ドブロトリュビエ/第5巻/神聖な祈りについて
ドブロトリュビエ 第5巻
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神聖な祈りについて
[編集]テサロニケの聖シメオン
神聖な祈りについて[1]
1. 兄弟たちよ、祈りについて、私たちには語るべきことがたくさんあります。そして、それは実に、他のすべての働きの頂点に立つ神から私たちに与えられた働きです。祈りとは、神と共にいること、常に神と一体であること、ダビデが言うように、魂が神に寄り添い、神と分かちがたく結びつき、心も神と分かちがたく結びつくことです。 「わが魂はあなたに寄り添います」(詩篇63:9 )と神は言われます。また、 「わが魂はあなたを渇望します」(詩篇63:2)とも言われます。さらに、 「草が水の源を渇望するように、わが魂は神よ、あなたを渇望します」(詩篇41:2)とも言われます。さらに、 「わが力なる主よ、私はあなたを愛します。主はわが岩、わが避け所です」(詩篇18:2)とも言われます。また、 「私の魂は常にあなたの手の中にあります」(詩篇118:109)とあるのに対し、「常にあなたと共にいる」とあるのも誤りです。だからこそ 彼は、 「私は常に主をほめたたえます。主の賛美は私の口の中に常にあります」(詩篇33:2)と言っているのです。そして預言者は、祈る際に天使たちと共にいるかのように自らを示し、神への愛と神への願いを表すこの善行において天使たちと一体となるのです。 彼はこう言います。 「天から主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。すべての天使よ、主をほめたたえよ。すべての万軍よ、主をほめたたえよ」(詩篇148:102)。彼は天使が賛美すべきではないという意味で語っているのではなく、天使たちを賛美に招いているのです。むしろ、天使たちは神への愛から、これを自らの絶え間ない営みとして持ち、神に加わることを賛美しているかのように。なぜなら、神への祈りと賛美は、あらゆる理性ある被造物にとって、絶え間なく、絶え間なく続けられるべき営みだからです。善良で天使的な賛美歌作者であるダビデもまた、このことを全宇宙に燃え上がらせました。それは、救い主の地上への出現、そしてすべての人々が主を通して至聖なる三位一体を知り、それを絶えず称えることを予示していたと私は信じています。ダビデはこう言っています。 「万国よ、主をほめよ。万民よ、主をほめよ」(詩篇116:1)。天使たちが神への賛美を絶えず唱えることは、神の栄光と天使たちが三位一体の賛美を絶え間なく歌っているのを見たイザヤによっても教えられています。エゼキエルも同様です。このような歌は、第一の位であるセラフィムとケルビムの働きです。第一の位は、セラフィムという名が示すように、強い愛と燃えるような歌から「燃える」と呼ばれています。第二の位は、ケルビムという名が示すように、神への知識と賛美の広さ、広がりから「ほとばしり」と呼ばれています。また、彼らは多目とも呼ばれています。それは、彼らの観想と賛美の豊かさ、繊細さ、洞察力、そして継続性からです。ですから、私たちの間でも、愛と熱意と心からの祈りに燃える聖人たちは、「燃える」と呼ばれています。それは、次のように言われているからです。 ) 、「わたしの心はわたしのうちで熱くなり、わたしの思いを語ると火が燃え上がった」(詩編 38:4)、 「わたしたちの心は、わたしたちのうちで燃えていなかったか」(ルカによる福音書 24:32)と歌っています。また、 「御霊に燃え、主に仕え、祈りに励みなさい」(ローマ12:11, 12)。私たちの多くは、神についての豊かな知識を持ち、水のように神への願いをあふれ出させるような人に出会ったことがあるでしょう。 「恵みはあなたの唇に注がれ」(詩篇44:3)また、 「あなたは私の心を広げてくださいました」(詩篇118:32)とも言われています。(詩篇24:15)そして、私たちの中には、神を仰ぎ見る者として清められた者と呼べる人々がいます。 「私の目は常に主に向かっている」(詩篇24:15 )とも、 「私は常に主を私の前に置いた。 主は私の右におられるからである」(詩篇15:8)とも言われています。彼らはまた、 「心の清い者は主を仰ぎ見る」(マタイ5:8)とも言われています。そして、私たちの中には、天使の第三位である玉座に倣う人々がいます。これらは神が安息する者たちです。安息とは座であり玉座だからです。これらの座に座る者が安息するように、神は思い、歌、言葉、行いによって神を敬う者たちの内に安息されます 。 「神の安息は誉れである」(イザヤ11:10)からです。それゆえ、神は彼らを喜ばれ、彼らについてこう言われます。 「わたしは彼らの間に住み、彼らの間を歩もう」(コリント人への第二の手紙6:16)。また、そのような者に対して、神はこう言われます。 「わたしと父が来て、彼と共に住むであろう」(ヨハネ14:23)。そして、使徒パウロは、このことが実際に起こったことを確認してこう言います。 「あなたがたは、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを知らないのですか。あなたがたは何か愚かなことをしているにすぎないのです」(コリント人への手紙二13:5)。まさにこのこと、すなわちキリストを心に抱き、常にキリストを思い起こし、思い、セラフィムのようにキリストへの愛に燃え、ケルビムのように常にキリストを見つめ、キリストの心に安らぐこと、これこそ祈りの業です。したがって、キリストの僕にとって、祈りは何よりも大切な業であり、そうあるべきです。他のすべての奉仕は二次的なものです。他の天使たちは、私たちの救いのために遣わされ、神の戒めを私たちに告げ知らせる者として、救いを受け継ぐことを望む人々を積極的に助けますが、彼らは皆、祈りを絶え間ない業としています。ですから、彼らが私たちの救いに必要なものを整えるために私たちの前に現れるとき、彼らは神への賛美と祈りを伴わずに現れるのではなく、神への告白と賛美の両方を私たちに教えてくれます。例えば、イザヤは彼らが神の栄光を歌うのを聞き、エゼキエルとダニエルもそうでした。羊飼いたちは主の誕生の時に、天の軍勢が神を賛美し、 「いと高きところには栄光、神にあれ」(ルカ2:14); 黙示録のヨハネも、彼らの多くが歌っているのを聞いています。そして、黙示録の神秘を啓示した天使は、ヨハネが彼にひれ伏したとき、こう言いました。 「見よ、私はあなたの仲間ではない。また、イエスの証しをしているあなたの兄弟の仲間でもない。神を拝みなさい」(黙示録 19:10)。彼らが皆、神にどれほどの敬意を払っているかがおわかりになるでしょうし、神に仕える彼らの主な仕事は常に神に栄光を歌うことです。なぜ、第三の天に昇ったセラフィムの福音記者、聖パウロは私たちにこう言っているのでしょうか。 「絶えず祈りなさい」(テサロニケ第一 5:14)。彼自身、すべての主からこれを教えられました。主はこう教えておられます。 「それゆえ、目を覚まして、どんなときも祈りなさい」(ルカによる福音書 21:36)。また、 「目を覚ましていなさい。人の子がいつ来るか、その日その時が、あなたたちは知らないからです」(マタイによる福音書 25:13)、 「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい」(マタイによる福音書 26:41)、 「腰帯を締め、あかりをともして、主が婚礼の場から帰って来るのを待っている人のようでいなさい。主が来て押しても、すぐに開けてしまわないためです」(ルカによる福音書 12:35, 36)とも言われています。これらの言葉で、イエスは私たちに内なる祈り、心を静めること、そして絶え間ない祈りについて教えておられます。そして、 「主が来られたとき、このようにしているのを見られる僕は幸いである」(ルカによる福音書 12:43)と示唆しています。そして、そのような警戒と祈りに対する賜物について一言付け加えて、 「彼はそのすべての財産を司らせ」(44節)、彼と彼のような者たちを神々、天の王、太陽よりも輝く者とするでしょう。神は、警戒し祈る者たちのために、どのような賜物を用意しておられるか、お分かりでしょう。私たちも、教えられたように、常に警戒し、絶えず祈り、その賜物にふさわしい者となれますように。
2. 祈りはたくさんありますが、最も優れた祈りは、救い主ご自身が私たちに与えてくださった祈りです(福音書に書かれているように、私たちの父なる神への祈りは、福音の真理全体を簡潔に包含し、その後に神の子である私たちの主イエス・キリストへの救いの祈り(イエスの祈り)が続きます)。この教えには、多くの尊敬すべき先祖たちが力を尽くしました。その中には、この神聖な祈りについての教えを三語で説いた私たちの巧みな弁護者、そして神を担う梯子、聖なるディアドコス、フォティケーの司教、新しい神学者シメオン、禁欲主義者ニケフォロスなど、多くの人々がいました。彼らは、彼らの内に宿る神の霊にふさわしい方法でこの祈りを語りました。なぜなら、この祈りは聖霊によって発せられるからです。聖パウロはこう言っています。 「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことはできない」(コリント人への手紙二 12:3)。そして、この祈りを発する者は神から来ています。聖パウロはこう言っています。聖ヨハネは こうも言っています。 「イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白する霊はすべて神から出ているのです」(ヨハネ第一4:2)。しかし、現代において、このことについて最もよく記されているのは、聖霊に導かれ、神を語り、神を宿し、キリストを宿し、真に神聖な聖なる父祖たちです。新ローマの統治都市の元総主教カリストスと、彼の同僚であり仲間であった尊者イグナティオスです。彼らは100章にわたり、このことについて霊的で高尚で、神に通じた完全な教えを説いています。
3. 救い主を呼び求めるこの神聖な祈りは、次のとおりです。 「神の子、主イエス・キリストよ、私をあわれんでください。」これは祈りであり、誓願であり、信仰告白でもあります。聖霊と神の賜物を与えてくださる方、心の清め、悪霊の祓い、イエス・キリストの内住、霊的理解と神の思いの源、罪の赦し、魂と体の癒し、神の啓示の与え主、神の慈悲の源、神の奥義の啓示のための仲介者、唯一の救い主、私たちの救い主である神の御名、私たちに呼びかけられた神の子、イエス・キリストの御名を自らの内に宿しておられる方です。 使徒言行録4章12節にあるように、 「天の下にこの名のほかに、私たちが救われるべき名は存在しません」(使徒言行録4章12節)。この祈りは、これによって神の慈悲を求める祈りであり、また、祈りによって神の憐れみを求める誓約であり、また、告白であり、このように主イエスを告白したペテロは主から祝福を受けた(マタイ16:17)ので、心の浄化であり、神はこのように神を見る者を見て召し、清めるので、悪霊の追放であり、イエス・キリストの名によって悪霊は追放され、今も追放されているので、キリストの内住であり、キリストは私たちの内におられ、その記憶によって私たちに内住し、聖ダビデが 「私は神を思い出して喜んだ」(詩編76:4)と述べているように、喜びで満たしてくださるので、霊的な理解と考えの源でもあります。キリストには 「知恵と理解のすべての宝が隠されている」(コロサイ2:3)ので、キリストは内住する者にそれらを与え、神の啓示です。なぜなら、 「キリストはまことの光です。」(ヨハネの手紙一 5:20)そして、預言者が叫んだように、 「主なる私たちの神の光が、私たちの上にあるように」(詩篇 89:17)そして主が約束されたように、 「私に従って歩む者は、いのちの光を持っている。」(ヨハネの手紙 8:12)そして神の慈悲の倉を持っているからです。主は慈悲深く、主を呼び求めるすべての人に慈悲をかけ(詩編85:5)、そして 「主に叫ぶ者には速やかに復讐する」(ルカ18:7, 8)ので、謙遜な人々に神の奥義を啓示するために執り成しをなさる方であり、キリストについての真理が天の父によって漁師ペテロに啓示されたように(マタイ16:17)、聖パウロが 「第三の天の楽園に引き上げられ、言い表せない言葉を聞いた」(コリント人への第二の手紙12:4)ので、唯一の救い主であり、 「ほかにだれにも救いはない」(使徒行伝4:11)ので、私たちは主に叫び求めます。 「世の救い主はただひとり、キリストです」(ヨハネ4:42)。なぜ終わりの日に、たとえ不本意であっても、 「すべての舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神に栄光を帰するようになるのでしょうか」(ピリピ2:11)。このような告白は、私たちの信仰のしるしであり、私たちが神から来ていることの証しです。 「イエス・キリストが肉において来られたことを告白する霊はすべて神から出ている」からです。 そして、それを告白しない者は 「神から出ていない」のではなく、 「反キリスト」です (ヨハネ第一4:3)。なぜすべての信者は、信仰を宣べ伝えるため、そして、私たちを決して引き離すことのない、私たちの主イエス・キリストへの愛を証しするため、そして、この御名による恵み、罪の赦し、魂の癒し、聖化、啓示、そして何よりも救いのために、この御名を絶えず告白するべきなのでしょうか。福音記者はこう言っています。 「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためである。」 信仰を見よ!そして 「信じて、彼の名によって命を得るためである。」 救いと命を見よ!(ヨハネ20:31)。
4. すべての信心深い人は、心と舌で、立っているとき、歩いているとき、座っているとき、ベッドに寄りかかっているとき、話しているとき、何かをしているとき、常にこの祈りを唱えましょう。そして、常に自分自身にこれを強制しましょう。そうすれば、これを注意深く守っている人が経験から知っているように、大いなる平和と喜びが見つかります。 – しかし、世俗の人々には、また修道士でさえも、世俗的な事柄の避けられない困難の中にいるときには、これは不可能であるので、各人が少なくともこれに一定の時間を割くようにし、すべての人々、聖職者、修道士、一般の人々のいずれに対しても、この祈りを常に唱えることを規則とすべきである。修道士は、すでにこの祈りに召され、緊急の義務を負っているので、従順さを履行するのに苦労しているとしても、常にこの祈りを唱え、考えを略奪し、精神を捕らえながらでも、絶えず主に呼びかけるように自分自身に強制するべきである。そして、この略奪のせいで、彼らはそれを怠ることを許さず、あらゆる方法で再びそれに立ち返るよう努め、この立ち返りを喜ぶべきである。聖職者は、説教のように、神聖な儀式のように、主キリストへの愛の表明のように、この事柄に気を配るべきである。信徒はこの祈りを信仰の印とし、保護とし、聖化とし、誘惑を追い払うものとして保ちなさい。このため、聖職者も信徒も修道士も、眠りから目覚めたすべての人は、まずキリストを思い出し、キリストについて思いを巡らし、キリストによって救われた者として、キリストの名を負い、聖なる洗礼によってキリストに身を包み、聖なる聖別によってキリストによって封印され、キリストの体と血にあずかり、これによってキリストの肢体となり、キリストの神殿を持ち、自らのうちに生きる者として、この最初の思いをキリストに捧げなければなりません。このすべてのために、すべてのキリスト信者は、全身全霊でキリストを愛し、この愛から常にキリストを覚えるよう努め、さらに、自分の力に応じて決まった時間をとってキリストの祈りを捧げる義務があります。
脚注
[編集]- ↑ Patrologiae Graecae t. 155、535–548ページ。第 293 ~ 297 章
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