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ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第4巻 7

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異端反駁:第4巻

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第36章

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<< 預言者たちは、御子が遣わされたのと同じ父から遣わされた。>>

1. 主なる神は、これを拒まず、また預言者たちが父以外の神から語ったとも言わず、他の本質から語ったとも言わず、唯一の同じ父から語ったとも言わず、また、ご自身の父以外の何者かがこの世の物を造ったとも言わず、次のように教えています。「ある家の主人がぶどう園を作り、周囲に垣をめぐらし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建てて、農夫たちに貸し出して遠い国へ出かけた。収穫の時期が近づいたので、農夫たちはその果実を受け取ろうと、僕たちを農夫たちのところに送った。農夫たちは僕たちを捕まえて、ひとりを切り裂き、ひとりを石で打ち、ひとりを殺した。また、彼は最初の僕たちよりも多くの僕たちを送ったが、彼らも同じようにした。最後に、自分のひとり息子を農夫たちのところに送って、『もしかしたら、私の息子なら敬ってくれるかもしれない』と言った。ところが、農夫たちはその息子を見て、互いに言った。「これが跡継ぎだ。さあ、殺して、相続財産を手に入れよう。」そして、その息子を捕えて、ぶどう園の外に追い出し、殺した。それで、ぶどう園の主人が来たら、この農夫たちをどうするのだろう。彼らは言う。「主はこれらの邪悪な人々を惨めに滅ぼし、ぶどう園を他の農夫たちに貸し、季節ごとに実りを納めるでしょう。」[1]主はまたこう言っています。「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石が、隅の親石となった。これは主のなされたこと。わたしたちの目には不思議なことである。それゆえ、わたしはあなたがたに言う。神の国はあなたがたから取り上げられ、神の実を結ぶ国民に与えられるであろう。』」[2]これらの言葉によって、イエスは弟子たちに、ただひとりの同じ家主、すなわち、すべてのものを自ら造られた唯一の神、父なる神をはっきりと指し示しています。一方で、農夫にはさまざまな人がいて、ある者は強情で、傲慢で、無価値で、主を殺す者もいれば、季節ごとに完全に従順になって主に果実を返す者もいます。そして、ある時には召使を、またある時には御子を遣わすのも、同じ家主です。ですから、御子を殺した農夫たちに御子が遣わされた父から、召使もまた遣わされたのです。しかし、御子は父から最高の権威(principali auctoritate)をもって来られたので、このように表現されました。「しかし、私はあなた方に言います。」[3] また、召使たちは、主から来たかのように、召使らしく語りました。それゆえ、彼らは「主はこう仰せられる」と言ったのです。

2. これらの人々が不信者に主として説教した神を、キリストは従う人々に教えたのです。そして、以前の時代の人々を召された神は、後の時代の人々を受け入れた神と同じです。言い換えれば、最初に奴隷状態を伴うあの律法を用いた神は、後の時代に養子縁組によって[その民を]召された神でもあります。神は、最初にアダムを形作り、父祖たちを選んだときに、人類のぶどう園を植えました。次に、モーセの時代を確立したときに、それを農夫たちにお渡しになりました。神はそれを囲むように垣を張りました。つまり、礼拝に関して特別な指示を与えたのです。神は塔を建てました。つまり、エルサレムを選びました。神は酒ぶねを掘りました。つまり、預言の霊の受け皿を用意したのです。そして、神はバビロンへの転生の前に預言者たちを遣わし、その出来事の後にも、以前よりも多くの数の預言者たちを遣わして、その成果を求めさせ、彼ら(ユダヤ人)にこう告げた。「主はこう言われる。『あなたたちの道と行いを清め、公正な裁きを行い、互いに同胞に慈しみと同情の念を抱きなさい。寡婦や孤児、改宗者や貧しい者を虐げるな。兄弟に対して悪を心にたくわえてはならない。偽りの誓いを愛してはならない。身を洗い、清め、心から悪を除き去り、善を行うことを学び、公正を求め、虐げられた者を守り、孤児(プュペロ)を裁き、寡婦のために弁護せよ。さあ、われわれは論じ合おう、と主は言われる。』[4]またこうも言われる。『あなたの舌を悪から守り、あなたのくちびるを守って偽りを語らせないようにせよ。悪から離れて善を行ない、平和を求めてそれを追い求めよ。』」[5]これらのことを説教して、預言者たちは義の実を求めた。しかし最後に、神は不信者たちに、ご自分の子、わたしたちの主イエス・キリストを遣わされた。邪悪な農夫たちは、キリストを殺して、ぶどう園から追い出した。それゆえ、主なる神は、ぶどう園を(もはや垣で囲まずに、全世界に広げて)ほかの農夫たちに引き渡された。彼らは季節になると実を結び、美しい選ばれた塔も至るところに建てられている。輝かしい教会は至るところにあり、至るところに酒ぶねが掘られている。なぜなら、御霊を受ける者たちは至るところにいるからである。というのは、以前の者たちが神の子を拒み、ぶどう園から追い出して殺したので、神は当然彼らを拒み、ぶどう園の栽培の実をぶどう園の外にいる異邦人に与えたからである。これは、エレミヤが次のように言っていることと一致している。「主は、これらのことを行う国民を拒み、捨てられた。ユダの子らはわたしの目に悪を行った、と主は言われる。」[6]また、同じようにエレミヤはこう語っています。「私はあなたたちの上に見張りを立てた。ラッパの音に聞き従いなさい。彼らは言った、『私たちは聞き従いません。』 それゆえ、異邦人と、その中で羊の群れを飼っている人たちは聞いたのです。」[7]したがって、ぶどう園を植え、人々を導き、預言者を遣わし、御子を遣わし、季節に実りをもたらす他の農夫たちにぶどう園を与えたのは、同じ父なのです。

3. それゆえ、主は弟子たちに、わたしたちを良い働き手とするためにこう言われた。「あなたがたは、放縦や酒や生活の煩いなどで心が圧倒されないように、常に用心し、どんな時も目を覚ましていなさい。その日が、いつの間にかあなたがたに臨むであろう。それは、わなのように、地の面に住むすべての者に臨むからである。」[8]「それゆえ、腰帯を締め、ともしびをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来るのを待つ人々のように。」[9]「ノアの時代のように、人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、めとったり嫁いだりしていたが、ノアが箱舟に入り、洪水が来て、彼らをみな滅ぼすまで、彼らは知らなかった。ロトの時代にもそうであったように、彼らは食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ついにロトがソドムから出て行ったとき、天から火が降って彼らをことごとく滅ぼした。人の子が来るときも同じようなことになるであろう。」[10] 「だから、目を覚ましていなさい。いつの日に主が来られるのか、あなたがたは知らないからである。」[11] [これらの節で] イエスは、ノアの時代には人間の不従順のせいで大洪水をもたらし、ロトの時代にはソドム人の中の罪深い者の多さのせいで天から火を降らせた、唯一の同じ主を宣言し、この同じ不従順と同じような罪のせいで、世の終わりの審判の日(新改訳)をもたらすであろう主を宣言している。その日、使徒たちの言葉を受け入れない町や家よりも、ソドムとゴモラの方が耐えやすいであろうとイエスは宣言している。 「カペナウムよ、お前は天に上げられると言うのか」とイエスは言われた。[12] お前は陰府に下るであろう。お前の中でなされた力あるわざがソドムでなされていたなら、ソドムは今日まで残っていたであろう。よく言っておくが、裁きの日には、ソドムの方が汝よりも耐えやすいであろう。」[13]

4. 神の子は常に同一であるので、彼を信じる人々に永遠の命に至る水の泉[14]を与えるが、実を結ばないイチジクの木はすぐに枯れてしまう。そしてノアの時代には、罪を犯した天使たちが混ざり合ったために神に実を結ぶことができなかった、当時存在していた最も悪名高い人種を絶滅させる目的で、彼は正当に洪水を引き起こし、これらの人々の罪を阻止すると同時に、アダムの形成という原型[15]を保存するためであった 。そして、ロトの時代に、ソドムとゴモラに天から火と硫黄を降らせたのも彼であり、「神の正しい裁きの模範」[16]であり、「良い実を結ばない木はみな切り倒され、火に投げ込まれる」[17]ことをすべての人が知るためであった。そして、ソドムにとっては、彼の不思議を見ても彼を信じず、彼の教えを受け入れなかった人々よりも、一般的な裁きにおいて耐えやすいだろう[言葉]を用いたのも彼である。[18]なぜなら、彼は、彼を信じ、彼の意志を行う人々に彼の降臨によってより大きな特権を与えたのと同様に、彼を信じない人々は裁きにおいてより厳しい罰を受けるべきであると指摘したからである。このようにして、すべての人に平等の正義を及ぼし、彼がより多くを与える人々からより多くを要求するのである。しかし、それは、私がこれまで何度も十分に示してきたように、イエスが別の父についての知識を明らかにしたからではなく、イエスが降臨によって人類に父の恩寵というより大きな賜物を注いだからである。

5. しかし、私が述べたことが、預言者たちが同じ父から遣わされ、また私たちの主もその父から遣わされたということを誰かに納得させるのに十分でないならば、そのような人は、心の口を開いて、主であるキリスト・イエスを呼び求め、主の次の言葉に耳を傾けなさい。「天の王国は、息子のために婚礼を催した王のようなものである。王は、婚礼に招かれた者たちを招くために、家来たちを遣わした。」そして、彼らが従わなかったとき、主は続けてこう言われます。「彼はまた、ほかの家来たちを遣わして言った。『招かれた者たちにこう言いなさい。『さあ、食事の用意ができた。牛や肥えた家畜はすべてほふって、すべて用意ができた。婚礼にきなさい。』しかし、彼らはそれを軽視し、ある者は畑へ、ある者は商売へ、去って行った。残りの者は家来たちを捕らえ、ある者は侮辱し、ある者は殺した。王はこれを聞いて怒り、軍隊を遣わしてこの殺人者たちを滅ぼし、その町を焼き払い、家来たちに言った。「婚礼の用意はできているが、招かれた者たちはふさわしくなかった。それで、街道に出て、見つけた者をみな婚礼に招き入れよ。」家来たちは出て行って、見つけた者を、悪い者も良い者もみな集めた。こうして婚礼には客がそろった。王が客を見にやって来て、婚礼の服を着ていない男が一人いるのを見て言った。「友よ、どうして婚礼の服を着ないでここに来たのか。」しかし、男は何も言えなかった。そこで王は家来たちに言った。「その男を手足ともに連れて行き、外の暗闇に放り出せ。そこで泣き叫び、歯ぎしりするであろう。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないからである。」[19]さて、主はこれらの言葉によって、すべてのものの父である唯一の王であり主がいること、それについて主は以前に「エルサレムを指して誓ってはならない。そこは偉大な王の町だからである」と言われたことをすべて明らかにしておられる。 [20]また、主は初めから御子の結婚を準備し、最大限の親切をもって、御自分のしもべたちを使って、以前の時代の人々を結婚の宴会に招かれたこと、そして彼らが従わなかったとき、主は他のしもべたちを送って彼らを招待されたが、それでも彼らは主に従わず、招待のメッセージを持ってきた人々を石打ちにして殺した。そこで主は軍隊を派遣して彼らを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。しかし、神はすべての道から、すなわちすべての国々から、御子の結婚の宴に[客]を呼び集めました。エレミヤ書でもこう言っています。「わたしはまた、わたしのしもべである預言者たちをあなたがたにつかわして、『あなたがたは今、それぞれその悪い道から立ち返り、自分の行いを改めなさい』と言わせた。」[21] また、同じ預言者によってこう言っています。「わたしはまた、わたしのしもべである預言者たちを昼も夜もあなたがたにつかわした。しかし、彼らはわたしに従わず、わたしに耳を傾けなかった。そこで、あなたは彼らにこの言葉を語りなさい。『この民は主の声に聞き従わず、懲らしめを受け入れない。彼らの口から信仰が消え失せた。』[22] ですから、使徒たちによってあらゆる所にわたしたちを召された主は、主の言葉によって明らかであるように、昔の人々を預言者たちによって召された方です。彼らはさまざまな国々に宣べ伝えましたが、預言者たちは一つの神から出たのではなく、使徒たちは別の神から出たのではありません。しかし、同じ人たちから出発して、ある人たちは主を告げ知らせ、他の人たちも父を説教し、またある人たちは神の子の降臨を予言し、またある人たちは、当時遠く離れていた人たちに、主がすでに存在していることを宣言した。

6. また、主は、召された後、神の御霊が私たちの上にとどまるために、義のわざで身を飾るべきであることをも明らかにされました。これは結婚の衣であり、使徒もこれについて語っています。「私たちは裸になりたいのではなく、着たいのです。それは、死ぬものが不死に呑み込まれるためです。」[23]しかし、確かに神の晩餐に招かれながらも、邪悪な行いのせいで聖霊を受けなかった人々は、「外の暗闇に投げ込まれる」と主は宣言します。[24]このように、忠実な者たちをあらゆる方面から御子の結婚に集め、朽ちることのない宴会を与えたまさにその同じ王が、結婚の衣を着ない人、つまりそれを軽蔑する人を外の暗闇に投げ込むように命じていることを、主は明らかに示しています。なぜなら、以前の契約のときと同じように、「神は彼らのうちの多くの者を快く思われなかった」からです。[25]ここでも、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」とあるのと同じです。[26]ですから、裁く神は一人ではなく、救いに呼び集める父は別の父ではありません。また、永遠の光を与えるのは一人ではなく、結婚の衣服を着ていない者を外の暗闇に送るよう命じるのは別の父です。しかし、預言者たちも使命を受けた私たちの主の父である唯一の神は、その無限の慈悲によって、確かにふさわしくない者を召されます。しかし、神は召された者を調べ、御子の結婚にふさわしい衣服を着ているかどうかを確かめます。なぜなら、神にふさわしくないことや悪いことは何一つ喜ばれないからです。これは、癒された人に主が言われたことと一致しています。「見よ、あなたは癒された。もう罪を犯してはならない。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるからである。」[27]善良で、義で、清く、汚れのない方は、婚礼の部屋で、悪や不正や忌まわしいことを一切我慢なさらないからです。これは私たちの主の父であり、すべてのものはその摂理によって成り立っており、すべては主の命令によって管理されています。そして、主は、受け取るべき人々に無償の賜物を授けます。しかし、最も正義の報復者は、恩知らずの者や、主の慈悲に気づかない者には、その報いに最もふさわしい罰を与えます。それゆえ、主は「軍隊を遣わし、殺人者を滅ぼし、その町を焼き払った」とおっしゃるのです。[28]ここで「軍隊」と言われるのは、すべての人が神の所有物だからです。「地とそれに満ちるもの、世界とそこに住むものはすべて主のものである」からです。[29]使徒パウロもローマ人への手紙の中でこう言っています。「神から出る権力以外には何も存在せず、権力は神によって定められたものです。権力に逆らう者は、神の定めに逆らう者です。逆らう者は、自ら罪に定められます。支配者は、善い行いを恐れさせるのではなく、悪い行いを恐れさせるのです。それでは、あなたは権力を恐れないのですか。善を行えば、その権威から称賛を受けます。権力は、あなたに善をなす神の僕だからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなさい。権力はいたずらに剣を帯びているのではありません。権力は神の僕であり、悪を行う者には怒りをもって報復する者だからです。ですから、怒りのためだけでなく、良心のためにも、あなたがたは従わなければなりません。そのために、貢物を納めなさい。彼らは神に仕える者であり、このことに絶えず努めているのです。」[30]それで、主も使徒たちも、父なる神を唯一の存在として宣言します。父なる神は律法を与え、預言者を遣わし、すべてのものを造った方です。それゆえ、主は「彼は軍勢を遣わした」と言われます。なぜなら、たとえ神を知らない人であっても、人間である限り、すべての人は神の作品だからです。なぜなら、神はすべてのものに存在を与え、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる」からです。[31]

7. そして、これまで述べてきたことだけでなく、二人の息子のたとえ話によっても、主は、兄には子やぎ一頭さえ与えなかった同じ父を教えられました。しかし、失われた弟のためには、肥えた子牛を屠り、一番良い着物を与えました。[32] また、一日のさまざまな時間にぶどう園に遣わされた労働者のたとえ話によっても、同じ神が宣言されています。[33] ある人たちは、世界が最初に創造されたとき、初めに召されましたが、その後に召された人たち、中間の時期に召された人たち、長い時を経て召された人たち、そしてまた終わりの時に召された人たちです。そのため、その世代には多くの労働者がいますが、彼らを呼び集める家主はただ一人だけです。ぶどう園は一つだけであり、正義も一つ、分配者も一つである。すべてのものを司る神の霊は一つであるからである。同様に、報酬も一つである。彼らはみな、王の肖像と銘、すなわち神の子を知る知識、すなわち不滅のものを刻印して、一人ずつデナリを受け取った。それゆえ、主は最後に雇われた者たちに報酬を与えることから始められた。なぜなら、終わりの時に主が現れたとき、主はすべての人に[報酬として]ご自身を示されたからである。

8. それから、祈りにおいてパリサイ人より優れていた徴税人の場合、彼が他の父を崇拝していたからではなく、彼が主から義とされたという証言を受けたからであることが分かります。むしろ、彼はすべての自慢や高慢を離れて、非常に謙虚に同じ神に告白したからです。[34]また、二人の息子のたとえ話があります。ぶどう園に遣わされた二人の息子のうち、一人は確かに父親に反対しましたが、後に悔い改めましたが、悔い改めは何の益もありませんでした。しかし、もう一人は行くと約束し、すぐに父親を安心させましたが、結局行きませんでした(「人は皆偽り者です」[35]「望むことはあっても、行う手段が見つからない」[36])。[このたとえ話は、私が言うには]一つの同じ父を指し示しています。そして、この真理は、主が「見よ、この三年、わたしはこのいちじくの木に実を探しに来たが、何も見つからなかった」[37]と言われるいちじくの木のたとえ話によっても明らかに示されました(これは、預言者たちを通して、主の到来を指し示しており、主は彼らを通して時折、義の実を求めて来られましたが、それは見つからなかったのです)。また、すでに述べた理由により、いちじくの木が切り倒されるという状況によっても、この真理は示されました。そして、たとえ話を使わずに、主はエルサレムにこう言われました。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、あなたのもとに遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。雌鶏がひなを翼の下に集めるように、わたしは何度あなたの子供たちを集めようとしたことか。しかし、あなたは応じなかった。見よ、あなたの家は荒れ果てたままになるだろう。」[38]というのは、たとえ話で「見よ、わたしは三年の間、実りを求めて来た」と言われたこと、また「わたしは何度あなたの子供たちを集めようとしたであろう」とはっきり言われたことは、もし私たちが預言者たちによって告げられた主の降臨を理解しなければ、つまり、実際に主が彼らのところに一度だけ、それも初めて来たのなら、偽りであることが分かるであろう。しかし、族長たちと最初の契約のもとに生きていた人々を選んだのは、預言者の霊を通して彼らを訪れ、また、主の降臨によってあらゆる方面から呼び集められた私たちも訪れた神の言葉と同じであるから、すでに言われたことに加えて、主は真実にこう宣言した。「東から西から多くの者が来て、アブラハム、イサク、ヤコブと共に天の御国でくつろぐであろう。しかし、御国の子供たちは外の暗闇に行き、そこで泣き叫び、歯ぎしりするであろう。」[39]ですから、東西を問わず使徒たちの説教を通して彼を信じる者たちが、アブラハム、イサク、ヤコブとともに天の王国で食卓に着き、彼らとともに[天の]宴会にあずかるなら、族長たちを選び、民をも訪れ、異邦人を召した唯一の同じ神が示されるのです。


第37章

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<< 人間には自由意志があり、選択する能力が与えられている。したがって、生まれつき善良な人もいれば、悪人もいるというのは真実ではない。>>

1. 「わたしは何度もお前の子らを集めようとしたが、お前は応じなかった」[40]というこの言葉は、人間の自由に関する古代の法則を規定している。なぜなら、神は初めから人間を自由な存在として創造し、人間が自分の魂と同じように、神の命令(ad utendum sententia)に自発的に従う力(神の強制によるのではなく)を自ら持つようにしたからである。神には強制はなく、常に善意が神にあるからである。それゆえ、神はすべての人に良い助言を与える。そして、人間にも天使にも(天使は理性的な存在であるから)神は選択の力を与えた。従順に従った者は、確かに神から与えられたが自ら保持した善を正当に所有することができるように。一方、従わなかった者たちは、当然のことながら、善を所有することはできず、相応の罰を受けるであろう。なぜなら、神は彼らに善を親切に授けたのに、彼ら自身はそれを熱心に守らず、またそれを貴重なものとも思わず、神の卓越した善を軽蔑したからである。したがって、善を拒絶し、いわばそれを吐き出している彼らは、すべて当然神の正当な裁きを受けるであろう。使徒パウロもローマ人への手紙の中で、こう証言している。「しかし、あなたは、神の慈悲深さがあなたを悔い改めに導くことを知らないまま、神の慈悲深さと忍耐深さと寛容深さの豊かさを軽んじているのか。あなたは、自分の頑固さと悔い改めない心とに応じて、怒りの日と神の正しい裁きの啓示とに対して、怒りを自分の中に蓄えているのだ。」 「しかし、栄光と誉れは、善を行うすべての人に与えられる」と彼は言う。[41]使徒がこの手紙で語っているように、神は善を与えられたのであり、善を行う者は栄光と誉れを受けるであろう。なぜなら、彼らは善を行わない力があったのに善を行ったからである。しかし、善を行わない者は、神の正当な裁きを受けるであろう。なぜなら、善を行う力があったのに善を行わなかったからである。

2. しかし、もしある者が生まれつき悪く、他の者が善良であったなら、後者は善良であるがゆえに賞賛に値しないであろう。なぜなら、彼らはそのように創造されたからである。また、前者は非難されるべきではない。なぜなら、彼らはもともとそのように創造されたからである。しかし、すべての人は同じ性質の者であり、善を堅持し、善を行うことができ、また、他方では、善を捨て去り、行わない力も持っている。したがって、ある者は、善なる法則(そして神からのものはそれ以上)の支配下にある人々の間でも、当然賞賛を受け、一般的に善を選び、それに固執したことについて当然の証言を得る。しかし、他の者は、公正で善良なものを拒絶したために非難され、当然の断罪を受ける。そして、私がこれまで大々的に実証してきたように、預言者たちは人々に善行を勧め、公正に行動し、正義を実践した。それは、私たちにはそうする力があり、過度の怠慢によって忘れっぽくなり、預言者を通して私たちに知らせてくださった善良な神が与えてくださった良い助言を必要とする立場になる可能性があるからです。

3. このため、主はまたこうも言われました。「あなたがたの光を人々の前に輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」[42]また、「放縦や酒や世の煩いのために心が重くならないように気をつけなさい。」[43]また、「腰帯を締め、ともしびをともして、主が婚礼から帰って来るのを待つ人々のようにしなさい。主が来て戸をたたくと、開けてくれるであろう。主が来たとき、このようにしているのを見られる僕は幸いである。」[44]また、「主の御旨を知りながら行わない僕は、多くむち打たれるであろう。」[45]また、「なぜ、わたしを主よ、主よと呼びながら、わたしの言うことを行わないのか。」[46]また、「しかし、もしその僕が心の中で、『主は遅れている』と言って、仲間を打ちたたき、食べたり飲んだり酔ったりし始めると、主は彼が予期しない日に来て、彼を切り裂き、偽善者たちと一緒に彼の分を与えるであろう。」[47] このような聖句はすべて、人間の独立した意志[48]と、神が人間に伝える助言を示しています。それによって神は、私たちが神に従うように勧め、神に対する不信仰の罪から私たちを引き離そうとしますが、決して私たちを強制することはありません。

4. 疑いなく、福音そのものに従うことを望まない人がいれば、その人はそれを拒むことはできますが、それは賢明ではありません。なぜなら、神に背き、善を放棄することは人間にはできるからです。しかし、そのような行為は少なからぬ害と危害をもたらします。このためパウロは「すべてのことはわたしに許されているが、すべてのことが賢明なわけではない」と言っています。[49]これは人間の自由について言及しており、この点では「すべてのことは賢明である」と神は人間に対して強制力を持たないことと、「賢明ではない」という表現は、私たちが「自由を悪意の隠れ蓑として用いるべきではない」ことを指摘しています。[50]これは賢明ではありません。またパウロは「おのおの隣人に対して真実を語りなさい」とも言っています。[51]また、「悪い言葉を、あなたがたの口から出さないようにしなさい。汚れた言葉、愚かな話、下品な言葉を出さないようにしなさい。これらはよくありません。むしろ、感謝しなさい。」[52]また、「あなたがたは、以前は暗やみであったが、今は主にあって光となっている。光の子どもらしく、正直に歩みなさい。乱痴気騒ぎや泥酔、情事や好色、怒りやねたみから離れなさい。あなたがたの中にも以前はそのような人がいた。しかし、あなたがたは洗われ、主の名によって聖別されたのである。」[53]では、これらのことをする、しないが私たちにできないのであれば、使徒が、ましてや主ご自身が、あることをし、他のことを控えるようにと私たちに勧告した理由は何でしょうか。しかし、人間は初めから自由意志を持っており、神は自由意志を持っており、人間は神に似せて創造されたので、善を堅く保つようにという助言が常に人間に与えられ、それは神への服従によって行われます。

5. そして、神は行為だけでなく、信仰においても、人間の意志を自由かつ自らの支配下に置き、「あなたの信仰どおりになるように」[54]とおっしゃっています。これは、人間が独自の意見を持っているので、人間に特有の信仰があることを示しています。また、「信じる者にはすべてできる」[55]、「行きなさい。あなたの信じたとおりになりますように」[56]とも言われています。このような表現はすべて、信仰に関しては人間が自分の力でできることを実証しています。そしてこの理由から、「御子を信じる者は永遠の命を得るが、御子を信じない者は永遠の命を得ず、神の怒りがその上にとどまるであろう。」[57] 同じように、主はご自身の善良さを示し、また人間が自分の自由意志と自分の力で生きていることを示し、エルサレムにこう言われました。「雌鶏がひなを翼の下に集めるように、わたしは何度あなたの子らを集めようとしたことか。しかし、あなたたちは応じなかった。それゆえ、あなたたちの家は荒れ果てたままになる。」[58]

6. また、これらの [結論] と反対の意見を主張する人々は、主が力のない存在であり、主が望んだことを成し遂げることができなかったかのように、あるいは、その一方で、彼らが本質的に「物質的」であり、主の不死性を受けられないことを知らないかのように主張しています。「しかし、主は、罪を犯すことができるような性質の天使や、主に対してすぐに恩知らずになるような人間を創造すべきではなかった」と彼らは言います。なぜなら、彼らは理性的な存在であり、調査と判断の力を授けられており、非理性的なものや [単なる] 動物的な性質のもの [として] は [形成] されておらず、自分の意志で何もできず、必然と強制によって善に引き寄せられ、その中には 1 つの心と 1 つの慣習があり、機械的に 1 つの溝 ( inflexibiles et sine judicio ) で動作し、創造されたもの以外の何者にもなれないからです。」しかし、この仮定に基づくと、善は彼らにとってありがたくもなければ、神との交わりも貴重でもなく、彼ら自身の適切な努力、配慮、研究なしに現れる善は、彼らの関心なしに自然に植え付けられ、あまり追い求めるようなものでもありません。こうして、彼らが善良であることは重要ではなくなるでしょう。なぜなら、彼らは意志ではなく生まれつき善良であり、選択ではなく自発的に善を持っているからです。このため、彼らは善が美しいものだという事実を理解しておらず、それを楽しむこともないでしょう。なぜなら、善を知らない人がどうしてそれを享受できましょうか。あるいは、善を目指していない人に何の名誉があるでしょう。そして、競争に勝利した人のように、善を追い求めなかった人に何の冠があるでしょう。

7. 主はまた、この理由で、天の王国は「暴君」の分であると断言し、「暴君は力ずくで奪い取る」[59]とおっしゃっています。つまり、力と真剣な努力によって、その瞬間にそれを奪い取ろうとしている者たちのことです。この理由で、使徒パウロもコリント人にこう言っています。「あなたがたは知らないのか。競走場で走る人たちはみな走るが、賞を受けるのは一人だけである。だから、獲得するために走りなさい。競技に参加する者はみな、すべてのことに節制している。彼らは朽ちる冠を得ようとして[そうする]が、わたしたちは朽ちない冠を得ようとして[そうする]。しかし、わたしはこのように走るが、無謀な者のようにはせず、空を打つ者のようには戦わず、自分の体を青ざめて服従させ、ほかの人々に宣教しているときに、自分自身が捨てられることのないようにしている。」[60]したがって、この有能なレスラーは、私たちが不滅のための闘争をするように勧めています。そうすれば、私たちは冠を授かり、その冠を貴重なものとみなすことができます。つまり、私たちの闘争によって獲得される冠ですが、それ自体で私たちを囲むものではありません(sed non ultro coalitam)。そして、私たちが一生懸命努力すればするほど、それはより価値のあるものになります。それがより価値のあるものであればあるほど、私たちはそれをより高く評価する必要があります。実際、自然にやってくるものよりも、多くの熱心さによって到達したものの方が高く評価されます。したがって、この力が私たちに与えられたので、主は教え、使徒は私たちに、神をもっと愛するように命じました。そうすれば、私たちは努力することによってこの[賞]に到達できるからです。そうでなければ、これは間違いなく、試練の結果ではないため、[事実上]不合理なものになるでしょう。さらに、視力を失うことがどんなに損失であるかを知らなかったら、見る能力はそれほど望ましいとは思われなかったでしょう。健康もまた、病気を知ることによってさらに高く評価されるようになります。光もまた、暗闇と対比することによって、そして生と死とを対比することによって、さらに高く評価されるようになります。同じように、地上の王国を知っている人々にとっては、天の王国も尊いものです。しかし、それが尊いものであればあるほど、私たちはそれをますます尊ぶのです。そして、それをさらに尊んだなら、私たちは神の御前で、ますます栄光を帯びるでしょう。それゆえ、主は私たちのためにこれらすべてのことを耐え忍んでくださいました。それは、私たちがこれらすべてのことを通して教えられ、これからの時代に備えてすべての点で用心深くあるためであり、また、神を愛するように理性的に教えられ、神の完全な愛にとどまるためです。神は、人間の背教に対して寛容を示されたからです。人はそれによって教えられてきました。預言者もこう言っています。「あなた自身の背教があなたを癒すであろう。」[61]神はこのように、人を完成させ、啓発し、神の摂理を明らかにするために、すべてのことをあらかじめ決めておられます。それは、善が明らかにされ、正義が完成され、教会が神の子のイメージに似せて形作られ、そして、人が将来最終的に成熟し、神を見て理解する特権を通して成熟するためです。[62]


第38章

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<< 人間が初めから完璧に造られなかった理由>>

1. しかし、もし誰かが「それではどうなるのか?神は最初から人間を完全なものとして示すことはできなかったのか?」と言うなら、神は確かに常に同じであり、神自身に関して言えば生まれていないのだから、神にはすべてのことが可能であるということを知るべきです。しかし、創造されたものは、それらが後から生まれたという事実から、それらを創造した神より劣っているに違いありません。なぜなら、最近創造されたものが創造されなかったということはあり得なかったからです。しかし、創造されなかったわけではないので、まさにこの理由でそれらは完全なものには至りません。なぜなら、これらのものは後から生まれたものであるため、幼稚であり、完全な訓練に慣れておらず、訓練もされていないからです。母親が幼児に強い食べ物を与えることは確かに可能ですが、子供はまだより充実した栄養を受け取ることができないのと同じように、神自身が最初から人間を完全にすることは可能でしたが、人間はまだ幼児であったため、それを受け取ることができませんでした。そしてこのために、私たちの主は、すべてのものを自らの中にまとめ上げ、この終わりの時に、本来来るはずだった姿ではなく、私たちが主を見ることができる姿で私たちのところに来られたのです。主は不滅の栄光で私たちのところに来ることも容易だったでしょうが、そうであれば、私たちはその栄光の偉大さに決して耐えられなかったでしょう。それゆえ、父の完全なパンである主は、私たちが幼子であったために、乳としてご自身を私たちに提供したのです。主が人として現れたとき、そうされたのは、私たちがいわば主の肉の乳房から養われ、そのような乳の養いによって神の言葉を食べたり飲んだりすることに慣れ、父の霊である不滅のパンを私たちの中にも含むことができるようになるためでした。

2. そしてこの理由で、パウロはコリント人に対して「私はあなた方に乳を与えたが、肉を与えなかった。今まであなた方はそれに耐えられなかったからである」と宣言している。[63]つまり、あなた方は確かに私たちの主が人間として来られたことを知った。しかし、あなた方の弱さのせいで、父の霊はまだあなた方の上にとどまっていない。「なぜなら、ねたみや争い、不和があなた方の間にあるとき、あなた方は肉に従い、人間のように歩んでいるのではないだろうか」と彼は言う。[64]つまり、彼らの不完全さと人生における歩みの欠点のせいで、父の霊はまだ彼らと共にいなかったということである。それゆえ、使徒は彼らに強い食物を与える力を持っていた。使徒が手を置いた人々は、生命の食物である聖霊を受けたのである。しかし、彼らはそれを受け取ることができなかった。なぜなら、彼らの魂の感覚能力は、神に関する事柄の実践においてまだ弱く、未熟であったからである。同様に、神は初めに人間に完全性を与える力を持っていた。しかし、人間はつい最近創造されたばかりであったので、それを受け取ることはできなかったし、受け取ったとしてもそれを保持することはできなかったし、保持したとしても、保持し続けることはできなかった。このため、神の子は、完全であったにもかかわらず、他の人類と同様に幼児期を経験し、自分の利益のためではなく、人間の存在の幼児期の利益のために、人間が神を受け取ることができるように幼児期を経験しました。したがって、神にとって不可能なことや不十分なことは何もなく、人間は創造されていない存在ではなかったが、これは単に最近創造された者、すなわち人間にのみ当てはまる。

3. 神には、力、知恵、そして善が同時に表れています。神の力と善は、神が自らの意志で、以前に存在しなかったものを存在させ、形作ったことに表れています。神の知恵は、神が創造されたものを調和のとれた一貫した全体の部分にしたことに表れています。そして、神の卓越した慈悲によって成長し、長い存在期間を経たものは、創造されていないもの、つまり、善を惜しみなく与える神の栄光を反映しています。これらのものが創造されたという事実自体から、それらは創造されていないのではなく、長い時代を通して存在し続けることによって、神から永遠の存在を無償で授けられ、創造されていないものの能力を受け取ることになります。そしてこのように、すべてのものの中で、神が卓越しており、神だけが創造されず、すべてのものの最初のものであり、すべてのものの存在の第一の原因であり、他のすべてのものは神の支配下にあります。しかし、神に従うことは不死の継続であり、不死は創造されていない方の栄光です。したがって、この配置とこれらの調和、およびこの種の順序により、創造され組織された存在である人間は、創造されていない神のイメージと似姿になります。父はすべてをよく計画し、命令を与え、子はそれを実行して創造の仕事をし、聖霊は[作られたものを]養い、増やしますが、人間は日々進歩し、完全に向かって上昇し、つまり、創造されていない方に近づきます。なぜなら、創造されていないものは完全であり、それは神だからです。さて、人間はまず最初に創造されることが必要でした。そして、創造されたら、成長を受け、成長したなら、強くなり、強くされたら、豊かになり、豊かになったなら[罪の病から]回復し、回復したら、栄光を受け、栄光を受けたら、主を見るのです。神とはまだ見られない存在であり、神を見ることは不死を生み出すが、不死は人を神に近づける。

4. したがって、成長の時を待たず、自分の本性の弱さを神に帰する者は、あらゆる点で非合理的である。そのような人は神も自分自身も知らず、飽くことを知らず、恩知らずで、自分たちも創造されたもの、つまり情熱に支配された人間になることを望まない。しかし、人類の法則を越えて、人間になる前に、今でも創造主である神のようになりたいと願う。そして、物言わぬ動物よりも理性に欠ける彼らは、創造されていない神と今日の被造物である人間との間に区別はないと主張する。なぜなら、これらの動物は、神が人間にしなかったことを神に責めるのではなく、それぞれが創造されたとおりに、創造されたことに感謝するからである。私たちは、初めから神にされたのではなく、最初は単なる人間であり、やがて神になったので、神を責める。神は、誰も神に不公平や恨みを帰すことができないように、純粋な慈悲からこの道を選んだ。神は「わたしは言った、あなたがたは神であり、あなたがたはみないと高き方の子である」と宣言する。[65]しかし、私たちが神の力に耐えることができなかったので、神は「しかし、あなたがたは人間のように死ぬ」と付け加え、神の無償の賜物の慈悲と私たちの弱さ、そして私たちが自分自身を支配する力を持っていたという2つの真実を明らかにした。というのは、その大いなる慈悲の後、神は恵み深く善を[私たちに]授け、人々を神に似たものにした。[つまり]彼ら自身の力で。同時に、神は予知によって人間の弱さとそこから生じる結果を知っていた。しかし[神の]愛と[神の]力によって、神は創造された自然の本質を克服するであろう。[66]なぜなら、最初に自然が示されることが必要だったからである。そして、その後、死ぬべきものは不死によって征服され、滅びるべきものは不滅によって征服され、呑み込まれ、そして人間は善悪の知識を受けて、神のイメージと似姿に従って造られるのです。


第39章

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<< 人間には善と悪を識別する能力が授けられている。そのため、強制されることなく、自分の意志と選択によって神の戒めを実行する力があり、そうすることで反抗者のために用意された悪を避けることができる。>>

1. 人間は善悪の知識を授かった。神に従い、神を信じ、神の戒めを守ることは善であり、これが人間の命である。神に従わないことは悪であり、これが人間の死である。したがって、神は人間にそのような精神力 ( magnanimitatem ) を与えたので、人間は従順の善と不従順の悪の両方を知り、心の目は両方の経験を受けて、判断力をもってより良いものを選ぶことができる。そして、人間は怠惰になったり、神の戒めを無視したりすることが決してないようにする。そして、経験によって、神への不従順は命を奪う悪であると知り、決してそれを試みることはない。しかし、自分の命を保つもの、すなわち神への従順は善であると知り、熱心にそれを熱心に守ることができる。したがって、人間はまた、両方の種類の知識を持ち、二重の経験もしたので、訓練を受けてより良いものを選ぶことができる。しかし、もし彼が反対のことを知らなかったら、どうして善いことについての教えを受けることができたでしょうか。なぜなら、このようにして、私たちに提示された事柄についての、意見から生じる単なる推測よりも確実で疑いのない理解があるからです。舌が味覚によって甘さと苦さを経験し、目が視覚によって黒と白を区別し、耳が聴覚によって音の違いを認識するのと同じように、心も、両方の経験を通して何が善であるかの知識を受け取り、神に従って行動することによって、その善い知識をより粘り強く保持するようになります。まず、悔い改めによって、不従順を不快で不快なものとして捨て去ります。その後、それが善と甘美に反するものであることが実際に何であるかを理解するようになり、心は神への不従順を決して味わおうとはしません。しかし、もし誰かがこの両方の種類の事柄についての知識と知識の二重の認識を避けるならば、その人は知らないうちに人間としての性格を失っていることになります。

2. では、まだ人間になっていないのに、どうして神でいられるだろうか。あるいは、つい最近創造されたばかりの者が、どうして完全でいられるだろうか。また、死すべき性質において創造主に従わなかった者が、どうして不死でいられるだろうか。なぜなら、あなたは最初に人間の地位を保持し、その後に神の栄光にあずかる必要があるからである。なぜなら、あなたが神を創造するのではなく、神があなたを作るからである。それゆえ、あなたが神の作品であるならば、すべてのものを時宜にかなって創造するあなたの創造主の手を待ちなさい。あなたの創造が行われている限り、時宜にかなってである。[67] 柔らかく従順な状態であなたの心を神に捧げ、創造主があなたを形作った形を保ち、自分自身に潤いを与えなさい。そうしないと、あなたが固くなって、神の指の跡を失ってしまうでしょう。しかし、枠組みを維持することで、あなたは完全なものへと昇るでしょう。なぜなら、あなたの中にある湿った粘土は、神の技巧によって[そこに]隠されているからです。神の手があなたの本質を形作りました。神はあなたを内側と外側から純粋な金と銀で覆い、あなたを「王自身もあなたの美しさに満足する」ほどに飾り立てます。[68]しかし、あなたが頑固に心を閉ざし、神の技巧の働きを拒否し、神に対して恩知らずの態度を示すなら、あなたは[単なる]人間として創造されたので、このように神に対して恩知らずになることで、あなたはすぐに神の技巧と命の両方を失ったことになります。創造は神の善良さの属性ですが、創造されることは人間の本性の属性です。それゆえ、もしあなたが自分のもの、すなわち神への信仰と服従を神に引き渡すならば、あなたは神の御業を受け、神の完全な作品となるであろう。

3. しかし、もしあなたが彼を信じず、彼の手から逃げるなら、不完全さの原因は、従わなかったあなたの中にあるのであって、あなたを呼んだ彼の中にあるのではない。なぜなら、彼は人々を結婚に招くために[使者]を任命したが、彼に従わなかった人々は王の晩餐を自ら放棄したからである。[69]したがって、神の技量に欠陥はない。なぜなら、彼はアブラハムに子供を起こす石の力を持っているからである。[70]しかし、それを得ない人は、彼自身の不完全さの原因である。また、[同様に]光は、自分自身を盲目にした人々のために消えることはない。しかし、光はこれまでと同じままであるが、[このように]盲目にされた人々は、彼ら自身の過失によって暗闇に巻き込まれる。光は、必要によって誰かを奴隷にすることは決してない。また、神は、神の技量の行使を受け入れたくない誰かに強制力を行使することもない。したがって、父によって与えられた光から背教し、自由の律法を破った人々は、自由な行為者として創造され、自分自身を支配する力を持っているので、自分自身の過失によってそうしたのである。

4. しかし、神はすべてのことを予知して、両者にふさわしい住まいを用意し、不滅の光を求め、それに頼る人々には、彼らが望む光を親切に与えた。しかし、この光を避け、背を向け、いわば自らを盲目にする軽蔑者や嘲笑者には、光に反対する人々にふさわしい闇を用意し、神に従うことを避けようとする人々には、適切な罰を課した。神への服従は永遠の安息であり、光を避ける人々には逃げるにふさわしい場所があり、永遠の安息から逃げる人々には、逃げた場所に応じた住まいがある。さて、すべての良いものは神と共にあるので、自分の決心で神から逃げる人々は、すべての良いものをだまし取っている。そして、神に関してすべての良いものをだまし取られたので、彼らは結果的に神の正当な裁きを受けるであろう。休息を避ける者は当然罰を受け、光を避ける者は当然暗闇の中に住む。なぜなら、この一時的な光の場合と同様に、それを避ける者は自分自身を暗闇に引き渡し、そのため彼ら自身が光を欠き、暗闇に住む原因となるからである。そして、私がすでに述べたように、光は彼らにとってそのような[不幸な]存在状態の原因ではない。したがって、それ自体にすべての良いものを含む神の永遠の光から逃げる人々は、彼ら自身がすべての良いものを欠いた永遠の暗闇に住む原因となり、そのような性質の住居[に委ねられる]原因となった。


第40章

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<< 父なる唯一の神は、堕落した者に罰を与え、選ばれた者に報酬を与える。>>

1. それゆえ、神との交わりを望み、神に服従し続ける人々のために、神ご自身と共に良いものを用意しておられるのは、父なる唯一の神であり、また、背教の首謀者、悪魔、および悪魔に反抗した者たちのために永遠の火を備えておられるのは、神であり、主[71]は、自ら神の左手に分けられた者たちをその[火]に送り込むと宣言しておられる。そして、これは預言者によって語られたことである、「私はねたむ神である。平和を作り、また悪いものを創造する。」[72]。このようにして、悔い改めて神に立ち返る者たちとは平和と友情を作り、彼らを一致へと導くが、悔い改めない者、光を避ける者のためには、永遠の火と外なる暗闇を用意しておられる。これらは、そこに陥る人々にとって実に悪である。

2. しかし、もし本当に安息を与える父が一人であり、火を用意する神が別の神であるならば、彼らの息子たちは同じように異なっていたでしょう。確かに、一方は父の王国に送り、他方は永遠の火に送ります。しかし、同じ主が、審判のときに全人類が「羊飼いが羊と山羊を分けるように」[73]分けられ、ある者には「わが父に祝福された人たちよ、さあ、あなたがたのために用意されている御国を受けなさい」 [74]と言うが、他の者には「呪われた者よ、わたしから離れ、永遠の火にはいりなさい。その火は、わが父が悪魔とその使いたちのために用意しておられるものです」[75]と言うと指摘されたように、同じ父が「平和を作り、悪いものを創造し」、両者にふさわしいものを用意していることが[この節で]明らかに宣言されているのです。また、両方をしかるべき場所に送る一人の裁き主がいること、主が毒麦と麦のたとえ話で述べておられるとおり、主はこう言われます。「毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになる。人の子はその天使たちを遣わす。彼らは、すべて罪を犯す者と不法を行う者とをその王国から集めて、火の燃える炉に送り込む。そこでは泣き叫び、歯ぎしりが起るであろう。そのとき、義人は父の王国で太陽のように輝くであろう。」[76]したがって、義人のために王国を用意し、子がそれにふさわしい人々を受け入れた父は、火の炉も用意し、人の子に任命された天使たちは、神の命令に従って、それにふさわしい人々を送り込むのである。

3. 主は確かに、ご自身の畑に良い種を蒔かれた。[77] そして主はこう言われる、「畑は世界である」。しかし人々が眠っている間に、敵が来て、「麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。」[78]。ここから、この天使は背教者であり敵であったことが分かります。なぜなら、彼は神の作品をねたみ、この作品を神に敵対するものとしようとしたからです。このために、神は、自ら進んで毒麦を蒔いた者、すなわち、違反を引き起こした者を、御前から追放されました。[79]しかし、神は、疑いもなく不注意であったが、それでも邪悪に[他人の側で]不従順に巻き込まれた人間を憐れみました。そして、悪魔が人間を神の敵に仕立てようと企てた敵意を、その怒りの元凶である人間に向け直し、怒りを人間から遠ざけ、別の方向に向け、蛇に向けました。また、聖書には、神が蛇にこう言われたと記されています。「わたしは、お前と女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に敵意を置く。彼[80]はお前の頭 を砕き、お前は彼のかかとを砕くであろう。」[81]そして、主は、女から人間となり、蛇の頭を踏みつけたとき、この敵意を自らに集約したのだと、私は前の本で指摘しました。


第41章

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<< 神を信じず、不従順な人々は、生まれつきではなく模倣によって、天使であり悪魔の子である。この本の終わりと次の本の範囲。>>

1. 主は、悪魔の天使たち、つまり永遠の火が用意されている天使たちがいると言われたので、また毒麦について「毒麦は邪悪な者の子らである」[82]と言われたので、主は背教者すべてをこの罪の首謀者である者に帰したと断言しなければなりません。しかし、主は天使も人間も本質的にそのようには作られませんでした。悪魔が何かを創造したという記録は見当たりません。悪魔自身も他の天使たちと同様に神の被造物だからです。神はすべてのものを創造されました。ダビデもすべてのものについてこう言っています。「神が言葉を発すると、それらは造られ、神が命じると、それらは造られた。」[83]

2. したがって、すべてのものは神によって造られ、悪魔は自分自身と他の人々に対する背教の原因となったので、聖書が背教の状態にある人々を常に「悪魔の子ら」や「邪悪な者の使いたち」(マリグニ)と呼ぶのは当然です。というのは、「子」という語には、私の前にいた人が指摘したように、二重の意味があるからです。一つは、自然の秩序において、息子として生まれたので、息子です。もう一つは、そのように作られたので、息子とみなされますが、そのように生まれることと、そのように作られることには違いがあります。最初のものは、確かに言及されている人から生まれましたが、二番目のものは、その創造に関してであれ、その教義の教えに関してであれ、その人によってそのようにされました。誰かが他の人の口から教えを受けたとき、彼は教える人の息子と呼ばれ、後者は彼の父と呼ばれます。したがって、自然によれば、つまりいわば創造によれば、私たちはみな神の子です。なぜなら、私たちはみな神によって創造されたからです。しかし、従順と教義に関しては、私たち全員が神の子なわけではありません。神を信じ、神の意志を行う者だけが神の子です。そして、信じず、神の意志に従わない者は、悪魔の子であり、悪魔の使いです。なぜなら、彼らは悪魔の行いをするからです。そして、そのようなことを神はイザヤ書で宣言しました。「私は子供たちを生み、育てたが、彼らは私に背いた。」[84] また、これらの子供たちは異邦人であると言っているところは、「異邦の子供たちが私に嘘をついた。」[85] したがって、自然によれば、彼らはそのように創造されたので、[神の]子供です。しかし、彼らの行いに関しては、彼らは神の子供ではありません。

3. 人間の場合、父に従わない息子は相続権を剥奪されても、自然の流れでは依然として息子であるが、法律上は相続権を剥奪され、生まれながらの両親の相続人にならないのと同様、神の場合も同様である。神に従わない者は神によって相続権を剥奪され、神の息子ではなくなる。したがって、彼らは神の相続財産を受け取ることができない。ダビデが言うように、「罪人は胎内にいる時から疎外され、その怒りは蛇のようである」。[86]そしてそれゆえ、主は人の子孫であると知っていた者たちを「まむしの世代」と呼んだ。[87] なぜなら、これらの動物のやり方に倣って、彼らは狡猾に動き回り、他の者たちを傷つけるからである。主はこう言われた。「パリサイ人やサドカイ人のパン種に気をつけよ。」[88]ヘロデについても、イエスは「行って、あの狐に告げよ」とおっしゃっています。 [89]これは、彼の邪悪な狡猾さと欺瞞を指しています。そのため、預言者ダビデは「人は、尊厳を与えられたのに、家畜のようになった」と言っています。[90]また、エレミヤは「彼らは馬のようになり、女にむかって怒り狂い、おのおの隣の妻をいななかせた」と言っています。[91]そして、イザヤはユダヤで説教し、イスラエルと論じたとき、彼らを「ソドムの支配者」や「ゴモラの人々」と呼びました。[92]彼らはソドムの人々と同じような邪悪さを持ち、同じ罪が彼らの間に蔓延しているとほのめかし、彼らの行為が似ているので、彼らを同じ名前で呼んでいます。そして、彼らは生まれつき神によってそのように造られたのではなく、正しく行動する力も持っていたため、同じ方が彼らに良い助言を与えてこう言った。「洗い清めよ。わたしの目の前で、あなたがたの魂から悪を除き去り、悪をやめよ。」[93]このように、彼らは同じように違反し罪を犯したので、ソドムの人々と同じ叱責を受けたのは疑いの余地がない。しかし、彼らが改心して悔い改め、悪をやめれば、神の子となり、神によって与えられた不死の相続財産を受ける力を持つはずである。このため、神は彼らを「悪魔の天使」や「邪悪な者の子ら」と呼んだのである[94]。彼らは悪魔に耳を傾け、悪魔のわざを行っています。しかし、これらの人々は、すべて同時に、唯一の同じ神によって創造されました。しかし、彼らが神を信じ、神に従い、神の教えを守り続けるとき、彼らは神の子です。しかし、彼らが背教し、罪に陥ると、彼らの首領である悪魔のせいにされます。悪魔は、最初に自分自身に背教の原因となり、その後、他の人々に背教の原因となったのです。

4. 主の言葉は数多くあり、それらはすべてこの世の創造主である同じ父を宣言しているので、それらの言葉自体のためにも、多くの誤りに陥っている人々を多くの[議論]で反駁することは、私にとって義務でした。彼らが多くの[証拠]によって反駁されたとき、何らかの方法で彼らが真理に立ち返り、救われるかもしれないからです。しかし、この文章に、主の言葉の後のパウロの教義も付け加え、この人の意見を調べ、使徒を解説し、パウロが語ったことを完全に誤解した異端者から他の解釈を受けたすべての[節]を説明し、彼らの狂った意見の愚かさを指摘する必要があります。そして、彼らが我々に質問を押し付けるその同じパウロから、彼らが確かに偽りを語る者であり、使徒は真理の説教者であり、真理の説教に一致するすべてのことを教えたことを証明します。つまり、アブラハムと話し、律法を与え、預言者を前もって遣わし、終わりの時に御子を遣わし、御自身の作品、すなわち肉の実体に救いを授けたのは、父なる唯一の神であったということです。そこで、たとえ話ではなく、明白な意味(sed simpliciter ipsis dictionibus)でとらえた表現によって父について教えられた主の残りの言葉と、祝福された使徒の手紙の解説を別の本にまとめ、神の助けを得て、誤ってそのように呼ばれている知識の暴露と反駁の完全な作品をあなたに提供します。このように、私とあなたは、すべての異端者に対抗するために、この5冊の本を執筆しました。


異端反駁:第5巻に続く】

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脚注

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  1. マタイ21:33~41。
  2. マタイ21章42~44節
  3. マタイ 5:22
  4. エレミヤ7:3、ゼカリヤ7:9, 10、ゼカリヤ8:17、イザヤ1:17-19。
  5. 詩篇 34:13, 14
  6. エレミヤ 7:29, 30
  7. エレミヤ 6:17, 18
  8. ルカ 21:34, 35
  9. ルカ 12:35, 36
  10. ルカ 17:26 など。
  11. マタイ 24:42
  12. 他のギリシャ教父は、このテキストを上記のように引用していません。この事実から、グラベは、古いラテン語翻訳者、またはその筆写者が、ラテン語版に合うようにイレネウスの言葉を変更したと推測しています[注—1つの例から残りを推測してください]。
  13. マタイ 11:23, 24
  14. ヨハネ4章14節
  15. これはマスエによる本文の推測的な修正、すなわちarcætypum をarchetypumにしたものである。グラベはarcæ の前にper を挿入し、この箇所は 1ペトロ 3章20節を参照していると考えている。イレナイオスは他の古代教父たちと同様に、堕天使は「神の子」であり「人の娘」と混ざり合って偽りの人間の種族を生み出したと信じていた。[創世記 6 章 1、2、3 節、およびヨセフス]
  16. ユダ書 7節。 [天使に関しては「異質な肉」(ギリシア語σαρκὸς ἑτέρας )に注目してください。創世記 19:4, 5.]
  17. マタイ 3章10節
  18. マタイ11:24; ルカ10:12
  19. マタイ22章1節など
  20. マタイ 5:35。編集者がするように、ここで終止符を打つ代わりに、私たちは、そのままの解釈を続けるほうが好ましいように思われます。
  21. エレミヤ 35:15
  22. エレミヤ 7:25など。
  23. 2コリント 5:4
  24. マタイ 22:13
  25. 1コリント 10:5
  26. マタイ 22:14
  27. ヨハネ 5:14
  28. マタイ 22:7
  29. 詩篇 24:1
  30. ローマ 13:1-7
  31. マタイ 5:45
  32. ルカ 15:11
  33. マタイ 20:1 など。
  34. ルカ 18:10
  35. 詩篇 116:2
  36. ローマ 7:18
  37. ルカ 13:6
  38. ルカ 13:34、マタイ 23:37。
  39. マタイ8章11、12節
  40. マタイ23章37節
  41. ローマ 2:4, 5, 7
  42. マタイ 5:16
  43. ルカ 21:34
  44. ルカ 12:35, 36
  45. ルカ 12:47
  46. ルカ 6:46
  47. ルカ12:45, 46; マタイ24:48–51。
  48. τὸ αὐτεξούσιον. 主権。
  49. 1コリント 6:12
  50. 1ペテロ 2:16
  51. エペソ 4:25
  52. エペソ 4:29
  53. 1コリント 6:11
  54. マタイ 9:29
  55. マルコ 9:23
  56. マタイ 8:13
  57. ヨハネ 3:36
  58. マタイ 23:37, 38
  59. マタイ 11:12
  60. 1コリント 9:24-27
  61. エレミヤ 2:19
  62. [もし原本さえあれば、これは間違いなくあらゆる点で原始神学の高貴な見本となるでしょう。]
  63. 1 コリント 3:2
  64. 1 コリント 3:3
  65. 詩篇 82:6, 7
  66. つまり、人間の人間性は、人間が神の分け前を得ることを妨げるものではないということです。
  67. Efficeris. あなたはそれをするでしょう。
  68. 詩篇 45:11
  69. マタイ 22:3 など。
  70. マタイ 3:9
  71. マタイ 25:41
  72. イザヤ 45:7
  73. マタイ 25:32
  74. マタイ 25:34
  75. マタイ 25:41
  76. マタイ 13:40-43
  77. マタイ 13:34。[異端の起源に当てはまります。]
  78. マタイ 13:28
  79. 古いラテン語の翻訳者はこれとは異なり(ギリシャ語はグラベが2つの古代のCatenæ Patrumから回収)、この節を次のように、つまり彼自身が導入した違反に翻訳し、説明の言葉を ギリシャ語のように毒麦をまく人ではなく、毒麦を指すものにしました。
  80. LXX の朗読に続きます。αὐτός σου τηρήσει κεφαλήν. 彼があなたの頭の面倒を見てくれます。
  81. 創世記 3:15
  82. マタイ 13:38
  83. 詩篇 149:5
  84. イザヤ 1:2
  85. 詩篇 18:45
  86. 詩篇 58:3, 4
  87. マタイ 23:33
  88. マタイ 16:6
  89. ルカ 13:32
  90. 詩篇 49:21
  91. エレミヤ 5:8
  92. イザヤ 1:10
  93. イザヤ 1:16
  94. マタイ25章41節、マタイ13章38節


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