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ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第18章

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正教信仰の正確な解説。

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第3巻

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第18章

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<< 意志と自由意志、心、知識と知恵についてさらに詳しく説明する>>


キリストは完全な神[1]であり完全な人であると言うとき、私たちは確かに父と母の両方に自然に存在するすべての性質をキリストに帰しています。なぜなら、キリストが人となられたのは、打ち負かされたものが打ち負かすためだったからです。全能である彼は、その全能の権威と力では、暴君の手から人を救うことができませんでした。しかし、神が人に打ち勝った後、神が彼に対して力を使ったとしたら、暴君は不満を言う根拠があったでしょう。そのため、神は人間に対する憐れみと愛から、堕落した人間を征服者として明らかにすることを望み、同じようなものを同じようなもので回復するために人となられたのです。

しかし、人間が理性的で知的な動物であることは誰も否定しないでしょう。では、もし神が魂のない肉体、あるいは精神のない魂を身に着けたなら、どうして人間になれたでしょうか。それは人間ではありません。また、最初に苦しんだ神が救われず、神性との結合によって新たにされ、強められなかったなら、神が人間になったことは私たちにとって何の利益になったでしょうか。引き受けられなかったものは治りません。それゆえ、神は、全体に救いを与えるために、病んだ人間の最も美しい部分まで、人間のすべてを引き受けたのです。そして実際、知恵がなく知識を欠いた心が存在することはあり得ません。なぜなら、もしそれがエネルギーや運動を持たなければ、完全に無に帰してしまうからです。

それゆえ、言葉なる神[2]は、神自身のイメージを回復したいと望み、人間となった。しかし、神自身のイメージは、心でなければ何だろうか。そこで神はよりよいものを放棄し、より悪いものを引き受けた。心[3]は神と肉の境界領域にあり、肉と交わりながら存在し、さらに神のイメージである。したがって、心は心と混ざり合い、心は神の純粋さと肉の密度の中間に位置する。なぜなら、主が心のない魂を引き受けたのであれば、主は理性のない動物の魂を引き受けたことになるからである。

しかし、福音記者が言葉が肉となったと言ったのなら[4]、聖書では人が魂として語られていることに注目してください。例えば、ヤコブは75の魂とともにエジプトに来た[5]。また、人が肉として語られていることがあり、例えば、「すべての肉なる者は神の救いを見るであろう」 [6]。そしてそれに応じて、主は魂や精神のない肉にはならず、人となりました。実際、主ご自身がこう言っています。「なぜ、あなた方に真実を語った私を殺そうとするのか」 [7]。それゆえ、主は理性と精神の霊に動かされた肉をとったのです。その霊は肉を支配しますが、それ自体は言葉の神性の支配下にあります。

したがって、神としても人間としても、イエスは生まれながらに意志の力を持っていました。しかし、イエスの人間的意志は神の意志に従順で従属的であり、自分の性向に導かれるのではなく、神の意志が望むことを望みました。というのは、イエスが生まれながらに神にふさわしい苦しみを受けたのは、神の意志の許しによるものだったからです[8]。イエスが死を免れるように祈ったとき、イエスが祈り、苦悶し、恐れたのは、神の意志が自然にそれを望み、許したからであり、また、神の意志が人間的意志で死を選ぶように望んだとき、その苦しみはイエスにとって自発的なものとなりました[9]。というのは、イエスが自ら進んで死に身を委ねたのは、神としてだけではなく、人間としてもだったからです。こうしてイエスは、死を前にした勇気を私たちにも授けてくださったのです。実際、イエスは救いの受難の前に、「父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわ​​たしから過ぎ去らせてください」 [10]と言われました。これは、イエスが杯を神としてではなく、人間として飲むかのようでした。ですから、イエスは杯が自分から過ぎ去ることを望まれたのです。しかし、これは生来の臆病さから出た言葉です。それにもかかわらず、イエスは、「わたしの意志ではなく、すなわち、わたしがあなたと本質を異にする限りにおいてではなく、あなたの意志が行われますように」 [11]と言われました。すなわち、わたしの意志とあなたの意志が行われますように、わたしはあなたと本質を同じくする限りにおいてです。さて、これは勇敢な心の言葉です。主の霊は、みこころのままに真に人となられたので、最初にその生来の弱さを試されたとき、肉体から離れることによって生じる生来の苦しみを感じ取りましたが、神の意志によって強められて、死を前にして再び大胆になりました。というのは、イエスは完全に神でありながらも人であり、また完全に人でありながらも神であったので、人として、イエスはご自分において、またご自分によって、神である父に人として従い、父に従順となり、こうしてご自身が私たちにとって最も優れた型と模範となられたからです。

さらに、神は自らの自由意志によって、神と人間の意志を行使した。自由意志は、すべての理性的な自然に確実に植え付けられている。もし自由意志で理性を持つことができなければ、何のために理性を持つというのか。創造主は、理性のない動物にさえ、自然の欲求を植え付け、動物が自らの自然を維持するように強いた。理性を欠いた動物は、自然の欲求を導くことができず、むしろそれに導かれる。したがって、何かに対する欲求が湧き起こると、すぐに行動への衝動も生じる。したがって、美徳を追求しても賞賛や幸福を得ることはなく、悪を行っても罰を受けることはない。しかし、理性的な自然は、自然の欲求を持っているにもかかわらず、自然の法則が遵守されるところならどこでも理性によってそれを導き、訓練することができる。なぜなら、理性の利点は、この自由意志、つまり理性的な主体における自然な活動にあるからである。したがって、徳を追求すれば賞賛と幸福が得られ、悪を追求すれば罰が得られる。

それで、主の魂[12]は自らの自由意志に動かされて意志したが、神の意志が望むことを自らの自由意志で意志した。というのは、肉は、モーセやすべての聖人が天からのしるしに動かされたように、御言葉からのしるしに動かされたのではない。しかし、神であり人でもある主自身が、神の意志と人としての意志の両方に従って意志した。それゆえ、主の二つの意志が互いに異なっていたのは、性向ではなく、むしろ自然の力によるものであった。神の意志は始まりがなく、万能であり、それに歩調を合わせた力を持ち、情熱から自由であった。一方、人間の意志は時間の中で始まり、それ自体は自然で無邪気な情熱に耐え、生まれつき全能ではなかった。しかし、それが真に自然に神の言葉に起源を持つので、全能であった。


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脚注

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  1. アポリナリオス派と単意論派(Monothelitism) に対する反論。前掲Max、II. p. 151を参照。
  2. ナジアンゾスのグレゴリオス、Carm. sen. adv. Apollin.、『クレドニオスへの手紙』Epist. ad Cled .、その他。
  3. 上記の第 6 章と、アポリナリアン派に対するグレゴリオスの反論も参照してください。
  4. ヨハネ 1:14
  5. 創世記 46:27、LXX参照; 使徒行伝 7:14
  6. イザヤ書 41:5; ルカによる福音書 3:6。
  7. ヨハネ8章40節
  8. Sophron., Epist. Synod.
  9. Cyril, In Joann., ch. x. を参照。
  10. マタイ26章39節、ルカ22章22節
  11. 同上
  12. Max., Dial. cum Pyrrh.; Greg. Naz., Ep . 1, ad Cledon .
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原文:

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翻訳文:

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