ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第21章
正教信仰の正確な解説。
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第3巻
[編集]第21章
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注目すべきことに、彼は無知で奴隷的な性質を帯びていた[1][2]。なぜなら、人間は創造主である神の奴隷となるのが本性であり、未来についての知識を持っていないからである。したがって、神学者グレゴリオスが主張するように、視覚の領域と思考の領域を切り離すとすれば、肉体は奴隷的で無知であると言われることになるが、生存の同一性と不可分な結合のため、主の魂は未来についての知識と他の奇跡的な力で豊かになったのである。というのは、人間の肉は本来生命を与える性質を持っていないのに対し、私たちの主の肉は、神である言葉自身と一体となって存在し、その性質上死ぬ性質から逃れることはできなかったものの、言葉と一体となって存在することによって生命を与えるものとなったのであり、永遠に生命を与える性質を持っていなかったし、今もそうではないと言うことはできない。同様に、主の人間性は本質的に未来の知識を持っていないが、主の魂は、神である言葉自身と一体となって存在することによって、私が言ったように、未来の知識とその他の奇跡的な力で豊かになったのである。
さらに[3]、私たちは彼を召使として語ってはならないことに注意しなさい。なぜなら、奴隷状態や支配状態という言葉は、自然の特徴ではなく、父性や子性など、何かに対する関係を示すからである。これらは本質ではなく関係を意味するからである。
ですから、無知に関連して、私たちが言ったように、微細な考え、つまり精妙な想像によって、創造されたものを創造されなかったものから分離するなら、肉は、神である言葉と結合していない限り、しもべです[4]。しかし、いったん実存において結合したら、どうしてしもべでありえましょうか。キリストは一人であるので、自分自身のしもべであり、また主であることはできないからです。これらは単純な述語ではなく、相対的なものです。では、彼は誰のしもべでありえましょうか。父のしもべですか。では、子は、父のしもべでありながら、まったく父自身のものではないとすれば、父のすべての属性を持っているわけではないでしょう。その上、使徒は、彼自身もしもべであるなら、彼に養子として与えられた私たちについて、あなた方はもはやしもべではなく、息子です[5]とどうして言うことができたでしょうか。しもべという言葉は、厳密な意味では使われていませんが、単に称号として使われています。しかし、私たちのために、彼はしもべの姿をとり、私たちの間ではしもべと呼ばれています。というのは、キリストは情欲を持たなかったにもかかわらず、私たちのために情欲の僕となり、私たちの救いの奉仕者となったからです。それで、キリストは僕であると言う人たちは、ネストリオスがしたように、一人のキリストを二つに分けます。しかし私たちは、キリストがすべての創造物の主であり主人であり、一人のキリストであり、神であり人であり、すべてを知る者であると宣言します。 なぜなら、彼の中には知恵と知識のすべての宝、隠された宝があるからです[6]。
脚注
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