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ローマ人への手紙注解 (アンブロシアステル)/第1章

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第1章

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(第1節) キリスト・イエスの僕、パウロ。私たちの昔の人の間では、イサクはその笑いのために、ヤコブはそのかかとのために、名前が理由があって作られたように、彼もまたその落ち着きのなさのためにサウロと呼ばれました。しかし、彼は信仰に入った後、サウロから自分をパウロと呼び、つまり変わったのです。そして、サウロは上記の意味で落ち着きのなさや誘惑と解釈されるので、彼がキリストの信仰に入ったとき、彼は自分をパウロと呼び、つまり、誘惑者から静かになり、謙虚になり、小さくなったのです。なぜなら、平和は私たちの信仰だからです。彼が神の僕たちにユダヤ教の落ち着きのなさからの誘惑をもたらす前に、彼自身もユダヤ教への愛によって以前に否定した希望のゆえに、誘惑に遭いました。

しかし、彼は自らをキリスト・イエスの僕と称し、律法から自由であることを示しました。それゆえ、彼は神と人の両方の位格を際立たせるために、両方、すなわちイエス・キリストを称えました。なぜなら、使徒ペテロも証言しているように、主は両方におられるからです。「彼はすべてのものの主である」と。それゆえ、彼は主であり、また神でもあるのです。ダビデも「主こそ神である」(詩篇99篇3節)と語っています。異端者たちはこれを否定します。マルキオンは律法への憎しみからキリストとその御体を否定し、イエスへの信仰を告白しているように見えますが、ユダヤ人とフォティノスは律法への熱意から、イエスが神であることを否定しているように見えます。彼が「イエス」または「キリスト」と言うときは、時には神を意味し、時には人を意味します。この箇所もその一つです。「そして、主イエスは一つであり、万物はこの方によって成り立っている」(コリント人への手紙一 8章6節)と彼は言います。これは確かに、神の御子が神である限りにおいて、神の御子に当てはまります。また別の箇所では、イエスは年を重ね、知恵も深まっておられたと言っている(ルカ 2章52節)。これは確かに人間に当てはまることだ。

使徒と呼ばれた。このゆえに彼は神を知り、また、ふさわしい僕となったことを告白し、自らを昇進させたことを示した。「使徒と呼ばれた、すなわち、主の働きを行うために主から遣わされた者」と。こうして彼は、律法ではなくキリストに仕える者として、神にふさわしい功績を与えられたことを示した。人の子は安息日の主でもあるからである(マタイ12章8節)。

神の福音に分けられた。神の福音とは、罪人たちを免罪へと導く神の福音である。しかし使徒は、パリサイ人としてユダヤ教の教師の立場にあったため、神の福音のためにユダヤ教の説教から離れたと述べている。律法から離れることで、律法ではなし得なかったキリストを宣べ伝えるためである。[27] キリストは、ご自身を信じる者たちを義とされる。しかし、それは律法に反するものではなく、律法のためにあるのです。預言者イザヤが言うように、律法自体がこうなると言っているからです。「シオンから人が来て、ヤコブの捕囚を救い出し、解放する。わたしが彼らの罪を取り除く時、これが彼らと結ぶわたしの契約である。」

ですから、神の律法がモーセを通して与えられ、神の新しい律法が宣べ伝えられるのであれば、神が与えられた律法から神の福音に移されたと言うことと、何が違うのでしょうか。これは、第二の段階から第一の段階へ、良い段階からさらに良い段階へと人が近づいていくようなものです。律法は、戒めを正すために神によって与えられたものですが、神の福音は、それによって、世々隠されていた神の奥義、すなわちキリストが明らかにされるのです。この福音に招かれた者は皆、二重のアフォフォリア(神の名)を受けます。彼らは罪の赦しを受けて神の子となり、もはや第二の死を経験することはありません。したがって、主は福音書の中でこう言っています。「永遠の命とは、唯一のまことの神でいますあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17章3節)。


(2節) 彼が以前に約束していたこと。信仰の希望がキリストにあることを証明するために、パウロは既に、自分の福音が神によって約束されたものであると語っています。そして、そこから自分が命の支えとなるにふさわしい方であることを教え、パウロが来る前に自分に与えられた証しを、使徒ペテロも同様に証言しています。「天の下にこの名のほかに、私たちが救われるべき名は与えられていません」(使徒行伝 4章12節)。

預言者たちを通して。キリストの来臨が有益なものであることをより明確に示すために、パウロは約束に署名した人々も示しました。それは、彼らを通して、約束がいかに真実で偉大であるかが示されるためです。偉大な先駆者に、取るに足りないことを告げる人はいないからです。

聖書の中で。パウロはこれを真実の証言の山に加え、信者たちにさらなる確信を与え、律法を推奨しました。聖書は神聖であり、悪を非難するとともに、唯一の神の秘跡と、人類の救済のための神の子の受肉の秘跡が、しるしと不思議の証しとともにそこに含まれています。


(3節) 御子について。神は御子を世に約束されたので、名高い人々を通して約束されたのは当然のことでした。それは、宣べ伝えられた御子がどれほど力強い方であるかが彼らから知られるようにするため、御子の来臨を聖書に書き入れるため、そして聖徒たちが聖書の中で宣べ伝えた事が偽りと思われないようにするためでした。

肉によればダビデの子孫から生まれた御子。聖霊によれば、すなわち神によれば神の御子であった御子(神は霊であり、疑いなく聖なる方です)は、肉によればダビデの子孫から神の御子として生まれたと、彼は言います。「そして、ことば(言)は肉となった」(ヨハネ1章14節)。それは、今や神と人との御子であるキリスト・イエスが一つとなり、まことの神であるように、まことの人にもなるためです。しかし、肉と霊とがなければ、真実な方ではありません。こうして、完全となるのです。」永遠の昔から神の子であった彼は、被造物には知られていなかった。しかし、人々の救いのために現れることを望まれたので、目に見えるようになり、肉体を持たなければならなかった。なぜなら、彼は死に打ち勝ち、肉体において人々を罪から清めるために、徳によって知られることを望まれたからである。それゆえ、ダビデの子孫から、ちょうど時代の始まる前から神から王が生まれたように、彼は肉においても王として誕生し、処女マリアの聖霊の働きによって造られ、すなわち生まれたのである。こうして、彼にはあらかじめ蓄えられていた尊敬の念によって、彼は人を超えて知られるようになるのである。なぜなら、預言者イザヤが預言したように、人間の法の誕生から遠く離れているからである。「見よ、処女が胎内に身ごもる」(イザヤ書 7章14節)それは新しい行為であり、賞賛に値すると見なされ、人類の将来の訪れに関する神の摂理が認識されるためである。


(4節) キリストは、私たちの主イエス・キリストの死者からの復活によって、聖化の霊によって力ある神の子とあらかじめ定められていました。神の子という言葉によって、キリストは父なる神を意味し、聖化の霊を付け加えることによって、三位一体の奥義を示されました。それゆえ、受肉されたこの方は、その本質が隠されていましたが、死者の中から復活した時、聖化の霊によって力ある神の子として現れるとあらかじめ定められていました。詩篇第84篇に「地から真理が芽生えた」(詩編 84篇12節)と書いてあるとおりです。あらゆる曖昧さと不信は、キリストの復活によって踏みにじられ、打ち砕かれました。百人隊長は十字架上にいる間も、大きな出来事を見て、キリストが神の子であることを告白したのです(マタイ 27章54節)。 [28] 弟子たちも、イエスの死に際して、エマオでクレオパが「私たちは、この方がイスラエルの贖いを始められる方だと思っていました」(ルカ 24章21節)と言ったとき、疑念を抱きました。ところが主ご自身が、「あなたがたが人の子を上げたとき、わたしがそれであることを知るであろう」(ヨハネ 8章28節)と言われ、また、「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべてのものをわたしのもとに引き寄せる」(ヨハネ 12章32節)とも言われました。すなわち、そのとき、わたしはすべてのものの主であることが知られるようになる、ということです。しかし、この理由で、パウロはイエス・キリストの復活ではなく、死者の復活だと言いました。キリストの復活は、すべての人の復活をもたらすからです。キリストが生きている間に働いたのと同じ力で、死んでいる間にも働くこと、これこそキリストにおけるさらに大きな力、勝利であるように思われます。この行為によって、イエスは死を欺いてわたしたちを贖うように見えました。そのため、パウロはキリストをわたしたちの主と呼んでいます。


(5節) この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受け、御名のためにあらゆる異邦人に信仰を宣べ伝えました。神の御子は復活後、力をもって現れ、恵みを与えて罪人を義とし、使徒と名づけられました。ここで御子はご自身を使徒の仲間と呼んでいます。それは、使徒の務めが、ユダヤ人の使徒たちのようにではなく、恵みによって神の賜物となるためです。それゆえ、彼らは父なる神から主であるキリストを通してこの力を受けました。それは、主に代わって、しるしによって主の教えを受け入れられるようにするためでした。それは、救い主の徳をねたむ不誠実なユダヤ人たちが、救い主のしもべたちの大勢の人々の称賛を見て、さらに激しく責め立てるためでした。教えの徳の証しは、説教されたことが世には信じ難いものであるため、行いによって信じられるようになるためです。それゆえパウロは使徒たちを召して遣わし、すべての国民に信仰を宣べ伝えさせ、彼らが従って救われるようにし、神の賜物が今やユダヤ人だけでなくすべての国民に与えられていることを示すためであった。そして、これが神の意志であって、神の代理人が宣べ伝えることによって、すなわち神の名のために、キリストにおいて、またキリストを通して、神がすべての者に慈悲を示そうとすることであった。パウロが他の箇所でこう言っているとおりである。「私たちはキリストの使者なのです」(コリント人への手紙二 5章20節)。


(6節) あなたがたも、このキリストにあってイエス・キリストに召されているのです。すなわち、イエス・キリストの御名のために、あらゆる国々で私たちの使節として、あなたがたもこのキリストに召されているのです。神の賜物はすべての人に送られ、他の人々の中で召されたことを聞くと、律法の下に歩むべきではないことを知るようになるためです。なぜなら、残りの異邦人はモーセの律法を持たずに、キリストの律法を受けているからです。


(7節) ローマにいる、神に愛され、聖徒と呼ばれたすべての人々へ。パウロはローマ人に手紙を書いていますが、神の愛のうちにある人々に書いているという意味も込めています。神の御子について正しく考えている人たちでなければ、彼らはいったい誰でしょうか。彼らこそ聖徒であり、召された者と呼ばれています。律法の下に歩む者はキリストを誤解し、キリストに救いの完全な希望があるかどうか疑って、父なる神に害を及ぼすからです。ですから、彼らは聖徒ではなく、召された者と呼ばれてもいません。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなた方にありますように。パウロは、恵みと平和は正しく信じる者と共にあると語っています。恵みとは、罪から赦されたことであり、平和とは、敵から創造主と和解させられたことなのです。主はこう言われます。「あなたがたがどの家に入っても、迎え入れられたら、『この家に平和がありますように』と言いなさい」(ルカ10章5節)。そして、キリストなしには平和と希望はないということを教えるために、パウロは恵みと平和は父なる神だけでなく、キリスト・イエスからも来ると付け加えました。パウロが神を私たちの父と呼ぶのは、その根源、すなわち万物がキリストから出ているからです。しかし、私たちの主キリストは、その血によって贖われ、私たちが神の子とされたからです。


(8節) まず第一に、私はイエス・キリストを通して、あなたがた一同のために私の神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に宣べ伝えられているからです。序文を終えると、パウロは異邦人の使徒として、ローマ人が世界を支配していた時代に、彼らがキリスト教の信仰に服従したことを喜び、すべての人々の前で証言します。それは、世の賢者には謙虚で愚かに思えるものです。ですから、パウロがローマ人について喜んだ点は数多くありました。彼らは教えにおいて人目を引く存在であり、善行に熱心で、語るよりも善行を行うことに熱心でした。これは神の宗教から遠く離れたものではありません。しかしパウロは、彼らの信仰が至る所に広がっていたことを何よりも喜ぶと述べています。真理の創始者たちが伝えた規則に従ってはいませんでしたが、彼らがキリストの名を用いて、唯一の神から来るものを崇め始めたことを、パウロは祝福し、彼らが進歩できると知りました。パウロは、彼らの良い始まりを共に喜び、成長するように励ますことによって、彼らに対する愛も示しています。

[29] ですから、パウロは、まだ完全に彼らのものとなっていなかったからという理由だけで、神に感謝していると述べています。父性はすべて神から出たものだからです(エペソ3章15節)。しかし、私たちの救いの備えはすべて神から出たものであり、律法や預言者によってではなく、キリストによって与えられたものです。パウロは、彼らの信仰の名声が多くの人の成長をもたらしたからこそ、神に感謝しているのではなく、キリストによって感謝していると述べています。これは、このこと自体が、キリストを通しての神の摂理によるものであるとパウロは考えているからです。というのは、信じた人々は喜び、力づけられ、残りの人々は、自分たちの指導者が立てられたのを見て、あるいは、信じなかった人々は、これらの人々の模範によって信じることができたからです。なぜなら、下位の者は、上位の者が行うのを見て、それを容易に行うからです。


(9節) 神は私の証人です。私は御子の福音をもって、私の霊によって神に仕え、祈りの中で絶えずあなたがたのことを思い起こしています。愛を説き勧めるために、彼は神を証人として仕え、律法に仕えるのではなく、御子の福音によって、すなわち、しもべモーセが伝えた福音によってではなく、愛する御子が教えた福音によって神に仕えています。しもべが主人から遠く離れているように、福音も律法から遠く離れています。律法が悪いからではなく、福音の方が優れているからです。ですから、彼は御子の福音によって神に仕え、キリストを信じさせることが神の御心であることを示すのです。

私はまた、神に仕えるのでしょうか。どのように仕えるのでしょうか。彼は言います。「私の霊によって仕えるのです。手による割礼でも、新月でも、安息日でも、食物の分別でもありません。霊によって、つまり思いによって仕えるのです。」神は霊であるので、むしろ霊、すなわち心によって仕えられるべきです。心によって仕えられる者は、信仰によって仕えられるからです。これは、神が山で礼拝されることを望んでいると考えたサマリアの女に対する主の運命でもあります。彼女はこう言いました。「まことの礼拝者が父を霊と真理によって礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような礼拝者を求めておられるからです。神は霊です」(ヨハネ4章23節, 24節)。ですから、礼拝する者は霊と真理によって礼拝しなければなりません。ここで勧められているのは祈りではなく、献身的な心です。つまり、霊によって真理をもって、"霊"なる神とキリストを礼拝することです。万物はこの方から出ており、またこの方を通して万物は成り立っています(一コリント8章6節)。父が求めておられる礼拝者たちはまさにこれです。ですから、父は祈りの中で彼らを思い起こし、彼らの中に愛を蒔くようにと命じます。なぜなら、彼らは父を慕うようになるからです。なぜなら、御自分を思い起こすと聞く者を愛さない者はいないからです。というのは、もし彼らが、遣わされていない者たちから、キリストの名のもとに、偽りの言葉で教えられた教えを喜んで受け入れたのであれば、使徒であると知っていて、その言葉に力があった者から聞きたかったことは、なおさらだったろう。


(10節) 神の御心によって、ついに旅が順調に進み、あなた方の所へ行けますようにと祈っています。パウロは彼らへの祈りの意味を示しています。彼は、神の御心によって彼らが前進し、神の賜物を宣べ伝えることができるよう、神が町に来てくださるよう願っていると述べています。なすべきことが神の御心によってなされるなら、前進は確かにあるからです。ですから彼は、他の人々に宣べ伝えるのに忙しかったので、何らかの理由で今、町に行く機会が与えられるようにと祈っています。神の御心によって来たのであれば、神の御心は計り知れないので、この旅は順調だったと考えたのです。ですから、順調な旅とは、旅の労苦を無駄にしないことです。パウロは、神が彼らを恵みへと招くことによって、この旅を成就してくださるように祈っています。パウロは心から熱心に語ります。なぜなら、彼は彼らと自分自身に益をもたらすことを知っているからです。別の箇所でこう言っています。「私たちの喜び、冠とは何でしょうか?」あなた方は主の来臨の時にいないのですか(テサロニケ第一 2節19節)。使徒の実は、多くの人を勝ち得るほど豊かになります。さらに、世の権力者が神に立ち返るなら、それはさらに大きな喜びです。敵が強大であればあるほど、和解はより必要となるからです。それゆえ、彼の意志は、強いられて皇帝に上訴する機会を与えられ、そして神のご意志により、別の理由からローマ市へ向かうことになりました。それは、彼が彼の意志を成就するためでした。ついに、彼が難破したとき、主は彼の傍らに立ち、「恐れるな、パウロ。あなたがエルサレムでわたしについて証言したように、ローマでも証言するのだ」(使徒言行録 27章24節)と言われました。


(11節) わたしはあなたがたに会いたいと切に願っています。あなたがたに霊的な恵みを施し、あなたがたを強めたいからです。この強めには、与える神、奉仕者である使徒、そして受ける民という三者が必要です。ですから、パウロは自分の望み、彼らに対する自分の願いを明らかにしています。「わたしがあなたがたに霊的な恵みを施したい」と言うとき、パウロは彼らが肉の感覚に達していたことを意味しています。なぜなら、彼らはキリストの名のもとで、キリストが教えられたものではなく、ユダヤ人によって伝えられたものに達していたからです。しかしパウロは、彼らをこの伝統から引き離し、霊的な賜物を与えて神のもとに導き、霊的な恵みにあずかる者とすることで、彼らが信仰告白と信仰において完全となるように、もっと早く来ようと望んでいたのです。

ですから、パウロが彼らの信仰を称賛したのではなく、キリストへの容易さと望みを称賛したのだと理解できます。なぜなら、彼らはキリスト教徒であると自称しながらも、伝えられた律法のもとでのみ行動していたからです。神の憐れみは、私が以前にも何度も述べたように、律法を廃絶するために与えられたのです。神は人間の弱さを顧み、自然法に信仰のみを加えることによって人類を救うことを定められたからです。

しかし、パウロが著作の中でそれらを正し、肉的な意味から引き離すとき、なぜパウロは、彼らに霊的な恵みを与えるために自身の臨在が必要だと言うのでしょうか。彼が書いたものが霊的なものであるのは、異端者のように、言葉によって言葉が別の言葉へと移り変わる傾向があるからではないでしょうか。それゆえ、パウロは、自分が書いた意味において、福音の現在の教えを彼らに伝えたいと願うのです。それは、彼の手紙の権威によって誤りが取り除かれるのではなく、むしろ強められるためです。なぜなら、パウロが臨在するとき、言葉では説得できなかったことを、徳によって説得し、彼らに近づくことで、彼らがより多くの益を得るようにしたからです。


(12節) つまり、あなたがたの信仰とわたしの信仰という、互いに共通する信仰によって、あなたがたの中で共に慰められるということです。パウロは、もし彼らが霊的な事柄を理解するなら、彼らと共に慰められると言っています。なぜなら、彼らの信仰を喜びながらも、彼らが正しい信仰を受け取っていないことを悲しんでいるからです。使徒パウロも同じような気持ちで、他人の欠点を自分の欠点のように嘆きました。そして、こう言っています。「わたしたちは一つの同じ信仰によって慰められるのです。もし彼らがキリストを信じる一つの信仰を持つなら、慰めは一つとなるのです。使徒パウロの福音宣教による霊的な恵みの働きによって、この効果がもたらされるのです。」


(13節) 兄弟たちよ、わたしはあなたがたが知らないとは思っていません。わたしは何度もあなたがたのところへ行こうと申し出ましたが、今まで禁じられてきました。パウロは自分の目的と願望を明らかにしている。実際、パウロは、アクラやプリスキラのように、エルサレムや近隣の町から信仰のためにやって来た兄弟たちを通して、彼らがそれを知っていることを疑っていなかった。ローマ人に自分の願望をほのめかしながら。パウロは何度も来たいと思ったが、禁じられたので、手紙を書いた。長い間悪行にふけっていた彼らが容易に矯正されないことがないようにするためである。パウロが彼らを兄弟と呼ぶのは、彼らが新しく生まれ変わったからだけではなく、彼らの中には少数ではあっても、正しい考えを持つ者がいたからでもある。そこからパウロはこう言った。「聖徒と呼ばれた者たち」(ローマ1章7節)。しかし、「聖徒と呼ばれた者たち」とはどういうことか。もし彼らがすでに聖徒であるなら、どのようにして彼らは聖化されるために召されるのか。これは神の予知に関することである。なぜなら、神が聖徒であると知っておられる人々は、すでに神と共に聖徒であり、召され続けているからである。

しかしパウロは、手紙の執筆時まで禁じられていたと述べています。それは確かに神によるものでした。神は、人々がまだ準備ができていないことを知って、使徒パウロを、すでに真理を受け入れる能力のある他の町へと導きました。彼らは救い主の名のもとに活動していましたが、肉欲に邪魔され、今となっては霊的な事柄を学ぶにふさわしくない状態になっていたのです。最後に、パウロとシラスがビテニアに行こうとした時、聖霊によって禁じられました(使徒言行録 16章7節)。なぜ禁じられたのでしょうか。パウロがまだその気持ちが足りないことを知っていたからではないでしょうか。しかし、コリントの信徒への手紙の中で、使徒パウロは主から「語りなさい。黙ってはならない。この町にはわたしの民が大勢いる」(使徒言行録 18章9, 10節)と諭されています。ですから、パウロは禁じられたのが無駄だったとは言っておらず、遅れの原因を突き止め、人々に備えるよう勧めています。それは、霊的な恵みが彼らに与えられると聞いて、彼らが肉の悪徳を避け、それを受けるにふさわしい者となるためでした。

他の異邦人の中でそうであるように、あなたがたの間でも、わたしが実を結べるようにするためです。パウロは、共通の善のためにこれらの人々のところへ行き、彼らも信仰告白を承認して霊的な恵みの救いを得るように、また、他の異邦人を模範として彼らを正しい信仰へと誘い、その奉仕のゆえに神のもとで実を結べるようにと、熱心に望んでいると宣言しています。なぜなら、多くの人が同意するのを見ると、人は自分に託されたことをより進んで行うようになるからです。


(14節) 私はギリシア人にも未開人にも、賢い人にも愚かな人にも負債を負っています。パウロは、すべての人に説教するために遣わされたので、自らがこれらの人々に負債を負っていると述べています。このことは、すべての人々が負債を負っていることを意味しています。万物は神から生まれ、神を通して存在する創造主である神を告白することは、告白者にとって当然の栄誉であり、救いでもあるからです。それゆえ、パウロはギリシア人を異邦人と呼び、国籍によって、あるいは養子縁組によってローマ人と呼ばれる人々を異邦人と呼びました。ローマ人ではなく、血統が異なり、異邦人である人々を未開人と呼びました。一方、パウロは、世俗的な事柄に通じ、世俗において賢い人と呼ばれる人々を賢い人と呼びました。彼らは星や度量衡や数字を観察したり、文法や修辞学や音楽の技法を研究したりします。パウロは、これらの人々はキリストを信じない限り、これらの人々にとって何の役にも立たず、真の賢い人でもないことを示しています。一方、単純さを追い求め、これらのことを知らない人々を愚か者と呼びました。彼は、これらすべての人々に宣べ伝えるために遣わされたと証言しています。しかし、ユダヤ人については何も言っていません。なぜなら、彼は異邦人の教師だからです。そして、それによって、彼は自分が負債者であることを告白しています。なぜなら、彼はこの目的のために教えを受けたからです。それは、教えを伝えるためであり、そして、教えるときには、それを得るためなのです。


(15節) ですから、私は、ローマにいるあなた方にも、私の力の限り福音を宣べ伝えたいのです。パウロは、すべての国々に宣べ伝えるために遣わされたと言いながらも、ローマ王国の頭であり本拠地であるローマ人に、神の恵みの福音を伝える用意ができていると断言しています。頭が動揺していなければ、それは会員たちの利益、つまり安らぎに関係するからです。ですから、パウロはローマ人の平和を望んでいます。それは、サタンが誇ることのないように、また、その働きの実を豊かに得るためです。


(16節) 私は福音を恥じません。福音は、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力だからです。パウロはこう言って、不義の信仰を受け継いだ人々に触れています。しかし、その力は使徒たちの教えを推奨するものでした。ですから、使徒たちが宣べ伝えた事が、しるしや不思議によって証明されたとは信じ難いことのように思えるからといって、それほどの力を持っていた使徒たちの言ったことを疑ってはいけません(言葉が力を持つことを疑う人はいないでしょうし、ですから、彼らが奇跡を見なかったということは、彼らの宣教には神の力がなかったということです)。ですから、パウロは自分が神の福音を恥じているのではなく、彼らが恥じていると言っています。なぜなら、彼らが伝えてきた事は非難されるべきことであり、いかなる証言によっても裏付けられておらず、使徒たちの教えと相容れないものだったからです。ですから、すべての信じる者を信仰に招き、救いを与え、罪を赦し、義と認めるのは、神の力なのです。ですから、十字架の神秘によって証印を押された者は、第二の死から逃れられないのです。キリストの十字架の説教は、死が征服されたことのしるしです。使徒ヨハネはこう言っています。「神の子は、悪魔のわざを滅ぼすために来たのです。(ヨハネの手紙一 3章9節)」信じる者が死に捕らわれることがないようにするためです。それは、死が征服されたことのしるしだからです。

まずユダヤ人に、次にギリシャ人に。つまり、アブラハムの子孫である者と異邦人である者です。ギリシャ語では異邦人を意味しますが、ユダヤ人ではアブラハムの子孫を意味します。ユダヤ人はユダ・マカバイの時代から召命され始めました。彼は虐殺の際に異邦人の冒涜行為に耐え、神に信頼して民を集め、自分の子孫を守りました。彼はアロンの子孫でした。このように、パウロは父祖たちの大義のためにユダヤ人を優先しますが、ユダヤ人にもキリストの福音の賜物が必要であると述べています。もしユダヤ人もキリスト・イエスを信じる信仰によらなければ義とされないのであれば、律法の下にいる必要などあるでしょうか。


(17節) 神の義は、信仰に始まり、信仰へとその人のうちに啓示されるからです。ハバクク書は、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、信じる者のうちに神の義が啓示されるから、こう言っています。(ハバクク書 2章4節) 彼が神の義について述べているのは、律法の行いによらず、信仰によって不敬虔な者を義と認めるからです。他の箇所では、「律法による自分の義ではなく、信仰による義によって、私が彼のうちに見いだされるようにするためです」(ピリピ人への手紙 3章9節) と言っています。彼は、信仰における神の義、すなわち神の義は福音において啓示されていると述べています。神は人に信仰を与え、その信仰によって義とされるのです。人が信じて告白するときに、神の真実と義が彼のうちに示されるからです。それは神の義です。なぜなら、神は約束されたものを、与えてくださったからです。ですから、彼は神が預言者を通して約束されたものを得たと信じ、神の義を証明し、神の義の証人となっています。

信仰から信仰へ。信仰から信仰へというのは、神の信仰はご自身が約束されたことに対する信仰であり、人の信仰は約束された方を信じる信仰です。約束された神の信仰から、信じる人の信仰へと、神の義が明らかにされるのです。信じる者は神が義と見えるが、信じない者は不義と見えるからです。なぜなら、神は真実であることを否定し、神が約束したものを与えたことを信じない者は、神の真実さを否定するからです。彼は、この方が神の約束されたキリストであることを否定するユダヤ人に対して、こう言っています。

聖書にこう書いてあります。「しかし、義人は信仰によって生きる」(ハバクク書 2章4節)。そこで彼は預言者ハバククの例に倣い、かつて示されたことを宣言しました。すなわち、義人は律法によってではなく、信仰によって生きる、ということです。つまり、人は律法によってではなく、信仰によって神の前に義とされるのです。信仰の命は現在ではなく、未来にあるからです。義人は信仰によってではなく、神と共に生きるからです。


(18節) 神の怒りは、不義の中に神の真理を隠している人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、天から啓示されています。私が既に述べたように、信じる者には神の義が啓示されているように、信じない者にも不敬虔と不義が啓示されています。神は天の組織そのものから彼らに対して怒っておられるようです。神は星々を美しく創造された。それは、星々から創造主の偉大さと驚異が認識され、神のみが崇められるためである。詩篇にはこう記されている。「天は神の栄光を語り、大空は御手の業を物語る」(詩篇 18章2節)。それゆえ、神は自然法によって人類を罪に定めた。なぜなら、人類は自然法、すなわち世界の構造によって、神のみを創造主として愛すべきことを悟ることができたからである。これはモーセが書き記した(申命記 6章5節)。しかし、彼らは創造主を崇拝しないことで不敬虔となり、真理から逸脱し、唯一の神を告白しないことで、不義が彼らの中に現れたのである。


(19節) 神について知られていることは、彼らの中に明らかです。神の知識は、世界の創造以来、明らかです。本来、目に見えない神が、見えるものによってさえ知られるように、神によってわざが造られました。それは、見えることによって働く者を明らかに示し、ある不確かなものによって知られるようにするためでした。そして、他の人々には不可能なこのことによって、このわざを造られた方が万物の神であると信じられるようになったのです。

神は彼らにそれを明らかにされました。すなわち、信仰によってそれが知られるように、わざを造られたのです。


(20節) 神の見えないものは、世界の創造以来、造られたものを通して明らかに見られ、理解されているからです。彼が繰り返し述べているのも、まさにこの意味です。神の力と威厳は被造物自身の目には見えないので、世界の業を通して明らかに見られるということを、より完全に教えようとするためです。それゆえ、彼はこのように、自然の律法とモーセの律法の両方を守らずに生きた者たちを罪人とします。なぜなら、彼らは罪を犯す習慣によって自然の律法を覆い隠し、その記憶を忘れてしまったからです。しかし、彼らは改心のために与えられた律法を認めようとせず、その結果、二重に滅びに定められるようになったのです。

神の永遠の力と神性もまた、彼らには弁解の余地がありません。不信心は全く許されないと述べ、神の力と永遠の神性は人々に知られており、ある種の驚きによって神を敬う気持ちが鈍くなっていると付け加える。人々は神の存在と、神が人々の利益のために働かれることを無視しなかった。人間の使用の過程で生まれたものは、神が定められたものであることは疑いの余地がないからである。したがって、神の永遠の力とはキリストであり、キリストを通して、キリストは、かつて存在しなかったものを制定し、それらはキリストの中にとどまっている。キリストの御人格は長い間認められていなかったが、それでもその御業は明らかである。神の神性は、万物の要素がキリストの御業によって存続するからである。

それは許されないことである。なぜなら、多くの点で、有罪判決を受けた者は許されないからである。


(21節) 彼らは神を知っていながら、神としてあがめたり、感謝したりしなかった。また、天と地と冥の万物の始まりは一つの原理から来ていること、そしてこの原理がすべてのものの属性と役割を自然に定めたことを認めるほど無知ではなかった。そして、それを知りながら、感謝しなかった。神は、今あるものと未来のものを正しくするために、過去のことを語るのである。

しかし、彼らは思いの中で消え去った。彼らは消え去った。なぜなら、彼らは創造主であることを知っていたにもかかわらず、創造主によって世界が素晴らしい装飾で飾られているのを見て、偽善に走ったからである。

そして、彼らの愚かな心は暗くなった。誤りの霧が彼らの心を覆った。なぜなら、創造主が美しく造られたものによって、もっと創造主を敬うべきなのに、彼らは鈍くなり、神から離れ、目に見えるものだけで自分たちの耕作には十分だと言ったからである。


(22節) 彼らは、自らを賢者と称しながら、愚か者となっている。なぜなら、彼らは自らを賢者と考えているからである。なぜなら、彼らは、物理的な理由、星の運行や元素の性質を調べ尽くしたと考えながら、それらの主を軽蔑しているからである。したがって、彼らは愚か者である。もしこれらが称賛されるべきものであるならば、彼らの創造主はなおさらである。ところが、彼らは神を無視して恥辱を受けることに慣れており、みすぼらしい言い訳を用いて、伯爵を通して王に至るように、これらを通して神に近づくことができると言っている。さあ、伯爵を通して王の名誉を求めるほど気が狂っている者、あるいは自分の身の安全を忘れている者がいるだろうか。もし、この件について議論した者が見つかっただけでも、当然、王権を侵害する罪で有罪とされるべきである。そして、神の名の誉れを被造物に授け、主を捨てて、仲間の僕を崇拝する者は、自分が罪人であるとは考えていない。まるで神のためにさらに何かが取っておかれているかのように。人が護民官や伯爵を通して王のもとへ行くのも、このためである。人間は確かに王であり、誰に国家を託すべきか分からないからである。しかし、何も隠されていない神(神はすべての功績をご存知である)に功績を積むには、参政権論者ではなく、敬虔な心が必要である。なぜなら、そのような者が神に語りかけるところならどこでも、神は答えてくださるからである。


(23節) そして彼らは、朽ちることのない神の栄光を、朽ちる人間の姿に変えてしまったのです。こうして彼らの心は盲目にされ、これらの行為から見抜いていた見えない神の威光を、人間ではなく、さらに悪く、許しがたい罪である人間の姿に変えてしまったのです。こうして彼らは、朽ちる人間の姿、すなわち人間の姿を神と呼ぶようにし、生きている者にその名を授けることを敢えてせず、死者の像を神の栄光の中に受け入れるようにしたのです。像は真実よりも多くのことを成し遂げることができるにもかかわらず、これらの賢者たちを自らの破滅へと招くとは、なんと愚かで、なんと愚かなことでしょう。そして、死者は生きている者よりも優れているのです。生ける神から離れ、彼らは死者を優遇します。ソロモンの知恵にこう記されているとおりです。「死者は悪しき手で死者を形作る」(ソロモンの知恵 15章27節)

そして鳥、四つ足の動物、そして蛇。神はこれらの主題を、愚かさへの罰として、愚かさと虚栄を超えた類のものに重ね合わせた。彼らは神の威厳と栄光を著しく損なうため、これらの些細で小さなものにおいて神の似姿に敬意を払った。初期のバビロニア人は神を、かつて彼らを支配したとされるベルという死んだ男の空想と呼んだ。彼らはまた、神の人ダニエルが退治した(ダニエル書 14章26節)蛇の竜を崇拝し、彼らにはその姿が見られる。一方エジプト人は四つ足の動物を崇拝し、それを牛に似せてアピンと呼んだ。邪悪なヤロブアムはこれを模倣し(列王記下 12章28節)、サマリアで牛を用意してユダヤ人が犠牲に捧げた。また鳥も崇拝した。異教徒には聖なるコラジンがあったからである。しかし、エジプト人は、私が述べたこれらすべてのもの、そして今述べる必要のない他のものの像を崇拝していました。これらは、自分たちをこの世で賢い者とみなす者たちによって作られました。彼らは目に見えない神を認めながら、これらのことを行うことによって神を敬うことをせず、目に見えるものにおいても賢くあることができませんでした。大きなことに賢くなることは難しいのに、小さなことに賢くなることは難しいからです。


(24節) それゆえ、神は彼らを心の欲と汚れに引き渡し、彼らが互いにその体を辱めるようにされた。神は言う。彼らは物の像や似姿を神聖視し、創造主である神に危害を加えたため、嘲笑の対象に引き渡された。彼らは望まないことをするのではなく、望むことをするように引き渡されたのだ。ここに神の慈しみがある。彼らは服従させられ、望まないことをさせられ、苦しめられるのが当然であった。なぜなら、たとえ善が意志に反してなされたとしても、それは苦く邪悪なものだからである。しかし、彼らは神から背を向け、悪魔に引き渡された。引き渡すとは、唆したり、入れたりすることではなく、許すことである。彼らが悪魔の助けを借りて、欲望の中で思い描いたことが、実際に実現するようにするためである。なぜなら、彼らはそのような善を思い描くことはできなかったからである。

それゆえ、彼らは汚れに引き渡され、互いに体を辱めるようになったのです。パウロが過去のことを思い起こす時、彼は現代の悪も意味しています。なぜなら、彼らは今もなお、自分の体を辱めるために引き渡されているからです。なぜなら、そのような起源から、今もなお互いに体を辱め合う人々がいると言われています。魂の思いが罪に陥っているので、体が辱められると言われています。体の汚れが魂の罪の兆候であるからに他なりません。体が汚れているとき、それが魂の罪であることを疑う人はいません。


(25節) 彼らは神の真理を偽りに変え、永遠に祝福される創造主ではなく、造られたものを拝み、仕えました。アーメン。彼らは神の真理を偽りに変え、真実である神の名を、神でない者に与えました。石や木、その他の金属から、それらが何であるかを取り去って、それらが何でないかを与えています。これは真理を偽りに変えているのです。それらはもはや石や木と呼ばれず、神と呼ばれています。これは、創造主に仕えるのではなく、造られたものに仕えることです。彼らは神を否定せず、造られたものに仕えています。これによって彼らは免責されるのではなく、むしろ非難されます。なぜなら、彼らは知りながら、神を敬わないからです。

永遠に祝福される方です。アーメン。それは真実です。しかし神はこう言われます。「永遠に祝福される」。なぜなら神はとこしえにとどまるからです。しかし、神は異邦人の神々に、不敬虔な時代のため、誉れを与えるからです。ですから、それは真実ではありません。しかし、神のうちに真理はとどまります。別の箇所では、パウロはこの祝福を神の御子に帰し、とりわけ「肉によるキリスト、すなわち万物の上におられる方を、神は永遠に祝福された。アーメン」(ローマ9章5節)と述べています。この祝福は両方ともキリストに当てはまるか、あるいは父について述べたのと同じことを子についても述べたかのどちらかです。


(26節) それゆえ、神は彼らを恥辱の情欲に引き渡しました。彼らの女たちは、自然の用を自然に反するものに変えたのです。これは、神が怒られたとき、偶像崇拝のゆえに、女が卑しい用を欲するようになったという、人類に起こったことを証明しています。ある人たちは、この言葉の力を理解しず、異なる解釈をしています。自然の用を自然に反するものに変えるとは、許された用を奪い、それを異なる用法で用いること、つまり、男女の体の同じ部分が、許された用法とは異なる用法で用いられるようにすることではないでしょうか。もし彼らが考えているのが体の部分であるなら、どうして彼らは自然の用法を変えたと言えるでしょうか。なぜなら、彼らには自然によってそのような用法が与えられていないからです。パウロは既に彼らが汚れに引き渡されたと述べましたが、汚れの働きそのものの性質を示していませんでした。そこでパウロは今、汚れの働きそのものの性質について次のように宣言しています。


(27節) 同じように、男も女との自然の目的を捨てて、男は男に対して情欲の炎を燃やし、恥をかき立てました。ここでパウロは、上で女について述べたことの意味を明らかにしました。しかし、こう付け加えたとき、パウロは女の罪をはっきりと示しています。最後に、男が互いに対して情欲の炎を燃やしたとは言っていません。なぜなら、そのような目的が認められているのは男ではなく、女だからです。今日でもそのような女が見つかっているのだから、男に一つが見出されたように、女にもこれが見出されたとしても、何の不思議もありません。最後に、女は互いに非難し合い、男も同様です。ですから、すでに神の真理を偽りに変えてしまった者たちは、その自然の目的をも、自分たちが辱められ、第二の死に至る目的に変えてしまうことは明らかです。しかし、サタンは何も持っていないので、別の律法を与えることはできません。そのため、与えられた律法や許可されているものを別の秩序に変え、与えられたものと異なる方法で行われると、罪となるのです。

そして、サタンは当然受けるべき報いとして、自らの誤りの報いを身に受けています。サタンは、これが神への軽蔑の報い、すなわち汚れと穢れであると言います。なぜなら、これがこの罪の第一の原因だからです。この罪よりも悪い、より堕落した罪があるでしょうか。偶像崇拝は最も邪悪で重大な犯罪であるように、その報いは恐ろしく汚れた苦しみなのです。


(28節) そして、彼らは神を自分の知識の中に受け入れることを良しとしなかったため、神は彼らを不道徳な心に引き渡し、ふさわしくないことをさせました。偶像崇拝の誤りのゆえに、彼らは互いに恥ずべきことを行うようになりました。そして、彼らはこれらの行為が罰せられないと考え、神は無関心であり、それゆえ無視されるべきであると判断しました。こうして、彼らがますます鈍感になり、あらゆる悪を認めるようになるため、人々の不興を買ったことを疑わなかった行為は、神によって報復されないだろうと信じるようになるため、この言葉が付け加えられました。ここで彼は、彼らに加えられたすべての悪を列挙しています。こうして彼らが自然の理解力を取り戻し、神が怒ったときにこれらのことが彼らに降りかかったことを理解するためです。


(29、30節) パウロは、あらゆる不法に満ちていると言います。ここでパウロは要約して、不法を構成するものを彼らの前に挙げています。悪意、不品行、貪欲、邪悪、ねたみ、殺人、争い、欺瞞、悪意、陰口を言う者、中傷する者、神を憎む者、中傷する者、高慢な者、傲慢な者、悪事を企てる者です。パウロは不法の頭を悪意と呼び、その働きとして不品行と貪欲を挙げました。この不品行には姦淫が含まれています。もしパウロが姦淫と言えば、ローマ法のように、姦淫を許すことになるからです。ですからパウロは、より小さなものを付け加えました。それは、より大きなものが罰せられずに済むとは考えられないようにするためです。

それからパウロは、ねたみや殺人、争い、欺瞞を生み出す邪悪を加えました。この後、パウロは彼らの前に悪意を置きました。悪意は陰口を言う者や中傷する者を生み出します。こうした者は神を不快にさせずにはいられないので、パウロはこう言います、「神にとって憎むべき者である」。また、人々を喜ばせないので、軽蔑的で、傲慢で、横柄で、悪の考案者、すなわち悪の創造者なのです。だからといって常に悪であるわけではありません。しかし、こうした者は父である悪魔の模倣者となり、偶像崇拝という悪を発明したのです。この偶像崇拝を通して、この世のすべての悪徳が生まれ、最大の破滅をもたらすのです。聖書が証言しているように、悪魔は初めから罪を犯してきました(ヨハネの手紙一 3章8節)。彼は横暴な傲慢さを誇示しようとは努めますが、「私が神である」とは敢えて公言しません。最後に、とりわけ悪魔は主にこう言いました。「これらのものはすべて私に渡されました」(ルカによる福音書 4章6節)が、「これらは私から出たものです」とも、「私のものです」とも言いません。ヨブ記の中で、彼は自らに力を与えてくださるよう求めています(ヨブ記 1章12節)。ですから、自然界だけでなく空想にも神性を帰する者たちは、さらに悪いのです。


(31節) 両親に従わなかった。彼らはなんと傲慢なことにとらわれていたことか。自分たちの誕生の創始者であり、自分たちが生まれたことを喜んだ両親を認めようともせず、自分たちが存在し始めた親を軽蔑したのだ。これは、理解も愛もなく、神から出たものである。彼らの中には、肉の愛があったからである。彼らは、自然の摂理によって神の正義を知っていた。つまり、これらのことが神を不快にさせることは知っていたが、これらのことを行う者たちが死に値するということを心に留めようとはしなかった。彼らは神の正義を深く知っていたため、自分たちの行うこれらのことすべてが、罰と死に値することを否定しなかった。しかも、それらを行う者だけでなく、それらを行う者に同意する者も否定しない。同意とは参加である。


(32節) 彼らは神の正義を知りながら、これらのことを行う者たちが死に値することを理解しませんでした。彼らはそれを行うだけでなく、それを行う者たちに同意しているのです。これらの悪はすべて罪人たちの集団であり、彼らは同じ力によって罪人たちの奴隷となり、罰せられるべきことを行なっているのです。この悪の原因は、前述のように、ソドムの人々から始まり、神の怒りを告げ知らせながら、世界のほぼあらゆる場所にその枝を広げてきました。偶像崇拝の原因は、誤りと不敬虔の最初の部分であり、神がまず断罪するものです。ですから、これらが改められれば、風俗の悪徳も容易に矯正されるでしょう。悪の種が取り除かれると、悪の実は枯れます。根が切られた木は実を結ばないからです。 [36] モーセもまた(創世記19章24節以下)、ソドムとゴモラの行いについて言及し、その滅亡について黙っていなかった。それは、このことを避けるための恐怖を与えるためであった。したがって、心の中で神を思う者は、この悪徳と不名誉な生活による汚れを認めない。

悪事を働かずに、悪事を働く者に同意する者もいる。しかし同意するというのは、非難できる時に黙っているか、あるいは、そうした話を聞いて喜ぶことである。不純で悪意のある者は、自分の行いが知られていないどころか避けられるどころか尊敬さえされていることを知っているので、自分がそのような人間であることを誇りとするかもしれない。また、そうでない者が好意を寄せられ、従われているのを見ると、こうしたことで恥じ入ることもない。そして、自分たちの犯罪を煽動する者も同様である。したがって、彼らも同じ犯罪で有罪とされるのが当然である。また、悪事を働くだけでなく、それを行う者に同意する者もいる。彼らは悪事を働くだけでなく、そうした行為に同意している。したがって、こうした者の邪悪さは二重である。すなわち、悪事を働き、かつそれを行う者を非難する者は、それほど邪悪ではないからである。彼らは悪を知りながら、復讐しない。悪を行う者、また悪を行う者に同意する者は、非常に邪悪であり、神を畏れることさえない。かえって、悪を増やすことを望んでいる彼らは、こうしたことをまったく擁護せず、避けるべきではないと示唆する。


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出典

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原文:

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翻訳文:

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