつ)のいたずら[編集]

張卓(ちょうたく)は蜀(しょく)の国の人です。いたってのんきな人で、これという決まった家も持っていません。どうしたものか親戚(しんせき)縁者(えんじゃ)というようなものもいっこうないらしい様子です。ただ一ぴきのろばがこの張卓(ちょうたく)のご親戚(しんせき)とも、お友だちとも、子どもともなるたいせつなものなのでした。そして、めったに乗ったことなどもありません。乗らないのじゃなくえ、どうも乗(の)れないのかもしれません。というのは、彼(かれ)はありたけの着物と本だけをろばの背(せ)に乗せて年が年じゅう、ろばといっしょにぽつりぽつりとどんな遠い所へでも歩いて出かけるのでした。
ある暑い夏の日中です。張卓(ちょうたく)は、いつもよく出かける洋州(しょうしゅう)からの帰りがけに、すずしそうなけやきの大木の根もとにろばをつないで、自分もいっしょにならんだようにして、照(て)りさかる太陽の光をよけていました。ろばもよい気持ちなのでしょう。目を細めてすずしい風になぶられていました。とこどがなにかのはずみに、まったくなにかのはずみににわかに暴(あば)れだひたろばは、とうとうつなを切って、森の中へにげて行きました。張卓(ちょうたく)は顔色を変(か)えて後を追いましたが、広い森ではあるし、探(さが)し手は一人、どうしても見つかりません。そのうちにきれいに夕映(ゆうば)えした空はしだいにうすれてきてあたりに夕もやさえ立ちこめだします。近くに家などは一けんもなし、そうかといってここらに野宿(のじゅく)すれば、おおかみやとらが出るにそういないし、どうしてよいかさっぱりわかりませんでした。石にこしかけて考えていましたが、よい思案(しあん)もうかびません。しかたなしに歩きだします。
いつしかすみきった空へ、まるでラムネの玉のような青い月が上がって来たので、これに力を得(え)た張卓(ちょうたく)は、いっしょうけんめいで歩きました。およそ二、三里も歩いたと思うころ、りっぱなといしのように平らな大路(おおじ)に出ました。これはと思ってよくよく見ると、向こうのほうに宮殿(きゅうでん)らしいものが見えます。
ふしぎでならない張卓(ちょうたく)は、それでもたいへんこれに力を得(え)て小走りに近づいて見ますと、大きな金のくぎをちりばめた朱門(しゅもん)が目も覚(さ)めるようにかがやいているではありませんか。小おどりして喜(よろこ)んだ張卓(ちょうたく)は、案内(あんない)を求(もと)めると男の子が出て来ましたが、なんとも言わずにまた行ってしまいました。これと入れちがいにまっかなかんむりをかむって高いあしだをはいた仙人(せんにん)がつえをついて出て来ました。
「おまえはなにしにこんな所へ来たのか」
仙人(せんにん)はおごそかにこうたずねます。
張卓(ちょうたく)はろばを失(うしな)ったことから、一部始終を話して、とてものどがかわいて困(こま)るから水を飲みたいとたのみこみました。
仙人(せんにん)はまず一ぱいの水を持って来させ、そればかりか酒やさかなを出して、うんとごちそうをしたうえで、ふろにさえ入れ、着物も着かえさしたうえで、
「あなたあまだ修養(しゅうしょう)がいたらないから、しばらくここにとどまって修業(しゅぎょう)されたほうがよかろう」
と言うのでした。もとからのんきな張卓(ちょうたく)のことですから、さっそくここで仙人(せんにん)になるための業を勉強することにしました。
一日たち二日たちするうちに、このけっこうな仙境(せんきょう)の生活にもあきてきたのでしょうか、張卓(ちょうたく)は家へ帰りたくてしかたがないようになりました。ですから、そのまま打ち明けてどうしても故郷(こきょう)に帰りたいということを正直に言いますと、仙人(せんにん)のおじいさんも快(こころよ)く許(ゆる)してくれました。別(わか)れるとき四つの小さいお守りのようなものを卓(たく)に手わたしてくれました。二つは赤で、二つは黒です。
「黒いほうの一つは頭の上に置(お)きなさい。人の家にはいるときなど姿(すがた)が消えて人に知られるおそれがないから、またもう一つの黒いのは左のひじに置(お)きなさい。千里以内(いない)のものはすぐ手に取れます。また赤いのは一つは舌(した)の上に一つは左の足に置(お)きなさい。そして自分のかたわらにいては困(こま)る者に出会ったら、口を開けばいなくなります。それからひじを張(は)ると千里以内(いない)のものはあり一ぴきでもわかるようになるはずですから」
とていねいに教えてくれました。そして、しばらくたって張卓(ちょうたく)の気のついたときはもう、故郷(こきょう)へ送り返されていました。それからというものは習い覚(おぼ)えた仙術(せんじゅつ)を使ってみたくてたまりません。ある日のこと暖(あたた)かいお天気にそそのかされてどこという当てもなしに家を出たのでしたが、どう道に迷(まよ)ったものかどうしても帰れません。夜になってふと前を見ると大きなおやしきがあります。張卓(ちょうたく)がいくつもいくつも門を通りぬけて中にはいるとどの部屋(へや)もどの部屋(へや)も昼をあざむくように明るい燈(ともし)がかがやいていて、おくまった一室に美しいおひめさまがいます。
張卓(ちょうたく)はたわむれにおひめさまを連(つ)れ出し、中門(ちゅうもん)の所に隠身(いんしん)の術(じゅつ)で姿(すがた)を消してどうなることかと見ていました。しばらくすると家内じゅうたいへんでしたが、そのさわぎが静(しず)まったかと思うころに、にわかに黒雲が張卓(ちょうたく)の身を取り囲(かこ)みだしたかと思うと張卓(ちょうたく)の術(じゅつ)は破(やぶ)れて、おひめさまを連(つ)れた張卓(ちょうたく)が見(み)現(あらわ)されました。おおかたこの家もふつうの家ではないのでしょう。やがて雲がなくあんると、この家の中から何百何千という兵卒(へいそつ)が、てんでに刀をふりかざして、出て来て張卓(ちょうたく)にせまります。張卓(ちょうたく)はへいを後ろにして身構(みがま)えながら、ひじを張(は)つとふしぎや、さしものたくさんの兵隊(へいたい)も勇気(ゆうき)を失(うしな)って近づける者は一人もありません。また口を開くと兵隊(へいたい)の持っていた刀は一つ残(のこ)らずまん中から折(お)れるのでした。これに力を得(え)た卓(たく)は、ぞうりをぬいで大地を打つとおおぜいの兵隊(へいたい)が将棋(しょうぎ)だおしにあおむけにたおれてしまいました。ちょうどそのときでした。一人の老人(ろうじん)がどことも知れず出て来て張卓(ちょうたく)に、
「わたしはこの家の主(あるじ)ですが、どうもさっきあなたが門内にはいられるとき、わたしは室にいてもう気づいていたのです。こんなえらい人とは思わず失礼(しつれい)いたしました。どうぞわたしのむすめとこの兵士(へいし)だけは助けてほしいものですがどうでしょう」
と言います。張卓(ちょうたく)はもとよりなんのうらみがあるわけでもありませんので、言うとおりにひめと兵隊(へいたい)を返してやりました。それから、この主人は張卓(ちょうたく)をたくさんの兵士(へいし)に守らせながら言えまで送らせることにしました。
およそ十町も来たかと思うころ、張卓(ちょうたく)は師(し)の仙人(せんにん)にばったり行き会いました。
「おまえはあれほどよく言ってきませたのに所構(かま)わず術を使うのだね」
と言いながら、師(し)の仙人(せんにん)が持っていた長いつえで、地上をとんとんとたたくと、まるでにじのようにきれいな橋が、足元から天に向かってかけられたかと思うと、張卓(ちょうたく)の手を取ってその橋を登りだんだんと見えなくなって、後には晴れた夜の空に黒ずんだ山がくっきりと見えるだけでした。そののちこの土地の人びとはこの山をいまに祭っているそうで、なんでも洋州(ようしゅう)という土地の西六十里の所にあるとのことです。