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コリント人への第二の手紙注解 (アンブロシアステル)/第5章

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コリント人への第二の手紙注解

第5章

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(1節) 私たちは、この地上の住まいが滅ぼされても、神から建てられた家、人の手で造られていない、天にある永遠の家を持っていることを知っています。この確信によって、パウロは、不信者の暴力や人生の運命によって肉体から滅ぼされることを恐れる必要はないと言っています。なぜなら、そのような人々のために、天に永遠の住まいが用意されているからです。それは、現世と地上のものを捨て去って、永遠の家に迎え入れられるためです。ですから、もしそれがなされるなら、これもまた望ましいことです。しかし、もしそれがなされるなら、喜んで受け入れるべきです。彼はこの地上の住まいを「肉」と呼びました。それは、死ぬべきものであるからです。もし私たちがこの肉から滅ぼされても、天に建てられた永遠の住まいを見いだすためです。この家は不滅の体を意味し、私たちはその中で再びよみがえり、永遠に存在し、その形は主の体において天にすでに現れています。


(2、3節) 私たちは、天から与えられる住まいを着て、裸でいることがないようにと、うめきながら願っているのです。ですから、彼は祈りの中で、私たちがうめき、天から約束された栄光が、よみがえる者たちに着せられるようにと願っている、と語っています。ですから、彼らはこのことを願って、祈りを絶やさないのです。それは、体を受けたのに裸でいること、つまり、約束された栄光に縁のない者とされることのないようにするためです。この働きとは、体を着た魂が、神の裁きによって栄光を着せられること、すなわち栄光に変えられることです。死は地から出たものですが、復活は天から出たものです。ただし、復活が栄光に変えられるならば、です。他の写本ではこう訳されています。「たとえ裸になっても、裸でいることがないように。つまり、もし私たちが体を離れてキリストを着たなら、ということです。キリストにつくバプテスマを受けた者は、キリストを着たのです」(ガラテヤ人への手紙 3章27節)。ですから、もし私たちが洗礼と伝統の形式にとどまっているなら、たとえ肉体を脱ぎ捨てられても、私たちは裸ではありません。なぜなら、キリストは内なる人の内に住んでおられるからです。そして、私たちがキリスト、あるいは私たちに与えられた聖霊をまとっているのが見られる時、私たちは約束された天の栄光をまとっているにふさわしい者となるのです。なぜなら、約束された栄光は、神が子たる身分のしるしを持っていると見る人に臨むからです。


(4節) 私たちは、この肉体、すなわち死ぬべきものである間は、重荷を負ってうめき声を上げます。それを脱ぎ捨てようとせず、むしろ着ようとします。この死ぬべき者は命に呑み込まれますように。意味は同じです。なぜなら、パウロがこう言っているのは、私たちが肉体の激情とこの世の嵐に押しつぶされそうになって、変えられ、打ち負かされ、ふさわしくない者とならないように、神に願い求めるからです。しかし、信仰を保って終末に達するためには、実体においてはキリストである聖霊を着けているようにしなければなりません。もし私たちが肉体を脱ぎ捨てても、聖霊を剥ぎ取られていないなら、そのとき私たちは約束された栄光を着ることができるでしょう。このように、死ぬべき者は命に呑み込まれます。すなわち、私たちはよみがえって不死と栄光を着るようになり、もはや死ぬことがなくなり、激情に巻き込まれることがなくなります。そして、これが命に呑み込まれるということです。なぜなら、この目的のために復活し、罰を受けさせられる者は、命に呑み込まれるとは言われないからです。


(5節) しかし、このことにおいて私たちを完全にしてくださるのは神です。神はまた、"霊"を保証として私たちに与えてくださいました。私たちが嘆きながら願うこのこと、すなわち、私たちが捨てられるにふさわしい者となるためにではなく、着せられるにふさわしい者となるために願うこのことを、神は前述の意味において、裁きの日に成就してくださると、神は言われています。なぜなら、神は約束しておられ、忠実な方であり、このことが成就することの保証として霊を与えてくださったからです。なぜなら、神ご自身が、私たちを子と認めることの証しだからです。


(6、7節) ですから、私たちは常に信じており、また知っているのです。[182] 私たちは、見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。 明らかに、私たちは信仰によって主とともにいるのであって、見えるところによらないのです。 私たちは信仰によってではなく、見えるところによらない者なのです。 使徒言行録にも、「私たちは、キリストの中に生き、動き、存在しているのです」(使徒言行録 17章28節) と書いてあるのに、なぜここで、私たちは主から離れた者だと言っているのでしょうか。 キリストがどこにでもおられるのなら、この地に置かれている私たちが、どうして主から離れた者になるのでしょうか。 確かに、どこにでも、いや、すべてのものは神のうちに存在します。 しかし、神の御座みざは天にあり、そこには神はいつも見えるからです。 それゆえ、神が見えないこの地に置かれている私たちは、神から離れた者と言われているのです。 なぜなら、私たちは神を見ないとき、たとえ神がそこにおられても、神から離れているからです。


(8節) ですから、私たちはあえて肉体を離れ、神と共にいることを決意し、同意します。彼は正しくこう言います。「私たちはあえてそうするのです。なぜなら、神の約束を信じ、この世にいるよりもそこにいることの方がはるかに益となることを知っているからです。彼らは肉体を離れることに同意し、それを望みます。それは、神の祭壇の下で復活の日まで安息するためです。」


(9節) ですから、私たちは、そこにいてもいなくても、神を喜ばせようと努めます。主は、そうしなければならない、そして善行に励まなければならない、と言われます。私たちがこの世に留まろうと、キリストの裁きの座の前にいようと、神を喜ばせることができるためです。ですから、もし規律を守るなら、私たちはここでもそこでも神を喜ばせることができるでしょう。なぜなら、ここで喜ばせる者は、そこでも不快に思うことはないからです。


(10節) 私たちは皆、キリストの裁きの座の前に現されなければなりません。それは、善であれ悪であれ、各人が自分の行いに応じて、肉の行いの報いを受けるためです。ですから、もしキリストが裁かれるなら、私たちはそれぞれ肉の行いの報いを受けることになります。しかし、キリストは肉を離れては、善であれ悪であれ、裁かれることはありません。キリストは「肉の行い」とは言われませんでした。なぜなら、肉の悪行は常に罰せられなければならないからです。肉の行いは、キリストが霊的に、時には肉的に働かれるからです。


(11節) ですから、私たちは知っているのですから、人々に主を畏れるように勧めましょう。しかし、私たちは神に明らかです。ですから、神の裁きはキリストによって臨み、各人の行いを裁くことになっているので、使徒パウロは人々に良識と生活を送るよう勧めていると述べています。それは、聞く人々が来たるべき罰から守られ、また、彼自身もその働きの実りを得て、それらを誇るためです。ある人々のことわざによって、神の裁きの日が疑わしいとされているからです。「悪い会話は良い道徳を損なうからです。」(1コリント15章33節)。パウロは言います。人々を説得して信じさせ、誘惑に陥って悔い改めようとしても、実を結ばないように。しかし、私たちは神に明らかです。パウロは神が命じたことを説教したのです。そして、この神は善なることを知っておられると言われています。最後に、悪を行う者に対してパウロはこう言っています。「私はあなた方を知らない。」しかし、あなたがたの良心にも、わたしたちが明らかであることを望みます(マタイ25章12節)。彼らの清純さはコリント人たちに明らかでした。彼らは決してへつらうこともなく、説教で聖徒たちを不快にさせることもなく、よくあるように、誰かからひそかに何かを引き出そうとすることもありませんでした。そのため、彼らは外面的には群衆に対して純朴でしたが、内面では詐欺師でした。それゆえ、彼ら自身が自分たちの真実の証人となるように、良心が痛んだのです。


(12節) 私たちは、再びあなたたちに自分を推薦することはしません。なぜなら、彼は先ほど、自分の真の説教を証言する際に、自分をめているように見えたからです。ですから、今も同じことを言っているのです。つまり、彼は自分の褒め言葉のためではなく、彼らの栄光のために言っているのです。それは、彼が宣べ伝える人々を通して、説教全体に力を注いでくれたことを、彼らが喜ぶためです。しかし、私たちはあなたたちに、私たちのために誇る機会を与えています。それは、外見だけを誇るが心は誇らない者たちに、あなたがたが反感を持つようになるためです。彼がこのように言うのは、多くの者が、高慢さから使徒たちについて誇り、常に主と共にいた者たちから教えられたと公言していたからです。ですから、ここで彼は、彼らもまた使徒たちに対して誇るための口実を与えているのです。なぜなら、彼は使徒であり、彼らも彼から学んだからです。 それゆえ、彼は別の箇所でこう言っています。私は、これらの使徒たちと同等のことをしたのです(コリント人への第二の手紙 12章11節)。彼は、沈黙することで彼らを怒らせないように、強いられてそう言ったのです。ですから、心の中で誇る者は高ぶりを抑えます。神はへりくだった者に恵みを与え、高ぶる者には抵抗されるからです(ヤコブの手紙 4章6節)。高ぶる者の思いは、神にふさわしい実を結ばないからです。


(13節) 私たちは、神の前では自分の分を越えているでしょうか。それとも、あなた方の前では、自分が健全だと思っているでしょうか。パウロがこう言うのは、もし彼が高慢に、あるいは傲慢に語ったと思われたなら、彼が真実を語り、自分を褒めているように見えたとしても、それは神の前で許されるべきだからです。しかし、もし彼が高慢に語ったのではなく、聞き手の栄光のために語ったと理解されたなら、それはコリント人にとって有益だと言っています。[183] ですから、もし言葉が言われたとおりに理解されるなら、聞き手にとって健全なものとなるでしょう。しかし、もしそれが高慢に語ったと思われたなら、それは狂気のように神の前で許されるべきです。なぜなら、すべての高慢は狂気とみなされるからです。


(14節) キリストの愛は、一人がすべての人のために死んだとしても、それを信じるようにと、わたしたちを促します。キリストは人類を愛し、彼らを贖うために自らを死に渡されました。それゆえ、使徒たちはキリストに報いるために、何らかの方法で人々にキリストへの従順を勧めました。そして、人々を引き付けるためには、他の人々が間違ったことを教える中、自分たちは真理を宣べ伝えていると証言する必要があります。また、悪しき教師たちの罰を指摘するために、自分の功績について黙っていてはいけません。彼らがそうしたのは、高慢からではなく、キリストの賜物がすべての人に理解され、忠実な信徒たちがキリストに感謝をささげるためです。それゆえ、彼らはキリストの愛のゆえに、キリストを愛する人々へのキリストの賜物が何であり、どれほど偉大であるかについて黙っていません。それは誇るためではなく、聞く人々をキリストの信心に招くためです。キリストの死がむなしいものと思われないようにするためであり、使徒たちの賛美が認められるためでもありません。使徒たちの功績と栄光により、キリストの恵みと神の恩恵が認められるからです。


(15節) ですから、すべての人は既に死んでおり、キリストもすべての人のために死んでくださいました。それは、生きている者がもはや自分のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活した方のために生きるためです。すべての人がアダムのために死ななければならないように、キリストもすべての人のために死んでくださいました。それは、彼らを第二の死から救うためです。ですから、肉体に生きる者は、キリストが自分たちのために死んでくださったことを知っているので、キリストに従い、主であることを告白すべきです。キリストの死は彼らにとって益となるので、キリストの復活はそれを証明しています。ですから、主の御心を行う者は、自分のために生きているのではありません。


(16節) ですから、私たちはもはや、肉によってだれをも知りません。もし私たちが肉によってキリストを知っていたとしても、今はもう知りません。確かに、キリストが死人の中からよみがえられたとき、彼において肉の誕生は終わり、体の弱さはなくなり、死の苦しみは終わりました。十字架に至るまで、キリストには弱さの疑いがありました。しかしその後、それは信じられなかったことが明らかにされました。それは、キリスト自身がこう言ったとおりです。「人の子を高く上げるとき、わたしが彼であることを知るであろう」(ヨハネによる福音書 8章28節)。使徒パウロがこれを述べたのは、私たちがどれほどの献身をもってキリストに従わなければならないかを示すためです。人々の救いのために、キリストは人として生まれることを軽んじられただけでなく、傷つけられて死ぬことさえも望まれました。それは、キリストの死がどれほど尊いものであるかを理解し、人々が人に仕えるのではなく、神に仕えるかのように、より喜んでキリストに仕えるためでした。なぜなら、人はそれぞれ、その人格と功績に応じて従わなければならないからです。


(17節) ですから、キリストにあって新しい創造があるなら、古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなります。キリストの尊厳を思い起こすなら、すべてがキリストを通して新しくなることは明らかです。なぜなら、以前はただの人間と思われていた人々にとって、キリストは神であると理解されるとき、新しくなるからです。それは、弱さが去り、神性が認められ、多くの神々の意見を持ち込み、人類を唯一の真の神への信仰から遠ざけてきた古い誤りがなくなるとき、すべての人が三位一体の唯一の神を礼拝する、単純な信仰に戻ることができるようになるためです。


(18節) しかし、すべてのものは神から出ています。キリストは私たちをあがなってくださったにもかかわらず、すべてのものは神から出ています。なぜなら、すべての父性はキリストから出ているからです(エペソ人への手紙 3章15節)。それゆえ、父なる神の位格を優先する必要があるのです。


(19、20、21節) 神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、和解の務めを私たちにお与えになりました。神はキリストにあって、世をご自分と和解させ、その罪を彼らに負わせることなく、キリストのために和解の言葉を私たちに託されました。私たちはキリストの使者であり、私たちを通して神がキリストが神と和解されるように祈られたように、神はその使者です。罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちが彼によって神の義とされるためです。キリストを生み育てた全能の神は、キリストを通してなされたすべてのことが、創造主を忘れ、誤りによってむだになったとき、聖なる御座から地上のものへと降りてこられ、[184] 人間の姿をとって肉となりました。それは、人々に形を与え、創造主である神を自分たちに平和をもたらすためでした。神はその時キリストに存在した。どのように?代理や大使のように、預言者のように、あるいは他の方法で?預言者のように、御子にも存在したと理解できないだろうか?御子は当然、父なる神の大使だからである。そこで彼はこう言っている。「父がわたしにおり、わたしが父にいるのである」(ヨハネ10章11節)。父が御子に存在し、両者が一つの実体であることを理解できるからである。違いのないところに統一がある。このことによって両者は一つである。なぜなら、御子の姿と似姿は一つだからである。だから、御子を見る者は父を見たと言われている。主御自身がこう言っている。「わたしを見る者は、父をも見る」(ヨハネ10章9節)。それゆえ、神はキリストに存在した、すなわち父が御子に存在し、世を御自身と和解させ、彼らの罪を彼らに負わせなかった、というのは正しい。被造物が神に対して罪を犯したにもかかわらず、悔い改めて神のもとに立ち返ることをしなかったからです。神は、その御業が滅びることを望まず、御子を遣わされました。御子を通して人々に罪の赦しを宣べ伝え、御子を通して人々を御自身と和解させようとされたのです。神は御子を通して私たちを創造されました。ですから、御子によってであれ、しもべによってであれ、神は人々に勧めます。なぜなら、すべてのことは御子に委ねられなければならないからです。御子の意志と摂理によって、キリストは人々の救いの贖いのために受肉されました。御子は父のもとに立ち返ることを望まれたとき、父から受けた恵みを弟子たちに与えました。

キリストのために祈りなさい。そうすれば、あなたは神と和解することができます。これが、使徒たちをキリストの代理人として遣わし、彼らがキリストのために宣べ伝え、キリストが神と和解できるようにするためである、と私が言ったことです。


(22節) 罪を知らない方が、わたしたちのために罪とされました。父なる神は、御子キリストが罪とされたと言っています。確かにキリストは罪を知らない方、すなわち、罪を犯したことのない方です。なぜなら、キリストは肉となったので変わったのではなく、受肉したので罪となったからです。知事となった人が以前であったものを失わず、以前でなかったものを必ず引き受けるのと同じです。それゆえ、キリストは罪のために人となられました。運命も、人に生まれる尊厳も、キリストには及ばなかったのです。しかし、すべての肉なる者は罪の下にあるため、肉となったので、キリストもまた罪とされました。そして、キリストは罪のためにささげられたので、キリストが罪とされたと言われるのには、理由がないわけではありません。律法では、罪のためにささげられた犠牲さえも、罪と呼ばれていたからです。それは、罪を知らない方によって、私たちが神の義となるためです。イザヤ書に「罪を犯さず、その口には偽りがなかった」(イザヤ書 53章9節)とあるように、イエスは罪人として殺されました。それは、罪人がキリストにおいて神の前に義とされるためです。サタンは、救い主が、神を自分たちに都合の良いようにし、悪魔を捨てるように人々に教えているのを見て、救い主に対してねたみを抱きました。そのため、サタンは、救い主が自分に敵対するとは思わずに、救い主を殺しました。なぜなら、キリストは十字架のあと、死に打ち勝ち、地獄に下られたからです。罪を知らない方は、死にとどまることはできませんでした。死は罪によって地獄を空にし、正しい罪人に死が益をもたらすようにしたからです。そのため、十字架のしるしを持っている者を死にとどめることはできませんでした。


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出典

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原文:

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翻訳文:

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