コリント人への第一の手紙注解 (アンブロシアステル)/第13章
第13章
[編集](1節) たとえわたしが人々の言語や御使の言語を語っても、愛がなければ、やかましい鐘やチリンチリンと音を立てるシンバルと同じです。確かに、様々な言語を話すことは大きな恵みのように思えます。しかし、たとえ御使の言語を知ることができたとしても、すなわち、御使の働きを霊的に知ることができるとしても、それはそれ以上のものです。しかし、これは功績によるものではなく、神の栄光によるものであると、主は臣民に示し、やかましい真鍮やチリンチリンと音を立てるシンバルのようなものだと言われました。真鍮が他の人に叩かれると共鳴しチリンチリンと音を立てるように、異言を語る者も聖霊の影響と働きを受けて語るのです。救い主は別の箇所でこう言っておられます。「語っているのは、あなたがたではなく、あなたがたのうちあって語っておられる父の霊なのです」(マタイ10章20節)ろばでさえ、ベオルの子バラムに人間の言葉で語り、神をほめたたえました(民数記 22章28節)。また、幼子たちは神を賛美して大声で叫び、ユダヤ人たちは狼狽しました(マタイ 21章16節)。しかし救い主は、これらのものだけでなく、石でさえも不忠実な者を裁き、神の栄光をたたえるために叫ぶことができることを示されました(ルカ 19章40節)。そして、初めのころには、洗礼を受けた者たちが信仰をほめたたえるために異言を話しました(使徒行伝 10章46節)。
(2節) たとい私が預言の心を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、愛がなければ、何の役にも立ちません。実にそれは私にとって何の役にも立ちません。預言者ダビデが「主よ、私たちのためにではなく、私たちのためにではなく、み名に栄光を帰してください」(詩篇 113篇1節)と言っているように、人は神の栄光のために預言するからです。バラムも預言しました(民数記 23篇8節以下)が、彼は預言者ではなく、占い師でした。カヤパも預言しました(ヨハネ 11章51節)が、功績によってではなく、祭司職の威厳によってでした。サウルも預言しました(I Reg. サムエル記上 19章23節)が、彼はすでに不従順のゆえに悪霊に満たされていましたが、それは神のために預言したのです。彼はダビデを捕らえようとしていました。ダビデは彼を殺そうとしていたのです。
もし私があらゆる奥義を知っているとしても、ユダにとって、使徒たちと共にいて奥義を学んだことは、愛の敵が救い主を裏切ったとき、何の益にもならなかったからです(エゼキエル書 28章13節以下)。預言者エゼキエルは、悪魔が天の奥義を知っていたことを示しています。彼は、パラダイスで自分が神から来た者であり、宝石を持っていると非難する声で証言しますが、その同じ使徒は、その宝石を神の教えの奥義として象徴していました(コリント人への第一の手紙 3章12節)。しかし、それは彼に何の益にもなりませんでした。彼は愛を忘れ、傲慢になったからです。
たとえ私がすべての知識を持っていたとしても、愛がなければ、知識は私にとって何の役にも立ちません。最後に、律法学者やパリサイ人にとっては、それは何の益にもなりませんでした。救い主はこう言われます。「あなたがたは知識のかぎを持っているのに、自分では入らず、また、他の人が入ることさえ許さない」(ルカによる福音書 11章52節)。なぜなら、彼らは嫉妬によって愛を腐敗させ、その知識を無に帰したからです。テルトゥリアヌスもノヴァティアヌスも、学識の浅はかな者ではありませんでした。しかし、彼らは熱意によって愛の契約を破壊し、分裂に陥り、自らを滅ぼす異端を生み出したのです。
たとえ私が山を動かすほどの完全な信仰を持っていたとしても、奇跡を行い、信仰によって悪霊を追い出すことは、神の力と栄光です。しかし、私がすでに述べたように、善行に敵対する者でない限り、これは功績にはなりません。
(3節) また、たとえ全財産を使い果たしても、何の益にもなりません。愛がなおざりにされているからです。なぜなら、宗教の根本は愛だからです。頭のない者は命を持っていません。また、わたしの体を焼かれるために差し出しても、何の益にもなりません。愛がなければ、何の益にもなりません。なぜなら、宗教の根本は愛だからです。ですから、愛を伴わない行為はすべて滅びるのです。
(4-8節) 愛は寛大であり、喜ばしいものです。愛はねたまず、高ぶらず、みだらな振る舞いをせず、野心を持たず、自分の利益を求めず、いらだたず、悪事を思わず、不義を喜ばず、真実を喜びます。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍びます。愛は決して倒れません。パウロは愛について非常に多くの勧めを教えたので、これを他の戒めより優先することは不当ではないと思われ、他の戒めに努めてもこれに従わない人々は、むだに労苦するにすぎないと思われました。使徒ヨハネはこう言っています。「愛は神である」(ヨハネの手紙一 4章8節)。愛を持たない者は、自分が神を持たないことを知るのです。また同じ使徒パウロは別の手紙でこうも言っています。「しかし、あわれみ豊かな神は、その大きな愛のゆえに、わたしたちをあわれんでくださいました」(エペソ 2章4節)。したがって、愛を持たない者は、神のあわれみに感謝しない者です。その人は愛することをしないからです。愛することによって人は救われたのです。こうして彼らは、兄弟愛よりも食物を優先する者は、ひどく罪を犯していたことを知るのです。これこそ、今の時代に有益であり、また永遠に神と共にとどまるものなのです。
(9、10節) 預言は
(11節) 幼子であったときには、幼子のように話し、幼子のように理解し、幼子のように考えていました。しかし、おとなになったとき、幼子のものを捨てました。彼がこのように言うのは、聖徒たちがこの世を去るとき、今考えている以上に必然的にこの世に来なければならないからです。使徒ヨハネが救い主について言ったように、「その時、私たちは主のありのままの姿を見るであろう」(ヨハネの手紙一 3章2節)。ですから、この世において私たちは、来世に比べれば幼子に過ぎません。この世が不完全であるように、知識も不完全だからです。
(12節) 私たちは今は鏡に映ったようにぼんやりと見ていますが、その時は顔と顔を合わせて見ます。今、信仰によって像が見え、その時は事物そのものが見えるということが啓示されています。今は一部分しか知りませんが、その時は、私が知られているように、私も知るでしょう。つまり、約束されたものを、私が見られるように、見るということです。つまり、キリストがおられる所に主と共にいるということです。
(13節) しかし、今は信仰、希望、愛、この三つが残ります。その中で最も大いなるものは愛です。愛はより大きな価値を持ちます。なぜなら、前に述べたように、愛によって信仰が宣べ伝えられ、来世への希望が与えられるからです。使徒ヨハネもこう言っています。「キリストが私たちのために命を捨ててくださったことで、私たちは神の愛を知りました。」(ヨハネの手紙一 3章16節) ですから、人類を改変した愛は、当然さらに偉大です。
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