ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第19章
正教信仰の正確な解説。
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第3巻
[編集]第19章
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聖なるディオニュシオス[1]が、キリストがわれわれにある種の新しい神人的エネルギー[2]を示したと言うとき、彼は、神のエネルギーと人間のエネルギーの結合から一つのエネルギーが生じたと言って、自然エネルギーを排除したわけではない。同じように、神のエネルギーと人間のエネルギーの結合から一つの新しい性質が生じたと言うこともできるからである。なぜなら、聖なる教父たちによれば、一つのエネルギーを持つものは一つの本質も持つからである。しかし、彼は、キリストの自然エネルギーが現れる新しい言い表せない仕方、キリストの性質が相互に浸透し合う言い表せない仕方にふさわしい仕方、さらに、キリストの人間としての人生[3]がいかに奇妙で素晴らしく、物事の性質上知られていなかったか、そして最後に、言い表せない結合から生じる相互の交流の仕方を示したかったのである。というのは、われわれは、エネルギーは分割されておらず、自然は別々にエネルギーを発揮するのではなく、それぞれが他のものと完全に共同して、それ自身の固有のエネルギーを発揮する、と信じているからである[4]。人間の部分は単に人間的なやり方でエネルギーを発揮したのではなく、神は単なる人間ではなかったからである。また、神の部分は神のやり方でのみエネルギーを発揮したのではなく、神は単なる神ではなく、神であり人であったからである。自然の場合、われわれはそれらの結合と自然な違いの両方を認識するのと同じように、自然の意志とエネルギーについても同様である。
したがって、私たちの主イエス・キリストの場合、私たちは時には彼の二つの性質について語り、時には彼の一つの位格について語り、そのどちらかが一つの概念に言及されていることに注意すべきである。なぜなら、二つの性質は一つのキリストであり、一つのキリストは二つの性質だからである。したがって、「キリストはどちらかの性質に従って力を与える」と言っても、「どちらかの性質がキリストにおいて他の性質と交わりながら力を与える」と言っても同じである。したがって、神の性質は、その力を与える際に肉と交わりを持つ。なぜなら、肉が苦しみ、それ自身にふさわしいことをすることが許されるのは、神の意志の善意によるからであり、肉の力は完全に救いをもたらすからであり、これは人間の属性ではなく、神の力の属性であるからである。一方、肉体は、そのエネルギーを与える際に言葉の神性と交わりを持つ。なぜなら、神のエネルギーは、いわば身体の器官を通して発揮されるからであり、神と人として同時にエネルギーを与える者は同一だからである。
さらに、[5]神の聖なる心もまた、それが神の心であり、すべての被造物から崇拝されていると考え、認識し、神が地上で過ごした時間と、神が受けたすべての苦しみを思い出しながら、その自然のエネルギーを発揮していることに注目してください。しかし、それは言葉の神性と交わりを持ち、そのエネルギーを与え、宇宙を秩序立て、統治し、単なる人間の心としてではなく、神と一体となって存在し、神の心として行動しながら考え、認識し、秩序立てます。
そして、この神男尊のエネルギーは、神が人となったとき、つまり受肉したとき、神の人間的エネルギーは神聖であり、つまり神格化されており、神の神的エネルギーの一部分なしには存在せず、また神の神的エネルギーは神の人間的エネルギーの一部分なしには存在せず、どちらかが他方と関連して観察されたことを明らかにする。さて、このような話し方は婉曲表現と呼ばれ、つまり、1つの文に2つの事柄を包含する場合である[6]。なぜなら、炎の剣の場合、切り傷と焼けを1つとして語り、焼けた切り傷を1つとして語るが、それでも切り傷と焼けは異なるエネルギーと異なる性質を持ち、焼けは火の性質を持ち、切り傷は鋼の性質を持つと考えるのと同じように、キリストの神男尊のエネルギーについて語るときも、キリストの2つの性質のうちの2つの異なるエネルギー、つまり神の神性に属する神のエネルギーと、人間の人性に属する人間のエネルギーを理解しているからである。
脚注
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