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ドブロトリュビエ/第2巻/禁欲主義の目的と終焉

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ドブロトリュビエ 第2巻


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禁欲主義の目的と終焉

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ローマの聖ヨハネス・カッシアヌス

聖ヨハネス・カッシアヌスによる霊的戦いの考察

1. 禁欲主義の目的と終焉(第1部)


1. あらゆる学問と芸術には、その目的(スコポン)と終着点(テロス)があり、そのために勤勉な芸術愛好家は、あらゆる労力と費用を喜んで耐え忍ぶ。例えば、農夫は暑さや寒さに耐えながら、疲れを知らずに土を耕し、土を耕す。その「目的」は、あらゆる異物を取り除き、より肥沃にすることにある。そうでなければ、自らの糧と財産を増やすための豊かな収穫という「目的」を達成できないと確信しているからだ。同様に、私たちの禁欲主義にも目的と終着点があり、そのために私たちは疲れを知らず、喜びをもってあらゆる労働に取り組む。そのためには、断食の乏しい食事も苦にならず、徹夜の疲労も喜びであり、瞑想を伴った聖書の絶え間ない朗読も飽きることなく、絶え間ない労働も、あらゆるものからの裸の状態も、あらゆるものにおける貧困も、この計り知れない砂漠の恐怖さえも、私たちを怖がらせることはない。


2. 私たちの修行の最終目的は神の国であり、その目標は心の清らかさです。これなくしては、この目的を達成することは不可能です。この目標に目を留め、私たちはまるで一直線を辿るように、自らの進路を最も確実に定めなければなりません。そして、もし私たちの思考がそこから少しでも逸れたら、すぐにその観想に戻り、ある規範に従うかのように、それを正さなければなりません。


3. 聖パウロは、キリストの良いくびきを受け入れた人々にこう教えています。「あなた方の実は聖潔にあり、その果ては永遠の命です」(ローマ 6:22)。これはいわば、「あなた方の目標は心の清さであり、その果ては永遠の命である」と言っているようなものです。ですから、この目標、すなわち心の清さへと私たちを導くものは何であれ、私たちは全力を尽くして追求しなければなりません。そして、そこから私たちを逸らすものは何であれ、破壊的で有害なものとして避けなければなりません。なぜなら、私たちはこの目標のために、親、祖国、地位、富、この世の安楽、そしてあらゆる快楽を捨て去るからです。つまり、揺るぎない心の清さを保つためです。ですから、もし私たちが常にこの目標を心に留めているなら、私たちのすべての行動と思考は、その達成へとまっすぐに向けられるでしょう。もしこの目標が常に私たちの目の前になければ、私たちのすべての労苦と力は、この目標だけに向けられず、無駄に終わるでしょう。


4. それゆえ、この清​​浄のために、私たちはあらゆることを行い、あらゆることを願わなければなりません。そのために、私たちは砂漠に赴き、断食、徹夜、労働、肉体的貧困、読書、その他の美徳を守り、心をあらゆる有害な情熱から遠ざけ、そのように保たなければなりません。断食、徹夜、隠遁生活、そして聖書の学習は、この根本目標、すなわち心の清浄さへと高められなければなりません。そして、それらゆえに、私たちはこの根本の美徳を乱してはなりません。なぜなら、この根本の美徳が守られ、損なわれていない限り、前述の禁欲的な労働のいずれかを必要に迫られて省略したとしても、何ら害はないからです。しかし、もし私たちがそれらすべてに耐えても、この一つを破るなら、そこから何の益もありません。なぜなら、すべてはこのためになされなければならないからです。それら(禁欲的な労働)は完全ではなく、完全への手段なのです。それらだけが「最高の善」であるかのように、それらにのみ満足し、それらに対する心の欲望を止め、それら自身が望んでいる目的の達成までそれを広げない人は、なぜ無駄な労働をするのでしょうか。


【「この目標に照らし合わせて、私たちは何を放棄すべきかを決めなければならない」に続く】

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