ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第11巻/ヨハネス・カッシアヌス/十二の書/第8巻/第20章
ヨハネス・カッシアヌスの十二の書
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第8巻。
怒りの精神について。
第20章
[編集]福音に従って怒りを追放する方法について。
それゆえ、「心の清い人々は幸いである。彼らは神を見るであろう」[1]と言われている神の報いの本質を得たいのであれば、怒りを行動から追い払うだけでなく、心の奥底から完全に根絶しなければなりません。人が心の秘密を隠しておく事ができない神が、私たちの胸の奥深くに残っている怒りを目にされるなら、言葉で怒りを抑えても、行いで示しても何の役にも立ちません。福音の言葉は、欠点の実ではなく根を断つようにと命じています。なぜなら、誘惑がすべて取り除かれると、欠点の根はもはや芽を出さないからです。ですから、怒りが行為や行いの表面からではなく、心の奥底から取り除かれるとき、心はあらゆる忍耐と聖潔のうちに保たれることができるのです。したがって、殺人を避けるために、怒りと憎しみは断ち切られる。それらなしには、殺人という罪は犯され得ない。「兄弟に対して怒りを抱く者は、裁きを受けるであろう。」[2]また、「兄弟を憎む者は、殺人者である。」[3]すなわち、心の中で兄弟を殺したいと願うからである。彼が自分の手や武器によって、人々の間で血を流したのではないことは、私たちは知っている。しかし、怒りが爆発したために、神は彼を殺人者と宣言する。神は各人に、単に行為の結果だけでなく、目的や願望、希望に応じて、報いあるいは罰を与える。それは、神ご自身が預言者を通してこう言われているとおりである。「しかし、わたしが来たのは、あらゆる国民、あらゆる言葉を持つ人々を集めるためである。」[4]また、「神が人の秘密を裁く日に、彼らは互いに考え、互いに非難し、あるいは弁明し合う。」[5][6]。
脚注
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