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ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第20章

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正教信仰の正確な解説。

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第3巻

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第20章

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<< 自然で無垢な情熱パトスについて[1]>>


そこで、私たちは、キリストが人間の自然で罪のない情欲をすべて引き受けたと告白します[2]。キリストは、罪以外のすべての人間の性質と人間全体を引き受けたからです。罪は自然なものではなく、創造主によって植え付けられたものでもありませんが、悪魔によるさらなる植え付けの結果として、私たちの生活様式に自発的に生じます。ただし、悪魔は力で私たちを征服することはできません。自然で罪のない情欲とは、私たちの力ではどうしようもない情欲であり、違反行為による断罪のために人間の生活に入り込んだものです。飢え、渇き、疲労、労働、涙、腐敗、死を恐れること、恐れ、血の汗による苦しみ、自然の弱さゆえに天使の手による助け、その他、人間が生まれながらに持っている情欲のようなものです。

それで、神はすべてを聖化できると思われた。神が試され、打ち負かされたのは、我々のために勝利を準備し、自然にその敵を克服する力を与えるためであり、昔打ち負かされた自然が、自らが打ち負かされたまさにその武器によって、以前の征服者を打ち負かすためであった。

邪悪な者[3]は、アダムの場合のように、内なる思いによってではなく、外から攻撃を仕掛けたのです。アダムが攻撃されたのは、内なる思いによってではなく、蛇によってだったのです。しかし主は、その攻撃を撃退し、蒸気のように消し去られました。それは、アダムを襲い、打ち負かされた情熱が、私たちによって容易に鎮められ、新しいアダムが古いアダムを救うためでした。

実のところ、私たちの自然の情熱は、キリストにおいては自然と調和し、自然を超えていた。なぜなら、キリストが肉にふさわしい苦しみを許したとき、情熱は自然にキリストの中でかき立てられたからである。しかし、情熱が自然を超えていたのは、自然なものが主において意志を支配しなかったからである。キリストにおいては強制は考えられず、すべては自発的である。キリストが飢え、渇き、恐れ、そして死んだのは、キリストの意志によるものであった。


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脚注

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  1. あるいは感性。
  2. 参照。Greg. Nyss.,『アポリナリオス反駁』 Contr. Apoll.; レオンティオス Leont., De Sect., Act. 10; Anastas., Hodegus, 13. その他。
  3. 参照。アタナシオス、"De Salut. Adventu Christi"。
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原文:

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翻訳文:

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