コリント人への第二の手紙注解 (アンブロシアステル)/第4章
コリント人への第二の手紙注解
第4章
[編集](1節) ですから、私たちはこの管理を受けて憐れみを受けているのですから、弱り果ててはなりません。パウロは、この管理に強い希望を抱いており、約束の信仰によって強められているので、苦難にあっても弱り果てないと述べています。そこからパウロは上記のように言っています。「大いに確信を持ちましょう。」(コリント人への手紙二 3章12節)約束されたものを信じているので、どんな困難に遭っても耐え忍ぶのです。彼はこれを人間の功績ではなく、神の憐れみによるものとしています。神の憐れみはまず人を洗い清め、次いで義とし、御子を神の子として受け入れさせます。それは、神の御子ご自身の栄光と同じ栄光をその人に与えるためです。
(2節) しかし、隠れた恥辱を捨て去りましょう。人がその栄光にふさわしい者となるためには、卑劣で汚れた行いや考えはすべて取り除かれなければならないと彼は教えています。それは、行いや考えからだけでなく、行いや考えからも遠ざけられるべきなのです。これは招く者の言葉です。彼は、自身と弟子たちを通して、前述の悪徳ゆえに、より良い生活を送るよう彼らを勧めています。なぜなら、彼はこれらの言葉の中で、しばしばこれらの悪徳を戒めているからです。これらはまた、隠れた恥辱となるものとなり得ます。それは、人を欺くための説教として、歪んだ意味で考えられています。そこでパウロはこう付け加えています。
「悪巧みに歩んではならない。神の言葉を偽ってはならない。悪巧みに心をこめて教えを捏造し、純真な者の心を欺く者は、神の裁きの日に恥辱を受けるからです。」
邪悪な心の悪巧みは、自分の望むことを成し遂げようとして、神の言葉を偽って意味を曲げてしまうからです。
(3節) しかし、たとえわたしたちの福音が依然として覆い隠されているとしても、それは滅びゆく者たちの中にあるのです。それは真実です。不信者たちは神の力の輝きを見ることができず、彼らの不信仰によって盲目にされているからです。彼らの心には覆いがかけられ、不信仰の鈍さが、特にユダヤ人の中にあるからです。
(4節) この世の神が、信じない者たちの心をくらませ、神のかたちであるキリストの威厳を示す福音の光を見ないようにしたのです [179]。彼はそれを世俗の人々の神と呼んでいます。なぜなら、世俗の人々はキリストの威厳に関する福音の真実が見えないように、キリストの信仰に対する感覚を悪意を持って盲目にしているからです。神は彼らが望むことを、彼らに与えるのです。なぜなら、人々は悪意に満ち、真理を知っていてもそれを偽りだと言い、まさにそのことで助けられるからです。彼らは、望まないことを信じることができないのです。しかし、キリストは神の像であるにもかかわらず、彼らは肉体を持っているとだけ主張し、その御業については言及しません。彼らは肉体についてのみ語ります。イザヤはキリストについてこう言っています。「神は彼らの目をくらませて見えなくし、耳をくらませて聞こえなくした。今日に至るまで。」(イザヤ書6章10節)
(5節) 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、私たちの主キリスト・イエスを宣べ伝えるのです。つまり、私たちは自分の栄光を宣べ伝えません。それは、一時的に益を得ようとして自分の利益のために福音を宣べ伝えている、などと人に言われないためです。かえって、私たちの主イエスを宣べ伝え、その威光の力に身を委ねているのです。ですから、私たちはだれにも重荷を負わせず、だれをも揺り動かさず、私たちの主キリストを告白しているのですから、自分の利益のために栄光を誇ろうとして宣べ伝えているかのように、高慢な見方をされるべきではありませんか。私たちはイエスのゆえにあなたがたに仕える者なのです。彼は、自分がキリストの僕であることを、自分の命令によって証しし、宣教において彼らに仕える者であることを証しすることによって示しています。それは、彼らが福音の宣教に服従して、彼らの益となるためです。ですから、しもべと言うことによって、パウロは仕える者を意味しています。しかし、へりくだって話すために、そう言ったのです。つまり、自分が自分の栄光のためではなく、福音を宣べ伝えていることを真に示すためです。むしろ、私たちの主の栄光のためです。彼は主に従い、主に仕えています。主自身がこう言われているとおりです。「わたしは仕えられるためではなく、仕えるためにあなたがたの間にいるのです。」(ルカ 22章27節)彼は仕える相手の功績によってではなく、主の命令によっているのです。
(6節) 「闇から光が輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、イエス・キリストの御顔に見られる神の栄光を知る知識の光を与えてくださいました。
パウロがこのように言ったのは、神のあわれみによるからです。「無知で、暗闇の中にいた私たちが、私たちを通して異邦人に光を与えるようになったのです。」
彼が、神のみの栄光とキリストの栄光を何よりも大切にするのは、なんと謙遜なことでしょう。彼は、キリストを通して神の栄光を知るようになるために、光を受けているのです。ですから彼は、「神の栄光を知る」と言いました。それは、神のみを知るということではなく、神の栄光であるキリストをも知るということです。それは、神が知られるだけでなく、神が人類を創造し、救われた神の御業とあわれみと摂理も、キリストにおいて神の力の栄光を通して見られるということを、示そうとしたのです。
(7節) しかし、この宝を土の器に持たせているのは、このすぐれた力が神から出たものであって、私たちから出たものではないことが分かるためです。宝とは、キリストにある神の奥義を表しています。それは、信じる者には明らかにされますが、信じない者には、いわばベールで覆われているようなものです。なぜなら、宝が隠れたところにたくわえられるように、神の奥義は人の内に、すなわち、人の心に隠されているからです。それゆえ、彼は、この魂と体の宝は神から与えられたものであり、説教する人々を通してのみ、神のすぐれた力が現れるようになるため、また、すべての舌がその造り主と和解するためであると語っています。それは、人々の栄誉のためではなく、神によるものです。神は人を通してご自身を現されます。人々はへりくだった無知な者でしたが、大いなることを語り、また行う力を神から受けたのです。
ですから、土の器と言うことによって、パウロは人間の性質の弱さ、つまり神から力を受けなければ何もできない弱さを象徴しているのです。そして、神はこれらの弱いものを通してご自身を宣べ伝え、粘土で造られた人間ではなく、神に栄光が与えられるようにしてくださるのです。
(8節) あらゆる点で苦難に遭っても、打ちひしがれることはなかった。ここで彼は、なぜ彼らがふさわしい説教者であったのかを説明しています。それは、神が彼らの窮状に常に共にいてくださったからです。それゆえ、パウロはこう言います。「苦難に遭っても、打ちひしがれることはなかった」。つまり、神は私たちが信じるほどの苦難に遭うことを許されなかったということです。「苦難に遭っても、見捨てられることはなかった」。つまり、神が彼らが窮地に陥ったとき、羊飼いのように共にいてくださったということです。
(9節) 苦難に遭っても、見捨てられることはなかった。これは真実です。なぜなら、神は敵が彼らに満足しないように、彼らと相談されたからです。打ち倒されても、滅ぼされることはありません。つまり、鞭打たれて打ち倒されるかもしれませんが、神に反して殺されることはありません。縛られていようと縛られていようと、彼らは神の助けによって敵の手を逃れたのです。最後に、パウロとシラスは縛られたとき、すでに鞭打たれ、足には足かせがかけられていました。彼らは大いなる熱意をもって神への賛美歌を歌い、殴られなかった者たちよりも強くなった。
(10節) 私たちは、いつも主イエスの死を身に帯びています。[180] それは、イエスの命が私たちの身に現れるためです。殉教者にはキリストが殺され、信仰のゆえに苦しむ人々の中には、死であれ、鎖でつながれてあれ、鞭打たれてあれ、それはキリストの苦しみであることは疑いありません。それは、キリストの命が彼らの身に現れるためです。苦しみは、キリストが約束された来世の命を得るための証しとなるからです。ですから、別の箇所で彼はこう言っています。「私が弱いとき、私は強いのです」(コリント人への手紙二 12章10節)。また、「私たちは苦難を通して神の国に入らなければなりません」(使徒行伝 14章21節)とも言っています。
(11節) ですから、生きている私たちがイエスのために死に引き渡されたのは、イエスの命が、この私たちの死ぬべき肉体に現れるためです。彼が何を言っているかは明らかです。なぜなら、彼はこう言っているからです。「私たちは生きることができるようになったら、イエスのために死に引き渡されることを拒みます。それは、キリストが死者の中からよみがえられた命が、この私たちの死ぬべき肉体に与えられるためです。すなわち、約束された復活のゆえに、死を恐れないで済むためです。」
(12節) ですから、私たちのうちには死が働いており、あなたがたのうちには命が働いているのです。彼がこう言っているのは、彼らが救いのために死に服したからです。
彼らは異邦人に宣べ伝えて、ユダヤ人と異邦人の両方から、自分たちに対する敵意をかき立て、死に至らせたのです。
(13節) 私たちは、あなた方と同じ信仰の霊、すなわち信仰を強める共通の霊を持っています。なぜなら、パウロは彼らのために多くの苦難を受けたからです。それは、彼らが互いに信仰によって結ばれるためでした。「私は信じた。ゆえに私は語った。そして、私たちは信じている。ゆえに語る」(詩篇115篇1節)と書いてあるとおりです。ですから、彼は詩篇115篇を例に挙げ、将来の復活を信じていたので、あらゆることに耐える覚悟ができていることを示しました。ですから、将来の命を確信していたので、今の命を気に留めませんでした。なぜなら、将来の命を信じていれば、今の命を軽んじるなら、その幸いな命が期待されるからです。ですから、自分の信じたことが真実であることを確信していたので、彼はあえてそれを宣べ伝え、他の人々を自分の希望にあずかろうとしたのです。主イエスをよみがえらせた方は、私たちをもイエスと共によみがえらせ、あなた方と共に力づけてくださることを知っているからです。この希望をもって、パウロは信仰のために労苦していると述べています。主イエスの復活の例が先行しているからです。信じる者の将来はどうなるのでしょうか。アダムにあってすべての人が死んだように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。アダムは死の型であり、罪の原因です。しかし、キリストは義のゆえに命の型です。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがありませんでした。そして、キリストはこれらの人々を同じ信仰にあずかる者として召されたので、復活して、あなたがたと一つの信仰の平和の家を築き上げ、彼らが一つの信仰の平和の家に住むようになる、とパウロは言っています。彼らは、自分たちが滅びに遭っていることを悟り、また、これらの人々の苦しみに同情して心を痛めるなら、約束された命にも共にあずかる者となり、共に悲しみ、共に喜ぶようになるのです。彼がこのように語るのは、復活を否定した者たちのためです。彼は第一の手紙でも彼らを非難しています。
(14、15節) すべてのことはあなたがたのためです。それは、多くの感謝を通して満ちあふれる恵みが、神の栄光のために満ちあふれるためです。神は、だれも神の賜物から漏れることがないようにと望んでおられました。すべての人が信仰の言葉を受け入れるわけではないので、使徒は神の御心を知っており、迫害や危険を恐れませんでした。ただし、より多くの人が信じるように、すべての人に忠実に宣べ伝えたのです。それは、神の豊かな賜物が、少数の人が神のそしりを受けることによって減ることのないように、むしろ、多くの感謝を通して、神の栄光のために多くの人々に満ちあふれるようにするためでした。ですから、神の賜物が与えられた以上の益を得ないように、常に自分の魂を死に従わせてきた人は、どれほどの誉れを受けるにふさわしいでしょうか。豪華な晩餐を催し、多くの人を招いておきながら、全体の数が少ない人は、大きな恥辱ではないでしょうか。
(16節) それゆえ、私たちは失敗しません。これらのことがより高次の意味を持つことは明らかです。なぜなら、神のことへの献身をさらに深めるために、彼はこれらのことを服従させ、それによって神に喜ばれることを成し遂げることに何ら欠けることなく、しかも約束された復活を確信していることを証明したからです。私たちの外なる人は朽ち果てても、内なる人は日々新たにされます。肉体は抑圧、傷、飢え、渇き、寒さ、裸によって朽ち果てますが、魂は将来の報いへの希望によって新たにされます。なぜなら、魂は絶え間ない苦難によって清められるからです。抑圧の中でも栄える魂は滅びることなく、迫り来る試練によって日々功績を積むからです。[181] なぜなら、肉体のこの朽ち果てもまた、魂の功績によって不死に資するからです。
(17節) 今の苦しみの中ではつかの間で軽いものは、私たちのうちに非常に重い栄光を働かせるのです。信仰のためにもたらされる今の時の苦難を、一時的なものだから、つかの間で軽いものと呼びます。しかし、その崇高さにおいて、労苦を耐え忍ぶ人には、永遠の栄光の重みが与えられます。小さな労苦には大きな報いが与えられ、軽い苦難は永遠の栄光の非常に重いものとみなされるからです。
(18節) 見えるものにではなく、見えないものに目を留めなさい。見えるものは一時的なものですが、見えないものは永遠だからです。彼は天にあるもの、霊的なものを欲しながら、これらの今ある地上のものを軽蔑すると公言しています。霊的なものに比べれば、それらは取るに足りないからです。
これらのものは上にあるものに対して、形が真実に対してそうであるように、形は滅びても真実は存続します。それによって、義人はこの世を去ることを恐れず、むしろ喜ぶのです。
出典
[編集]- Patrologia Latina/17
- 底本: Commentaria in Epistolam ad Corinthios Secundam (Ambrosiaster) 『コリント人への第二の手紙注解』アンブロシアステル、J. P. Migne 1846 early modern edition.
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