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ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第10巻/著作/信仰について/第2巻/第1章

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聖アンブロシウス

信仰について 第2巻

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第1章

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アリウス派の議論は、マルコによる福音書第10章18節「神以外に善なる者はいない」というキリストのこの言葉によって論駁される。


15. 陛下、今私が直面しなければならない反論は、私を困惑させ、魂と体が震え上がらせます。人間か、いやむしろ人間ではないのか、外見は人間のようでありながら内面は獣のような愚かさに満ちた存在がいて、主の御手によってこれほど多く、これほど偉大な恩恵を受けたにもかかわらず、すべての善なるものの創造主である神ご自身が善ではないと言えるとは。

16. 彼らは、「神以外に善なる者はいない」と書いてあると言う。私は聖書を認めるが、その文言には虚偽はない。アリウス派の解釈にも虚偽がなければよいのだが。書かれたしるしには罪はない。問題なのは、その解釈[1]の意味である。私はこれらの言葉を我らの主であり救い主の言葉として認めます。しかし、主がいつ、誰に、そしてどのような理解をもって語っておられるのか、よく考えてみましょう。

17. 神の御子は確かに人間として、そして律法学者に、つまり神の御子を「善き師」と呼びながらも神として認めようとしない律法学者に語っておられます。彼が信じていないことを、キリストはさらに理解させ、神の御子を善き師としてではなく、善き神として信じさせるようにされます。なぜなら、「唯一の神」と称されるところではどこでも、神の御子はその一体性の充足から決して切り離されないのであれば、神のみが善であるとされるとき、どうして独り子が神の善の充足から除外され得ようか。したがって、アリウス派は神の御子が神であることを否定するか、神が善であると告白するかのどちらかを選ばなければならないからです。

18. ですから、神の霊感による理解力によって、主は「父以外に善なる者はいない」ではなく、「神以外に善なる者はいない」と言われました。そして「父」とは、子を生む方の固有の名前です。しかし、神の唯一性は決して三位一体の神性を排除するものではなく、それゆえに称賛されるのは神の性質です。ですから、善は神の性質の一部であり、また、神の性質の中には神の御子が存在します。したがって、述語が表すものは、単一の位格に属するのではなく、神性の[完全な]一体性に属するのです[2]

19. ですから、主はご自身の善性を否定されるのではなく、このような弟子を叱責されます。律法学者が「よい先生」と言ったとき、主は「なぜ私を善なる者と呼ぶのか」と答えられました。つまり、「あなたが神ではないと信じている方を善なる者と呼ぶだけでは十分ではない」ということです。わたしが弟子として求めているのは、そのような人たちではない。わたしの神性を仰ぎ見てわたしが善き神であると信じるのではなく、わたしの人間性を考え、わたしを善き師とみなす人たちである。


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脚注

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  1. 「犯罪における感覚」。「文章の意味」とは、文章自体にある何かではなく、むしろ文章に対する私たちの理解のことです。言い換えれば、「感覚」の後の属格は所有格ではなく、目的格です。
  2. ラテン語—“ non quod singularitatis, sed quod unitatis est, prædicatur. ”「説教されるのは、単一性のものではなく、統一性のものである。」 神の永遠の父性が永遠の子、つまり神の永遠の愛がその愛の永遠の対象を意味する限り、子は「神の本質を成す」。
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原文:

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翻訳文:

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