三国志 (吉川英治) 第一巻 桃園の巻/張飛卒

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張飛卒(ちょうひそつ)[編集]

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白馬は疎林(そりん)の細道を西北へ向かってまっしぐらに駆けて行った。秋風に舞う木の葉は、鞍上(あんじょう)の劉備(りゅうび)と芙蓉(ふよう)の影を征箭(そや)のようにかすめた。
やがて曠(ひろ)い野に出た。
野に出ても、二人の身をなお、箭(や)うなりがかすめた。今度のは木の葉のそれではなく、鋭い鏃(やじり)を持った鉄弓(てっきゅう)の矢であった。
「オ。あれに行くぞ」
「女を騎(の)せて――」
「では違うのか」
いや、やはり劉備だ」
「どっちでもいい。逃がすな。女も逃がすな」
賊兵の声々であった。
疎林の陰を出た途端に、黄巾賊(こうきんぞく)の一隊は早くも見つけてしまったのである。
獣群の声が、閧(とき)を作って、白馬の影を追いつめて来た。
劉備は振り向いて、
「しまった!」
思わず呟(つぶ)やいたので、彼と白馬の脚(あし)とを唯一の頼みにしがみついていた芙蓉は
「ああ、もう・・・・・・」
消え入るように顫(おのの)いた。
万が一つも、助からぬものとは観念しながらも、劉備は励(はげ)まして、
「大丈夫、大丈夫。唯(ただ)、振り落とされないように、駒(こま)の鬣(たてがみ)と、私の帯に、必死でつかまっておいでなさい」と、いって、鞭(むち)打(う)った。
芙蓉はもう返事もしない。ぐったりと鬣に顔を俯(うつ)伏(ぶ)せている。その容貌(かんばせ)の白さは戦(おのの)く白芙蓉(びゃくふよう)の花そのままだった。
「河まで行けば。県軍のいる河まで行けば!・・・・・・」
劉備の打ちつづけていた生木(なまき)の鞭(むち)は、皮が剥(は)げて白木になっていた。
低い土坡(どは)の蜿(うね)りを躍(おど)り越(こ)えた。遠くに帯のように流れが見えて来た。しめたと、劉備は勇気をもり返したが、河畔まで来てもそこには何物の影もなかった。宵(よい)に屯(たむろ)していたという県軍も、賊の勢力に怖(おそ)れをなしたか、陣を払(はら)って何処(どこ)かへ去ってしまったらしいのである。
「待てッ」
驢(ろ)に騎(の)った精悍(せいかん)な影は、その時もう五騎六騎と、彼の前後を包囲して来た。いうまでもなく黄巾賊の小方(しょうほう)(小頭目(しょうとうもく))等である。
驢を持たない徒歩の卒共(そつども)は、駒(こま)の足に続ききれないで、途中で喘(あえ)いでしまったらしいが、李朱氾(りしゅはん)を始めとして、騎馬の小方たち七、八騎はたちまち追いついて、
「止まれッ」
「射るぞ」と、呶鳴(どな)った。
鉄弓の弦(つる)を離れた一矢(いっし)は、白馬の環囲(かんい)に突き刺さった。
喉(のど)に矢を立てた白馬は、棹立(さおだ)ちに躍り上がって、一声(いっせい)嘶(いなな)くと、どうと横ざまに仆(たお)れた。芙蓉の身も、劉備の体も、共に大地へ抛(ほう)り捨(す)てられていた。
そのまま芙蓉は身動きもしなかったが、劉備は起(た)ち上(あ)がって、
「何かっ!」と、さけんだ。彼は今日まで、自分にそんな大きな声量があろうとは知らなかった。百獣も為(ため)に怯(ひる)み、曠野(こうや)に野彦(のびこ)して渡るような大喝(だいかつ)が、唇(くち)から無意識に出ていたのである。
賊は、恟(ぎょ)っとして、劉備の大きな眼の光に愕(おどろ)き、驢は彼の大喝に、蹄(ひづめ)をすくめて止(とど)まった。
だが、それは一瞬、
「何を、青二才」
「手抗(てむか)う気か」
驢(ろ)を跳びおりた賊は、鉄弓を捨てて大剣を抜くもあり、槍(やり)を舞わして、劉備へいきなり突っかけて来るもあった。

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どういう悪日(あくび)と凶(わる)い方位を辿(たど)って来たものだろうか。
黄河の畔(ほとり)から、ここ迄(まで)の間というもの、劉備は、幾たび死線を彷徨(ほうこう)した事かしれない。これでもかこれでもかと、彼を試(ため)さんとする百難が、次々に形を変えて待ち構えているようだった。
「もうこれ迄」
劉備も遂(つい)に観念した。避けようもない賊の包囲だ。斬死(きりじに)せんものと覚悟を定(き)めた。
けれど身には寸鉄(すんてつ)も帯びていない。少年時代から片時も離さず持っていた父の遺物(かたみ)の剣も、先に賊将の馬元義(ばげんぎ)に奪(と)られてしまった。
劉備は、しかし、
「ただは死なぬ」と思い、石ころを摑(つか)むが早いか、近づく者の顔へ投げつけた。
見くびっていた賊の一名は、不意を喰(く)って、「呀(あ)ッ」と鼻ばしらを抑(おさ)えた。
劉備は、飛びついて、その槍(やり)を奪った。そして大音(だいおん)に、
「四民を悩ます害虫ども。もはや免(ゆる)しは置かぬ。涿県(たくけん)の劉備玄徳(げんとく)が腕のほどを見よや」
と言って、捨て身になった。
賊の小方(しょうほう)、李朱氾(りしゅはん)は笑って、
「この百姓めが」と半月槍(はんげつそう)を揮(ふる)って来た。
元より劉備はさして武術の達人ではない。田舎(いなか)の楼桑村(ろうそうそん)で、多少の武技の稽古(けいこ)はしたこともあるが、それとて程の知れたものだ。武技を磨いて身を立てることよりも、蓆(むしろ)を織って母を養う事のほうが常に彼の急務であった。
でも、必死になって、七人の賊を相手に、やや暫(しばら)くは、一命を支えていたが、そのうちに、槍を打ち落とされ、蹌(よろ)めいて倒れたところを、李朱氾に馬のりに組み敷かれて、李の大剣は、遂(つい)に、彼の胸(むな)いたに突きつけられた。
――おおういっ。
すると、・・・・・・いや先刻(さっき)からその声は遠くでしたのだが、剣戟(けんげき)のひびきで、誰の耳にも入らなかったのである。
遥(はる)か彼方(かなた)の野末から、
「――おおういっ。待ってくれい」
呼ばわる声が近づいて来る。
野彦(のびこ)のように凄(すご)い声は、思わず賊の頭(こうべ)を振り向かせた。
両手を振りながら韋駄天(いだてん)と、此方(こなた)へ馳(か)けて来る人影が見える。その迅(はや)いことは、まるで疾風(しっぷう)に一葉の木の葉が舞って来るようだった。
だが瞬(またた)く間に近づいて来たのを見ると、木の葉どころか、身の丈(たけ)七尺もある巨漢(おおおとこ)だった。
「やっ、張卒(ちょうそつ)じゃないか」
「そうだ。近頃、卒の中に入った下(した)ッ端(ぱ)の張飛(ちょうひ)だ」
賊は、不審そうに、顔を見合わせて言い合った。自分等の部下の中にいる張飛という一卒だからである。他の大勢の歩卒は、騎馬に追いつけず皆、途中で遅れてしまったのに、張卒だけが、たとえ一足(ひとあし)遅れたにせよ、このくらいの差で追いついて来たのだから、その脚力にも、賊将軍たちは愕(おどろ)いたに違いなかった。
「なんだ、張卒」
李朱氾は、膝(ひざ)の下に、劉備の体を抑えつけ、右手(めて)に大剣を持って、その胸いたに擬(ぎ)しながら振り向いて言った。
「小方、小方。殺してはいけません。その人間は、わしに渡して下さい」
「何?・・・・・・誰に命令で貴様(きさま)はどんなことをいうのか」
「卒の張飛の命令です」
「ばかっ。張飛は、貴様自身じゃないか。卒の分際(ぶんざい)で」
と、言う言葉も終わらぬ間に、そう罵(ののし)っていた李朱氾(りしゅはん)の体は、二丈(じょう)もうえの空へ飛んで行った。

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卒の張飛(ちょうひ)がいきなり李朱氾を抓(つま)み上げて、宙へ投げ飛ばしたので、
「やっ、こいつが」と、賊の小方たちは、劉備(りゅうび)もそっちのけにして、彼へ総掛(そうが)かりになった。
「やい張卒、なんで貴様は、味方の李小方を投げおったか。又、おれ達のすることを邪魔だてするかっ」
「ゆるさんぞ。ふざけたま真似すると」
「党の軍律に照らして、成敗してくれる。それへ直れ」
犇(ひしめ)き寄ると、張は、
「わははははは。吠(ほ)えろ吠えろ。胆(きも)をつぶした野良犬めらが」
「なに。野良犬だと」
「そうだ。その中に一匹(いっぴき)でも、人間らしいのがいるつもりか」
「うぬ。新米(しんまい)の卒の分際で」
喚(おめ)いた一人が、槍(やり)もろとも、躍(おど)りかかると、張飛は、団扇(うちわ)のような大きな手で、その横顔を撲(は)りつけるや否(いな)や、槍を引(ひ)ッ奪(た)くって、蹌(よろ)めく尻(しり)を強(したた)かに打ちのめした。
槍の柄(え)は折れ、打たれた賊は、腰骨が砕(くだ)けたように、ぎゃっともんどり打った。
思わぬ裏切者が出て、賊は狼狽(ろうばい)したが、日頃から図抜けた巨漢(おおおとこ)の鈍物(どんぶつ)と、小馬鹿にしていた卒なので、その怪力を眼に見ても、まだ張飛の真価を信じられなかった。
張飛は、さながら岩壁のような胸(むな)いたを反(そ)らして、
「まだ来るか。むだな生命(いのち)を捨てるより、おとなしく逃げ帰って、鴻家(こうけ)の姫と劉備の身は、先頃、県城を焼かれて鴻家の亡(ほろ)びた時、降参と偽(いつわ)って、黄巾賊の卒に這入(はい)っていた張飛という者の手に渡しましたと、有態(ありてい)に報告しておけ」
「あっ!・・・・・・では汝(なんじ)は、鴻家の旧臣だな」
「今気が付いたか。此方(このほう)は県城の南門衛(なんもんえい)少督(しょうとく)を勤めていた鴻家の武士で名は張飛(ちょうひ)、字は翼徳(よくとく)と申すものだが無念や此方が他県へ公用で留守の間に、黄巾賊の輩(やから)のために、県城は焼かれ、主君は殺され、領民は苦しめられ、一夜に城地は焦土(しょうど)と化してしまった。――その無念さ、いかにもして怨(うら)みをはらしてくれんものと、身を偽(いつわ)り、敗走の兵と化(ば)けて、一時、其方共(そのほうども)の賊の中に、卒となって隠れていたのだ。――大方(だいほう)馬元義(ばげんぎ)にも、又、総大将の兇賊(きょうぞく)張角(ちょうかく)にも、よく申しておけ。いずれ何時(いつ)かはきっと、張飛翼徳が思い知らせしてくるるぞと」
雷(いかずち)のような声だった。
豹頭(ひょうとう)環眼(かんがん)、張飛がそう言って刮(くわ)っと睨(ね)めつけると、賊の小方等は、足も竦(すく)んでしまったらしいが、まだ、衆を恃(たの)んで、
「さては、鴻家の残兵だったか。そう聞けばなおの事、生かしてはおけぬ」と、一度に打ってかかった。
張飛は、腰の剣も抜かず、寄りつく者を把(と)っては投げた。投げられた者は皆、脳骨(のうこつ)を砕(くだ)き、眼窩(がんか)は飛びだし、瞬(またた)くうちに碧血(へきけつ)の大地、惨(さん)として、二度と起き上がる者はなかった。
劉備は、茫然(ぼうぜん)と、張飛の働きをながめていた。燕飛(えんび)龍鬂(りゅうびん)、蹴(け)れば雲を生じ、吠(ほ)ゆれば風が起こるようだった。
「なんという豪傑(ごうけつ)だろう?」
残る二、三人は、驢(ろ)に飛びついて逃(に)げ失(う)せたが、張飛は笑って追いもしなかった。そして踵(きびす)を回(めぐ)らすと、劉備のほうへ大股(おおまた)に近づいて来て、
「いや旅の人。えらい目に遭(あ)いましたなあ」
と、何事も無かったような顔をして話しかけた。そしてすぐ、腰に帯びていた二剣のうちの一つを外(はず)し、又、懐中(ふところ)から見覚えのある茶の小壺(こつぼ)を取り出して、
「これは貴郎(あなた)の物でしょう。賊に奪(と)り上(あ)げられた貴郎の剣と茶壺です。さあ取って置きなさい」と、劉の手へ渡した。

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「あ。私のです」
劉備は、失(な)くした珠(たま)が返って来たように、剣と茶壺の二品を、張飛の手から受け取ると、幾度も感謝を表して、「すでに生命(いのち)もないところを救って戴(いただ)いた上に、この大事な二品まで、自分の手に戻るとは、なんだか、夢のような心地がします。大人(たいじん)のお名前は、先程聞きました。心に銘記(めいき)しておいて、御恩は生涯忘れません」と、言った。
張飛(ちょうひ)は、首(こうべ)を振って、
「いやいや徳は孤(こ)ならずで、貴公(きこう)がそれがしの旧主、鴻家(こうけ)の姫を助け出してくれた義心に対して、自分も義をもってお答えしたのみです。ちょうど最前、古塔の辺(あた)りから白馬に騎(の)って逃げた者があると、哨兵(しょうへい)の知らせに、こよい黄巾賊の将兵が泊まっていた彼(か)の寺が、すわと一度に、混雑に墜(お)ちた隙(すき)をうかがい、夕刻見ておいた貴公のその二品を、馬元義(ばげんぎ)と李朱氾(りしゅはん)の眠っていた内陣の壇からすばやく奪い返し、追手(おって)の卒(そつ)と共にこれ迄馳(か)けて来たものでござる。貴公の孝心と、誠実を天もよみし賜(たも)うて、自然お手に戻ったものでしょう」
と、理由(わけ)を話した。張飛が武勇に誇らない謙遜(けんそん)な言葉に、劉備はいよいよ感じて、感銘の余り二品のうち剣の方を差し出して、
「大人(たいじん)、失礼ですが、これは御礼として、貴郎(あなた)に差し上げましょう。茶は、故郷(くに)に待っている母の土産(みやげ)なので、頒(わ)かつことはできませんが、剣は、貴郎のような義胆(ぎたん)の豪傑に持って戴(いただ)ければ、むしろ剣そのものも本望でしょうから」と、再び、張飛の手へ授さず)けて言った。
張飛は、眼をみはって、
「えっ、この品をそれがしに、賜(たま)わると仰(お)っしゃるのですか」
「劉備の寸志(すんし)です。どうか納(おさ)めておいて下さい」
「自分は根からの武人ですから、実をいえば、この剣の世に稀(まれ)な名刀だということは知っていますから、欲しくてならなかったところです。けれど、同時に貴公とこの剣との来歴も聞いていましたから、望むに望めないでおりましたが」
「いや、生命(いのち)の恩人へ酬(むく)いるには、これをもってしても、まだ足りません。しかも剣の真価を、そこ迄、わかっていて下されば、なおさら、差し上げても張り合いがあり、自分としても満足です」
「そうですか。然(しか)らば、他ならぬ品ですから、頂戴(ちょうだい)しておこう」
と、張飛は、自身の剣をすぐ解(と)き捨(す)て、渇望(かつぼう)の名剣を身に佩(は)いていかにも欣(うれ)しそうであった。
「じゃあ早速ですが、又賊が押し返して来るにきまっている。それがしは鴻家(こうけ)の御息女を立てて、旧主の残兵を集め、事を謀(はか)る考えですが――貴公(きこう)も一刻もはやく、郷里へさしてお帰りなさい」
張飛のことばに、
「おお、それでは」
と、劉備は、芙蓉(ふよう)の身を扶(たす)けて、張飛に託し、自分は、賊の捨てた驢(ろ)をひろって跨(また)がった。
張飛は、先に自分が解き捨てた剣を劉備の腰に佩(は)かせてやりながら、
「こんな剣でも帯びておいでなされ、まだ、涿県までは、数百里もありますから」と、言った。
そして張飛自身も、芙蓉の身を抱いて、白馬の上に移り、名残り惜し気に、
「いつか又、再会の日もありましょうが、では御機嫌(ごきげん)よく」
「おお、きっと又、会う日を待とう。貴郎も武運めでたく、鴻家の再興を成(な)し遂(と)げらるるように」
「ありがとう。では」
「おさらば――」
劉備の驢と、芙蓉を抱えた張飛の白馬とは相顧(あいかえり)みながら、西と東に別れ去った。