万葉集 (鹿持雅澄訓訂)/巻第十五

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巻第十五とをまりいつまきにあたるまき


天平てむひやう八年やとせといふとし丙子ひのえね夏六月みなつき新羅しらきの国に遣ひ使はさるる時、使人つかひ等、おのもおのも別れを悲しみ贈り答へ、また海路うみつぢにてこころかなしみ思ひをべてよめる歌、また所につきて誦詠うたへる古き歌、一百四十五首ももちまりよそいつつ


3578 武庫むこの浦の入江の洲鳥羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし

3579 大船に妹乗るものにあらませば羽ぐくみ持ちて行かましものを

3580 君が行く海辺の宿に霧立たばが立ち嘆く息と知りませ

3581 秋さらば相見むものを何しかも霧に立つべく嘆きしまさむ

3582 大船を荒海あるみに出だしいます君つつむことなく早帰りませ

3583 まさきくと妹がいははば沖つ波千重に立つともさはりあらめやも

3584 別れなばうら悲しけむが衣下にを着ませただに逢ふまてに

3585 我妹子わぎもこが下にを着よと贈りたる衣の紐をあれ解かめやも

3586 我がゆゑに思ひな痩せそ秋風の吹かむその月逢はむものゆゑ

3587 栲衾たくぶすま新羅しらきへいます君が目を今日か明日かと斎ひて待たむ

3588 はろばろに思ほゆるかも然れどもしき心をはなくに

     右の十一首とをまりひとつは、贈答おくりこたへのうた

3589 夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてそが来る妹が目を欲り

     右の一首ひとうたは、秦間滿はたのはしまろ

3590 妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてそが来る

     右の一首は、ひそかに私家いへに還りて思ひをぶ。

3591 妹とありし時はあれども別れては衣手寒きものにそありける

3592 海原に浮寝せむ夜は沖つ風いたくな吹きそ妹もあらなくに

3593 大伴の御津にふな乗り榜ぎ出てはいづれの島に廬りせむ我

     右の三首みうたは、発たむとする時よめる歌。

3594 潮待つとありける船を知らずして悔しく妹を別れ来にけり

3595 朝開き榜ぎ出て来れば武庫の浦の潮干の潟にたづが声すも

3596 我妹子が形見に見むを印南都麻いなみづま白波高みよそにかも見む

3597 わたつみの沖つ白波立ち来らし海人処女あまをとめども島隠る見ゆ

3598 ぬば玉の夜は明けぬらし玉の浦にあさりするたづ鳴き渡るなり

3599 月読つくよみの光を清み神島の磯廻いそまの浦ゆ船出す我は

3600 離れに立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも

3601 しましくも独りあり得るものにあれや島のむろの木離れてあるらむ

     右の八首やうたは、船乗りして海つ路にいづる時よめる歌。


所につきて誦詠うたへる古き歌

3602 青丹よし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも

     右の一首は、雲を詠める。

3603 青柳の枝伐り下ろし斎種ゆたね蒔き忌々ゆゆしく君に恋ひ渡るかも

3604 妹がそて別れて久になりぬれど一日も妹を忘れて思へや

3605 わたつみの海に出でたる飾磨川しかまがは絶えむ日にこそが恋やまめ

     右の三首は、恋の歌。

3606 玉藻刈る処女をとめを過ぎて夏草の野島ぬしまが崎に廬りす我は

     柿本朝臣人麿ガ歌ニ曰ク、敏馬を過ぎて。又曰ク、船近づきぬ。

3607 白妙の藤江の浦にいざりする海人とや見らむ旅ゆく我を

     柿本朝臣人麿ガ歌ニ曰ク、荒栲の。又曰ク、すずき釣る海人

     とか見らむ。

3608 天離あまざかひなの長道を恋ひ来れば明石のより家のあたり見ゆ

     柿本朝臣人麿ガ歌ニ曰ク、やまと島見ゆ。

3609 武庫の海の庭よくあらしいざりする海人の釣船波のうへゆ見ゆ

     柿本朝臣人麿ガ歌ニ曰ク、けひの海の。又曰ク、刈薦かりこも

     乱れて出づ見ゆ海人の釣船。

3610 安胡あごの浦に船乗りすらむ処女らが赤裳の裾に潮満つらむか

     柿本朝臣人麿ガ歌ニ曰ク、あみの浦。又曰ク、玉裳の裾に。


〔七夕歌一首〕

3611 大船に真楫しじ海原うなはらを榜ぎ出て渡る月人壮士つきひとをとこ

     右、柿本朝臣人麿の歌。


備後国きびのみちのしりのくに水調郡みつきのこほり長井の浦に船泊てし夜、よめる歌三首

3612 青丹よし奈良の都に行く人もがも草枕旅ゆく船の泊り告げむに 旋頭歌なり。

     右の一首は、大判官おほきまつりごとひと

3613 海原を八十やそ島隠り来ぬれども奈良の都は忘れかねつも

3614 帰るさに妹に見せむにわたつみの沖つ白玉ひりひて行かな


安藝国あぎのくに風速かざはやの浦にふね泊てし夜、よめる歌二首

3615 我がゆゑに妹歎くらし風速の浦の沖辺に霧たなびけり

3616 沖つ風いたく吹きせば我妹子が歎きの霧に飽かましものを


長門の島の磯辺に舶泊ててよめる歌五首

3617 石走いはばしたぎもとどろに鳴くせびの声をし聞けば都し思ほゆ

     右の一首は、大石蓑麿おほいそのにのまろ

3618 山川の清き川瀬に遊べども奈良の都は忘れかねつも

3619 磯の間ゆたぎつ山川絶えずあらばまたも相見む秋かたまけて

3620 恋繁み慰めかねてひぐらしの鳴く島蔭に廬りするかも

3621 我が命を長門の島の小松原幾代を経てかかむさびわたる


長門の浦より舶出ふなでせし夜、月光つき仰観てよめる歌三首

3622 月読の光を清み夕凪に水手かこの声呼び浦廻うらみ榜ぐかも

3623 山の端に月かたぶけばいざりする海人の燈し火沖になづさふ

3624 我のみや夜船は榜ぐと思へれば沖辺の方に楫の音すなり


古き挽歌かなしみうた一首、また短歌みじかうた

3625 夕されば 葦辺に騒き 明け来れば 沖になづさふ

   鴨すらも 妻とたぐひて 我が尾には 霜な降りそと

   白妙の 羽さし交へて 打ち掃ひ さとふものを

   行く水の 帰らぬごとく 吹く風の 見えぬがごとく

   跡も無き 世の人にして 別れにし 妹が着せてし

   馴れ衣 袖片敷きて 独りかも寝む

かへし歌一首

3626 たづが鳴き葦辺をさして飛び渡るあなたづたづし独りされば

     右、丹比大夫たぢひのまへつきみみまかれる悽愴かなしめる歌。


物にきて思ひをぶる歌一首、また短歌

3627 朝されば 妹が手にまく 鏡なす 御津の浜びに

   大船に 真楫しじ貫き 韓国からくにに 渡り行かむと

   直向ふ 敏馬みぬめをさして 潮待ちて 水脈みをびき行けば

   沖辺には 白波高み 浦廻より 榜ぎて渡れば

   我妹子に 淡路の島は 夕されば 雲居隠りぬ

   さ夜更けて ゆくへを知らに が心 明石の浦に

   船泊めて 浮寝をしつつ わたつみの 沖辺を見れば

   いざりする 海人の処女は 小船をぶね乗り つららに浮けり

   あかときの 潮満ち来れば 葦辺には たづ鳴き渡る

   朝凪に 船出をせむと 船人も 水手かこも声呼び

   にほ鳥の なづさひ行けば 家島は 雲居に見えぬ

   へる 心なぐやと 早く来て 見むと思ひて

   大船を 榜ぎ我が行けば 沖つ波 高く立ち来ぬ

   よそのみに 見つつ過ぎ行き 玉の浦に 船を留めて

   浜びより 浦磯を見つつ 泣く子なす 音のみし泣かゆ

   わたつみの 手纏たまきの玉を 家つとに 妹に遣らむと

   ひりひ取り 袖には入れて 帰し遣る 使なければ

   持てれども しるしを無みと また置きつるかも

反し歌二首

3628 玉の浦の沖つ白玉ひりへれどまたそ置きつる見る人を無み

3629 秋さらば我が船泊てむ忘れ貝寄せ来て置けれ沖つ白波


周防国すはうのくに玖河郡くがのこほり麻里布まりふの浦に行く時、よめる歌八首やつ

3630 真楫貫き船し行かずば見れど飽かぬ麻里布の浦に宿りせましを

3631 いつしかも見むと思ひし粟島をよそにや恋ひむ行くよしを無み

3632 大船にかし振り立てて浜ぎよき麻里布の浦に宿りかせまし

3633 粟島の逢はじと思ふ妹にあれや安眠やすいも寝ずてが恋ひ渡る

3634 筑紫道の可太かだの大島しましくも見ねば恋しき妹を置きて来ぬ

3635 妹が家路近くありせば見れど飽かぬ麻里布の浦を見せましものを

3636 家人は帰り早伊波比島いはひしま斎ひ待つらむ旅ゆく我を

3637 草枕旅ゆく人を伊波比島幾代経るまて斎ひ来にけむ


大島の鳴門を過ぎて再宿ふたよ経し後、追ひてよめる歌二首

3638 これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に玉藻刈るとふ海人処女あまをとめども

     右の一首は、田邊秋庭たのべのあきには

3639 波の上に浮き寝せし宵あどへか心悲しくいめに見えつる


熊毛の浦に船泊てし夜、よめる歌四首

3640 都辺に行かむ船もが刈薦の乱れて思ふこと告げやらむ

     右の一首は、羽栗はくり

3641 暁の家恋しきに浦廻より楫の音するは海人処女かも

3642 沖辺より潮満ち来らしからの浦にあさりするたづ鳴きて騒きぬ

3643 沖辺より船人のぼる呼び寄せていざ告げやらむ旅の宿りを

     一ニ云ク、旅の宿りをいざ告げやらな。


佐婆さばの海にて、忽ち逆風あらきかぜ漲浪たかきなみに遭ひて、漂流ただよひ宿ひとよ経て、のち順風おひてを得、豊前国とよくにのみちのくち下毛郡しもつみけのこほり分間わくまの浦に到着きぬ。ここに艱難いたづきを追ひいたみて、よめる歌八首

3644 おほきみのみことかしこみ大船の行きのまにまに宿りするかも

     右の一首は、雪宅麻呂ゆきのやかまろ

3645 我妹子は早も来ぬかと待つらむを沖にや住まむ家附かずして

3646 浦廻より榜ぎ来し船を風速み沖つ御浦に宿りするかも

3647 我妹子がいかに思へかぬば玉の一夜もおちず夢にし見ゆる

3648 海原の沖辺に灯しいざる火は明かして灯せ大和島見む

3649 鴨じもの浮寝をすればみなわたか黒き髪に露そ置きにける

3650 久かたの天照る月は見つれどもふ妹に逢はぬ頃かも

3651 ぬば玉の夜渡る月は早も出でぬかも海原の八十島の上ゆ妹があたり見む 旋頭歌なり。


筑紫のたちに至り、本つくにのかたを遥望みさけ、悽愴かなしみてよめる歌四首

3652 志賀しかの海人の一日もおちず焼く塩のからき恋をもあれはするかも

3653 志賀の浦にいざりする海人家人の待ち恋ふらむに明かし釣る魚

3654 可之布江かしふえたづ鳴き渡る志賀の浦に沖つ白波立ちし来らしも

     一ニ云ク、満ちし来ぬらし。

3655 今よりは秋づきぬらしあしひきの山松蔭にひぐらし鳴きぬ


七夕なぬかのよ天漢あまのがは仰観みさけ、おのもおのも思ひを陳べてよめる歌三首

3656 秋萩ににほへる我が裳濡れぬとも君が御船の綱し取りてば

     右の一首は、大使つかひのかみ

3657 年にありて一夜妹に逢ふ彦星も我にまさりて思ふらめやも

3658 夕月夜影立ち寄り合ひ天の川榜ぐ船人を見るがともしさ


海辺にて月をてよめる歌九首

3659 秋風は日にに吹きぬ我妹子はいつかと我を斎ひ待つらむ

     大使の第二男おとむすこ

3660 神さぶる荒津の崎に寄する波間なくや妹に恋ひ渡りなむ

     右の一首は、土師稲足はにしのいなたり

3661 風のむた寄せ来る波にいざりする海人処女らが裳の裾濡れぬ

     一ニ云ク、海人のをとめが裳の裾濡れぬ。

3662 天の原振り放け見れば夜そ更けにけるよしゑやし独りる夜は明けば明けぬとも

     右ノ一首ハ、旋頭歌ナリ。

3663 わたつみの沖つ縄海苔来る時と妹が待つらむ月は経につつ

3664 志賀の浦にいざりする海人明け来れば浦廻榜ぐらし楫の音聞こゆ

3665 妹を思ひの寝らえぬにあかときの朝霧ごもり雁がねそ鳴く

3666 夕されば秋風寒し我妹子が解き洗ひごろも行きて早着む

3667 我が旅は久しくあらしこのる妹が衣の垢づく見れば


筑前国つくしのみちのくちのくに志麻郡の韓亭からとまりふね泊てて三日みか経ぬ。時に夜月つきの光、皎々流照てりわたれりたちまち此のけはひりて、旅のこころ悽噎かなしみ、おのもおのも心緒おもひべてよめる歌六首むつ

3668 おほきみの遠の朝廷みかどと思へれど長くしあれば恋ひにけるかも

     右の一首は、大使つかひのかみ

3669 旅にあれど夜は火灯し居る我を闇にや妹が恋ひつつあるらむ

     右の一首は、大判官おほきまつりごとひと

3670 からとまり能古のこの浦波立たぬ日はあれども家に恋ひぬ日はなし

3671 ぬば玉の夜渡る月にあらませば家なる妹に逢ひてましを

3672 久かたの月は照りたりいとまなく海人の漁火いざりは灯し合へり見ゆ

3673 風吹けば沖つ白波かしこみと能古の泊にあまた夜そ


引津ひきづとまりに舶泊てし時よめる歌七首

3674 草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也かやの山辺にさ牡鹿鳴くも

3675 沖つ波高く立つ日に遭へりきと都の人は聞きてけむかも

     右の二首は、大判官。

3676 天飛ぶや雁を使に得てしかも奈良の都にこと告げやらむ

3677 秋の野をにほはす萩は咲けれども見るしるしなし旅にしあれば

3678 妹を思ひの寝らえぬに秋の野にさ牡鹿鳴きつ妻思ひかねて

3679 大船に真楫しじ貫き時待つと我は思へど月そ経にける

3680 夜を長みの寝らえぬにあしひきの山彦とよめさ牡鹿鳴くも


肥前国ひのみちのくちのくに松浦郡まつらのこほり狛島のとまりに舶泊てし夜、海浪うなはら遥望みさけ、おのもおのも旅の心をかなしみてよめる歌七首

3681 帰り来て見むと思ひし我が屋戸の秋萩すすき散りにけむかも

     右の一首は、秦田滿はたのたまろ

3682 天地の神を乞ひつつあれ待たむ早来ませ君待たば苦しも

     右の一首は、娘子をとめ

3683 君を思ひが恋ひまくはあら玉の立つ月ごとにくる日もあらじ

3684 秋の夜を長みにかあらむなそここばの寝らえぬも独りればか

3685 たらし姫御船泊てけむ松浦の海妹が待つべき月は経につつ

3686 旅なれば思ひ絶えてもありつれど家にある妹し思ひがなしも

3687 あしひきの山飛び越ゆる雁がねは都に行かば妹に逢ひて


壹岐ゆきの島に到りて、雪連宅滿ゆきのむらじやかまろが、忽ち鬼病えやみにて死去みまかれる時よめる歌〔一首、また短歌〕

3688 すめろきの 遠の朝廷と から国に 渡る我が背は

   家人の いはひ待たねか ただ身かも 過ちしけむ

   秋さらば 帰りまさむと たらちねの 母に申して

   時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと

   家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 いまだも着かず

   大和をも 遠くさかりて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君

反し歌二首

3689 石田野いはたぬに宿りする君家人のいづらと我を問はばいかに言はむ

3690 世の中は常かくのみと別れぬる君にやもとなが恋ひゆかむ

     右三首は、姓名がよめる挽歌かなしみうた

3691 天地と 共にもがもと 思ひつつ ありけむものを

   しけやし 家を離れて 波のうへゆ なづさひ来にて

   あら玉の 月日も来経ぬ 雁がねも 継ぎて来鳴けば

   たらちねの 母も妻らも 朝露に 裳の裾ひづち

   夕霧に 衣手濡れて さきくしも あるらむごとく

   出で見つつ 待つらむものを 世の中の 人の嘆きは

   相思はぬ 君にあれやも 秋萩の 散らへる野辺の

   初尾花 仮廬かりほに葺きて 雲ばなれ 遠き国辺の

   露霜の 寒き山辺に 宿りせるらむ

反し歌二首

3692 しけやし妻も子供も高々たかたかに待つらむ君や島がくれぬる

3693 もみち葉の散りなむ山に宿りぬる君を待つらむ人し悲しも

     右の三首は、葛井連子老ふぢゐのむらじこおゆがよめる挽歌。

3694 わたつみの かしこき道を 安けくも なく悩み来て

   今だにも なく行かむと 壱岐ゆきの海人の つ手のうらへを

   肩焼きて 行かむとするに いめのごと 道の空路に 別れする君

反し歌二首

3695 昔より言ひけることの韓国のからくもここに別れするかも

3696 新羅しらきへか家にか帰る壱岐の島行かむたどきも思ひかねつも

     右の三首は、六鯖むさばがよめる挽歌。


對馬島つしまの淺茅の浦に舶泊てし時、順風おひてを得ず、とどまりて五箇日いつかを経き。ここに物華を瞻望みやりて、おのもおのも慟心おもひを陳べてよめる歌三首

3697 百船の泊つる對馬の淺茅山しぐれの雨にもみたひにけり

3698 天ざかる夷にも月は照れれども妹そ遠くは別れ来にける

3699 秋されば置く露霜にへずして都の山は色づきぬらむ


竹敷たかしきの浦に舶泊てし時、各心緒おもひを陳べてよめる歌十八首とをまりやつ

3700 あしひきの山下光るもみち葉の散りのまがひは今日にもあるかも

     右の一首は、大使。

3701 竹敷の黄葉もみちを見れば我妹子が待たむと言ひし時そ来にける

     右の一首は、副使つかひのすけ

3702 竹敷の浦廻の黄葉われ行きて帰り来るまて散りこすなゆめ

     右の一首は、大判官おほきまつりごとひと

3703 竹敷の上方山うへかたやまは紅の八しほの色になりにけるかも

     右の一首は、小判官すなきまつりごとひと

3704 もみち葉の散らふ山辺ゆ榜ぐ船のにほひに愛でて出でて来にけり

3705 竹敷の玉藻靡かし榜ぎ出なむ君が御舟をいつとか待たむ

     右の二首は、對馬娘子、名は玉槻たまつき

3706 玉敷ける清き渚を潮満てば飽かず我行く帰るさに見む

     右の一首は、大使。

3707 秋山の黄葉を挿頭かざし我が居れば浦潮満ちいまだ飽かなくに

     右の一首は、副使。

3708 物ふと人には見えじ下紐の下ゆ恋ふるに月そ経にける

     右の一首は、大使。

3709 家づとに貝をひりふと沖辺より寄せ来る波に衣手濡れぬ

3710 潮干なばまたも我来むいざ行かむ沖つ潮騒高く立ち

3711 我が袖は手本とほりて濡れぬとも恋忘れ貝取らずは行かじ

3712 ぬば玉の妹が干すべくあらなくに我が衣手を濡れていかにせむ

3713 もみち葉は今はうつろふ我妹子が待たむと言ひし時の経ゆけば

3714 秋されば恋しみ妹を夢にだに久しく見むを明けにけるかも

3715 独りのみ着る衣の紐解かば誰かも結はむ家どほくして

3716 天雲のたゆたひ来れば九月ながつきの黄葉の山もうつろひにけり

3717 旅にてもなく早と我妹子が結びし紐はれにけるかも


筑紫の海つ路にかへり来て、みやこまゐらむと播磨国家島に到れる時よめる歌五首

3718 家島は名にこそありけれ海原をが恋ひ来つる妹もあらなくに

3719 草枕旅に久しくあらめやと妹に言ひしを年の経ぬらく

3720 我妹子を行きて早見む淡路島雲居に見えぬ家附くらしも

3721 ぬば玉の夜明かしも船は榜ぎ行かな御津の浜松待ち恋ひぬらむ

3722 大伴の御津の泊に船泊てて龍田の山をいつか越えいかむ


中臣朝臣宅守やかもり蔵部くらべひて、狹野茅上娘子さぬのちかみをとめよばへる時、みことのりして流す罪にさだめて、越前国こしのみちのくちのくにはなちたまへり。ここに夫婦めを別れ易く会ひ難きを嘆き、おのもおのもかなしみの情を陳べて、贈り答ふる歌、六十三首むそちまりみつ


3723 あしひきの山道越えむとする君を心に持ちて安けくもなし

3724 君が行く道の長手を繰り畳み焼き滅ぼさむあめの火もがも

3725 我が背子しけだしまからば白妙の袖を振らさね見つつ偲はむ

3726 この頃は恋ひつつもあらむ玉くしげ明けてをちよりすべなかるべし

     右の四首は、別れむとして娘子をとめが悲しみよめる歌。


3727 塵泥ちりひぢの数にもあらぬ我ゆゑに思ひ侘ぶらむ妹が悲しさ

3728 青丹よし奈良の大道は行き良けどこの山道は行き悪しかりけり

3729 うるはしとふ妹を思ひつつ行けばかもとな行き悪しかるらむ

3730 畏みとらずありしを御越道みこしぢたむけに立ちて妹が名のりつ

     右の四首は、中臣朝臣宅守が上道みちだちしてよめる歌。


3731 思ふゑに逢ふものならばしましくも妹が目れてあれ居らめやも

3732 あかねさす昼は物ひぬば玉の夜はすがらに音のみし泣かゆ

3733 我妹子が形見の衣なかりせば何物もてか命継がまし

3734 遠き山関も越え来ぬ今更に逢ふべきよしの無きがさぶしさ 一ニ云ク、さびしさ

3735 思はずもまことあり得むやさる夜の夢にも妹が見えざらなくに

3736 遠くあれば一日一夜も思はずてあるらむものと思ほしめすな

3737 人よりは妹そも悪しき恋もなくあらましものを思はしめつつ

3738 思ひつつればかもとなぬば玉の一夜もおちず夢にし見ゆる

3739 かくばかり恋ひむとかねて知らませば妹をば見ずそあるべくありける

3740 天地の神なきものにあらばこそふ妹に逢はず死にせめ

3741 命をしまたくしあらば珠衣ありきぬのありて後にも逢はざらめやも 一ニ云ク、ありての後も

3742 逢はむ日をその日と知らず常闇とこやみにいづれの日まてあれ恋ひ居らむ

3743 旅といへば言にそ易き少なくも妹に恋ひつつすべ無けなくに

3744 我妹子に恋ふるにあれは玉きはる短き命も惜しけくもなし

     右の十四首とをまりようたは、配所はなたえしところに至りて中臣朝臣宅守がよめる歌。


3745 命あらば逢ふこともあらむ我がゆゑにはたな思ひそ命だに経ば

3746 人の植うる田は植ゑまさず今更に国別れしてあれはいかにせむ

3747 我が屋戸の松の葉見つつあれ待たむ早帰りませ恋ひ死なぬとに

3748 他国ひとくには住み悪しとそ言ふすむやけく早帰りませ恋ひ死なぬとに

3749 他国に君をいませていつまてかが恋ひをらむ時の知らなく

3750 天地のそこひうらがごとく君に恋ふらむ人はさねあらじ

3751 白妙のが下衣失はず持てれ我が背子ただに逢ふまてに

3752 春の日のうら悲しきに後れ居て君に恋ひつつうつしけめやも

3753 逢はむ日の形見にせよと手弱女の思ひ乱れて縫へる衣そ

     右の九首ここのうたは、娘子がみやこに留まり、悲傷かなしみてよめる歌。


3754 過所ふたなしに関飛び越ゆる霍公鳥ほととぎす我が身にもがも止まず通はむ

3755 うるはしとふ妹を山川を中にへなりて安けくもなし

3756 向ひ居て一日もおちず見しかども厭はぬ妹を月わたるまて

3757 が身こそ関山越えてここにあらめ心は妹に寄りにしものを

3758 刺竹さすだけの大宮人は今もかも人なぶりのみ好みたるらむ 一ニ云ク、今さへや

3759 たちかへり泣けどもあれは験なみ思ひ侘ぶれてる夜しそ多き

3760 さる夜は多くあれども物はず安くる夜はさねなきものを

3761 世の中の常のことわりかく様に成り来にけらし据ゑし種から

3762 我妹子に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし

3763 旅と言へば言にそ易きすべも無く苦しき旅もらにまさめやも

3764 山川を中にへなりて遠くとも心を近く思ほせ我妹わぎも

3765 真澄鏡懸けて偲へとまつり出す形見のものを人に示すな

3766 うるはしと思ひし思はば下紐に結ひ付け持ちてやまず偲はせ

     右の十三首とをまりみうたは、配所より中臣朝臣宅守が贈れる歌。


3767 魂は朝夕あしたゆふへたま振れどが胸痛し恋の繁きに

3768 この頃は君を思ふとすべも無き恋のみしつつ音のみしそ泣く

3769 ぬば玉の夜見し君を明くるあした逢はずまにして今そ悔しき

3770 味真野あぢまぬに宿れる君が帰り来む時の迎へをいつとか待たむ

3771 家人いへびと安眠やすいも寝ずて今日今日と待つらむものを見えぬ君かも

3772 帰りける人来たれりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて

3773 君がむた行かましものを同じこと後れて居れどよきこともなし

3774 我が背子が帰り来まさむ時のため命残さむ忘れたまふな

     右の八首は、娘子が和贈こたふる歌。


3775 あら玉の年の緒長く逢はざれどしき心をはなくに

3776 今日もかも都なりせば見まく欲り西の御厩みまやに立てらまし

     右の二首は、中臣朝臣宅守がまた贈れる歌。


3777 昨日けふ君に逢はずてするすべのたどきを知らに音のみしそ泣く

3778 白妙のが衣手を取り持ちていはへ我が背子直に逢ふまてに

     右の二首は、娘子が和贈こたふる歌。


3779 我が屋戸の花橘はいたづらに散りか過ぐらむ見る人なしに

3780 恋ひ死なば恋ひも死ねとや霍公鳥物ふ時に来鳴きとよむる

3781 旅にして物ふ時に霍公鳥もとなな鳴きそが恋まさる

3782 雨ごもり物ふ時に霍公鳥我が住む里に来鳴き響もす

3783 旅にして妹に恋ふれば霍公鳥我が住む里にこよ鳴き渡る

3784 心なき鳥にそありける霍公鳥物ふ時に鳴くべきものか

3785 霍公鳥あひだしまし置けが鳴けばふ心いたもすべなし

     右の七首は、中臣朝臣宅守が花鳥はなとりに寄せて

     思ひを陳べてよめる歌。