ローマ人への手紙注解 (アンブロシアステル)/第9章
第9章
[編集](1-3節) わたしはキリスト・イエスにあって真実を語り、偽りを言いません。わたしの良心は聖霊によって証ししています。なぜなら、わたしは心の中に大きな悲しみと絶え間ない痛みを持っているからです。肉による同胞であるイスラエル人のために、わたし自身がキリストに呪われた者となればよいのにと思うほどです。パウロは、律法によって義とされていると考えるユダヤ人に対して、上のようなことを語っているように見えますが、パウロは彼らに対する好意と愛情を示すために、良心が証しし、キリスト・イエスと聖霊によって語っていると言っています。ですから、パウロはキリストと聖霊を証人として立てています。このお二人には何も隠されておらず、その証しは否定できません。こうして、使徒によって行ったしるしの力によって、使徒を推薦するのです。なぜなら、それはキリストの偉大な守りであり、人類への特別な愛と、キリストの御心によって約束された栄光に満ちた不滅の報いを示しているからです。そして、それによって彼は肉に従う同胞を悲しませています。彼らは不信仰によって、この永遠の有益な恩恵を自ら失ってしまったからです。それゆえ、私は願った、と彼は言います。「私は願わない」。彼は、何の前科もない、これほど尊い者がキリスト教の団体から切り離されることはあり得ないことを知っているからです。それでも彼は同胞への愛情と愛を示しています。
(4節) その養子縁組は息子たちです。彼は同胞の称賛を説教する際に、自分が悲しんでいることを正当に証明しています。なぜなら、かつて養子縁組された息子たちは、父なる神の愛情と恵みを無駄にしてしまったからです。彼はさらに、他の人々に彼らのために悲しませるために、こう付け加えました。
(5節) 栄光、遺言、律法、従順、約束。その父祖たちと、肉におけるキリスト、すべてのものの上におられる方、神は永遠に祝福されます。アーメン。パウロはユダヤ人の気高さと尊厳、そして約束について、非常に多くの宣言を列挙し、それらに対する悲しみをすべての人に抱かせています。なぜなら、彼らは救い主を受け入れなかったことで、父祖の特権と約束の価値を失い、かつて神を持たないために忌み嫌っていた異邦人よりも悪い者になったからです。尊厳を持たないことよりも、尊厳を失うことの方が、むしろ悪である可能性が高いからです。一方、パウロは救い主についてこう言っています。
すべてのものの上におられる方、神は永遠に祝福されます。アーメン。父の名が挙げられず、キリストについて語られるとき、それを延期することはできません。そうしないと、神と呼ばれることになるからです。聖書は、唯一の神を公言しているがゆえに、父なる神について語り、御子を神に結びつける場合、しばしば父なる神を、御子を主と呼んでいます。しかし、もしキリストについて「神は誰か」と言われていることを理解できない人がいるなら、言われている御方を述べなさい。なぜなら、この箇所では父なる神について何も言及されていないからです。しかし、この箇所でキリストが万物の上に立つ神について公然と語っていたとしても、何の不思議もありません。神については、別の手紙で次のように述べられています。「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの、すべてのものがひざまずく」(ピリピ2章10節)これらはすべて、キリストが神であるものです。これら以外に、キリストが万物の上に神でないものは一つもありません。神以外に、いかなる被造物もひざまずくことはできません。最後に、天使について知らなかった使徒ヨハネが神を礼拝しようとしたとき、彼は天使からこう言われました。「そうしてはいけません。私はあなたの仲間のしもべです。」神を礼拝しなさい、と彼は言います(黙示録 19章10節)。また、主が神でなければ、崇拝されることを決して許さないでしょう。そうでなければ、主は権力を奪い、罪を犯したと言われなければなりませんが、それは決してそうではありません。なぜなら、主ご自身が悪魔を叱責して、主なる神だけが崇拝されるべきであり、主にのみ仕えられるべきであることを示しています(マタイ 4章10節)。したがって、キリストが神として崇拝されるとき、父なる神に対して何の偏見もありません。なぜなら、神だけに仕えるべきであると言われるとき、キリストも仕えられるからです。彼は別の箇所でこう言っています。「このようにキリストに仕える者は神を喜ばせる」(ヨハネ 10章4節)。では、父が神であり、子も神であるということ以外に何が残るでしょうか。しかし、両者は一つの神であると信じられています。父を崇拝する人も子を崇拝する人も、一つの神を崇拝していると言われています。そして、父に仕える人も子に仕える人も、一つの神に仕えることです。80 したがって、区別はありません。御子を礼拝する者は、御父をも礼拝するからです。そして、御父に仕える者は、御子をも礼拝するのです。そして、この神性を、お世辞抜きで告白できることを教えるために、パウロは結びに「アーメン」、すなわち真実という言葉を付け加えました。これは、キリストがすべてのものの上にあり、真実に、永遠に祝福された神であることを示すためです。
(6節) しかし、神の言葉は失敗しませんでした。神の言葉はこう言われました。「イサクによってあなたの子孫が呼ばれるであろう」(創世記21章12節)。つまり、神が約束されたことが実現したのです。こうして、肉によるアブラハムの子であった彼らは、アブラハムの子孫と呼ばれたのではなく、イサクが生まれた信仰を受けた者たちが、キリストの時代に改められ、もはや特別な存在ではなく、一般的な存在となりました。こうして、アブラハムがイサクについて信じたように、彼らは神とキリストについて信じるようになったのです。神の御子は人類の救いを贖うために生まれたからです。
(7節) イスラエルから生まれた者が皆イスラエル人であるわけでもなく、アブラハムの子孫だからといって皆が息子であるわけでもありません。イサクによってあなたの子孫が呼ばれるのです。彼が理解したいのは、すなわち、アブラハムの子であるというだけで、今すべての人がふさわしいわけではないということである。しかし、約束の子である者、すなわち、ユダヤ人からであれ異邦人からであれ、神が約束を受けることをあらかじめ知っていた者はふさわしいのである。彼らはイスラエル人、すなわち、神を見て信じる者と呼ばれるにふさわしいからである。確かに、これらの者は皆イサクから出たアブラハムの子である。ユダヤ人の子孫はすべて、イサクを通してアブラハムから出たからである。しかし、私が言ったように、これらの者は真にアブラハムの子であり、イサクにおいてなされた約束に従っている。したがって、残りの者はアブラハムの子とは呼ばれない。アブラハムは信じ、信仰のゆえに、すなわち神を信じたゆえにイサクを授かったからである。ここに、将来の信仰の奥義が示される。すなわち、彼らはイサクが生まれたのと同じ信仰を持ったイサクの兄弟となるということである。イサクは約束によって救い主の型に生まれたからです。ですから、キリスト・イエスがアブラハムに約束されたと信じる者は、アブラハムの子であり、イサクの真の兄弟です。それゆえ、アブラハムには、『あなたの子孫によってすべての国民は祝福される』と言われた(創世記22章18節)。これは確かにイサクにおいてではなく、イサクにおいてアブラハムに約束された方、すなわちキリストにおいて成就しました。このキリストを信じるすべての国民は祝福されます。ですから、残りのユダヤ人は肉の子でありながら約束を受けていないのです。また、アブラハムがふさわしい者とされた信仰に従わない彼らは、アブラハムにふさわしい者とみなされる資格がありません。
(8節) つまり、肉の子らではなく、彼らは神の子らです。約束の子らが子孫に数えられるのです。肉の子らが神の子と呼ばれることは明らかです。なぜなら、彼らは肉の欲によって生まれたからです。しかし、アブラハムに与えられた約束に従って、霊的な意味で約束の子らなのです。こうして、彼らは信じた子孫と数えられるのです。
(9節) 約束の言葉はこうです。「わたしは今ごろ来る。サラは男の子を産む。」これは創世記に記されており、キリストにおいて予示されていました。それは、将来のキリストがアブラハムの子として約束され、彼において約束の言葉が成就し、地のすべての国々がキリストにおいて祝福されるためでした。アブラハムに約束が与えられ、彼が「あなたの子孫によって地のすべての国々が祝福される」と聞いたとき、キリストは確かにイサクの背きを通して彼に約束されていました。そして、私たちはイサクにおいてこの約束が成就するのを見ます。
(10節) サラだけでなく、リベカも、一つの交わりによって私たちの父イサクを産みました。ですから、サラがイサクを型として産んだと言っているだけでなく、イサクの妻リベカも産んだと言っているのです。しかし、イサクには一つの理由があり、ヤコブとエサウには別の理由があります。イサクは救い主の型として生まれたからです。しかし、ヤコブとエサウは二つの民、すなわち信者と不信者の型です。ですから、彼らは一つから生まれたにもかかわらず、異なるのです。それぞれに類が表されているので、信仰の因、あるいは不信仰の因において一つである者は、一つの類であると言われています。一つは多くの者において表されるのですが、それは肉体の移り変わりによってではなく、共通の因によって表されるのです。なぜなら、エサウからはヤコブが息子と呼ばれ、ヤコブからはエサウが息子とみなされるからである。ヤコブが称賛されているから、彼から生まれた者すべてが彼の息子と呼ばれるのは当然のことではない。あるいは、エサウが気に入らないから、すべてが彼の起源からして失格者なのだ。ヤコブからは転生した子供たちが裏切り者となり、エサウからは神に忠実で愛された子供たちが生まれるのを見るからである。ヤコブから多くの者が裏切り者となることには、疑問の余地はない。ユダヤ人は皆、信者であろうとなかろうと、彼から出ている。そして、彼らがエサウから出た善良で忠実な者であることは、アブラハムから5代目、すなわちエサウの孫であるヨブによって証明されている。
(11-13節) 彼らがまだ生まれておらず、善も悪も何も行っていないとき、選びによって神の計画が、行いではなく、召された者によって残るように、兄は弟に仕えると言われています。「わたしはヤコブを愛したが、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。これはマラキ書に記されています。マラキ書はこれらの原因について神の予知を要求します。なぜなら、神が将来起こることを知っておられること以外には、何事も起こり得ないからです。神は、それぞれの人がどうなるかを知っておられたので、「この者はふさわしい者となり、小さい者はより大きく、ふさわしくない者となる」と言われました。神は予知によって一方を選び、他方を軽蔑されました。そして、ご自身が選んだ者のうちに、神の計画は存続します。なぜなら、神が知っておられ、その人のうちに定められたこと以外には、何事も起こり得ないからです。神が軽蔑した者のうちにも、同じように、神がその人について立てられた計画は存続します。なぜなら、その人はふさわしくない者となるからです。これはあたかも、人を差別せず、予知しているかのようです。なぜなら、神は罪を犯す前に人を罪に定めず、勝利する前に王冠を授けることはしないからです。これは、自分たちがアブラハムの子孫であるという特権を擁護するユダヤ人たちの主張に関係しています。しかし使徒パウロは、かつて、息子として養子とされ、律法を制定された者たちの不信仰のために、絶えず心を痛めていると言っていたように、自ら慰めています。救い主であるキリストも、自ら「救いはユダヤ人から来る」(ヨハネ4章22節)と言っています。律法について論じた後、パウロは、イスラエル人である者が皆信じるわけではないこと、また、私が上で述べたように、アブラハムの子孫と呼ばれているからといって、皆がアブラハムの子孫と呼ばれるわけではないことを知ります。ですから、パウロは、かつて皆が信じるわけではないと預言されていたことを知り、悲しみを和らげます。そして、嫉妬によって不信仰に陥る者たちのためにのみ、嘆き悲しむのです。それでも彼らは信じることができる、と彼は主題から説き始めます。しかし、予言された不信者たちのために、ひどく悲しむべきではありません。なぜなら、彼らは命に定められていないからです。神の予知は、彼らが救われるべきではないと、一度定められたからです。一度死んだ者とみなされた者のために、誰が嘆くでしょうか。しかし、かつて神に属さなかった諸国民が、救いに入り、失った救いを得るとき、悲しみは呼び起こされます。しかし、彼らは自ら滅びの原因となったため、悲しみは眠りに落ちます。それゆえ、神は彼らが悪意を持つことを予知して、彼らを善人の数に加えませんでした。救い主は、第二の組で選び、後に御自身から去った72人の弟子たちに、「あなたがたの名は天に書き記されている」(ルカ10章20節)と言われました。これは正義のためであり、正しいことだからです。各人がその功績に応じて報いを受けるためです。彼らは善人であったからこそ、奉仕のために選ばれたのです。そして彼らの名は、わたしが言ったように、正義のために天に書き記されていた。しかし予知によれば、彼らは悪者の数に数えられた。神は予知ではなく、正義によって裁かれるからである。それゆえ神はモーセにこうも言われた。「もし人がわたしに対して罪を犯すなら、わたしは彼をわたしの書から消し去る」(出エジプト記 32章34節)それは、裁く人の正義によれば、彼が罪を犯したときに消し去られたことが示されるためである。しかし予知によれば、彼は決していのちの書に記されていないかもしれない。それゆえ使徒ヨハネもそのような人々についてこう言っている。「彼らは私たちから出て行ったが、私たちの仲間ではなかった。もし私たちの仲間であったなら、必ず私たちと一緒にとどまっていたであろう」(ヨハネの手紙一 2章20節)。神の予知には、人を差別しない。なぜなら、予知によって神は、各人の将来がどうなるかを定め、どの状態にとどまるか、どの状態にとどまるかを定めておられるからである。最後に、神が善にとどまると知っておられる人々は、以前はしばしば悪であり、また神が悪にとどまると知っておられる人々は、以前は時々善良であった。これで不満は止む。なぜなら、神は人を差別しないからである(使徒行伝 10章34節)。聖書がサウロについて「彼は善良な人であった。イスラエルの子らのうちに、彼より偉大な者はいなかった」(サムエル記上 9章2節)と言っている通り、サウロもイスカリオテのユダも以前は善良であった。また、使徒ペテロはイスカリオテのユダについて「この務め、すなわち、しるしと不思議を行う使徒職に割り当てられた者は誰ですか」(使徒行伝 1章17節)と言っている。では、彼が善良でなければ、どうして救いの務めが割り当てられるでしょうか。というのは、神のくじの判断において、彼が選ばれた時に、私が上で述べた72人のように選ばれるのは当然のことであったからです(マタイによる福音書 17章5節)。ユダもまた、あらゆる悪の罪を認めた後、悔い改めの心に突き動かされ、絞首縄で自らの命を絶ったのである。なぜなら、いかなる者においても、すべての善を完全に消し去ることは不可能だからである。なぜなら、自然は変えられないが、意志は変えられるからである。しかし、すべての原因においてそうであるわけではない。なぜなら、善は創造主への証しとなるため、自然に残るからである。
(14節) では、何と言えばよいでしょうか。神に不義があるのでしょうか。とんでもない。なぜなら、一方を愛し他方を憎む神は、こう付け加えている。[82] 神に不義があるのだろうか (出エジプト記 33章19節)。はっきりとは言えないが、神は公正である。神は自分のなすことを知っており、その裁きは撤回されないからである。このことは、預言者マラキにこうある。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ (マラキ書 1章3節)」。神は今、裁きについてこう言っています。「兄が弟に仕える」と、予知について以前に言われたのは、ちょうどファラオが自らを正さないことを知って予知していた (創世記 25章23節) のと同様です。しかし神は、自分を迫害していた使徒パウロを選び (使徒行伝 9章3節)、彼が善良な者であることを予知して知っていたのです。このように、神は必要であったので、時が来る前にこれを予知していたのです。そして、神は来るべき裁きの前にファラオを罪に定め、ご自身が裁かれることを信じさせるためでした。
(15節) 神はモーセにこう言われました。「わたしは、わたしがあわれもうとする者をあわれみ、わたしがあわれもうとする者をあわれむ。」それゆえ、わたしはあわれもうとする者をあわれむ、と神は言われました。「わたしはあわれもうとする者をあわれむ。」つまり、わたしがあわれもうとあらかじめ知っていた者、すなわち、悔い改めてわたしと共に留まると知っていた者をあわれむ、ということです。また、わたしがあわれもうとした者をあわれむ、つまり、誤りを犯した後に正しい心でわたしのもとに立ち返るとあらかじめ知っていた者をあわれむ。」これは、与えるべき者には与え、与えない者には与えないことです。それは、自分が従うべき者を召し出すためであり、自分が従うべき者を召し出すためではありません。今、呼びかけることは戦うことではなく、信仰を受け入れるように彼を刺激することです。
(16節) ですから、それは望む者や走る者の意志によるのではなく、あわれみ深い神によるのです。それは正しいことです。なぜなら、何を求めるかは、求める者の意志ではなく、与える者の判断によるからです。与えるべきかどうかは、与える者の判断で判断されなければなりません。サウルは罪を犯したのに赦しを求めたが、得られませんでした(サムエル記上15章24節)。しかしダビデは、彼に対して罪を犯して赦しを求めたので、赦しを得ました(サムエル記下12章8節)。このことから、与える神と与えない者の裁きが必ず生じます。なぜなら、神は不当に裁かず、すべての人が救われて正義が保たれることを望んでおられるからです。心を探る者は、求める人が受けるにふさわしい心で求めるかどうかを見極めます。神の裁きを見分けるのは危険ですが、しかし、不信心な者たちが神の裁きを不当と考え、「神はある者を召し、別の者を無視する」などと言わないように、心に救いを求めるべきです。このようにして、罪に定められた者たちは赦されると考えるのであれば、言葉ではなく行いによって証明しましょう。なぜなら、実際に行われた例があるところでは、誰も文句を言ったり、弁解したりする勇気はないからです。ダビデとサウルは二人いました。神の裁きの後、それぞれがどのような者であったか、彼らの経歴を調べてみましょう。ですから、もしサウルが憐れみを受けなかった後に善行を行ったことが証明されれば、神の裁きは不当であると判断できますが、決してそうではありません。あるいは、ダビデが憐れみを受けた後に神を軽蔑したことが判明したり、憐れみを受けたままの状態にとどまったりしたとすれば、要約すれば、両者とも王国の必要に迫られたことになります。そして、息子がダビデから王国を奪おうとしたとは、ダビデの必要はどれほど大きかったことでしょう。一体どんな必然から、彼は裸足で泣きながら旅をしたのでしょうか。神の民の指導者であり王である彼は、あまりの屈辱に、自分を呪った家来に面と向かってさえ答えようとしなかったのです。忍耐することで、神の宥めを得ようとしたのです。彼は、王国は神によって自分のために用意されていると信じていました(サムエル記下 15章16節)。しかし、サウルはそのような必然に陥りませんでした。内紛は外紛よりも大きな害悪だからです。さらに、一度も聞き入れてもらえず、自分がふさわしくない者であったことを痛感したサウルは、祈りを続けることもしませんでした。功績を積んでふさわしい者となろうとしたからです。神の裁きに我慢できず憤慨したサウルは、以前に取るに足りないものとして断罪した偶像に助けを求めたのです。見よ、神の予知による裁きは正当であり、それを望まない者にも明らかです。
(17節) 聖書はファラオにこう言っている (出エジプト記 9章16節) : 「わたしは、このためにあなたを保存しておいた。わたしの力を、あなたによって示し、わたしの名を全地に宣べ伝えるためである。」 他の写本にはこうある : 「このために、わたしはあなたを立てた。わたしの力を、あなたによって示すためである。」 わたしがあなたを保存したのか、立てたのかは意味が分かれる。彼がこう言うのは、ファラオはエジプト人の間でも王の名前であったが、ローマ人の間でも王はアウグストゥスと呼ばれていたからである。それゆえ、このファラオは多くの悪事を犯したので、生きるに値しない者となった。そのため、彼は悪事に固執し、改めようとしなかった。彼は、自分の生き方が正しかったのか、それとも神は騙されていると度々思っていたため復讐する力がなかったのか、どちらかだと考えた末、神から次のような言葉を聞きました。「わたしは、あなたを守った。わたしの力をあなたの中で示し、わたしの名が全世界に言い渡されるためである。これによって他の諸国民は、かつてユダヤ人であり、キリスト教徒となったこの方の他に神はいないことを知るようになるためである。彼らはキリスト教徒であったが、わたしたちも今はユダのゆえにユダヤ人である。肉によればキリストはユダから出たのである。なぜなら、古代のユダヤ人は、将来の贖い主キリストを待ち望んでいたからである。遊女ラハブが、以前はオクセスと呼ばれていたナバテ人ヨシュアが遣わした斥候たちにこう言う。『あなたの神がエジプトで行われた奇跡と災害が、ここでも聞かれて、彼らは非常に恐れています。彼らはあなたの顔を恐れているからです』(ヨシュア記 2章9節)それゆえ、ファラオは、あたかも既に死んでいるかのように、多くのしるしと災いが彼に現れるように、生きたままにされたのです。しかし、彼は復活したと言われています。なぜなら、神と共に死んだ後、生き返る短い期間を与えられたからです。そのため、死に至るまでのファラオの罰と様々な苦しみの中で、神を知らず、恐怖に震えていたすべての人々は、この神こそが唯一の神であり、この神によって復讐が行われるのだと、最大の称賛をもって告白するでしょう。このように、古代の医師たちも、死に値する者、あるいは死刑判決を受けた者の中に潜む生命を暴くことで、どのような利益が得られるかを探りました。それによって病の原因を知り、死にゆく者への罰が生きている者の救いに役立つようにするためです。
(18節) それゆえ、神は御心に適う者を憐れみ、御心に適う者を頑なにする。そうあなたは私に言う。彼は、まるで神が正義を無視して、ある者を慈悲深く扱っているかのように、反論する者の人格をもって語っている。つまり、彼は二人のうち一方を受け入れ、他方を拒絶する。つまり、一方を罰して信じさせ、他方を頑なにして信じさせないようにするのです。彼は権威をもって、しかし正義を保ちつつ、前述の予知に基づいて、こう答えた。
(19節) さらに何が問われているでしょうか。誰が神の御心に逆らえるでしょうか。まず、神は抵抗できないから、と仰せになります。なぜなら、神はすべてのものよりも力強いからです。次に、神は万物の神であり父であるから、誰も病むことを望まれないからです。神は、ご自身が造られたものが傷つけられることなく保たれることを望んでおられるからです。神が不公平であるはずがありません。神の慈悲は明らかであり、存在しないものを存在するように創造されただけでなく、御自身の御業に神の威厳が少しでも備わるように、自ら永遠の命と栄光を与えようとしておられるからです。ですから、このように賢明で慈悲深い神が、ご自身が正しいことを疑うべきではありません。
(20節) ああ、人よ、神に答えるとは、あなたは何者か! 逆境において、正義に対して不正、善に対して悪、完全な者に対して未熟、最強に対して弱者、不滅に対して朽ちるもの、不死に対して死すべき者、主人に対して邪悪な
(21節) 陶器師は、同じ土塊から、尊ぶ器と卑しめる器を作る力を持っていないでしょうか。尊ぶべき器、尊い用途に必要な器もあれば、卑しめるために作られた器、つまり台所の道具もあることは明らかです。しかし、それらは同じ物質からできているにもかかわらず、作り手の意志によって尊さが異なります。同じように、私たち皆、同じ物質からできており、皆罪人である神も、ある者を憐れみ、ある者を軽蔑されますが、それは正義によるものです。陶器師には意志しかありませんが、神には意志と正義があります。なぜなら、前述したように、神は誰を憐れむべきかを知っておられるからです。
(22節) しかし、神は怒りを現し、その力を明らかに示そうとされたので、滅びるために用意された怒りの器を、大いなる忍耐をもって耐え忍ばれたのです。まさにその意味は、神の意志と寛容、すなわち忍耐によって、不信者は罰に備えられているということです。彼らは長い間待ち望まれていたにもかかわらず、改心しようとはしませんでした。それゆえ、彼らは言い訳なく滅びるように待ち望まれていたのです。神は彼らが信じないことをご存じでした。
(23節) そして、栄光のために備えられた憐れみの器において、ご自身の栄光の豊かさを知らせるためでした。神の忍耐と寛容は、悪を滅びに備えさせるのと同じように、善を冠に備えさせるのです。信仰の希望を持つ者は善良だからです。神はすべての人を忍び、それぞれの終わりを知っておられます。この忍耐こそが、悪から戒められ、善に堅く立つ者を栄光に備えさせるのです。栄光の富とは、信者のために備えられた多様な尊厳です。しかし、善から悪に転じ、すでに始まった悪にとどまる者には、神は滅びに備えられます。これは、多くの忍耐において神の力を明らかに示すためです。彼は復讐をしないと考えられている。なぜなら、彼は長い間隠れているからだ。彼が復讐を始めると、その力は明らかになる。彼はすぐに復讐できるが、長い間耐え忍んだ。それは、不忠実な者たちが罪に定められても文句を言わないようにするためである。[84] しかし、各人に備えることは、何が起こるかを予知することです。
(24節) 神はユダヤ人だけでなく、異邦人も召されました。召された人々は、近くにいる者も遠くにいる者も、信仰にとどまることを知りながら、栄光のために備えられました。
(25、26節) ホセア書でこう言われています。「わたしは、わたしの民でなかった者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。わたしの民と呼ばれなかった場所で、彼らは生ける神の子と呼ばれる。」これは明らかに、以前は神の民ではなかった異邦人について預言されていました。しかし、後にユダヤ人の非難を受けながらも、憐れみを受けて神の民と呼ばれるようになりました。以前は愛されていなかった者たちは、ユダヤ人に拒絶され、神の子とされ、愛されました。それは、神の民と呼ばれなかった場所で、生ける神の子と呼ばれるようになるためでした。なぜなら、以前はユダヤ、すなわち神の家があったエルサレム以外では、彼らは神の子と呼ばれたことがなかったからです。詩篇75篇にはこうあります。「神はユダヤで知られている」(詩篇75篇2節)。しかしその後、ゼカリヤの預言の中でこう言われます。「わたしはエルサレムをすべての国々の中に置く」(ゼカリヤ書12章2節)。神の子たちはどこにでも存在し、神の家、すなわち教会はあらゆる場所に存在するようになるからです。それゆえ、主はユダヤ人にこう言われました。「神の国はあなた方から取り去られ、神の実を結ぶ民に与えられる」(マタイ21章43節)。
(27節) しかし、イザヤはイスラエルのために叫び求めています。イザヤがこのように言うのは、キリストを信じる者たちのために叫んでいるからです(イザヤ書 10章22節)。主がナタナエルに言われたように、彼らは真のイスラエル人です。「見よ、まことのイスラエル人。この人には偽りがない」(ヨハネによる福音書 1章47節)。
イスラエルの子らの数が海の砂のようであっても、残りの者は救われるでしょう。ユダヤ人が先祖の功績と約束から離れ、それを受けないとしても、先祖に与えられた約束への信仰を信じ、堅く立ち、忠実となる者たちこそ残りの者です。彼らは律法から離れ、律法だけが救いのために十分であると約束された方を信じないからです。それゆえ、キリストを受け入れないにもかかわらず、律法を犯す罪を犯している彼らは、背教者とみなされる必要があるのです。それゆえ、最も多くの群衆の中で、神があらかじめ知っておられた信じる者だけが救われると、彼は言っています。
(28節) 言葉は公平さにおいて完成し、短縮されます。なぜなら、主は地上で短縮された言葉を造られるからです。主は、残りの者と仰る者たちを、言葉によって救うと約束されます。言葉は正しく定義され、主は地上でその言葉を短縮されました。被造物が創造主である主の御名によってのみ、すなわち信仰によって救いを得るのは当然のことです。なぜなら、すべての新月、安息日、割礼、食物の律法、動物の供え物を取り除き、信仰だけが救いのために定められたからです。信仰は律法から短縮されます。なぜなら、信仰にあるものは、律法の根本として律法に含まれているからです。救い主はこう言われます。「モーセはわたしについて書きました」(ヨハネ5章46節)。したがって、律法が短縮されたので、ユダヤ人の残りの者は救われるが、残りの者は救われない。なぜなら、彼らは神が人類を救うために定めた定義によって軽蔑されているからである。
(29、30節) そしてイザヤはこう預言しました。「万軍の主が私たちに子孫を残してくださらなかったなら、私たちはソドムのようになり、ゴモラのようになっていたでしょう」(イザヤ書 1章9節)。人類の改革のために残されたこの子孫こそがキリストであり、キリストの教えです。キリスト自身もこう言っています。「子孫とは神の言葉である」(ルカによる福音書 8章11節)。ですから、かつて私たちに約束されたこの子孫は、律法の重荷を取り去り、贖いのために残されました。罪の赦しを与えてくださったので、ソドムが滅びたように、私たちは律法によって罰せられることはありません。ですから彼は、律法では与えられなかった命の支えとして、救い主が私たちに残されたと語っています。神は初めからこの救い主が生まれることを定められていました。この救い主は、唯一罪のない方であり、人類の敵を打ち負かし、すべての罪を消し去る方です。ヨハネの黙示録にも、この言葉が見られます。「死を征服した救い主のほか、天にも地にも、この書物とその封印を解くにふさわしい者は、ひとりもいなかった」(黙示録 5章3節)とヨハネは言っています。ですから、これこそ神がかつて約束された種であり、ユダヤ人と異邦人を問わず、すべての人の罪が満たされたときに実を結ぶと約束されたものです。その実は罪の赦しです。もしキリストが取っておかれていなかったなら(だからこそ神は彼を子孫と呼ぶのです。キリストを通して人類が回復されたからです)、アブラハムの子孫は滅びていたでしょう。彼らは罪に圧倒され、律法は彼らを益することができなかったからです。ですから、キリストは私たちに、いのちの守りを与えてくださった方に従うようにと教えておられるのです。
では、私たちは何と言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人は、義を理解したのです。それは信仰による義です。[85] 義は律法の中にあります。律法は世に委ねられ、罪を犯すことを禁じています。それゆえ、異邦人は生まれながらに教師として知られているこの義ではなく、キリストを信じる信仰による義を理解していない、とパウロは言います。なぜなら、これこそ神に対する真の義であり、もし認められるならば、永遠の義だからです。万物は父なる神から出ており、万物は御子キリストを通して存在していることを知っているほど正しいことは何でしょうか(1コリント8章6節)。ですから、第一の義は創造主を認め、次に創造主の命じたことを守ることです。それゆえ、以前は義、すなわち創造主の証しとなる律法を求めなかった異邦人は、キリストの来臨の際に、律法学者やパリサイ人の義を越える義を見出したのです。当時、より小さいものに従わなかった人々は、後に、より大きいものを理解しました。しかし、律法の下に置かれたユダヤ人は、より進歩するはずでしたが、堕落していきました。
(31節) イスラエルは義の律法に従いながらも、義の律法には達しませんでした。律法の完全性は信仰であり、異邦人は信仰を理解して、律法全体を成就しているように見えます。しかしユダヤ人は、ねたみによって救い主を信じず、律法で命じられた義、すなわち安息日や割礼などを主張しましたが、律法には達しませんでした。つまり、律法を成就しなかったのです。律法を成就しない者は、律法によれば罪人です。モーセの律法からキリストへの信仰に移った者によって、律法は成就するのです。
(32節) なぜでしょうか。信仰によるのではなく、いわば行いによるものだからです。彼らは、私が述べたように、律法の完成である信仰を拒み、律法の行い、すなわち安息日、新月、割礼などによって義とされたと主張しました。「義人は信仰によって生きる」(ハバクク書 2章4節)という聖書の言葉を忘れていたのです。しかし、律法の義がこのように呼ばれるのは、神の正しい裁きによって、ユダヤ人が心の頑固さゆえにこれらのことを与えられたからです。まるで死んだイタチを踏んだり、死肉に触れたり、ネズミが器に落ちたりしたなら、その人は汚れた者とみなされるでしょう(レビ記 11章29節)。彼らは、どんな原因であれ、自分が汚れているかもしれないことを、非常に注意深く見守っていました。しかし、イタチの血が舗道を汚したとしても、軽々しく償うべきではなく、彼らは最上の食物を控えるべきでした。しかし、安息日と割礼は、その時代にはそれ自身の正当性を持っていました。なぜなら、それらは象徴的に与えられたからです。主は預言者エゼキエルを通して、とりわけこう言われました。「それゆえ、わたしは彼らに良くない戒めを与えた」(エゼキエル書 20章25節)。彼らは不敬虔で不忠実であったからです。しかし、キリストが来臨されたとき、救いの賜物を授けようとされていたので、エレミヤを通してこう宣べ伝えられました。「わたしは彼らに新しい契約を与える。それは彼らの先祖に与えたものとは異なる」(エレミヤ書 31章32節)。彼はこの契約を律法と呼んでいますが、前述したように、彼らはその律法には達しませんでした。なぜなら、信仰を持つユダヤ人が、信仰を持つ異邦人にこの遵守の重荷を負わせようとした時、使徒ペテロはこう言いました。「なぜあなたたちは兄弟たちの首に、私たちも先祖も負うことのできなかったくびきを負わせるのか」(使徒行伝 15章10節)律法で約束された免責は、キリストの時代から与えられているからです。預言者イザヤはこう言っています。「シオンから救い出す者が出て、ヤコブから不敬虔を取り去る。わたしが彼らの罪を取り除くとき、これがわたしと彼らと結ぶ契約である。」(イザヤ書 59章20節)すなわち、神がキリストにおいて約束された新しい契約です。
(33節) 彼らは、つまずきの石でつまずきました。聖書にこう書いてあります。「見よ、わたしはシオンにつまずきの石、妨げとなる岩を置く。これを信じる者は、決して落とされない。」これはイザヤ書に記されています (イザヤ書 8章14節、28章6節)。多くの人の証言により、キリストはこの岩または石によって象徴されていることが分かっています。預言者ダニエルはこの石について語っており、それは人手によらずに山から切り出され、すべての王国を打ち砕き、全地に満ちましたが、これは明らかにキリストについて言われていることです (ダニエル書 2章34節)。また、律法では、水が流れ出る岩はキリストと呼ばれています。そして、その岩はキリストであったと彼は言います。使徒ペテロは、とりわけユダヤ人たちにこう言いました。「これは、あなたがた建築者たちに捨てられた石である」(コリント人への第一の手紙 10章4節)。それゆえ、シオンに置かれたつまずきの石はキリストです(使徒言行録 4章11節)。しかし、シオンは高みであり、エルサレムの町そのものが、神を知るゆえに高いと言われるのは不当なことではありません。父なる神によって説教者として任命された救い主は、御自身を神の子、女から聖霊によって生まれた者と宣言した時、ユダヤ人にとってつまずきの石となりました。しかし、彼らはキリストの体によってつまずき、こう言いました。「母や兄弟たちは私たちと一緒にいるではないか。それなのに、どうしてここで『わたしは天から下って来たからだ』と言っているのか。」(ヨハネ 6章42節)彼らは、キリストの言葉と行いを比較しようとはしませんでした。そうすれば、キリストが天から下って来たと言われたことも不合理ではないと認めることができるからです。[86] あたかもキリストが体をもって働き、神がご自身を隠しておられるのではなく、行いによって体においてご自身を現しておられるかのようです。ですから、この岩はユダヤ人にとってつまずきの石であり、つまずきの石なのです。この岩は、救い主の体であると理解されているのは間違いありません。これは人の手によってではなく、聖霊によって処女から、男ではなく、人によって切り出されたのです。
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