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ローマ人への手紙注解 (アンブロシアステル)/第3章

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第3章

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(1節と2節) ユダヤ人にとって、また割礼によって得られる益とは何でしょうか。あらゆる点で多くの益があります。まず第一に、彼らは神の御言葉を託されたからです。アブラハムの子孫の栄誉と功績にかかわる事柄は数多くありますが、パウロが特に言及しているのは、律法を受けるにふさわしいと判断され、善悪を見分けることを学んだことが、彼らにとって最大の賛美となるからです。まずこのことを受けて、残りの事柄の本質が理解されるのです。しかし、パウロは、肉欲に駆られたユダヤ人、すなわち不信者にとっては、人種による証言は無益であることを示しています。なぜなら、パウロがすべての人、すなわち信者でさえも不当に扱ったと思われないように、信仰を持つユダヤ人はアブラハムの子孫であるため、割礼は彼らにとって大きな益となると教えているからです。神の御言葉は彼らに託され、彼らは律法を受け継いでいました。律法は人々の罪によって廃れ、あたかも神の前に罪を犯したかのように、父祖たちの改革者のように、神の民と呼ばれていました。エジプトもまた、彼らの不正のために様々な災いに見舞われました。彼らは天からのパンを与えられ、すべての国々にとって恐怖の対象となりました。遊女ラハブが証言しているように。ラハブにも、救い主キリストが聖化のために約束されていました(ヨシュア記 2章9節以下)。それゆえ、彼はこう言っています。「ユダヤ人はアブラハムの子孫であるので、あらゆる点で大いに益となる。彼らは異邦人よりも優れている。信じる者たちは」。


(3節) 彼らの中に信じなかった者がいたとしても、どうなるのでしょうか。彼らの不信仰が神への信仰をむなしくするのでしょうか。とんでもないことです。パウロは、あるユダヤ人が、神がアブラハムの子孫に約束されたことを信じようとしなかったからといって、残りのユダヤ人がそれによって偏見を持たれる、とは言っていません。それは、神が忠実な者に約束されたものを受けるにふさわしい者と、彼らが言われないためです。約束は、信じる者たちに益となるようになされたのです。ですから、神は、彼らの不信仰、すなわちユダヤ人のことで憤慨されることなく、残りの信者たちに、キリストを信じることによってもたらされると約束された永遠の命を与えてくださいます。信じなかった者たちは、残りの者たちを不当に扱うことなく、自らを不当にしたからです。これらのことを言ってから、パウロは信じるユダヤ人を推薦しています。彼らには何の取り柄もありません。彼らの多くは信じようとしなかったからです。


(4節) 神は真実な方であるが、すべての人は偽り者です。聖書にこう書いてあるとおりです。「あなたは、自分の言葉によって義とされ、裁きを受けるとき、打ち勝つことができる。」(詩篇 50篇6節)。パウロは、神は約束に忠実であり、すべての人は偽り者であるという上記の言葉を確証するために、詩篇50篇から預言的な例を付け加えました。そこでパウロは、神はその言葉によって義とされるが、人は不信仰のゆえに偽り者であると宣言しています。詩篇にはこの両方が記されています。なぜなら、神は正しく真実な方であり、すべての人は偽り者であるからです (詩篇 85篇15節)。パウロは、人が神の約束を信じないとき、その人を偽り者と呼びます。また、神が約束したことを与えないことを否定する者も偽り者です。そしてパウロ自身が偽り者でありながら、神がその約束を信じないとき、多くの理由で神を偽り者と宣言しているのです。それゆえ、使徒は神の約束を信じない者を皆偽り者と呼んでいます。しかし、これは特にユダヤ人に当てはまります。使徒はこの箇所で彼らの例を取り上げています。彼らはキリストを見て、彼が神の約束された方であることを否定しました。これによって彼らは偽り者とされています。しかし、約束のとおりキリストを遣わされた神は真実な方です。ですから、キリストは裁かれても勝利を得ます。なぜなら、彼は自分が与えることを否定しているものを与えるからです。信じられなければ、偽り者と裁かれるからです。しかし、与えることを否定されているものを与える者は、自分が真実であることを示して勝利を得ます。そして、自分の言葉を信じない者は偽り者です。彼は自分が否定している神の子を威厳をもって見るでしょう。また、肉の復活も見て、神の約束と真実によって背信が征服されたことを知るでしょう。キリストもまた、裁きを受けたとき、勝利を得ました。すなわち、不当に殺され、罪を犯さないことによってすでに勝利していた悪魔を有罪としました。こうして、キリストは再び打ち負かされ、捕らえていた人々を失うことになったのです。


(5節と6節) しかし、もし私たちの不正が神の正義をほめたたえるのであれば、何と言ったらよいでしょうか。怒りをもたらす神は不正義なのでしょうか (人間の立場から言うと)、決してそうではありません。使徒は、預言者ダビデの意味に従ってこれを言っています。しかし、ダビデはヒッタイト人ウリヤの件で罪を犯したとき (サムエル記下 2章4節)、その約束は罪人には与えられないことを知っていたので、神の言葉の義認が、罪を犯す者を裁く裁きに打ち勝ち、悔い改めた人を聖化して改心させ、正しい者に与えると約束したものを彼に与えてくださるようにと祈りました (詩篇 50篇6節)。そして、こう付け加えています。しかし、もし私たちの不正が神の正義をほめたたえるのであれば、つまり、私たちが罪人であるために神が義とされるのであれば、神が復讐するとは不正義なことでしょう。もし私たちの不正が神に利益をもたらすのであれば、神が罪人を断罪するなら、それは間違いなく不公平なことでしょう。なぜなら、もし神が聖徒たちに約束されたものを私たち罪人にも与えてくださるなら、私たちの不正義は神を正しい者とするからです。私たちは罪人ですが、それでも悔い改めによって改心し、もはや罪人ではなく、洗い清められ、約束を受けるにふさわしい者となるのです。ですから、これは預言者ダビデの言葉の意味ではありません。「私はあなたに対してのみ罪を犯し、あなたの目に悪と映る行いをしました。あなたがあなたの言葉によって義とされ、裁かれるときに打ち負かされるためです」(同上)と。これは悪意のある人々の曲がった解釈によって主張されている言葉です。つまり、人々の罪と神の悪行がその義とされることで利益を得、私たちの悪によって神が善なる者と見え、私たちの不正によって神が正しい者と見えるようにするためです。ですから、神は不義な方ではないので、怒りを下すとき、もはや私たちの罪によって義とされることはありません。もし神が私たちの罪によって義とされるなら、復讐をなさるなら不義な方となるでしょう。しかし、復讐をなさるときに不義な方ではないので、私たちの不義が神の正義を正当化するものではないことは明らかです。もし神が正当化するなら、復讐はなさらないでしょう。なぜなら、神は正しい方だからです。

そしてこう付け加えて、こう言っています。「人によれば、と。神が不義なる者と呼ばれることは、決してあってはならない。それは、人間にふさわしいことなのだ。人間は誤りを犯し、欺かれ、欺くことが知られている。神は変わることなく、ご自分が造られたものを愛さずにはいられない。」

そうでなければ、神はどのようにこの世を裁くのでしょうか。確かにそうです。もしこの世の罪が栄えるならば、神がこの世を裁くことは正しくないからです。神のご意志により、罪を犯した者が赦しを得る間、神は善良な方と思われ、もし彼らが罪を犯さなければ、神は正しい方とは思われないでしょう。なぜなら、もし彼らが罪を犯さず、赦す相手もいないなら、神は善良な方ではないからです。


(7節) もし神の栄光のために、私の偽りの中に神の真理が満ち溢れているのなら、なぜ私はなお罪人として裁かれるのでしょうか。人間の嘘が神の栄光のために成功し、神だけが真実であるように見えるのであれば、罪を犯す者は罪人と呼ばれないのは明らかです。なぜなら、彼らは故意にではなく、神の衝動によって罪を犯しているように見えるからです。しかし、それは決してそうではありません。


(8節) そして、私たちは冒涜されているように、またある人たちが言うように、善が来るように悪を行おうなどというのではないだろうか。ここで彼は、なぜこのことを心配しながらも畏敬の念をもって論じているのかを明らかにしている。というのは、邪悪な者たちはこれに反対したからである。彼らはあたかも、罪の赦しを説く者たちの意図が、悪を行えば善が来るということであるかのように。つまり、罪を犯すことで、前述のように、彼らを赦すことによって神が善と見えるようにするのだ、と。彼はこれを冒涜と呼び、神の教えの意味から遠ざけている。信仰は、神が裁かれると説くので、罪を犯すべきだと教えるのではなく、むしろ、罪を犯す者たちに、救いを得て神の律法の下に生きるなら、もはや罪を犯さないようにと勧めるのである。

それゆえ、彼はこう付け加えた。「誰の裁きが正しいのか。つまり、先ほど述べたように、嫉妬という妬みによって我々のことを解釈する者たちの裁きが正しいのか。ユダヤ人たちはこれを誇り、使徒の教えを非難した。彼らは罪の赦しを説くことで罪を犯すよう仕向けているのだ、と。人々は赦しを確信しているかのように[44]、容易に罪を犯す。信仰を受け入れた後に罪を犯すのは危険であることは明らかであり、信者たちにはそれが予告されているのに。」


(9節) では、どうでしょう。私たちは彼らに勝っているのでしょうか。決してそうではありません。なぜなら、私たちはユダヤ人もギリシャ人もみな罪の下にあることを証明したからです。つまり、もっと広く言えば、なぜこれ以上長々と語る必要があるのでしょうか。なぜなら、私たちは、これまで示してきた理由によって、ユダヤ人もギリシャ人もみな罪人であり、それゆえ律法はむなしく守られていることを示したからです。まずパウロは、ギリシャ人が自然の法則によれば罪人であること、また彼らがモーセの律法さえ受け取っていないこと、それが彼らの最悪かつ最も深刻な原因であることを示しています。次にパウロは、ユダヤ人も罪人であることを示しています。彼らは神の律法の下に生きているように見え、自分たちの父祖の尊厳を正しく擁護していますが、特に彼らが父祖の約束を軽蔑し、神の恵みを無効にしているからです。この点を確証するために、パウロは詩篇13篇から預言的な例を挙げてこう述べています。


(10節) 「義人は一人もいない」(詩篇 13篇4節以下)と書いてあるとおりです。パウロはまず彼らの悪行を列挙し、さらに悪い行いを一部列挙することで、罪を赦すキリストの憐れみを請い願わない限り、彼らには何の希望もないことを明らかにしようとしました。


(11節と12節) それから彼はこう付け加えました。「彼は悟っていない。それは真実である。なぜなら、もし彼が理解しようと努めるなら、不正を犯すことはないだろうから。」

彼は神を求めていない。これは隠されたことではない。なぜなら、もし彼が自分の益となることを理解していたなら、神を求めるだろうからである。ユダの王アサとは違った。アサは神から多くの恵みを受けた後、ひどく堕落し、預言者の前で足が弱くなるほどになった。

すべての者は道に迷い、共に無益な者となった。(列王記上15章23節)神を求めないすべての者が、むなしいものに助けを求める傾向があることは誰も疑わない。しかし、むなしいものは偶像である。それゆえ、彼らは無益な者となる。

善を行う者は一人もいない。神を無視したために無益な者となったのだから、善を行うことはできない。今、彼らは堕落し、悪からさらに悪へと進んでいくからである。


(13節) 彼らの喉は開いた墓である。悪の奴隷となった彼らは、できることなら善を食い尽くそうとした。墓が死体を受け入れるために開かれているように、彼らの喉も善に逆らって開かれている。

彼らは舌で欺きを行った。悪行に慣れ、口にした言葉は欺きの中にあった。

彼らの唇の下にはまむしの毒がある。主がこう言われたのは、そのような者たちの言葉が罠となるからである。彼らは欺くために語る。蛇の唇から毒が注がれるように、彼らの唇からも欺きと偽りが発せられる。


(14節) 彼らの口は呪いと苦々しさで満ちている。善人にも悪人にも、彼らは常に呪いと苦々しさを吐き出し、非難と中傷を吐き出すことは明らかである。


(15節) 彼らの足は血を流すことに速い。彼は預言者殺害についてこう言った。彼らは熱心に預言者を殺し、善を行うことには怠惰で、殺人には速かった。


(16節) 悔恨と不幸が彼らの道にある。彼らは悪を行うように召されたので、彼は彼らの歩み、歩みは困難で不幸であると宣言する。

そして彼らは平和の道を知らない。平和の道は平穏で、平穏である。なぜなら、すべての善い生活は穏やかであり、慎み深い行いは平和をもたらすからである。そして、私たちはそれらによって神に近づくのである。したがって、彼らはこれらのことを知りたくなくて、地獄に行く苦難の道を選んだのです。


(17節) 彼らの目の前には、神への畏れがありません。 このような者は分別がないので、神への畏れがありません。 主を恐れることは知恵の初めである、とソロモンは言っています (箴言 1章7節)。 そして彼は、これらの者は神への畏れを持っていないとは言っていません。 しかし、彼らの目の前には、神への畏れがない、と彼は言います。 彼らは自分の邪悪な行いを見ても恐れないので、彼らの目の前には神への畏れがないと言われています。 預言者エレミヤもこれらすべてを意味し、とりわけ次のように述べています。「 するとすべての者が主の預言者に逆らって立ち上がり、彼を殺そうとした。」 そして彼は続けます。「 しかし、すべての民が苦しんだわけではない (エレミヤ 26章8, 16節)。」 それゆえ、彼は、悪い者以外はすべて、そして良い者以外はすべてと言っています。というのは、彼が「みな迷い出た」と言っているからといって、民全体を意味するのではなく、民のこの一部を意味しているからです。前述の預言者もこう言っています。「すべての悪人がこの民の中に隠れている」。一つの民の中に常に二つの民がいるからです。ですから、主がエルサレムの名において「エルサレム、エルサレム、預言者を殺す者よ」(マタイ23章37節)と叱責しているのは、まさにこの民です。また別の箇所では、「世代」の中で、彼は「邪悪で姦淫に満ちた、毒蛇の世代」と言っています(同書12章39節)。預言者イザヤもそのような民について嘆き、「罪深い国民、最も悪い子孫に災いあれ」(イザヤ書1章4節)と言っています。彼らは邪悪な意志によって悪い実を結び、最も悪い子孫なのです。そして、もし彼らが望むなら、改心できるということを、使徒の別の手紙の中で次のように証明しています。「私たちもかつては、ほかの人たちと同じように、生まれながらに神の怒りを受けるべき子でした。」(エペソ人への手紙 2章3節)


(18節) 律法が何を言うにしても、それは律法の下にある者たちに言うのだと、私たちは知っています。律法が戒めているのは、かつてモーセを指導者として信じず、また、預言者である先祖たちを迫害し、殺し、使徒である肉親たちをも信じず、その血を流した者たち、すなわち常に不敬虔で神に反抗する者たちを戒めていることは明らかです。それは、律法の権威を軽蔑していると思っていた彼らが、律法によって罪を定められるためでした。すべての悪は悪に一つの原因があるように、すべての善もまた同じです。ですから、悪はこれらのことにおいて、このようなすべての者から非難されるのです。これらのことは、律法によって自分自身と先祖たちに証しを立てていたユダヤ人たちの混乱に関係しています。


(19節) それは、すべての口がふさがれ、全世界が神に服従するためでした。ユダヤ人が罪に縛られていたので、彼はこう言いました。全世界が神に服従するのです。異教徒たちが罪と不敬虔に打ちひしがれ、それによって全世界が神にひれ伏し、寛大な裁きを受けようとしたことは疑いようがありません。なぜなら、全世界はユダヤ人と異邦人で構成され、忠実な者たちは彼らから分離されていたからです。ですから、神から律法を受け、約束を与えられたユダヤ人が罪を犯したと証明されたなら、ギリシャ人全員が死の罪を犯したと証明されたことは疑いようがありません。それゆえ、「すべての口をふさぎ、全世界を神に従わせよ」とパウロは言います。罪を犯したと証明された者は皆、ユダヤ人もギリシャ人も、神の憐れみを必要としているのです。


(20節) 律法の行いによって、すべての肉なる者が神の前に義とされるわけではないからです。パウロが人々が神の前に義とされると主張するのは、このためではありません。彼らが戒めの中にある義の律法を守らなかったからです。彼らがキリストにある神の奥義の奥義を信じなかったからです。神は律法によってではなく、この奥義によって人を義とすることを定められたのです。律法は一時的な義とみなすものであり、神のもとで義とみなすものではありません。ですから、律法を一時的に守る者は、神のもとで義とみなされるのではなく、義とみなされます。なぜなら、神のもとで人を義とみなす信仰が、彼らの中にはないからです。信仰は律法よりも偉大です。律法は私たちに、信仰は神に属すからです。ですから、律法は一時的な義と、永遠の信仰を持つのです。「すべての肉なる者」という言葉によって、パウロはすべての人間を意味しました。預言者イザヤもこう言っています。「すべての肉なる者は神の救いを見るであろう」(イザヤ書 40章5節)。すなわち、すべての人は神のキリストを見るであろう。キリストのうちにすべての人の救いが含まれているのである。そして、それらは罪に支配されているので、肉によって象徴されるのです。義が霊的なものを形作るように、肉の罪も霊的なものとなるのです。ですから、人は行為によってその名を受けるのです。

なぜなら、律法によって罪を知るが、信仰によって罪は滅ぼされるからである。したがって、信仰に従わなければならない。罪が知られると言われるこの律法とは何であり、どのようにして罪が知られるのだろうか。昔の人も罪を知らなかったわけではないことが分かる。ヨセフも中傷によってではあったが牢に入れられた(創世記 39章20節)。また、罪のゆえに、ファラオの給仕役と料理役にされた(創世記 40章3節)。では、どのようにして罪は隠されたのだろうか。律法は実際三つの部分から成り、最初の部分は神の神性の秘跡に関するものである。第二は、罪を禁じる自然法に基づくものである。第三は行ないに関するものであり、すなわち、安息日、新月、割礼などに関するものである。したがって、これが自然法であり、モーセによって部分的に改革され、悪徳を抑制する権威において部分的に強化された結果、罪が明らかにされたのである。先ほど言ったように、それは隠されていたのではなく、犯された罪を明らかにするものであり、神の罰を免れるという意味ではありません。一時的に罪を逃れた者が、律法を欺いたと思われないようにするためです。律法はまさにそれを示しています。


(21節) しかし今や、律法なしに神の義が明らかにされ、律法と預言者によって証しされています。神の義が律法なしに示されたことは明らかです。安息日、割礼、新月、復讐の律法なしに。しかし、神の神性の秘跡なしには示されたのではありません。神の義は神の秘跡から出るからです。律法によって罪とされた人々を神の義が赦したとき、神の義は律法なしにこれを成し遂げました。律法が復讐しようとしていた人々の罪を、律法は赦したのです。そして、これが律法に反して行われたと思われないように、パウロは、神の義は律法と預言者によって証しされている、と付け加えました。つまり、律法そのものが、このことが起こるとかつて言っていたからです。人々を救う方が来られると約束されました(イザヤ19章20節)。律法には、罪を赦すという約束は与えられていません。しかし、だからこそ、神の義は、憐れみとも言えるものと呼ばれています。それは約束に由来するからです。神の約束が与えられるとき、それは神の義と呼ばれます。約束されたものが与えられるから、それは義なのです。そして、神に身を寄せる者を受け入れるとき、それは義と呼ばれます。逃げる者を受け入れないのは不義だからです。


(22節) しかし、神の義はイエス・キリストを信じる信仰によるものです。神の義そのものがキリストの現れであること以外に、イエス・キリストを信じる信仰によって他に何がもたらされるでしょうか。なぜなら、イエス・キリストの説教を信じる信仰を通して、神が昔から約束しておられた賜物が認められ、あるいは受けられるからです。

信じるすべての人々、すなわち、真の神の義を信じるすべてのユダヤ人とギリシア人においてです。


(23節) そこには区別はありません。すべての人が罪を犯し、神の栄光に達しないからです。パウロは、神の義はすべてのユダヤ人とギリシャ人にあると言われたので、そのことを証明するために、「すべての人が罪を犯した」と付け加えました。これはユダヤ人とギリシャ人の両方が理解できるように、一般的な意味に解釈されるべきです。そこでパウロは、「区別はありません」と言っています。ここでパウロは、律法は信仰がなければ何の役にも立たないことを示すために、祭司たちさえも含め、すべての人をここに含めているのです。律法が与えられたのは、律法に対する信仰が与えられ、それによって将来の救いへの希望が与えられるためでした。それゆえ、キリストの死はすべての人に益をもたらしました。なぜなら、キリストはこの世においても、信じるべきこと、守るべきことを教え、すべての人を地獄から救い出されたからです。


(24節) 神の恵みにより、無償で義とされたのです。彼らは何事も行わず、また報いもせず、ただ神の賜物により、信仰によって義とされたので、無償で義とされたのです。

キリスト・イエスによる贖いを通してです。パウロは、神の恵みがキリストにあることを証ししています。それは、神の御心によって、私たちはキリストによって贖われたからです。それは、私たちが神の御手によって義とされるためです。ガラテヤ人への手紙の中で、パウロはこう言っています。「キリストは私たちのためにご自身をささげ、私たちを贖ってくださいました」(ガラテヤ3章13節)。彼は悪魔に対して激しい怒りを覚えましたが、悔い改めませんでした。キリストを引き留めることができると思って、いわば受け入れたのですが、キリストの力に耐えることができず、一緒にいたすべての人々を失ったのです。」


(25節) 神はキリストを信仰の贖い主として立てられました。神がこのように言われるのは、キリストにおいて神が立てられた、つまり、人々が信じるならば、キリストが彼らの贖い主となるように定められたからです。

キリストの血によって。それゆえ、キリストの血によって、私たちはキリストの死によって救われたのです。それは、キリストが死んだことを示し、また、キリストの受難によって死を定めようとするためです。


(26節) それは、神の義を示すため、すなわち、神の約束を明らかにするためです。それによって、神は以前約束されたとおり、私たちを罪から救うためです。そして、その約束を果たされたとき、神はご自身が正しいことを示されました。

過去の罪の目的のため、神の忍耐の中に。神は、天にいる者と地獄にいる者の両方の罪人を助けようと考え、その慈しみの目的を御存じでした。そして、両者を非常に長い間待ち、すべての人を断罪するのが当然と思われた判決を無効にされました。それは、神がかつてキリストを通して人類を解放すると定めたことを私たちに示すためでした。預言者エレミヤを通してこう約束されました。「わたしは彼らの咎に慈悲をかけ、彼らの罪を思い出さない」(エレミヤ書31章34節)。そして、この賜物をユダヤ人だけに約束したと思われないように、神はイザヤを通してこう言われました。「わたしの家はすべての国々の中で祈りの家と呼ばれるであろう」(イザヤ書56章7節)。というのは、この約束はユダヤ教に与えられたにもかかわらず、神は、その賜物が邪悪なユダヤ人によって拒絶されることを予知して、諸国民に恵みを受けさせると約束されたからです。邪悪なユダヤ人は、その嫉妬によって怒りに駆り立てられ、苦しめられるのです。

この時代、すなわち私たちの時代において、神はかつて約束されたとおりのものを、与えられた時に既に与えておられます。それは、義となるためであり、イエス・キリストへの信仰によって義とされる者を義とするためです。神は正しくこう言われています。「義となるために、約束されたものを与えたのです。そして、キリストを信じる者を義とすると約束されたのです。」しかし、ハバクク書ではこう言われています。「義人は信仰によって生きる」(ハバクク書 2章4節)。それは、神とキリストへの信仰を持っている限り、義となるためです。」


(27節) では、あなたの誇りはどこにあるのか。それは締め出されている。どのような律法によるのか。行いによるのか。いいえ、信仰の律法によるのだ。彼は理由を述べた後、律法の下で行動する者たちにこう言っている。彼らは理由もなく誇り、律法とアブラハムの子孫であることを自慢している。人は神の前に義と認められるのではなく、信仰によるのだから。


(28節) 私たちは、人は律法の行いによらず、信仰によって義と認められると考えている。彼は、異邦人は律法の行いを何も行わず、つまり割礼も新月も安息日も敬わず、信仰によって義と認められると確信している、と言っている。


(29節) 神はユダヤ人だけの神なのでしょうか?異邦人の神でもないのでしょうか?はい、異邦人の神でもあります。すべての者の神は唯一であることに疑いの余地はありません。ユダヤ人だけが、神が異邦人の神でもないと主張することはできないからです。なぜなら、彼らはすべての者がひとりのアダムから始まったこと、そして律法に近づこうとする異邦人は禁じられていないことを否定しているからです。最後に、ある人々はエジプト人のもとから彼らと共に荒野へ出かけました。彼らはエジプト人を受け入れるよう命じられていました(出エジプト記12章28節以下)。それはただ割礼を受け、彼らと共に過越の祭り、すなわち種入れぬパンを食べるためでした。ユダヤ教化しなかった異邦人コルネリオが神の賜物を受け、義とされたことは、神の証言によって証明されています(使徒言行録10章31節)。


(30節) 実に神は唯一です。神は、割礼を受けた者を信仰によって義とし、無割礼の者を信仰によって義とされました。割礼とは、ユダヤ人のことです。彼らは約束を信じる信仰によって義とされ、この方こそ神が律法で約束されたキリストであると信じたからです。無割礼とは、キリストを信じる信仰によって神の前に義とされた異邦人のことです。神は、異邦人とユダヤ人を、信じる者と何ら区別なく義とされました。すべての者の神は唯一ですから、神はすべての者を唯一の理性によって義とされました。では、信仰以外に尊厳と功績をもたらすものがないのに、肉の割礼の益と無割礼の害は何でしょうか。


(31節) では、私たちは信仰によって律法を無効にするのでしょうか。決してそうではありません。むしろ、私たちは律法を確立するのです。律法は信仰によって無効にされるのではなく、成就するのです。律法が約束したことが成就する時、その状態は確証されるからです。信仰は、律法が成就したことを証しするのです。これは、キリストへの信仰は律法の敵であり、律法の意味を理解していないと考えるユダヤ人のためです。ですから、律法は廃止されなければならないと教えるとき、律法は無効にはなりません。律法は定められた時に与えられたが、もはや効力を持たないと正しく主張しているからです。律法自体にも、約束が成就する時に律法は廃止されなければならないと記されています。天使ガブリエルは、このことを知りたいと願っていた預言者ダニエルに示し(ダニエル書 9章25節)、とりわけ、キリストの来臨の時に、力として理解される聖油、すなわち王の油注ぎは廃止されるであろうと告げました。そして、イエスは言われる、「もはや裁きはなく、それは律法であり、わたしの供え物は取り去られる」。それゆえ、わたしの供え物は取り去られる、と。それは、古い供え物がなくなることを知らせるためである。つまり、救い主は口を開き、「律法と、ヨハネによる福音書までの預言者たち」と言われるのである(ルカによる福音書 16章16節)。そして、モーセの律法がなくなり、神がさらに優れた戒めを与えようとしていたので、預言者エレミヤは歌って言った。「見よ、主は言われる。わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を結ぶ日が来る。それは、わたしが彼らの先祖と結んだ契約のようなものではない」(エレミヤ書 31章31節)。約束によってキリストの来臨を受け入れた人々とは、必ずそうするのだ」。それゆえ、救い主は言われた。「わたしは律法や預言者を廃止するために来たのではなく、成就するために来たのだ」(マタイによる福音書 5章17節)。そして、神の家はエルサレムだけではなく他の場所にも存在することになっていたので、預言者ゼカリヤはこう言いました。「わたしはエルサレムをすべての国々の中に置く」(ゼカリヤ書 12章2節)。それは教会のことです。


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