ニカイア以前の教父たち/第3巻/護教的論文/偶像崇拝について/第3章 偶像崇拝:その名の由来と意味
テルトゥリアヌス
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偶像崇拝について
[編集]第3章 偶像崇拝:その名の由来と意味
[編集]古代には偶像は存在しなかった。この怪物のような物を作る職人が出現する以前は[1]、寺院は孤立して建ち、神社は空っぽだった。今日でも場所によっては古代の慣習の痕跡が永久に残っているのと同様である。しかし、偶像崇拝はその名の下ではなく、その機能において行われていた。というのは、今日でさえ、偶像崇拝は寺院の外でも、偶像なしでも行うことができるからである。しかし、悪魔が彫像や像、あらゆる種類の似姿を作る職人を世に送り込んだとき、かつての人間を破滅させる粗野な仕事は、偶像から名前と発展の両方を獲得した。それ以来、何らかの形で偶像を生み出すあらゆる技術は、即座に偶像崇拝の源泉となった。なぜなら、鋳型職人が偶像を鋳造しようと、墓を彫る職人が、あるいは刺繍職人が偶像を織ろうと、何ら違いはないからである。なぜなら、偶像が石膏で作られているか、顔料で作られているか、石で作られているか、青銅で作られているか[2]、銀で作られているか、糸で作られているかは、材質の問題ではないからです。偶像崇拝は偶像がなくても行われるので、偶像があれば、それがどんな種類で、どんな材質で、どんな形であるかは関係ありません。人間の形に聖別された偶像だけを崇拝すべきだと思わないようにするためです。この点を確立するには、単語の解釈が必要です。ギリシャ語でエイドス(Eidos) は形を意味します。エイドロン(eidolon) は、私たちの言語で同等のプロセスによって形を作るものから派生した小文字です[3]。したがって、あらゆる形や 形は、偶像と呼ばれることを主張します。したがって、 偶像崇拝とは「あらゆる偶像の周りでのあらゆる注意と奉仕」です。したがって、偶像を造る者は皆、同じ罪を犯していることになる[4]。ただし、人間ではなく子牛の像を聖別した民[5]は、偶像崇拝の罪を犯すことには至らなかった[6]。
【第4章 偶像は作られるべきものではなく、まして崇拝されるべきものではない に続く】
脚注
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