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ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第17章

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正教信仰の正確な解説。

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第3巻

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第17章

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<< 主の肉体の性質と主の意志の神格化について>>


注目すべきことに[1]、主の肉は、性質の変化や改変、変容、混乱に関して、神格化されて神と等しくなったとは言われていません。神学者グレゴリウス[2]は、「一方は神格化し、他方は神格化され、大胆に言えば、神と等しくされた。そして、油を注がれたものは人となり、油を注がれたものは神となった[3]」と述べています。これらの言葉は性質の変化を意味しているのではなく、むしろ「救いの営みオイコノミア的な結合」(私が言っているのは、それによって言葉である神と不可分に結合された生存の結合です)と、燃焼が鋼鉄を浸透したのを見たのと同じように、性質が互いに浸透していることを意味しています。なぜなら、神が変化や改変なしに人になったと私たちが告白するのと同じように、肉は変化なしに神になったと私たちは考えています。というのは、御言葉が肉となったからといって、御言葉は自身の神性の限界を越えたり、御言葉に属する神聖な栄光を放棄したりはしなかったからである。また、その一方で、肉は神格化された後も、その性質や自然の特性において変化することはなかった。なぜなら、結合の後でさえ、両方の性質は混同されず、その特性は損なわれなかったからである。しかし、主の肉は、御言葉との最も純粋な結合、すなわち、その自然の特性のいずれも失うことなく存続することによって、神のエネルギーの豊かさを受け取った。肉が神のエネルギーを発現するのは、肉自身のエネルギーによるのではなく、肉と結合した御言葉によるからである。燃える鋼鉄が燃えるのは、物理的に燃えるエネルギーを与えられたからではなく、火との結合によってこのエネルギーを得たからである[4]

それゆえ、同じ肉は、その本性上は死ぬべきものであるが、実存において御言葉と結合することにより生命を与えるものである。そして、我々はそれが意志の神化と全く同じであると考える[5]。なぜなら、その本性的な活動は変化せず、神の神聖で全能の意志と結合し、神の意志となり、人となられた[6]からである。そして、それゆえ、神は望んだが、自ら逃れることはできなかった[7]。なぜなら、神の言葉である神は、人間の意志の弱さが、真実に神の中にあるのだが、それが明らかにされることを喜ばれたからである。しかし、神の意志との結合により、神は、自分の意志でらい病人を清めることができた[8]

さらに、自然と意志の神格化は、最も明白かつ直接的に、二つの性質と二つの意志の両方を指し示していることに注意する。燃焼は、燃やされるものの性質を火に変えるのではなく、燃やされるものとそれを燃やしたものとを区別し、一つの性質ではなく二つの性質を示すのと同様に、神格化は一つの複合的な性質ではなく二つの性質をもたらし、それらの存在における結合をもたらす。実際、神学者グレゴリオスは、「一方が神格化したものは、他方も神格化された」[9]と述べており、「一方」「他方」「他方」という言葉によって、彼は確かに二つの性質を示している。


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脚注

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  1. 参照。ナジアンゾスのグレゴリオス、Orat. 38, 39, 42, 51;ニケフォロス、C.P. adv. Ep. Euseb. C.50;Euthymios Zigabenos、”Panoplia Dogmatica", II. 7.
  2. グレゴリオス、Orat. 42.
  3. 同上、Orat. 39;Max. bk. "De duabus in christo voluntatibus"
  4. Max., Epist. ad Nicandr.
  5. Greg. Naz., Orat. 36.
  6. 同上、35, p. 595.
  7. マルコ 7:24
  8. マタイ 8:3
  9. Greg. Naz., Orat. 42.
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原文:

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翻訳文:

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