ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第10巻/著作/信仰について/第2巻/第6章
聖アンブロシウス
信仰について 第2巻
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第6章
[編集]上記に引用した聖書の箇所は、余談の機会として取り上げます。主の行為の自由は、そのような自由が聖霊に帰せられていること、そしてそれが御子に帰せられている箇所から証明されます。
47. さて、さしあたり、主が「もしできるならば」と言われた理由をより詳しく説明し、いわば休戦を宣言するとともに、主が自由意志を持っていたことを示しましょう。あなた方は、神の御子が自由意志を持っていたことを否定しています。あなた方は不義の道に深く踏み込んでいるのです。さらに、あなた方は聖霊を軽視する癖がありますが、「"霊"は心のままに息づく」[1]と書いてあることを否定することはできません。聖書は「心のままに」と述べており、「命じられたところに」とは言っていません。では、もし聖霊が心のままに息づくのであるなら、御子が心のままになすことができないということがあるでしょうか。実に、福音書の中で、"霊"は心のままに息づく力を持っていると語っておられるのは、まさに神の御子なのです。では、御子は、聖霊が御子自身に許されていないことを行う力を持っているという点で、聖霊の方が偉大であると告白しているのでしょうか。
48. 使徒パウロはまた、「すべては一つの同じ"霊"の働きであって、"霊"が心のままに、各々に分け与えておられるのです」とも言っています[2]。「心のままに」とは、つまり、強制に従うのではなく、自由意志による判断に従って分け与えるという意味です。さらに、聖霊によって分け与えられる賜物は決して取るに足りない賜物ではなく、神がなさる御業、すなわち癒しの賜物や力ある業を行う賜物です。ですから、聖霊が心のままに分け与えるのに対し、神の御子は心のままに人を自由にすることはできません。しかし、御心が成就されるとき、主の御言葉に耳を傾けてください。「わが神よ、わたしはあなたの御心を行うことを望みました。」[3]また、「わたしはあなたに自発的な供え物を捧げます。」[4]
49. 聖なる使徒は後に、イエスが御意志を行う力を持っていることを知りました。そのため、イエスが海の上を歩いているのを見て、「主よ、もしあなたがおられるなら、水の上を渡ってあなたのもとに来させてください。」[5]と語りました。ペテロは、キリストが命じれば自然の状態を変え、水が人の足元を支え、矛盾するものが調和と一致へと導かれると信じていました。ペテロはキリストに命じることを求め、求めることを求めていません。キリストは求めたのではなく、命じたのです。そしてそれは成就しました。そしてアリウスはそれを否定しています。
50. 父が持っておられて子が持たないもの、あるいは子が持っていて父が持たないものなど、一体何があるでしょうか。「父は御心に適う者を生かす」とあり、子も御心に適う者を生かすと書いてあるとおりです[6]。では、子が生かし、父が生かそうとされなかった者を私に教えてください。しかし、子は御心のままに生かし、父と子の働きは一つです。ですから、子が父の御心を行うだけでなく、父もまた子の御心を行うことが分かります。生かすとは、キリストの受難を通して生かすことにほかなりません。キリストの受難は父の御心です。ですから、子が生かす者は、父の御心によって生かすのです。ですから、父の御心と子の御心は一つです。
51. また、父の御心は、イエスが世に来て、私たちを罪から清めることにほかなりませんか。らい病人の言葉を聞きなさい。「御心ならば、私を清くすることがおできになります。」[7]キリストは答えられました。「そうしよう。」すると、すぐに健康がもたらされました。あなたは、子が自らの御心の主人であり、キリストの御心は父の御心と同じであることを知らないのですか。実際、イエスが「父が持っておられるものはすべてわたしのものである」[8]と言われたように、確実なことは何も除外されず、子は父と同じ意志を持っておられるのです。
脚注
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