ニネベのイサアク神秘論文集/第50論文
- ニネベのイサアク神秘論文集
第50論文
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<< 神への畏れを口実とした愚かな熱意によって引き起こされる損害と静寂から生じる利益、その他の主題について様々な考察をまとめた短い教訓集。他の主題を含む。>>
熱心な人は決して心の平安を得ることはできない。そして、平安を欠く者は喜びも欠く。心の平安は完全な健康と呼ばれ、熱意は平安の対極にある。したがって、熱意に突き動かされる者は重い病に苦しんでいる。人よ、他人の病に熱意を向けるとみなされる前に、あなたは自らの健康を遠ざけている。むしろあなたは自らの治癒に心を砕くべきである。しかし、もし病人を癒したいと願うなら、病人は罵倒よりも看護を必要としていることを知っておくべきである。このように、他人を助けない間、あなたは重い病に苦しめられている。熱意は人間において知恵の一形態ではなく、魂の病の一つ、すなわち狭量さと甚だしい無知として数えられる。神の知恵の原理は、寛大さによって得られる静けさと、人間の弱さへの忍耐である。ですから、力ある者たちよ、病める者の重荷を担い、柔和な心で罪人を導きなさい。使徒パウロは聖霊の賜物として、平和と忍耐を挙げています[1]。
肉体の労働において、目に見える働きが不十分であるがゆえに、心が苦しみに満ちている状態こそが、あらゆる肉体の労働の極致である。
精神的な苦しみを伴わない肉体の労働は、魂のない肉体と同じである。
心に苦しみ、感覚に鈍感な者は、病人のように、体は痛み、口にはあらゆる不快な食物を貪り食う。心に苦しみ、感覚に鈍感な者は、一人息子を持ちながら、その手足を一つ一つ切り刻む者のようだ。
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心の苦しみは神からの尊い賜物である。そして、それが課す義務と共に、心の苦しみに耐える者は、その手足に聖性を宿す者のようだ。善悪を問わず、あらゆることにおいて舌に支配される者は、この賜物に値しない。
人々と交際しながらする悔い改めは、穴の開いた壺のようだ。
贈り物しながらの非難は、蜜の中に隠されたナイフのようだ。
貞潔と女性との交際は、同じ家に住む雌ライオンと子羊のようなものだ。
神の前での労苦と堕落は、父の前で息子を屠る人のようだ。魂に病を抱えながら仲間を導く人は、道を教える盲人のようだ。
同じ魂の中にある慈悲と正義は、同じ家の中で神と偶像を崇拝する人のようだ。どこにいても、慈悲は正義の敵である。
正義とは、どの側にも偏ることなく、報酬を顧みることなく、すべての人にふさわしいものを与える、公平な
慈悲とは、寛大さによって掻き立てられ、誰に対しても支えを求めて差し出される愛情である。慈悲は、悪に値する者には報いを与えない。善に値する者には、二倍の分け前を与える。前者が正義の側に立つなら、後者は悪の側に立つ。刈り株と火が同じ部屋に留まることができないように、正義と慈悲は同じ魂の中に留まることはできない。
一粒の砂が金の重さに釣り合わないように、神の正義の力は神の慈悲に釣り合うことはない。
一握りの砂が海に投げ込まれるように、すべての肉なる者の罪は神の御心と比べれば釣り合わない。
豊かに流れる泉が一握りの土によって
海に種を蒔き、刈り取ることを期待する者のように、恨みを抱きながら祈る者もそうだ。
炎が上へと昇るのを止めることはできないように、慈悲深い者の祈りも天へと昇るのを止めることはできない。
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狭い場所に水が激しく流れ込むように、怒りの力も、私たちの心に居場所を見つけると、激しくなります。
心に謙遜を持つ者は、世に対して死んだ者です。世に対して死んだ者は、愛情に対して死んだ者です。親族に対して心が死んだ者には、サタンも死んだのです。嫉妬を見つけた者は、初めて嫉妬を見つけた者をも見つけたのです[2]。
神への畏れに根ざす謙遜と、神への愛を通して生じる謙遜があります。畏れによって謙遜になる人もいれば、神への喜びによって謙遜になる人もいます。前者は、抑制された肢体と整然とした感覚を持ち、常に心を悔い改めながら生きています。後者は、溢れんばかりの喜びと、抑えられることのない歓喜の心で生きています。愛は恥じらいを知りません。それゆえ、彼らは自分の手足を整えることも、制御することも知らないのです。愛は生まれながらに率直さと節度を忘れる性質を持っています。
あらゆる喜びの港よ、あなたを見つけた人は幸いです。
謙虚な者の会衆は、
清らかな肉体は、純粋な捧げ物よりも神に明らかである。しかし、どちらも魂の中に三位一体の住まいを備える。友と共に歩む時は、慎みある態度でありなさい。そうすれば、あなた自身にとっても、彼らにとっても有益となるだろう。なぜなら、友情という口実のもとで、魂は警戒の手綱を放ってしまうことが多いからである。
人々との交流については用心深くありなさい。必ずしも有益とは限らない。会衆の中では沈黙を尊べ。それは多くの悪を防ぐからである。
視覚についてのように、腹について用心深くあるべきではない。内なる戦いは、どんな点においても容易である。
兄弟よ、肉体の統制なしに内なる思索を統制できるなどと、信じてはならない。
敵よりも慣習を恐れよ。慣習を育む者は火を育む者のようだ。両者は自由な遊びを得た時にその活力を発揮する。しかし、慣習が最初に接近を求めた際に拒絶されれば、二度目にはそれが弱体化していることに気づくだろう。しかし、一度その欲求を満たせば、二度目に接近を求めた際には、それがより強くなっていることに気づくだろう。いかなる状況においても、この記憶はあなたを強くするだろう。
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用心深さから来る助けは、労苦から来る助けよりも良い。
笑いと嘲笑を好む者とは友だちになってはならない。彼はあなたを怠惰な習慣へと引きずり込むだろう。怠惰な行いをする者と喜んではならない。しかし、彼を憎むことには用心しなさい。もし彼が立ち続けたいと望むなら、助けてあげ、死ぬまで彼の存在を気遣いなさい。もしあなたがまだ病気なら、医者ぶる必要はない。杖の先を彼に差し伸べるなど、そうしなさい。
自慢する者や嫉妬に病んでいる者の前では、用心深く語りなさい。なぜなら、あなたが話している間、彼は心の中で、あなたの言葉に自分の望む説明を込めるからです。彼は、あなたの美しいものを通してさえ、他人をつまずかせる機会を
そして、あなたの言葉は彼の心の中で、病をもたらす機会へと変えられます。
兄弟についてあなたに語り始める者には、眉をひそめなさい。そうすれば、あなたは神と彼によって用心深い者とみなされるでしょう。
貧しい人に何かを与えるなら、その前に喜びの表情と優しい言葉、そしてその人の苦しみを慰める言葉をかけなさい。そうすれば、あなたの贈り物によって、その人の心の喜びは肉体の欠乏よりも大きくなるでしょう。
あなたが口を開いて誰かを非難する日には、たとえあなたが指導し、建てたいという思いに動かされて話していると思われても、あなたの魂は神に対して死んでおり、あなたの労苦はすべて無駄になっているとみなしなさい。なぜ人は自分の建物を壊して、隣人の建物を建てるように命じるのでしょうか。
あなたが何らかの形で人のために苦しむ日には、それが善人のためであれ悪人のためであれ、肉体であれ心であれ、その日、あなたは自らを殉教者、キリストのゆえに告解を受けるにふさわしい者とみなしなさい。聖書の言葉によれば、キリストは善人のためではなく、悪人のために死んだことを忘れてはならない。悪人のために苦しみを受け、罪人に善を行うことは、義人のためにそうすることよりも、どれほど偉大なことか、よく見よ。使徒パウロは、このことを驚くべきこととしてあなたに思い起こさせている。
もしあなたが自分自身のうちに義を獲得することができるなら、他の義を求めることに心を煩わせてはならない。
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あなたのあらゆる行為に先立って、肉体の貞潔と心の清らかさがなければならない。それらがなければ、あらゆる行為は神の前にむなしい。
熟考と吟味を経ずに行ういかなる行為も、たとえそれが美しくとも、無駄な労力であることを知りなさい。神は偶然の行為ではなく、あらゆる識別を義とみなす。
太陽の中の灯火 ― 賢明でない義人。
岩の上の種 ― 恨みを抱く者の祈り。
実を結ばない木 ― 慈悲のない苦行者。
毒矢 ― 嫉妬に端を発する悪口。
隠された罠 ― 狡猾な者の称賛。
愚かな助言者 ― 盲目の番人。
心の悲しみ ― 罪人と共に座る。
甘美な泉 ― 賢者との交わり。
賢い助言者 ― 頼れる壁。
愚かな友 ― 欠乏という宝。
賢者が愚か者にしがみつくのを見るより、嘆き悲しむ会衆を見る方がよい。
嫉妬に駆られた人々と共に住むより、獣と共に住む方がよい。
堕落した行いをする人々と共に住むより、墓の中に住む方がよい。
ハゲタカと共に座るのはよいが、貪欲な者と共に座るな。
人殺しと交わるのはよいが、争いを好む者と交わるな。
豚と交流しなさい、おしゃべりな者と交流するな。
豚の子供は、おしゃべりな者の口にまさる。
ライオンの中に座れ、高慢な者の中に座るな。
迫害する者ではなく、迫害される者になりなさい。
十字架につける者ではなく、十字架につけられる者になりなさい。
不当に扱うよりも、不当に扱われなさい。
十字架につける者ではなく、十字架につけられる者となりなさい。
不当に扱うのではなく、不当に扱われる者となりなさい。
抑圧する者ではなく、抑圧される者となりなさい。
熱狂者ではなく、平和的でありなさい。
公正に扱うのではなく、慈悲深く扱いなさい。正義はキリスト教の行動には属さず、キリストの教義にもそれについて言及されていません。
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。これは心の平安のしるしです。病んでいる者と共には病んでいるように。罪人と共には喪に服し、改心した者と共に喜びなさい。
すべての人の友となりなさい。しかし、心の中では孤独でありなさい。
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すべての人の苦しみにあずかりなさい。しかし、すべての人からあなたの身を遠ざけなさい。
誰に対しても、悪口を言ったり、指図したりしてはならない。たとえ、行いが非常に悪い人であっても。
罪人の上にあなたの外套を広げ、彼を覆いなさい。
もしあなたが彼の罪を負い、代わりに懲罰を受けることができないなら、せめて彼をさらさないために、あなたもその暴露を苦しみなさい。
腹のために争ってはならない。
名誉のために憎んではならない。
裁くことを好んではならない。
兄弟よ、あなたがたは知るべきである。私たちが家の中に閉じこもっているのは、人々の悪行を知らないためである。すべての人を善良な者とみなすなら、心の清らかさに到達するであろう。しかし、もし私たちがまた、非難する者、懲罰する者、裁く者、弁護する者、迫害する者、批判する者となるなら、町に住むことが砂漠に住むことより何の点で劣っているというのか。
もしあなたが心の中で静まっていないのなら、舌を静めなさい。
もしあなたが自分の思慮分別を律することができないのなら、自分の感覚を律しなさい。
心において孤独でないなら、肉体においても孤独でありなさい。
肉体をもって労苦することができないなら、心において苦しみなさい。
足元に目を覚ますことができないなら、寝床で目を覚ましなさい。
夜に断食するだけの体力がないなら、少なくとも夕方に断食しなさい。そして、夜に断食する力がないなら、少なくとも飽食には気をつけなさい。
心に聖人でないなら、肉体において聖人となりなさい。
心に悲しむ者[3]でないなら、少なくとも顔は悲しみで覆われなさい。
自分を正当化できないなら、罪人のように話しなさい。
平和の創造者でないなら、少なくとも邪魔者であってはならない。
もし勇敢になれないなら、謙虚な心であれ。
もし勝利者になれないなら、敗者に対して憤慨してはならない。
隣人を非難する者の口を封じる力がないとしても、せめて自分自身だけでも守りなさい。その者の仲間とならないように。
もしあなたから火が出て他者を燃やすなら、その火に焼かれたすべての者の魂は、あなたの手によって要求されるであろう。そしてもしあなたが火を吐き出さず、火を吐く者に同意し、その行いに従うなら、あなたは裁きにおいてその者の仲間となるであろう。
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平和を愛するなら、平和でありなさい。そして、平和にふさわしいとみなされたなら、常に喜びなさい。黄金を求めるのではなく、洞察力を求めよ。
亜麻布(byssus)ではなく、謙遜を身にまとえ。王国を得るのではなく、平和を得なさい。
謙遜でなければ、洞察力を持つ者はいない。謙遜でない者は、洞察力を持たない。平和を持たない者に謙遜な人はいない。平和を持たない者は謙遜ではない。喜びを持たない者は、平和を得ることはできない。人はこの世のあらゆる道を歩むが、神への希望に近づくまで、平和を見出すことはできない。心は、この場所に近づくまで、悩みや挫折から平和を得ることはできない。しかし、希望は彼らに平和を与え、心に喜びを注ぐ。聖なる輝きに満ちた、かの愛らしい口はこう言った。「労苦し、重荷を負う者は皆、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」[4]すなわち、「わたしにある希望に近づき、多くの道を離れなさい。そうすれば、労苦と恐れから安らぎを得るでしょう」。神への希望は心を高めます。地獄への恐れは心を打ち砕きます。
心の光は信仰を生みます。信仰は希望という慰めを生みます。希望は心を強くします。信仰とは洞察の啓示です。心が暗いとき、信仰は隠れ、恐れが私たちの内に支配し、希望を断ち切ります。教えを通して得られる信仰は、人を思い上がりや疑いから解放しません。ただ、洞察によって目覚める信仰だけが解放されます。それは真理の啓示と呼ばれます。
洞察の啓示を通して、信仰が神を神として理解する限り、恐れは心に近づきません。私たちが暗闇の中に置き去りにされ、謙虚になるためのこの洞察を失うとき、恐れが私たちを襲い、謙虚さと悔い改めへと近づけます。
神の子は十字架を負い、罪人たちは悔い改めの勇気を得ました。
悔い改めの習慣が王の怒りを払いのけたのであれば、今や王はあなたたちの誠実な心を拒絶することはないでしょう。謙遜の習慣が、自らが真実ではないことを知っている者から神の怒りを払いのけることができるのであれば、まして、自分の罪過のために真実に苦しんでいるあなたたちにとっては、どれほどのことでしょうか。註釈家[5]の言葉によれば、あらゆる肉体の労苦の代わりに、心の苦しみだけで十分です。
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絶えず自分のことを思い、神と交わる人は、恵みの神殿です。では、自分のことを思いやるとは何でしょうか。それは、安息を求めて絶えず追い求めること、常に苦しみ続けること、自然の悲惨さゆえに常に不完全なままである物事について、絶えず心を煩わせる労苦、激しい感情にさいなまれながらも心が抱え、祈りのささやきとして謙虚な悔悟の念をもって自らに捧げる、こうした事柄に対する絶え間ない悲しみです。心は、その力に応じて、肉体の煩いをできる限り軽蔑します。司教聖バシレイオスが言うように、そのような人は、魂の中に絶えず神を思い起こす人なのです。
気を散らすことなく祈る祈りとは、魂の中に絶えず神を思い起こさせる祈りです。なぜなら、これこそ神の受肉であり、私たちが心を丹念に慰め、神の喜びを求めながら、絶えず神を思い起こすことによって、神が私たちの内に住まわれるからです。不本意な邪悪な思索は、以前の怠惰に端を発しています。
兄弟たちよ、神への奉仕のために、体力をつけて奉仕に復帰するために、レクリエーションとして体を休めたいと願う皆さん、数日間の休息の間、完全な警戒を怠らず、奉仕に復帰する意志のない人のように、全身全霊でくつろぎましょう。
平和な時に矢に傷つけられる者たちは、自らの中にその原因、すなわち言論の自由を負っている者たちである。そして、神聖な場所(すなわち神が彼らの魂の中で動いている時)で彼らが身にまとう汚れた衣服は、彼らがくつろいだ時に織ったものである。純粋な祈りの時に捧げたいと願う時、私たちを恥ずかしくさせるものは、私たちが自らの感覚を軽視しすぎていた時に身につけていたものである。
用心深さは労働よりも人を助け、気楽さは休息よりも人を傷つける。休息の中には内なる葛藤が生じるが、それがいかに人を悩ませるものであっても、人はそれを克服することができる。[p.238] というのは、人が休息を放棄し、労働の場に戻ると、たちまち葛藤は静まり、人から消え去るからである。気楽さは休息から生まれるものだが、気楽さから生まれるものはそうではない。人は自由な場にいる限り、自らに手を置いて、自らの法則の秩序の下に置くことができる。人は依然として自由の場にいるのである。しかし、気楽な状態になると、人は自由の場を去っている。人が用心深さを完全に捨て去らなければ、好まないことに意に反して従わされることはない。また、自由の領域を完全に手放さなければ、必然に抗えないほどに人を縛り付ける偶然に襲われることもないであろう。人よ、あなたの感覚のどれか一つによって自由の地位を放棄してはならない。さもなければ、あなたはそこへ戻ることができなくなるであろう。休息は初心者のみを傷つけ、くつろぎは熟練者や老齢者をも傷つける。悪い思索の快適さに身を任せている者は、用心深さによって立ち返る道を見つけ、善行の極みに達することができるだろう。しかし、労働に身を委ね、用心深さを怠り、生活のくつろぎに心を奪われた者たちは、行儀の極みに達した後、敵国で負傷し、平和な時代に死んだ者もいれば、生活という利益のために旅立ち、魂を侵害にさらした者もいる。
何かに罪を犯したとしても、困難に直面することはありません。ただ、それを貫き通す時だけ困難に直面するのです。用心深い人にも、罪は時として起こります。
しかし、それに執着することは、完全な死に繋がります。偶然に犯した罪のために私たちが耐え忍ぶ苦しみは、私たちの命を支える恵みによって、私たちの純粋な奉仕とみなされます。
赦しを期待して二度罪を犯す者は、神と共に狡猾に歩みます。予期せず、罰の縄が投げかけられ、彼は望んでいた時に到達することができません。
もし人の感覚が緩んでいれば、その人の心もまた緩んでいる。人が我々の先祖たちのように識別力をもって心の奉仕を行なうならば、心の奉仕は外的な肢体の束縛となる。このことは、その人に見られる他のしるしからもわかる。すなわち、彼は肉体的な利益に縛られておらず、金銭を愛さず、全く怒りを知らないということである。[p.239] 逆に、これら三つ、すなわち、多かれ少なかれ肉体的な利益への愛、すぐに怒ること、そして腹に屈すること(かつての聖徒たちの場合でさえ)が見られる場合には、外的な事柄への怠慢は、識別力のある魂の卑しさからではなく、内面的な忍耐力の欠如から生じていることを知っておくべきである。そうでなければ、そのような人が肉体的な事柄を軽視し、静穏を保っていないことなどあり得ようか。
差別的に軽蔑に身をさらす[6]ということは、すべてのものから解放され、命を軽視し、人々を愛することです。
もしあなたが神のために進んで傷に耐えるなら、あなたは内面が清らかです。
もしあなたが誰かの汚れを理由に軽蔑しないなら、あなたは確かに自由な人です。
もしあなたがあなたを尊敬する人々に会うために駆け寄らず、あなたと調和しない人々に会っても心を動かされないなら、あなたはこの人生に対して真に死んでいるのです。
見識をもって用心深くあることは、あらゆる人に対するあらゆる振る舞いよりも優れています。
罪人を憎んではなりません[7]。私たちは皆、裁きを受けるに値します。もしあなたが神のために心を動かされるなら、彼のために涙を流してください。なぜ彼を憎むのですか?あなたは彼の罪を憎むつもりですか?彼のために祈りなさい。そうすれば、罪人に対して怒るのではなく、彼らのために祈ったキリストに倣うことができます。キリストがエルサレムのために涙を流されたのを知らないのですか? 私たちは多くのことでサタンに嘲笑されています。私たちを嘲笑する同じサタンによって、私たち自身と同じように嘲笑される者を、なぜ憎むのですか? 人よ、なぜあなたは罪人を憎むのですか?おそらく、彼があなたのように義人ではないからでしょう。愛のないあなたがどうして義人なのでしょうか? もしあなたに愛があるなら、なぜ彼を迫害するのではなく、彼のために涙を流さないのですか?識別力があるとされる一部の人々が罪人の行為に心を動かされるのは、無知によるものである。
神の慈悲の使者になりなさい。神は、それに値しないあなたにも施しを与えてくださるのですから。あなたは多くの罪を犯しても、神が復讐を望んでいるとは知らされていません。あなたが善意を示したわずかなことに対して、神は多くの報いを与えてくださいます。もう神を公正と呼んではいけません。神の公正は、あなたとの交渉において知られていないからです。[p.240] ダビデは神を公正で義と呼びましたが、神の子は私たちに、神は善良で慈悲深いことを明らかにしました。神は悪人や不正を働く者に対しても慈悲深いからです。労働者の賃金のたとえ話を知って、どうして神を公正と呼ぶのですか。友よ、私はあなたに不正を働いていません。あなたと同じように、この最後の者にも与えましょう。それとも、私が善良であるために、あなたの目が邪悪なのでしょうか[8]。放蕩息子の話を見て、どうして神を公正と呼ぶことができましょうか。彼が姦淫にすべてを費やした後、彼が示した悔悟のゆえに、[父親]は彼の首に身を投げ出し、彼を全財産の主人とした。彼について、彼が神の善良さを疑っていると言える者は他にいない。彼の息子が神についてこのことを証言している。キリストが罪人であった私たちのために死んでくださったのに、どうして神に正義があり得ようか。もし神がここで慈悲深いのであれば、私たちは神に変化はないと信じます。神が慈悲深くあるはずがないなどと、私たちが邪悪に考えることは決してありません。神の属性は、人間のように変化するものではありません。神が時々所有せず、後に所有することや、神の所有物が被造物が所有するように減ったり増えたりすることはあり得ません。しかし、神の所有物は永遠から神と共にあり、永遠に神と共にあるのです。これは、祝福された注釈者[9]が創造についての解説の中で述べているとおりです。
神の愛を恐れなさい。神が受けてきた厳しいという評判を恐れなさい。神を愛することは私たちの義務であるからこそ、神を愛しなさい。神が与えてくださるもののためではなく、私たちが受けてきたもののゆえにも、神を愛しなさい。たとえ神がこの世界を私たちのためだけに作ったとしても、神の恵みを誰が十分に語り尽くせるでしょうか。私たちの行いのどこに神への報酬があるでしょうか。私たちを存在させるよう、誰が前もって神を説得したでしょうか。私たちが忘却の状態にあり、まるで存在していないかのようになっているとき、誰が私たちのために神に執り成しをするでしょうか。誰が私たちの破滅を命に変えようとするでしょうか。どこから知識の衝動が塵に帰するのでしょうか。ああ、神の慈悲の不思議さ。創造主の恵みの驚き。神の全能の力。私たち人間の性質に対する神の計り知れない慈愛、すなわち神は罪人をも存在させてくださること。動かぬ塵となった罪人、虐待者を、賞賛に値する、認識力と理性を備えた存在へと生かし、散らばった塵を知覚を超えた高貴な存在へと変容させ、散らばった感覚を素早い動きを持つ理性へと変える主の賛美に、誰が十分に応えられるだろうか。もし罪人が主の生かしの力を理解できないなら、主の恵みで満足できるはずがない。
[p.241]
我々を苦しませる地獄はどこにあるのか。我々のうちにある主への畏怖を克服し、主の愛への喜びを打ち砕くような責め苦とは何なのか。そして、地獄は、我々を冥府の後の生命に回復させ、この朽ちゆくものを朽ちぬもので覆い、冥府の軽蔑の中に横たわっていたものを栄光のうちによみがえらせる復活の恵みと比べて何なのか。知恵ある者よ、来て驚嘆せよ。驚嘆するほど賢い理性を持つ者は誰か。来て、我々の創造主の恵みに驚嘆しよう。罪人への報いはこれである。神は正義の代わりに復活をもって報いる。そして神の律法を踏みにじった者は、神によって肉体の代わりに完全の栄光をまとわれる。我々が罪を犯した後のこの恵みは、我々がまだ存在していなかったときに我々の存在をもたらした恵みよりも偉大である。
計り知れないあなたの恵みに栄光あれ。今、あなたの恵みの洪水は、私を沈黙させ、何の感情も残さず、感謝さえも残しません。私たちの命を愛してくださる善き王よ、私たちはどのような言葉であなたに感謝すればいいのでしょうか。あなたが私たちの教育と喜びのために創造された二つの世界において、あなたの栄光を知るためにあなたが存在させてくださったすべての人々から、今も、そして永遠に、あなたに栄光あらんことを。アーメン。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『シリヤのイサアク全書』、第八十九説教 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/824593/1/291
- 『シリヤのイサアク全書』、第九十説教 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/824593/1/297
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