ローマ人への手紙注解 (アンブロシアステル)/第11章
第11章
[編集](1節) そこで私は言います。神はご自分の
私もイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者です。パウロは、イスラエルの一部は救われると神が予知していた、あるいは救われる可能性があると予知していたが、自らの経験によって救われたこと、そしてイスラエルの一部は絶え間ない不信仰のゆえに滅びる運命にあったことを自らの例によって教えている。
(2節) 神は、ご自身があらかじめ知っておられたご自分の民を拒まれませんでした。救い主はこう言われます。「父よ、あなたがわたしに与えてくださった人々をわたしは守りました。滅びの子を除いて、そのうちの一人も滅びませんでした」(ヨハネ17章12節)。同じように、神が信じることをあらかじめ知っておられた者たちは、一人も約束から外れませんでした。それは、神があらかじめ知っておられたとおりになったからです。
(3、4節) 聖書がエリヤについて何と言っているか、知らないのですか。彼はイスラエルに対してどのように神に弁護しているでしょうか。「主よ、彼らはあなたの預言者を殺し、あなたの祭壇を掘り返しました。そして、わたしだけが残り、彼らはわたしの命を狙っています」(列王記上19章10節)。しかし、神は彼に何と答えているでしょうか。「バアルにひざまずかなかった七千人をわたしに残しました」(同12)。これらのことは明らかです。それは、神に忠誠を尽くし、偶像崇拝をしなかったエリヤだけが残ったのではなく、多くのユダヤ人が信じていたように、神への信仰を貫いた多くの人々が残ったことを示している。歴史もこれを裏付けている。サマリアの王アハブとその妻イゼベルは偽預言者を信じ、神の預言者たちを迫害し、民に偶像崇拝を勧めたため、多くの人が洞窟に隠された(列王記上18章4節)。
(5節) ですから、今もなお、残りの者たちが恵みの選びによって救われているのです。つまり、彼はこう言います。「今、これらの人々は律法の約束の下にとどまっていますが、神があらかじめ知っておられた多くの人々が、離れてしまいました。律法の中で約束されているかのようにキリストを受け入れた人々は、律法の下に立っていましたが、受け入れなかった人々は、律法から離れてしまいました。ですから、信者たちは残りの者、すなわち律法の下にとどまっている者と呼ばれているのです。」
(6節) しかし、もし恵みによるのであれば、それはもはや行いによるものではありません。恵みは神の賜物であり、行いによる報いではなく、あわれみが介在する、自由な理性によって与えられるものであることは明らかです。
そうでなければ、恵みはもはや恵みではありません。確かに、報いがあればそれは恵みではありません。しかし、報いがないのであれば、それは疑いなく恵みです。罪人に赦しを与えることは、恵みにほかなりません。赦しを求めない者にも、信じる者となるために、赦しが与えられます。ですから、恵みは二重です。これは、あわれみ豊かな神にふさわしいことであり、神がご自身が顧みられる者を、自ら進んで求めるからです。
(7節) では、どうなるでしょうか。イスラエルは求めていたものを得ませんでしたが、選びは得ました。肉に生きるイスラエル人とは、律法の行いによって義とされたと思いながら、信仰によって神の前に義とされることを得なかった者たちです。ですから、すべての人は律法によって罪人となるのです。律法の書に書かれているすべてのことを守り行わない者は皆、呪われているのです。(申命記 27章26節)しかし、信仰によって義とされたと信じた人々は、神の義とされた子とされるための選びを得たのです。彼らは、「義人は信仰によって生きる」(ハバクク書 2章4節)という聖書のことばを心に留めていました。つまり、律法によってではないのです。
(8、9、10節) しかし、残りの者たちは盲目にされました。これはイザヤ書にも記されているとおりです。「神は彼らに罪の意識を与え、彼らが見ることのできない目と聞くことのできない耳を与えた。それは今日に至るまでである」(イザヤ書 6章9節)。ダビデはこう言っています。「彼らの食卓が彼らにとってわな、罠、つまずき、報いとなるように」(詩篇 68篇23節)。彼らの目が暗くなり、彼らが見ることができなくなり、常に背をかがめるように。それゆえ、彼は悪者の食卓を呪う。そこには罪のない者が欺かれ、欺瞞によって宴に招かれ、滅ぼされるからである。」ダビデの子アンモンも同じように、兄弟アブサロムに欺かれました(サムエル記下13章27節)。邪悪なホロフェルネスは聖餐式でユディトを欺こうとしました(ユディト記12章1節)。邪悪なヘロデの食卓で、邪悪な者たちは預言者ヨハネの頭に激怒しました(マルコ6章28節)。信仰の初めから善の敵とみなされていた人々について、二人の預言者は一つの意味を持っています。しかし、彼らの中には、ゆっくりとではありますが、改心し、正された者もいました。しかし、頑固なままで、罰の厳しさから逃れられなかった者もいました。彼らは永遠に屈し、つまり盲目になってしまいました。悪意を持って真理の道を拒み、そこから背を向けていた者たちは、真理の道を見失い、救いの恵みに至れなくなるからです。なぜなら、理解したにもかかわらず信じようとしない者は、必ず望むものを得なければならないからです。そうしなければ、信仰を受け入れて救われることができないからです。したがって、上記の預言者たちの例には二重の意味があります。なぜなら、それらは二つの方法で定められ、記されたからです。ここには二種類の人々がいます。一つは、悪意のために永遠に盲目にされ、最悪の意志を持つ者、つまり理解できる者でさえ、自分が聞いているものが分からないと言う者です。最後に、彼らは救い主についてこう言いました。「これは一体何のことですか。何を言っているのか分かりません。なぜ彼の言うことを聞くのですか。彼は悪霊に取りつかれて気が狂っているのです」(ヨハネ10章20節)。しかし、もう一つの、まさにイスラエルの人々は彼らに反論しました。「これは悪霊に取りつかれた者の言葉ではありません。悪霊が盲人の目を開けることができるでしょうか。」彼らは救い主をねたみながらも、自分が聞いたことを理解しているように見せたくありませんでした。律法学者やパリサイ人には理解できないように思えても、救い主が不合理なこと、律法に反することを語っていると思われ、それがまた人々を信仰から遠ざけてしまうかもしれないからです。そこで彼らは救い主からこう聞きます。「あなたたちは知識のかぎを持っています。しかし、あなたたち自身は入らず、また、ほかの人たちも入らせません。」(ルカによる福音書 11章52節) というのは、軽薄な者ではなく、もう少しまじめで、律法の擁護者であると思われた律法学者やパリサイ人の助言や意見に、だれが従わなかったでしょうか。最後に、真のイスラエル人である人々に、彼らは言いました。「指導者たちのうち、彼を信じた者がいるでしょうか。」 これは、多くの共謀者を陰謀に加わらせておけば、正当に信じなかったように見せかけるためでした。少数の者によって擁護されることは、たいてい証明されないからです。そのため、彼らは信じて救われることができないように、盲目にされたのです。そのため、彼らは自分の意志で助けられ、真理を知りながらそれを偽りであると言ったので、何が真理であるかを理解せず、自分たちの望んだ偽りを真理としました。もう一つの種類があります。それは、律法の義を追い求めながら、キリストの義を受けない人々です。彼らはもはや悪意の妬みによって義を受けるのではなく、誤りによって、父祖の伝統を模倣することによって、一時的に盲目にされます。なぜなら、彼らはキリストの偉大なこと、すなわち、行われたことの中にその壮大な力が現れるキリストは人を欺くことができないことを学ぶべきであり、また、キリストの説教を、預言者たちが約束した新しい契約と比較し、そこからキリストこそ約束された方であると告白すべきだからです。彼らは神を無視し、人に同意していることが判明しました。それゆえ、彼らは盲目にされ、異邦人を妬みながら、その妬みによって自分たちの約束に自分たちを巻き込むことで、神への信仰に戻ることができるのです。
(11節) そこで私は言います。彼らは罪を犯して堕落したのでしょうか。決してそうではありません。私が上で述べたように、パウロが言っているのは、彼らが二度と信じようとしないほど不信心になったのではないということです。つまり、彼らは邪悪さのゆえに癒されることができないほど盲目になったのではないということです。これは、預言者イザヤが「ルシファーはいかにして天から落ちたのか」(イザヤ書 14章12節)と言い、堕落と背教を意味しているように、悪魔が堕落したことを私たちが読むときと同じです。ですからパウロは、彼らが罪を犯して堕落したのではなく、罪によって一時的に鈍くなったのだと言っているのです。
しかし、彼らの罪を通して救いが異邦人に与えられ、それは彼らが羨望の的となるためでした。パウロが言っているのは、救いが彼らの罪のゆえに異邦人に与えられたということなのです。ユダヤ人が神の賜物を拒んだので、それが異邦人に移されたのです。ユダヤ人が熱心に燃え、父祖たちの約束を熱望してキリストに回心するためであった。
(12節) しかし、もし彼らの罪が世の富であり、彼らの減少が異邦人の富であるなら、彼らの豊かさはどれほど大きいことでしょう。[91] 彼らの罪が世に益をもたらし、彼らの損失が善良な人々を増やしているなら、それは明らかです。なぜなら、ユダヤ人よりも異邦人の方が多いからです。そして、彼らの減少、すなわち異邦人の富という約束の損失、すなわち彼らが永遠の命を得た約束の損失であるなら、彼らの豊かさはどれほど大きいことでしょう。もし盲目になっていた人々でさえ回心するなら、世は善良な人々でさらに豊かになることは明らかです。なぜなら、世の大部分が救われるからです。世とは人々を意味します。救い主についてこう言われています。「見よ、全世界が彼に従っている」(ヨハネ12章19節)
(13、14節) 異邦人よ、私はあなた方に言います。私は異邦人への使徒である限り、たとえ自分の肉をねたむことがあっても、彼らのうちの何人かを救うために、自分の務めを重んじます。彼はユダヤ人をどれほど愛しているかを異邦人にも示しています。彼は異邦人への使徒としての務めを重んじているからです。もし自分の同胞への愛のゆえに、ユダヤ人をも信仰に導くことができれば、なおさらです。もし彼が、自分が命に遣わされなかった人々をも救うなら、彼はさらに誉れある者となるでしょう。もし彼が、滅びた兄弟たちを見いだすなら、父祖たちから大いに称賛されるでしょう。
(15節) もし彼らの損失が世の和解であるなら、その前提となるのは、死者の中からの命でなくて何でしょうか。彼がこう言うのは、もし異邦人が不信仰なユダヤ人を通して神と和解させられたなら、それはキリストの信仰によって世が増し加わるためです。この点において、ユダヤ人がキリストの信仰に導かれるならば、世界が人々の中で死から蘇らされること以外に、一体何があり、救いの完全さはどれほど偉大になるでしょうか。それゆえ、パウロは、彼らが信じるように努力しなければならないと述べています。なぜなら、盲目の盲目は罪の償いの時に取り去られ、彼らは自由意志を得るからです。
(16節) しかし、もし献げ物が聖であり、ミサが聖なるものであるならば、それは明白です。なぜなら、一つの本質を持つものは一つだからです。ですから、献げ物が聖であり、ミサが汚れているということはあり得ません。なぜなら、献げ物はミサの一部だからです。それゆえ、パウロは、先祖が既に信仰を得た者たちを、信仰に値しない者と呼ぶことはできないことを示しています。ユダヤ人の一部が信仰を得たのであれば、他の一部も信じることができると言えるのではないでしょうか。
(17節) 根が聖ければ、枝も聖です。パウロは同じ言葉で同じことを繰り返し、二つの例を挙げてその意味を説いています。「もし枝の一部が折られたなら、すなわち、彼らのうちの何人かが約束から切り離され、信じなかったなら、あなたはオリーブの木であるので、それらと接ぎ木され、オリーブの木の根と豊かさにあずかる者となりました。」これは、多くのユダヤ人が信じなかったとき、異邦人が信仰によって約束の希望に接ぎ木されたことを意味します。それはユダヤ人に悲しみをもたらすためでした。しかし、それは農業の律法によるものではありません。彼らは悪い木に良い若枝を接ぎ木したからです。彼らは悪い根にいたのに、良い木に接ぎ木されたのです。ですから、パウロはオリーブの木が接ぎ木されたことについて、根の若枝が実を結び、その実にあずかるためだと言っているのです。
(18節) 枝に対して誇ってはならない。つまり、その不信仰を喜ばないように。ソロモンが言うように、人が他人の悪を喜ぶことは神に喜ばれないからである(箴言24章)。枝は異邦人のために捨てられたのではなく、彼らが喜ぶためであった。彼らが信じなかったために、異邦人に宣べ伝えられる機会を与えたのである。
しかし、もしあなたが誇るなら、それはあなたが根を張っているのではなく、根があなたを支えているのである。つまり、あなたが接ぎ木された根の上に自分を高く上げるなら、あなたは悪から善へと変わろうと、あなたを受け入れた種族を侮辱することになる。また、あなたが立っている根拠となっているものを破壊するなら、あなたは立つことはできない。
(19節) それゆえ、あなたはこう言います。「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだ」。彼は信仰を持つ異邦人の立場で語っています。不信仰なユダヤ人のことを喜ぶのは当然だと考えたからです。「彼らの拒絶は異邦人に道を開いたのだ」と。しかし、彼らは神に拒絶されたのではなく、異邦人が入れるようにされたのです。むしろ彼ら自身が拒絶され、神の賜物を拒絶しました。こうして彼らは異邦人に救いの機会を与えたのです。彼はその喜びを抑え、むしろ救いを喜び、病を非難されることがないようにしたいのです。他人の悪を喜ぶ者は、容易に欺かれるからです。
(20節) つまり、あなたは正しくこう言います。「あなたは折れた枝で接ぎ木されたが、彼らは不信仰によって折られたのです。つまり、それはあなたのせいではなく、彼ら自身の過ちによるのです。」彼らが不信心であった時、あなたがたは救いをねたむために召されたのです。ですから、あなたがたはキリストを通して与えられた神の賜物に感謝し、彼らをののしってはいけません。むしろ、彼らの悪があなたがたの救いに役立ったかどうかを祈りなさい。そうすれば、彼らも元の状態に戻ることができるでしょう。そうすれば、あなたがたをあわれんでくださった神を喜ばせることができます。神はそのためにあなたがたを召し、あなたがたの熱心さによって、彼らをも恵みに立ち返らせるために召されたのです。
[92] しかし、あなたがたは信仰によって立っているのです。ユダヤ人が不信心によって倒れたので、彼らは信仰によって立っているとパウロは言っています。彼らはかつて不信心によって倒れたのに、信仰によって立ち上がったからです。高ぶってはいけません。かえって恐れなさい。つまり、高ぶってはいけない。あなたがたもつまずかないように気をつけなさい。
(21節) もし神が天然の枝を惜しまなかったなら、あなたたちをも惜しまなかったかもしれない。確かに、父祖の特権にふさわしく、神の子として養子縁組されるという約束もなされていた人々を、不信仰のゆえに神が盲目にされたのであれば、もし彼らが疑ったり、高ぶったりしたなら、称賛によって高められたわけではないこれらの人々を神はどうなるでしょうか。彼らは尊厳を持たなかったにもかかわらず、誉れを受けたのです。
(22節) ですから、神の慈しみと厳しさを見なさい。倒れた者たちには厳しさを、あなたたちには慈しみを。もしあなたがたが慈しみ続けるなら、そうでないなら、あなたがたも倒れるでしょう。神は異邦人に対して慈しみ深いことを証ししています。彼らが確かに死に値する偶像を追い求めていたとき、神は忍耐強く彼らを待ち、まだ神を求めていなかったので、神は自ら彼らを召し、彼らの罪を赦されたからです。しかし、ユダヤ人には神は厳しいのです。神は彼らを盲目にされました。なぜなら、彼らは神の賜物を拒絶したからです。しかし、ここでパウロは、悪意のゆえに永遠に盲目にされたユダヤ人を指しています。そして彼は、彼らが倒れたと述べています。しかし、先に述べた人々は、つまずいたものの倒れなかったと述べています。なぜなら、彼らは一時的に盲目にされたことを示しているからです。そして、これによって、神は彼らに対して厳格であり、彼らは背教によって永遠に盲目にされることを示されたのです。
(23節) しかし、もし彼らも不信仰にとどまらないなら、彼らは接ぎ木されるでしょう。神は彼らを再び接ぎ木することができるからです。パウロは、一時的に盲目にした人々に対する厳しさの中に神の正義がとどまることはないことを示しています。なぜなら、もし彼らが改心したなら、神は彼らを再び接ぎ木できないほどには彼らを切り離しておられないからです。預言者を通してこう言われました。「わたしに立ち返る者を、わたしは再び植える」(エレミヤ24章6節)。それは、異邦人キリスト教徒が、神の憐れみが、堕落した者たちと同じように、彼らのためにも取っておかれていることを知って、ユダヤ人をののしらないためである。
(24節) もしあなたがたが本来のオリーブの木から切り取られ、本来の性質に反して良いオリーブの木に接ぎ木されたのであれば、まして本来の性質を持つこれらの者は、どれほど自分のオリーブの木に接ぎ木されることでしょう。オリーブの木を、アブラハムが義とされた信仰としましょう。しかし、オリーブの木は実を結ばず、実を結ばない性質を持つため、不忠実さを象徴します。このようにして、常に神の敵であった者たちが、アブラハムの信仰――彼らはアブラハムの出身ではないのに――に立ち返ったのであれば、ましてユダヤ人は、かつて不信心だった後に信仰を持つなら、どれほど父性の性質を取り戻し、約束に再び接ぎ木されることでしょう。
(25、26節) 兄弟たちよ、私はあなたがたにこの奥義を知らないでいてほしくありません。それは、あなたがたが自分自身の中で賢くならないためです。異邦人が満ちあふれるまで、イスラエルはかたくなになったからです。こうしてすべてのイスラエルが救われるのです。律法に熱心であったユダヤ人たちに、しばらくの間、盲目の鈍さが与えられたことは、よく知られています。彼らは律法に熱心であったにもかかわらず、キリストによって宣べ伝えられた、神の約束された賜物がすでに与えられていることに気づきませんでした。彼らは熱心さゆえに盲目にされ、行いの律法は決して絶えることはないと考えていました。そのため、安息日を熱心に守ったのです。この罪によって彼らは部分的に鈍くなり、異邦人がアブラハムへの約束を得たことを喜びをもって告白するのを見て、不信仰のために苦しむことになりました。しかし、異邦人の大勢が受け入れられると、彼らの心の目から暗闇がぬぐい去られ、彼らは信じるようになるのです。彼らに盲目を与え、心を阻む罪の意識が、彼らに自由意志を取り戻すように。彼らの不信仰は悪意からではなく、誤りからであったからです。それは、彼らが正され、後に救われるためでした。
聖書に書いてあるとおりです。パウロは、神が彼らのために用意しておられた賜物を証明するために、この主題において預言者イザヤの例を挙げました。それは、信仰を持つユダヤ人が救われたこの恵みによって、私たちも救われることを教えようとするためです。なぜなら、この恵みは空にならず、常に満ちあふれるからです。それゆえ、パウロはこう言います。
(27節) 彼はシオンから出て来て、ヤコブから不信心を取り去る。これは、わたしが彼らの罪を取り除くとき、彼らと結ぶわたしの契約である(イザヤ書 59層28節)。信じる者がいる限り、この例えの根拠は変わりません。人類の解放のために天から来ると約束されたこの主イエスは、ご自身がご自分に帰る者の罪を日々赦してくださるからです。また、信じない者をすぐに罪に定めることもせず、彼らが神の知識へと進むことができることを知って、待っておられます。
(28節) 福音によれば、彼らはあなた方のゆえに敵なのです。彼らの不信仰の原因は、私が既に述べたように、彼らの誤りと罪が、異邦人が信仰に入る前に、彼らの誤りと罪が道を開くことにあるのです。なぜなら、まず神の言葉はすべてのユダヤ人に宣べ伝えられ、そして最終的に異邦人も神の言葉を信じなければならなかったからです。しかし、彼らは信じなかったために、御国は彼らから取り去られ、異邦人に与えられました。ですから、パウロは、異邦人に益をもたらした罪を犯した者たちをののしってはならないと警告しています。なぜなら、ある人たちにとって罪が妨げとなった者こそ、ののしられるべき者だからです。彼らの不誠実さを祝福するのではなく、彼らがなかなか改心しないなら、私たちは悲しむべきです。異邦人が罪を犯して救われたことを喜んだように、彼らも改心を喜ぶべきです。彼らは、その機会によって神の恵みをいち早く悟ったのですから。
しかし、選びに従って、父祖たちのゆえに愛された者とされたのです。ユダヤ人は神の賜物を拒むことによって大きな罪を犯し、死に値する者となりましたが、それでも彼らは善人の子であり、神からその特権と功績ある賜物を受けているので、喜びをもって信仰に立ち返らされるでしょう。父祖たちの記憶によって、神の愛が彼らの中に呼び覚まされるからです。
(29節) 悔い改めがなければ、神の賜物と召命は得られません。確かに、洗礼における神の恵みは、嘆きや悲しみ、あるいはいかなる働きも必要としません。ただ心からの告白だけが必要なのです。それは、彼らが神の約束を受けずにひどく罪を犯したからではなく、ひどく罪を犯した者たちが泣き嘆きによってのみ赦されるからではありません。彼らが嘆き悲しんでいるのを見ないからといって、今は憐れみを受けられないと思わないようにするためです。彼は、信仰の初めにこのようなことは求められていないことを示しています。なぜなら、神の賜物は洗礼において罪を惜しみなく赦すからです。
(30、31節) あなたがたもかつては神を信じませんでしたが、今は不信仰のゆえに憐れみを受けました。同じように、彼らも今はあなたの憐れみを信じていません。それは、彼らも憐れみを受けるためです。パウロが異邦人の不信仰について言及するのは、彼らが信じなかったユダヤ人を侮辱するという恥辱を味わうことなく、むしろ神の約束を認めて喜ぶためである。パウロは言う。「異邦人よ、あなた方は神の御言葉が託された時、反抗的であった。しかし今は、自らの功績ではなく、彼らの非難によって憐れみを受けた。それなら、かつて神の律法に従って歩み、約束を与えられたこれらの改宗者たちは、なぜさらに憐れみを受けないのか。」
(32節) 神はすべてのものを不信仰の中に閉じ込めました。それはすべての人をあわれむためです。さらに、古代から諸国民は不信心と無知のうちに暮らしていました。それはまるで神なしにはあり得ないことでした。そのために、律法は文字によって明らかにされ、それによって軽率な者たちが抑制されるのです。そして、敵対者の狡猾さが罪を積み重ね始めたので、その禁令によって人はより罪深い者とされようとしました。神は常にその慈悲深い慈悲をもって人を備え、律法なしに罪であったものが律法のもとで消し去られるようにされました。神は、すべての人の罪が消し去られる信仰のみを置くようにと、これを定められました。律法によってはすべての人に望みがなかったので、神のあわれみによって救われるようにするためです。これは、すべてのことを不信仰のうちに終わらせることです。そうすることで、すべての人が不信に陥っていたときに、定められた賜物が神から与えられ、賜物の恵みが最も受け入れられるようになるためです。ですから、だれも誇ってはいけません。知らない者が高ぶるのは、みじめなことです。
(33節) ああ、神の知恵と知識の富の深さよ。その裁きはなんと測り知れず、その道はなんと見極めがたいことか。神は、その知恵と知識の豊かさにおいて、感謝の賛美を尽くして、高く計り知れない神を証しされます。神の計らいと裁きは計り知れないからです。神は、人の生き方と行いを初めからご存じです。正義の厳しさだけでは人類は救われず、慈悲だけでは功績の進歩には至らないからです。だからこそ、神はそれぞれの時に、何を宣べ伝えるべきかを定められました。しかし、それ以前は、各人に各自の判断をゆだねられました。自然そのものが導き手であるため、正義は明らかです。そして、自然の正義の権威が違反の習慣によって麻痺していたので、律法が与えられました。それは、啓示された律法の恐怖によって人類が抑制されるためでした。しかし、人々は自らを抑制しなかったため、律法によって有罪とされました。慈悲が宣べ伝えられ、神のもとに逃れる者を救う一方で、それを一時的に拒む者たちの目をくらませました。そして、かつてモーセを通して与えられた神の正義に従うことを拒んだ諸国民を、彼らの約束へと誘いました。こうして、彼らは救いをねたみながらも、熱意によって、律法で約束された救い主の根源の起源へと自らを改めることができました。これが、神の知恵と知識の富の深さです。神は、その多様な摂理を通して、ユダヤ人と異邦人の両方を命の糧として獲得されました。
(34、35節) 主の御心を知る者は誰か。主の助言者となった者は誰か。主にささげた者は誰か。その報いを受ける者は誰か。(イザヤ書 40章13節)これはイザヤ書に記されています。すべての計画を知っておられるのは神のみであり、神は何も必要とされない方であることは明らかです。なぜなら、すべてのものは神から出ているからです。それゆえ、神の計画は誰にも理解されず、計り知れません。なぜなら、低いものの中にある高いものの意味を知ることはできないからです。最後に、信仰を持つユダヤ人にとって、異邦人の救済のための神の計画と御心があることは不可能に思えました。同様に、信仰を持たないユダヤ人が改心すること、あるいは信仰を持つ人々が受け入れられて救われることは、異邦人にとって困難で信じられないことのように思えました。その他多くのことの中に、隠されていて理解できない神の計画がこれです。
(36節) 万物は神から発し、神によって成り、神に在る。栄光は神にあります。それゆえ、神の御心と御計りごとは探り知ることのできないものであると、パウロは宣言しました。「万物は神から発し、神によって成り、神に在る。栄光は神にあります。」こう言って、パウロは世から隠されていた意味を明らかにしました。神は万物の創造主であるから(神は、なかったものを創造して、存在させようとされた)、万物は神から出ているからです。万物は神から出ているから、御子を通して存在するようになりました。御子は父と同じ本質を持ち、御子の
そして、それゆえ、神に栄光があります。なぜなら、万物は神から発し、神によって成り、神に存在しているからです。それゆえ、神から発し、神によって成り、神にあって存在するようになったものは、神の意図と計画を知ることはできません。しかし、神はすべてのことを知っておられます。万物は神の内にあるからです。神は、神の奥義を明らかにされました。そして、神は、人々が知らないでいてはならないと、すでに言っておられました。
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