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ニネベのイサアク神秘論文集/第23論文

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ニネベのイサアク神秘論文集

第23論文

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[p.118]

<< 真の知識についての談話。>>


行動であれ言葉であれ、知覚できるものはすべて、その原因が全くの偶然ではなく、絶えず繰り返されるならば、内に秘められたものの顕現である。後者は報酬と関連してのみ考慮され、前者はごくわずかしか考慮されない。意志の強さや弱さは、善行や悪行によって証明されるのであって、偶然に起こる何かによって証明されるのではない。意志の自由さの証明は、絶え間ない繰り返しにある。


[p.119]

運命には力が与えられている。時には、意志の自由を支配するほどである。善い偶然も悪い偶然も、人間に出会う。それは、人間を刺激するため、試すため、訓練するため、報いるためである。刺激となるものは善であり、試すものは悪とみなされる。訓練と報奨となるものは無関係である。

偶然の出来事など存在しない。なぜなら、善であれ悪であれ、人間には偶然の出来事など何も起こらないからだ。この世の物事を統べる統治者がいる。私たち一人ひとりには守護者がおり、その守護者から逃れるものは何もなく、その注意も決して怠らない。しかし、あらゆる偶然は、この任命された守護者によって予見される。そして、これら四種類の偶然において、神の摂理が働く。

情熱的な祈りは、人生の情熱的な性質と調和した道程の伴侶であり、偶然に見舞われる人々の性格を変え、改善をもたらす。善良な人々は祈りによって強められ、確固たるものとなり、悪い人々は反対方向へと変化させる。それゆえ、私が述べたことを疑ってはならない。偶然の出来事、あるいは統治者のいない出来事など存在しない。もし祈りが堅固な精神と結びついて変化をもたらし、方向づけることができるならば、あらゆる偶然には統治者が存在すると信じなければならない。自分に起こるあらゆる出来事を、自分の隠れた状態と比較し、その原因を吟味し、その支配者を見つめる人は幸いである。神との経験を積もうとする者は、世俗に対して愚か者となり、人間の栄光を憎む者とならざるを得ない。

謙虚な心で自らの偉大さを隠す人は称賛に値する。そのような人は天使たちからも称賛される。

正義の守護者として、用心深い者にも時折見られる、不本意な欠点も考慮に入れなければならない。

怒りを抱く者との和解を求める祈りほど、すぐに聞き届けられる祈りはない。そして、自らに過ちがあると責めるなら、その祈りは速やかに聞き届けられる。もしあなたが自分の義務を果たし、自分の領域において用心深くありながら、自らの目には弱く卑しい者となり、人の栄光を憎むならば、あなたは確かに神の道を歩んでいると知りなさい。

[p.120] しかし、もしあなたがこの状態にないことに気づき、自分自身を探求したときに、非難の考えがあなたに苦痛を引き起こしていることに気づいたら、あなたは真実を欠いており、秘密裏に虚偽と関係していることを知ってください。


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