万葉集 (鹿持雅澄訓訂)/巻第十九

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巻第十九とをまりここのまきにあたるまき


天平勝宝てむひやうしようはう二年ふたとせといふとし三月やよひ一日つきたちのひゆふへに、春の苑の桃李ももすももの花を眺矚める歌二首ふたつ

4139 春の苑紅にほふ桃の花下る道に出で立つ美人をとめ

4140 吾が園の李の花か庭に降るはだれのいまだ残りたるかも


かけしぎを見てよめる歌一首ひとつ

4141 春けて物がなしきにさ夜更けて羽き鳴く鴫が田にか


二日ふつかのひ柳黛やなぎを攀ぢて京師みやこしぬふ歌一首

4142 春の日に張れる柳を取り持ちて見れば都の大路おほぢし思ほゆ


堅香子草かたかごの花を攀折る歌一首

4143 もののふの八十やそ乙女らが汲みまがふ寺井の上の堅香子の花


帰る雁を見る歌二首

4144 燕来る時になりぬと雁がねは本郷くに偲ひつつ雲隠り鳴く

4145 春けてかく帰るとも秋風に黄葉もみちむ山を越え来ざらめや 一ニ云ク、春されば帰るこの雁


夜裏よる千鳥の鳴くを聞く歌二首

4146 夜降よぐたちに寝覚めて居れば川瀬め心もしぬに鳴く千鳥かも

4147 夜降ちて鳴く川千鳥うべしこそ昔の人も偲ひ来にけれ


あかときに鳴くきぎしを聞く歌二首

4148 杉の野にさをどる雉いちしろくにしも泣かむこもり妻かも

4149 あしひきの八峯やつをの雉鳴きとよむ朝明あさけの霞見れば悲しも


かはのぼ船人ふなひとの唄をはろばろ聞く歌一首

4150 朝床に聞けば遥けし射水川いみづがは朝榜ぎしつつ唄ふ船人


三日みかのひかみ大伴宿禰家持がたちにて宴する歌三首みつ

4151 今日のためと思ひてしめしあしひきの峯上をのへの桜かく咲きにけり

4152 奥山の八峰の椿つばらかに今日は暮らさね大夫ますらをとも

4153 漢人からひとも船を浮かべて遊ぶちふ今日そ我が背子花かづらせな


八日やかのひ白大鷹ましらふのたかを詠める歌一首、また短歌みじかうた

4154 あしひきの 山坂越えて 往きかはる 年の緒長く

   しなざかる 越にし住めば 大王おほきみの 敷きます国は

   都をも ここもおやじと 心には 思ふものから

   語りけ 見放くる人眼 ともしみと 思ひし繁し

   そこゆゑに 心なぐやと 秋づけば 萩咲きにほふ

   石瀬いはせ野に 馬だき行きて をちこちに 鳥踏み立て

   白塗りの 小鈴をすずもゆらに あはせ遣り 振り放け見つつ

   いきどほる 心のうちを 思ひ延べ 嬉しびながら

   枕付く 妻屋のうちに 鳥座とくら結ひ 据えてそが飼ふ

   真白斑ましらふの鷹

かへし歌

4155 矢形尾の真白の鷹を屋戸に据ゑ掻き撫で見つつ飼はくしよしも


鵜潜うつかふ歌一首、また短歌

4156 あら玉の 年ゆきかはり 春されば 花咲きにほふ

   あしひきの 山下とよみ 落ちたぎち 流る辟田さきた

   川の瀬に 鮎子さ走り 島つ鳥 鵜養うかひ伴なへ

   かがりさし なづさひ行けば 吾妹子わぎもこが 形見がてらと

   紅の 八入やしほに染めて おこせたる 衣の裾も 徹りて濡れぬ

反し歌

4157 紅の衣にほはし辟田川絶ゆることなく吾等あれかへり見む

4158 毎年としのはに鮎し走らば辟田川鵜八つかづけて川瀬尋ねむ


季春三月やよひ九日ここのかのひ出挙すいこの政にりて舊江ふるえの村に行き、道のほとりに目を物花にくるうた、また興の中によめる歌


澁谿しぶたにの埼を過ぎて、いその樹を見る歌一首 樹名つまま

4159 磯ののつままを見れば根をへて年深からし神さびにけり


世間よのなかの常無きを悲しむ歌一首、また短歌

4160 天地あめつちの 遠き初めよ 世の中は 常無きものと

   語り継ぎ 流らへ来たれ 天の原 振り放け見れば

   照る月も 満ち欠けしけり あしひきの 山の木末こぬれ

   春されば 花咲きにほひ 秋づけば 露霜負ひて

   風まじり もみち散りけり うつせみも かくのみならし

   紅の 色もうつろひ ぬば玉の 黒髪変り

   朝の笑み 夕へ変らひ 吹く風の 見えぬがごとく

   行く水の 止まらぬごとく 常も無く うつろふ見れば

   にはたづみ 流るる涙 とどめかねつも

反し歌

4161 言問はぬ木すら春咲き秋づけばもみち散らくは常を無みこそ 一ニ云ク、常なけむとそ

4162 うつせみの常無き見れば世の中に心つけずて思ふ日そ多き 一ニ云ク、嘆く日そ多き


あらかじめよめる七夕なぬかのよの歌一首

4163 妹が袖われ枕かむ川の瀬に霧立ちわたれさ夜更けぬとに


勇士ますらをの名をふるふを慕ふ歌一首、また短歌

4164 ちちの実の 父のみこと ははそ葉の 母のみこと

   おほろかに 心尽して 思ふらむ その子なれやも

   大夫ますらをや 空しくあるべき 梓弓 末振り起し

   投ぐ矢持ち 千尋ちひろ射わたし 剣大刀 腰に取り佩き

   あしひきの 八峯やつを踏み越え 差しまくる 心さやらず

   後の世の 語り継ぐべく 名を立つべしも

反し歌

4165 大夫は名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐがね

     右の二首は、山上憶良臣が作める歌に追ひてなぞらふ。


霍公鳥ほととぎすまた時の花を詠める歌一首、また短歌

4166 時ごとに いやめづらしく 八千種やちくさに 草木花咲き

   鳴く鳥の 声も変らふ 耳に聞き 目に見るごとに

   打ち嘆き しなえうらぶれ 偲ひつつ 有り来るはしに

   木晩このくれの 四月うつきし立てば 夜隠よごもりに 鳴く霍公鳥

   古よ 語り継ぎつる 鴬の うつ真子まごかも

   あやめ草 花橘を をとめらが 玉くまでに

   あかねさす 昼はしめらに あしひきの 八峯飛び越え

   ぬば玉の 夜はすがらに あかときの 月に向ひて

   往き還り 鳴きとよむれど 如何で飽き足らむ

反し歌二首

4167 時ごとにいやめづらしく咲く花を折りも折らずも見らくしよしも

4168 毎年に来鳴くものゆゑ霍公鳥聞けば偲はく逢はぬ日を多み 毎年、としのはト謂フ

     右、二十日はつかのひ、未だ時及ばずと雖も、ことけて

     あらかじめよめる。


家婦みやこいま尊母ははのみことに贈らむ為に、あつらへらえてよめる歌一首、また短歌

4169 霍公鳥 来鳴く五月さつきに 咲きにほふ 花橘の

   かぐはしき 親の御言みこと 朝宵に 聞かぬ日まねく

   天ざかる 夷にし居れば あしひきの 山のたをりに

   立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら 安けなくに

   思ふそら 苦しきものを 奈呉の海人の かづき取るちふ

   真珠しらたまの 見がほし御面 ただ向ひ 見む時までは

   松柏まつかへの 栄えいまさね 貴きが君 御面、みおもわト謂フ

反し歌一首

4170 白玉の見がほし君を見ず久にひなにし居れば生けるともなし


二十四日はつかまりよかのひ立夏四月節うつきたつひのときあたれり。此に因りて二十三日はつかまりみかのひゆふへ、忽ち霍公鳥ほととぎすあかときに喧かむ声をしぬひてよめる歌二首

4171 常人も起きつつ聞くそ霍公鳥このあかときに来鳴く初声

4172 ほととぎす来鳴き響まば草取らむ花橘を屋戸には植ゑずて


みやこ丹比たぢひが家に贈れる歌一首

4173 妹を見ず越の国辺に年れば心神こころどぐる日も無し


筑紫の太宰おほみこともちの時の春の苑の梅を追ひてよめる歌一首

4174 春のうちの楽しきへば梅の花手折り持ちつつ遊ぶにあるべし

     右の一首は、二十七日はつかまりなぬかのひことけてよめる。


霍公鳥を詠める二首

4175 ほととぎす今来鳴きそむ菖蒲草あやめぐさかづらくまでにるる日あらめや ものは三箇ノ辞闕ク

4176 我が門よ鳴き過ぎ渡る霍公鳥いやなつかしく聞けど飽き足らず ものはてにを六箇ノ辞闕ク


四月の三日、越前こしのみちのくち判官まつりごとひと大伴宿禰池主に贈れる霍公鳥の歌、感旧のおもひへずておもひを述ぶる一首ひとうた、また短歌

4177 我が背子と 手携はりて 明けくれば 出で立ち向ひ

   夕されば 振り放け見つつ 思ひ延べ 見なぎし山に

   八峯には 霞たなびき 谷辺には 椿花咲き

   うら悲し 春の過ぐれば 霍公鳥 いやしき鳴きぬ

   独りのみ 聞けばさぶしも 君とあれ 隔てて恋ふる

   礪波山となみやま 飛び越えゆきて 明け立たば 松のさ枝に

   夕さらば 月に向ひて あやめ草 玉貫くまでに

   鳴き響め 安眠やすいさず 君を悩ませ

4178 あれのみし聞けば寂しも霍公鳥丹生にふの山辺にい行き鳴けやも

4179 ほととぎす夜鳴きをしつつ我が背子を安宿やすいせそゆめ心あれ


霍公鳥をづる心に飽かず、懐を述べてよめる歌一首、また短歌

4180 春過ぎて 夏来向へば あしひきの 山呼び響め

   さ夜中に 鳴く霍公鳥 初声を 聞けばなつかし

   あやめ草 花橘を ぬきまじへ かづらくまでに

   里とよめ 鳴き渡れども なほし偲はゆ

反し歌三首

4181 さ夜更けて暁月に影見えて鳴く霍公鳥聞けばなつかし

4182 霍公鳥聞けども飽かず網捕りに捕りてなつけなれず鳴くがね

4183 霍公鳥飼ひ通せらば今年経て来向かふ夏はまづ鳴きなむを


京師みやこより贈来おこせる歌一首

4184 山吹の花取り持ちてつれもなくれにし妹を偲ひつるかも

     右、四月の五日いつかのひさとに留れる女郎いらつめよりおこせたるなり。


山振やまぶきの花を詠める歌一首、また短歌

4185 現身うつせみは 恋を繁みと 春けて 思ひ繁けば

   引き攀ぢて 折りも折らずも 見るごとに 心なぎむと

   繁山の 谷辺に生ふる 山吹を 屋戸に引き植ゑて

   朝露に にほへる花を 見るごとに 思ひはやまず

   恋し繁しも

4186 山吹を屋戸に植ゑては見るごとに思ひはやまず恋こそまされ


六日むかのひ布勢ふせ水海みづうみ遊覧あそびてよめる歌一首、また短歌

4187 思ふどち 大夫ますらをのこの くれの 繁き思ひを

   見明らめ 心遣らむと 布勢の海に 小船をぶね連なめ

   真櫂かけ い榜ぎ巡れば 乎布をふの浦に 霞たなびき

   垂姫たるひめに 藤波咲きて 浜清く 白波騒き

   しくしくに 恋はまされど 今日のみに 飽き足らめやも

   かくしこそ いや年のはに 春花の 繁き盛りに

   秋の葉の にほへる時に あり通ひ 見つつ偲はめ

   この布勢の海を

反し歌

4188 藤波の花の盛りにかくしこそ浦榜ぎみつつ年に偲はめ


水烏を越前判官大伴宿禰池主に贈れる歌一首、また短歌

4189 天ざかる 夷としあれは そこここも おやじ心そ

   家ざかり 年の経ぬれば うつせみは 物ひ繁し

   そこゆゑに 心なぐさに 霍公鳥 鳴く初声を

   橘の 玉にあへ貫き かづらきて 遊ばくよしも

   ますらをを 伴なへ立ちて 叔羅川しくらがは なづさひ上り

   平瀬には 小網さでさし渡し 早瀬には 鵜をかづけつつ

   月に日に しかし遊ばね しき我が背子

反し歌二首

4190 叔羅川瀬を尋ねつつ我が背子は鵜川立たさね心なぐさに

4191 鵜川立て取らさむ鮎のしがはた吾等あれにかき向け思ひしはば

     右、九日ここのかのひ、使に附けて贈れる。


霍公鳥また藤の花を詠める歌一首、また短歌

4192 桃の花 紅色に にほひたる 面輪おもわのうちに

   青柳の くは眉根まよねを 笑み曲がり 朝影見つつ

   をとめらが 手に取り持たる 真澄鏡まそかがみ 二上山ふたがみやま

   くれの 茂き谷辺を 呼びとよめ 朝飛び渡り

   夕月夜 かそけき野辺に 遙々はろばろに 鳴く霍公鳥

   立ちくと 羽触はぶりに散らす 藤波の 花なつかしみ

   引きぢて 袖に扱入こきれつ まば染むとも

反し歌

4193 霍公鳥鳴く羽触にも散りにけり盛り過ぐらし藤波の花 一ニ云ク、散りぬべみ袖に扱入れつ藤波の花

     同じ九日よめる。


また霍公鳥のくこと晩きを怨む歌三首

4194 霍公鳥鳴き渡りぬと告げれどもあれ聞き継がず花は過ぎつつ

4195 がここだしぬはく知らに霍公鳥いづへの山を鳴きか越ゆらむ

4196 月立ちし日よりきつつ打ちしぬひ待てど来鳴かぬ霍公鳥かも


京人みやこひとに贈れる歌二首

4197 妹に似る草と見しよりしめし野辺の山吹たれ折りし

4198 つれもなくれにしものと人は言へど逢はぬ日まねみ思ひそがする

     右、さとに留れる女郎の為に、家婦あつらへらえてよめる。

     女郎は、即ち大伴家持がいろもなり。


十二日とをかまりふつかのひ、布勢の水海に遊覧あそび、多古たこうらに船とどめ、藤の花を望見て、ひとびとおもひを述べてよめる歌四首よつ

4199 藤波の影なる海の底清みしづく石をも玉とそが見る

     守大伴宿禰家持。

4200 多古の浦の底さへにほふ藤波を挿頭かざして行かむ見ぬ人のため

     次官すけ内藏うちのくら忌寸のいみき繩麻呂なはまろ

4201 いささかに思ひてしを多古の浦に咲ける藤見て一夜経ぬべし

     判官まつりごとひと久米朝臣廣繩。

4202 藤波を借廬かりほに作り浦する人とは知らに海人とか見らむ

     久米朝臣繼麻呂つぐまろ


霍公鳥の喧かぬを恨む歌一首

4203 家に行きて何を語らむあしひきの山霍公鳥一声も鳴け

     判官まつりごとひと久米朝臣廣繩。


攀折れる保宝葉ほほがしはを見る歌二首

4204 我が背子が捧げて持たる厚朴ほほがしはあたかも似るか青ききぬがさ

     講師かうしほうし恵行ゑぎやう

4205 皇祖神すめろきとほ御代みよ御代みよはい敷き折り酒飲むといふそこの厚朴ほほがしは

     守大伴宿禰家持。


還る時に、浜のにて月光つき仰見る歌一首

4206 澁谿しぶたにをさしてが行くこの浜に月夜つくよ飽きてむ馬しまし止め

     守大伴宿禰家持。


二十二日はつかまりふつかのひ、判官久米朝臣廣繩に贈れる、霍公鳥の怨恨うらみの歌一首、また短歌

4207 ここにして 背向そがひに見ゆる 我が背子が 垣内かきつの谷に

   明けされば はりのさ枝に 夕されば 藤の繁みに

   遙々はろばろに 鳴く霍公鳥 我が屋戸の 植木橘

   花に散る 時をまたしみ 来鳴かなく そこは恨みず

   然れども 谷片付きて 家居れる 君が聞きつつ

   告げなくも憂し

反し歌

4208 がここだ待てど来鳴かぬ霍公鳥独り聞きつつ告げぬ君かも


霍公鳥を詠める歌一首、また短歌

4209 谷近く 家は居れども 木高こだかくて 里はあれども

   霍公鳥 いまだ来鳴かず 鳴く声を 聞かまくりと

   あしたには 門に出で立ち 夕へには 谷を見渡し

   恋ふれども 一声だにも いまだ聞こえず

反し歌

4210 藤波の茂りは過ぎぬあしひきの山霍公鳥などか来鳴かぬ

     右、二十三日、まつりごとひと久米朝臣廣繩がこたふ。


処女をとめ墓の歌に追ひてなぞらふる一首ひとうた、また短歌

4211 いにしへに ありけるわざの くすはしき 事と言ひ継ぐ

   血沼ちぬ壮子をとこ 菟原うなひ壮子の うつせみの 名を争ふと

   玉きはる 命も捨てて 相共に 妻問ひしける

   処女らが 聞けば悲しさ 春花の にほえ栄えて

   秋の葉の にほひに照れる 惜身あたらみの 盛りをすらに

   大夫ますらをの こといとほしみ 父母に 申し別れて

   家さかり 海辺に出で立ち 朝宵に 満ち来る潮の

   八重波に 靡く玉藻の ふしの間も 惜しき命を

   露霜の 過ぎましにけれ 奥つを ここと定めて

   後の世の 聞き継ぐ人も いや遠に 偲ひにせよと

   黄楊つげ小櫛をぐし しか刺しけらし 生ひて靡けり

反し歌

4212 処女らが後のしるしと黄楊小櫛生ひ代り生ひて靡きけらしも

     右、五月の六日、ことけて大伴宿禰家持がよめる。


4213 東風あゆをいたみ奈呉の浦廻に寄する波いや千重しきに恋ひ渡るかも

     右の一首は、京の丹比たぢひが家に贈る。


挽歌かなしみうた一首、また短歌

4214 天地の 初めの時よ うつそみの 八十伴男やそとものを

   大王おほきみに まつろふものと 定めたる つかさにしあれば

   天皇おほきみの 命畏み 夷ざかる 国を治むと

   あしひきの 山川へなり 風雲かぜくもに 言は通へど

   ただに逢はぬ 日の重なれば 思ひ恋ひ 息づき居るに

   玉ほこの 道来る人の 伝言つてことに あれに語らく

   しきよし 君はこの頃 うらさびて 嘆かひいます

   世間よのなかの 憂けく辛けく 咲く花も 時にうつろふ

   うつせみも 常無くありけり たらちねの 母の命

   何しかも 時しはあらむを 真澄鏡 見れども飽かず

   玉の緒の 惜しき盛りに 立つ霧の 失せぬるごとく

   置く露の ぬるがごとく 玉藻なす 靡きい伏し

   行く水の 留めかねきと 狂言たはことや 人し言ひつる

   逆言およづれか 人の告げつる 梓弓 爪引つまび夜音よと

   遠音とほとにも 聞けば悲しみ にはたづみ 流るる涙

   留めかねつも

反し歌二首

4215 遠音にも君が嘆くと聞きつればのみし泣かゆ相あれ

4216 世間の常無きことは知るらむを心尽くすな大夫ますらをにして

     右、大伴宿禰家持が、聟南の右大臣みぎのおほまへつきみの家

     藤原の二郎なかちこ喪慈母患ははのもとぶらへる。五月二十七日。


霖雨ながめ晴るる日、よめる歌一首

4217 卯の花をくたす長雨の始水みづはなに寄る木糞こつみなす寄らむ子もがも


漁夫あま火光いざりひを見る歌一首

4218 しび突くと海人の灯せる漁火のにか出ださむが下ひを

     右の二首は、五月。


4219 我が屋戸の萩咲きにけり秋風の吹かむを待たばいと遠みかも

     右の一首は、六月みなつき十五日とをかまりいつかのひ芽子早花わさはぎを見てよめる。


京師みやこより来贈おこせる歌一首、また短歌

4220 わたつみの 神の命の み櫛笥くしげに 貯ひ置きて

   いつくとふ 玉にまさりて 思へりし が子にはあれど

   うつせみの 世のことわりと 大夫ますらをの 引きのまにまに

   しなざかる 越道をさして ふ蔦の 別れにしより

   沖つ波 とを眉引まよびき 大船の ゆくらゆくらに

   面影に もとな見えつつ かく恋ひば 老いづくが身

   けだしへむかも

反し歌一首

4221 かくばかり恋しくしあらば真澄鏡見ぬ日時なくあらましものを

     右の二首は、大伴氏坂上郎女が、女子むすめ大嬢おほいらつめに賜ふ。


九月ながつきの三日、宴の歌二首

4222 この時雨いたくな降りそ我妹子わぎもこに見せむがために黄葉もみち採りてむ

     右の一首は、掾久米朝臣廣繩がよめる。

4223 青丹あをによし奈良人見むと我が背子がめけむ黄葉もみち土に落ちめやも

     右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。

4224 朝霧の棚引くたゐに鳴く雁を留め得めやも我が屋戸の萩

     右の一首歌ひとうたは、吉野の宮にいでましし時、藤原の皇后おほきさき

     御作よみませるなり。但し年月審詳さだかならず。十月の五日、河邊かはへの

     朝臣東人(あそみ あづまひと)が伝へ誦めり。


4225 あしひきの山の黄葉にしづくあひて散らむ山道やまぢを君が越えまく

     右の一首は、同じ月の十六日とをかまりむかのひ朝集使まゐうごなはるつかひ少目すなきふみひと

     秦忌寸石竹はたのいみきいはたけうまのはなむけする時、守大伴宿禰家持がよめる。


雪ふる日、よめる歌一首

4226 この雪の残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む

     右の一首は、十二月しはす、大伴宿禰家持がよめる。


雪の歌一首、また短歌

4227 大殿の このもとほりの 雪な踏みそね しばしばも

   降らざる雪そ 山のみに 降りし雪そ ゆめ寄るな

   人や な踏みそね雪は

反し歌一首

4228 ありつつもしたまはむそ大殿のこの廻りの雪な踏みそね

     右の二首歌ふたうたは、三形沙彌みかたのさみが、贈左大臣おひてたまへるひだりのおほまへつきみ

     藤原の北のまへつきみことを承けて、作誦めり。聞き伝

     ふるは、笠朝臣子君かさのあそみこきみなり。また後に伝へ読むひとは、

     越中国こしのみちのなかのくにまつりごとひと久米朝臣廣繩なり。


天平勝宝三年みとせ


4229 あらたしき年の初めはいや年に雪踏みならし常かくにもが

     右の一首歌は、正月むつきの二日、守の館にて集宴うたげせり。

     その時零雪殊多ゆきふりつむこと積尺ひとさかまり四寸よきなりき。即ち主人あろじ

     大伴宿禰家持此の歌を作める。


4230 降る雪を腰になづみて参ゐり来ししるしもあるか年の初めに

     右の一首は、三日、介内藏忌寸繩麻呂が館に会集つど

     て宴楽うたげせる時、大伴宿禰家持が作める。


その時、積もれる雪重なるいはほの趣をり成し、奇巧たくみに草樹の花をいろどひらく。此にきてまつりごとひと久米朝臣廣繩がよめる歌一首

4231 撫子は秋咲くものを君が家の雪の巌に咲けりけるかも


遊行女婦うかれめ蒲生娘子かまふのいらつめが歌一首

4232 雪の島巌にてる撫子は千世に咲かぬか君が挿頭かざし


ここに、諸人もろひと酒酣たけなはにして、更深よふけとり鳴く。此に因りて主人内藏伊美吉繩麻呂がよめる歌一首

4233 打ち羽振はぶかけは鳴くともかくばかり降り敷く雪に君いまさめやも


守大伴宿禰家持がこたふる歌一首

4234 鳴くかけはいやしき鳴けど降る雪の千重に積めこそが立ちかてね


太政大臣おほきまつりごとのおほまへつきみ藤原の家の縣犬養あがたのいぬかひ命婦ひめとねが、天皇すめらみことに奉れる歌一首

4235 天雲をほろに踏みあたし鳴神なるかみも今日にまさりてかしこけめやも

     右の一首、伝へめるは掾久米朝臣廣繩。


みまかれる悲傷かなしむ歌一首、また短歌 作主未詳

4236 天地の 神は無かれや うつくしき が妻さか

   光る神 鳴り波多はた娘子をとめ 手携ひ 共にあらむと

   思ひしに 心たがひぬ 言はむすべ 為むすべ知らに

   木綿ゆふたすき 肩に取り掛け 倭文しつぬさを 手に取り持ちて

   なけそと 我はめれど きて寝し 妹が手本たもとは 雲に棚引く

反し歌一首

4237 うつつにと思ひてしかもいめのみに手本巻きと見ればすべなし

     右の二首、伝へ誦めるは遊行女婦蒲生なり。


二月きさらきの三日、守の館に会集つどひて宴して、よめる歌一首

4238 君が旅行ゆきもし久ならば梅柳たれと共にかかづらかむ

     右、判官まつりごとひと久米朝臣廣繩、正税帳を以ちて、

     京師みやこのぼらむとす。かれ守大伴宿禰家持、此の

     歌をめり。但越中こしのみちのなか風土くにざま梅花うめ柳絮やなぎ

     三月やよひ咲き初む。


霍公鳥を詠める歌一首

4239 二上ふたがみしじに籠りにし霍公鳥待てど未だ来鳴かず

     右、四月の十六日とをかまりむかのひ、大伴宿禰家持がよめる。


春日かすがにて祭神之日かみまつりせるほど、藤原の太后おほきさきのよみませる御歌一首。即ち入唐大使もろこしにつかはすつかひのかみ藤原朝臣清河きよかはに賜ふ

4240 大船に真楫しじきこの吾子あご唐国からくにへ遣るいはへ神たち


大使つかひのかみ藤原朝臣清河が歌一首

4241 春日野にいつ三諸みもろの梅の花栄えてあり待て還り来むまで


大納言おほきものまをすつかさ藤原のまへつきみの家にて、入唐使もろこしにつかはすつかひ等をうまのはなむけする宴日の歌一首 即チ主人卿ヨメリ

4242 天雲の往き還りなむものゆゑに思ひそがする別れ悲しみ


民部少輔たみのつかさのすなきすけ丹治比たぢひ真人まひと土作はにしがよめる歌一首

4243 住吉すみのえいつはふり神言かむことと行くともとも船は早けむ


大使藤原朝臣清河が歌一首

4244 あら玉の年の緒長くへる子らに恋ふべき月近づきぬ


天平五年いつとせといふとし、入唐使に贈れる歌一首、また短歌 作主未詳

4245 そらみつ 大和の国 青丹よし 奈良の都ゆ

   押し照る 難波に下り 住吉の 御津にふな乗り

   ただ渡り 日の入る国に つかはさる 我がの君を

   懸けまくの 忌々ゆゆし畏き 住吉の が大御神

   ふなに うしはきいまし 船艫ふなどもに み立たしまして

   さし寄らむ 磯の崎々 榜ぎてむ 泊々とまりとまり

   荒き風 波に遇はせず 平けく て還りませ もとの国家みかど

反し歌一首

4246 沖つ波波な立ちそ君が船榜ぎ還り来て津に泊つるまで


阿倍朝臣老人おいひとが、もろこしに遣はさるる時、母に奉れる悲別かなしみの歌一首

4247 天雲のそきへの極みへる君に別れむ日近くなりぬ

     右のくだり八首歌やうたは、伝へ誦める人、越中の大目おほきふみひと

     高安倉人種麻呂なり。但し年月のなみは、聞ける時の

     まにまげたり。


七月ふみつき十七日とをかまりなぬかのひ少納言すなきものまをすつかさ遷任うつされて、悲別かなしみの歌を作みて、朝集使まゐうごなはるつかひ掾久米朝臣廣繩が館に贈貽おくれる二首ふたうた

既に六載の期に満ち、忽ち遷替の運に値ふ。是にふりにしひとに別るるかなしみ、心中に欝結むすぼほれ、涕の袖をのごふ。いかにか能くかはかむ。かれ悲しみの歌二首を作みて、莫忘の志を遺せり。其のうたに曰く

4248 あら玉の年の緒長く相見てしその心引き忘らえめやも

4249 石瀬野いはせのに秋萩しぬぎ馬めて初鷹猟はつとがりだにせずや別れむ

     右、八月はつき四日よかのひ贈れりき。


便ち大帳使をさづけ、八月の五日に、京師にのぼらむとす。此に因りて四日、国のくりやものを介内藏伊美吉繩麻呂が館にけて、うまのはなむけす。その時大伴宿禰家持がよめる歌一首

4250 しなざかる越に五年いつとせ住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも


五日いつかのひ平旦つとめて上道みちだちす。かれ国司くにのつかさ次官すけより、諸のつかさづかさまで、皆共みな視送りす。その時射水いみづこほり大領おほきみやつこ安努君廣島あぬのきみひろしまが門の前の林のうちに、預め饌餞うまのはなむけまけす。時に大帳使大伴宿禰家持が、内藏伊美吉繩麻呂がさかづきを捧ぐる歌に和ふる一首ひとうた

4251 玉ほこの道に出で立ち行くあれは君が事跡こととを負ひてし行かむ


正税帳使まつりごとひと久米朝臣廣繩、事畢りて退任まけところにかへれり。越前国こしのみちのくちのくにの掾大伴宿禰池主が館にき遇ひて、共に飲楽うたげす。その時久米朝臣廣繩が、芽子はぎの花をてよめる歌一首

4252 君が家に植ゑたる萩の初花を折りて挿頭かざさな旅別るどち

大伴宿禰家持が和ふる歌一首

4253 立ちて居て待てど待ちかね出でて来て君にここに逢ひ挿頭しつる萩


みやこまゐのぼる路にて、ことけ預め作める、とよのあかりに侍りて詔をうけたまはる歌一首、また短歌

4254 蜻蛉島あきづしま 大和の国を 天雲に 磐船いはふね浮べ

   ともに 真櫂しじき い榜ぎつつ 国見しせして

   天降あもりまし はらひ平らげ 千代重ね いや嗣ぎ継ぎに

   らし来る あまの日継と 神ながら 我が大皇おほきみ

   天の下 治め賜へば もののふの 八十伴男やそとものを

   撫で賜ひ 整へ賜ひ す国の 四方よもの人をも

   あぶさはず 恵み賜へば 古よ 無かりししるし

   度まねく まをし賜ひぬ 手拱てうだきて 事無き御代と

   天地 日月と共に 万代に 記し継がむそ

   やすみしし 我が大皇 秋の花 しが色々に

   し賜ひ 明らめ賜ひ 酒漬さかみづき 栄ゆる今日の あやに貴さ

反し歌一首

4255 秋の花種々くさぐさなれど色ことにし明らむる今日の貴さ


左大臣ひだりのおほまへつきみ橘の卿を寿ことほかむと、預めよめる歌一首

4256 古に君が三代経て仕へけり我がおほきみは七代まをさね


十月かみなつき二十二日はつかまりふつかのひ左大弁ひだりのおほきおほともひ紀飯麻呂きのいひまろの朝臣が家にて宴する歌三首

4257 手束弓たつかゆみ手に取り持ちて朝狩に君は立たしぬ棚倉の野に

     右の一首は、治部卿をさむるつかさのかみ船王ふねのおほきみの伝へ誦める、

     久邇くに京都みやこの時の歌なり。作主よみひとしらず。

4258 明日香川川門かはとを清み後れ居て恋ふれば都いや遠そきぬ

     右の一首は、左中弁ひだりのなかのおほともひ中臣朝臣清麻呂が伝へ

     誦める、古き京の時の歌なり。

4259 十月かみなつき時雨の降れば我が背子が屋戸のもみち葉散りぬべく見ゆ

     右の一首は、少納言大伴宿禰家持が、当時梨の黄葉もみち

     て、此の歌を作めり。


〔天平勝宝〕四年


壬申みづのえさるの年のみだれ平定たひらぎし以後のちの歌二首

4260 おほきみは神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ

     右の一首は、大将軍おほきいくさのきみ贈右大臣おひてたまへるみぎのおほまへつきみ

     大伴の卿の作みたまふ。

4261 大王は神にしませば水鳥の多集すだ水沼みぬまを都と成しつ 作者未詳

     右の件の二首は、〔天平勝宝四年〕二月の二日に聞きて、

     ここぐ。


閏三月のちのやよひ衛門督ゆけひのかみ大伴古慈悲こじひの宿禰が家にて、入唐副使もろこしにつかはすつかひのすけおやじ胡麿の宿禰等をうまのはなむけする歌二首

4262 唐国からくにに行き足らはして還り来むますら健男たけを御酒みき奉る

     右の一首は、多治比真人鷹主が、副使つかひのすけ大伴胡麻呂

     の宿禰を寿ことほく。

4263 櫛も見じ屋中やぬちも掃かじ草枕旅ゆく君をいはふとひて 作主未詳

     右の件の二首歌ふたうた伝へ誦めるは、大伴宿禰村上、

     同じ清繼等なり。


従四位上ひろきよつのくらゐのかみつしな高麗朝臣福信こまのあそみふくしむみことのりして、難波に遣はし、おほみきさかな入唐使もろこしにつかはすつかひ藤原朝臣清河等に賜へる御歌おほみうた一首、また短歌

4264 そらみつ 大和の国は 水のは つちゆくごとく

   ふなは とこに居るごと 大神の いはへる国そ

   四つの船 ふな並べ 平らけく 早渡り来て

   返り言 まをさむ日に 相飲まむそ この豊御酒とよみき

反し歌一首

4265 四つの船早帰り白紙しらが付けが裳の裾にいはひて待たむ

     右、勅使ヲ発遣シ、マタ酒ヲ賜フ楽宴ウタゲノ日月、

     未ダ詳審ツマビラカニスルコトヲ得ズ。


詔をうけたまはらむが為に、あらかじめよめる歌一首、また短歌

4266 あしひきの 八峯やつをの上の つがの木の いや継ぎ継ぎに

   松が根の 絶ゆることなく 青丹よし 奈良の都に

   万代に 国知らさむと やすみしし 我が大王の

   神ながら 思ほしめして 豊宴とよのあかり す今日の日は

   もののふの 八十やそ伴のの 島山に 赤る橘

   髻華うずに挿し 紐解きけて 千年寿き ほさきとよもし

   ゑらゑらに 仕へまつるを 見るが貴さ

反し歌一首

4267 すめろきの御代万代にかくしこそし明らめめ立つ年の

     右の二首は、大伴宿禰家持がよめる。


天皇すめらみこと太后おほきさきと、共に大納言おほきものまをすつかさ藤原の家にいでましし日、黄葉もみちせる沢蘭さはあらき一株ひともとを抜き取りて、内侍佐佐貴山君ささきやまのきみに持たしめ、大納言藤原の卿また陪従みとも大夫等まへつきみたち遣賜たまへる御歌おほみうた一首

命婦ひめとねとなへてへらく

4268 この里は継ぎて霜や置く夏の野にが見し草は黄葉もみちたりけり


十一月しもつき八日やかのひ太上天皇おほきすめらみこと、左大臣橘朝臣のいへいまして、肆宴とよのあかりきこしめす歌四首

4269 よそのみに見つつありしを今日見れば年に忘れず思ほえむかも

     右の一首は、太上天皇の御製おほみうた

4270 むぐらはふ賎しき屋戸も大王のさむと知らば玉敷かましを

     右の一首は、左大臣橘卿。

4271 松陰の清き浜辺に玉敷かば君来まさむか清き浜辺に

     右の一首は、右大弁藤原八束朝臣。

4272 天地に足らはし照りて我が大王敷きませばかも楽しき小里をさと

     右の一首は、少納言大伴宿禰家持。 未奏。


二十五日はつかまりいつかのひ新嘗会にひなへまつり肆宴とよのあかりに、詔をうけたまはる歌六首

4273 天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき

     右の一首は、大納言巨勢朝臣。

4274 天にはも五百いほつ綱ふ万代に国知らさむと五百つ綱延ふ

     右の一首は、式部卿のりのつかさのかみ石川年足としたり朝臣。

4275 天地と久しきまでに万代に仕へまつらむ黒酒くろき白酒しろき

     右の一首は、従三位ひろきみつのくらゐ文屋ふむやの智努麻呂ちぬまろの真人まひと

4276 島山に照れる橘髻華うずに挿し仕へまつらな卿大夫まへつきみたち

     右の一首は、右大弁藤原八束朝臣。

4277 そて垂れていざ我が苑に鴬の木伝こづたひ散らす梅の花見に

     右の一首は、大和国守おほやまとのくにのかみ藤原永手ながて朝臣。

4278 あしひきの山下日蔭かづらける上にやさらに梅をしぬはむ

     右の一首は、少納言大伴宿禰家持。


二十七日はつかまりなぬかのひ、林王の宅にて、但馬たぢまの按察使あぜちし橘奈良麻呂の朝臣をうまのはなむけせる宴歌うた三首

4279 能登川の後は逢はめどしましくも別るといへば悲しくもあるか

     右の一首は、治部卿船王。

4280 立ち別れ君がいまさば磯城島しきしまの人は我じくいはひて待たむ

     右の一首は、右京少進みぎのみさとつかさのすなきまつりごとひと大伴宿禰黒麻呂。

4281 白雪の降り敷く山を越え行かむ君をそもとな息の緒にふ 左大臣尾ヲ換ヘテ云ク、いきのをにする。然レドモ猶喩シテ曰ク、前ノ如ク誦メト。

     右の一首は、少納言大伴宿禰家持。


五年いつとせといふとし正月むつき四日よかのひ治部少輔をさむるつかさのすなきすけ石上朝臣宅嗣いそのかみのあそみいへつぐが家にて、宴する歌三首

4282 こと繁み相問はなくに梅の花雪にしをれて移ろはむかも

     右の一首は、主人あろじ石上朝臣宅嗣。

4283 梅の花咲けるが中にふふめるは恋やこもれる雪を待つとか

     右の一首は、中務大輔なかのまつりごとのつかさのおほきすけ茨田王まむたのおほきみ

4284 あらたしき年の初めに思ふどちい群れて居れば嬉しくもあるか

     右の一首は、大膳大夫おほかしはでのつかさのかみ道祖王みちのやのおほきみ


十一日とをかまりひとひのひ、大雪落積もれること、尺有二寸ひとさかまりふたきかれ拙懐おもひを述ぶる歌三首

4285 大宮の内にもにもめづらしく降れる大雪な踏みそね惜し

4286 御苑生みそのふの竹の林に鴬はしば鳴きにしを雪は降りつつ

4287 鴬の鳴きし垣内かきつににほへりし梅この雪にうつろふらむか


十二日とをかまりふつかのひ内裏おほうちさもらひて、千鳥を聞きてよめる歌一首

4288 河渚かはすにも雪は降れれや宮の内に千鳥鳴くらし居むところ無み


二月きさらき十九日とをかまりここのかのひ、左大臣橘の家の宴に、攀ぢれる柳のえだを見る歌一首

4289 青柳あをやぎ上枝ほつえ攀ぢ取りかづらくは君が屋戸にし千年寿くとそ


二十三日はつかまりみかのひことけてよめる歌二首

4290 春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも

4291 我が屋戸の五十笹いささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕へかも


二十五日はつかまりいつかのひ、よめる歌一首

4292 うらうらに照れる春日はるひに雲雀あがり心悲しも独りし思へば

     春ノ日遅々ウラウラトシテ、ヒバリ正ニ啼ク。悽惆ノ意、

     歌ニアラザレバ撥ヒ難シ。仍此ノ歌ヲ作ミ、式テ

     締緒ヲ展ク。但此ノ巻中、作者ノ名字ヲハズ、

     タダ年月所処縁起ヲノミ録セルハ、皆大伴宿禰家持

     ガ裁作セル歌詞ウタナリ。