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ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文a

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ニネベのイサアク神秘論文集

第36論文a

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[p.180]

<< 世上の狭き道を歩む者たちに対して悪魔が戦いを仕掛ける様々な方法について。>>


我らの敵サタンは、この争いに加わる者たちを巧妙に攻撃しようと企てる際に、他の手段も用います。その戦い方は、相手の性格や個人的な傾向によって変化します。


[p.181]

意志が弱く、思考力も乏しいと見なした者に対しては、最初から激しく戦い、重く恐ろしい誘惑にさらします。こうしてサタンは、最初の戦いの恐怖を植え付け、その道を歩み始める最初からサタンの悪の本質を味わわせようとするのです。こうしてサタンは、最初の戦いの恐怖を植え付け、その道を歩むのが困難に思えるように仕向けます。もし最初の戦いが困難であれば、途中で繰り広げられるすべての戦いに、誰が最後まで耐えられるでしょうか。こうして、サタンの攻撃のことばかり考えてしまうため、彼らは再びサタンに抵抗したり、他の助けを求めたりしようとはしなくなります。そして、サタンが少しでも激しく迫ると、彼らは逃げ出します。あるいはもっと良い言い方をすれば、「神は、彼らが主の戦いに冷淡かつ躊躇しながら参加したため、何の助けも与えず、彼を虐げるままにしている。主の業を怠り、流血から手を引いて行う者は皆呪われる」ということである。しかしまた、「主を畏れる者には主の助けが近い[1]」。そして主は、「冷淡で恐れおののく心で敵に対峙してはならない」と命じている。「彼を破壊する戦いを始めなさい。そうすれば、私は天の下の諸国民に、お前への畏怖と恐怖を与え始める[2]」」ということである。


神の愛のために自ら感覚を死なせなければ、あなたは神から離れて知的に死ぬであろう。あなたの運命に属するものは、たとえ一時的な苦しみを伴うとしても、進んで受け入れることを拒んではならない。その後、あなたは神の栄光の中に入るであろう。主の闘争において肉体的に滅びるとしても、主はあなたに冠を授け、あなたの勝利の肢体に殉教者の栄誉を与えるであろう。


ですから、前にも言ったように、もし彼らが初めから覚悟を決め、強くなり、死をも厭わない誓いを立てていなかったら、すべての戦いにおいて劣勢に立たされるでしょう。特に神は、彼らが主の仕事を軽率かつためらいがちに成し遂げようとする怠惰を見逃されるからです。そしてサタンでさえ、彼らの考えがどんなものか、臆病で、自分を愛し、自分の体さえ惜しまないなど、最初から分かっています。サタンは彼らを暴風雨のように迫害します。なぜなら、サタンは彼らの中に、勝利を収めた者たちに通常見出される理知的な力を見出せないからです。[p.182]人の意志が神に向かい、神のために労苦を惜しまないのと同じように、神はその人に助けを送り、その配慮を示されます。神の許しがない限り、サタンが誰にも近づいたり、誘惑したりすることはできません。そうでなければ、サタンの意志が弱まり、不純な考えや散漫に身を任せてしまうからです。あるいは疑念にとらわれているからかもしれません。サタンは、そのような人々に対しては、完全で偉大な人々の場合のように、彼らを試す許可を求めたりはしません。後者に関しては、彼らがサタンの手に渡されないことをサタンは知っています。なぜなら、神の保護の力が彼らから取り去られることはあり得ないことをサタンは知っているからです。前述の原因のいずれかによる場合を除きます。


これが敵が戦いを挑む方法の一つである。敵は、意志が強く、死など取るに足らないと見なし、あらゆる誘惑と死に身を委ね、生と世界と肉体を誘惑によって踏みにじる者と、最初から出会うことも、通常は姿を現すこともない。むしろ、身を引いて彼らに道を譲る。主力で彼らに立ち向かうことも、共に戦うこともない。なぜなら、戦いの始まりはたいてい激しいものであり、敵は熱狂的であり、熱心な戦士は滅多に敗北しないことを敵は知っているからです。


敵がこの方法を取るのは、彼らを恐れるからではなく、彼らの内に働く力を通して彼らを燃え上がらせ、ついには彼らが確信に満ちた意志によってその力を発散させ始めるまで、神の力を恐れるからである。しかし、彼はしばらくの間彼らを放っておく。彼らの熱意が衰え、彼らが自らを鍛え、精神を武装させた武器、すなわち様々な聖なる言葉や有益で力強い記憶の行使から注意が逸れるまで。こうして彼らは怠惰の時を待つ。そして最初の思考がいくらか弱まると、彼らはどれほど頻繁に、心に根ざした誘惑のために、自らの内に敗北の機会を見出すことだろう。退屈によって心に浮かぶ思考に惑わされ、寒気に襲われることで、彼らは自らの中に溝を掘り状況を悪化させるのです。


サタンがこのように行動し、戦いの時を遅らせるのは、自発的なことではありません。サタンが彼らを許すときも、彼らから身を引くときも、彼らをないがしろにしているわけではないからです。[p.183]しかし、神への熱意に燃えている人々、若い頃に何の考えもなく、信仰ゆえに神に信頼し、誰と戦わなければならないのかさえも知らずに歩み始めた人々には、ある種の力が取り巻いていると私は思います。それゆえ、サタンは彼らからその邪悪な本性を隠し、近づかないようにしています。サタンの本性は、常に彼らと共にいる守護者によって抑制されているからです。さて、もし彼らが利益をもたらすもの、すなわち懇願、労苦、謙遜を捨て去らなければ、助け主は決して彼らから身を引くことはありません。慰めを愛することは、神が身を引く理由です。しかし、もし彼らがこれらのことを熱心に続けるなら、彼らは決して助けに事欠くことはなく、敵も彼らに近づくことを許されないでしょう。また、神が時折身を引くとしても、それは訓練のためです。聖なる力が彼らを支配し、伴っている間は、彼らは誘惑者を恐れません。心は勇気に満ちており、それゆえに誘惑者を軽蔑するのです。しかし、神は彼らを、幼い少年に水泳を教える人のように訓練します。少年が沈み始めるとすぐに、教師は彼を引き上げます。少年は教師の手の上で泳ぐからです。少年の勇気が、溺れることを恐れて減り始めると、手で彼を支えている人は、「恐れることはない、私が支える」と叫びます。あるいは、幼い子供に歩き方を教える母親のように、少し離れたところに置いて呼びかけます。しかし少年がよろめく小さな足で母親のところへ行こうとすると、その足は弱さのために震えます。そして少年が落ちそうになると、母親は走って行って彼を腕に抱き上げます。ですから、神の恵みは、人類の子供たち、すなわち、自分たちを創造した神の手に自分自身をはっきりと単純に委ね、心から世を離れて神に従う人々を支え、訓練するのです。


そして神に従い始めた者よ、あなたの苦闘の間中、常に始まりと、その道の始まりにおける最初の熱意、そしてあなたが以前の生活を捨て、戦列に身を置いた時の熱烈な思いを思い起こせ。そして毎日自らを省みて、あなたの魂の熱意が、燃え盛っていた熱意に比べて衰えていないか、あるいは苦闘の初めに身に付けていた武器を失っていないかを見極めなさい。陣営では常に声を張り上げ、右翼の者達を親身な思いで励ましなさい。そして敵対勢力にあなたが目覚めていることを示しなさい。そしてもしあなたが初めに誘惑者に脅かされて衝動的に遭遇したとしても、その時は油断してはならない。おそらくこれはあなたにとって利益となるであろう。


[p.184]

あなたの救い主があなたに何かを許すのは、主がそれを予見し、あなたの利益となるように命じたときのみであり、それは理由なくしてではない。最初から気を緩めてはならない。ここで気を緩めれば、その後に続く飢え、病気、恐ろしい光景などに耐えられなくなるからである。あなたに戦うよう命じた主の意図を、あなたの利益となるその意図と反対に変えてはならない。さもないと、あなたの敵は、あなたを見つけたいと願うように、あなたを見つけてしまうであろう。むしろ、神があなたに助け手を送ってくださるまで、絶えず神に叫び、その恵みの前に涙を流し、懇願に疲れ果てよ。そして、あなたと共にいる救い主を一度見れば、あなたの前に立ちはだかる敵に二度と打ち負かされることはないであろう。


ここまでが二つの種類の争いです。


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脚注

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  1. 詩篇 145:18
  2. 申命記 2:25
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原文:

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この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。

 
翻訳文:

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