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コリント人への第一の手紙注解 (アンブロシアステル)/第1章

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第1章

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(1節) パウロは神の御心みこころによってキリスト・イエスの使徒と呼ばれています。ローマ人への手紙では、彼は異なる書き方で始めています。それは別の理由があるからです。パウロは彼らに対して、自分が神の、み心によってキリスト・イエスの使徒であると書いています。なぜなら、彼がおこなったことはすべて、神の御子の御心みこころによっておこなったからです。御子は彼にこう言われました。「行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人のところへ遣わそう」(使徒行伝 22章21節)。こうして彼は使徒と呼ばれました。つまり、神の、み心によって異邦人のところへ遣わされたのです。こうして彼は、キリストが遣わされなかった人々、そして彼らの言ったことが真実ではなかった人々にも言及しています。彼はしばしば神とキリストという二つの言葉を用いています。それは、キリストが父なる神ご自身ではなく、キリストが御子であり、御子と呼ばれていることを示すためです。キリストは父なる神でもあるのです。御子と呼ばれていることを示す際に、キリストは結合した神ではないのです。なぜなら、キリストの福音を自分たちの感覚で主張する多くの分派が生まれ、それらの分派からは今も枯れ枝が生えており、その主張者たちは教会を転覆させているからです。したがって、使徒は異端に反対するすべてのことを述べ、神の意志によってキリストから遣わされたものによって、自分は真の説教者であると主張しました。


(2節) 兄弟ソステネも、彼を仲間の仲間に推薦しています。[112] コリントにある神の教会へ、キリスト・イエスにあって聖なる者とされているあなたたちへ。彼は教会に手紙を書き送っています。なぜなら、それぞれの教会にはまだ指導者が任命されていなかったからです。そして、多くの点で彼らを戒めるとき、こう言っています。「キリスト・イエスにあって聖なる者とされたのです。」しかし、それゆえに、彼らはキリストにあって新しく生まれ変わったので、聖なる者とされたのです。しかし、その後、彼らは悪い行いをするようになりました。それは、教会全体がキリストにあって聖なる者とされていることを示すためでした。しかし、彼らのうちのある者たちは、にせ使徒たちの曲がった教えによって、真理の伝承から離れてしまいました。

聖徒と呼ばれた人たち。つまり、あなたがたは聖なる者となるように召されたのです。つまり、聖化の原則から離れないように召されたのです。主イエス・キリストの名を呼び求めるすべての人々と共に、彼らの所にも私たちの所にも。つまり、真のユダヤ人と共に異邦人も加わるのです。救いはユダヤ人から来るからです。ですから、異邦人が我らの主イエス・キリストの名を呼び求める所、そしてユダヤ人について上で述べた所では、皆が一つなのです。にせ使徒たちは、哲学と混ぜ合わせた世の知恵によってキリストの名を宣べ伝え、古い律法と預言者を拒否しました。彼らは、マルキオンやマニカイオスのように、キリストが本当に十字架につけられたのではなく、単に十字架につけられたように見えるだけだったと否定したからです。そこから使徒は言います。「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます」(コリント人への手紙一 1章23節)。また彼らは、預言者イザヤが叫んで「墓の中にいる者たちはよみがえる」(イザヤ書 26章19節)と言っている肉の復活も告白しませんでした。


(3節) わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなた方にありますように。「わたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求める者たちよ」と言われたからといって、み名や父の賜物が沈黙しているように思われ、疑念を抱かせたり、一致を促したりする恐れがないようにするためです。彼は確かにキリストは正しく呼ばれているが、すべての恵みは父から来ると教えています。それは、神性において一つである二人が父の権威を優先していることを彼が示すためです。


(4節) わたしは、あなた方のことを常に神に感謝しています。彼は教会のすべての人に手紙を書いていますが、時には戒め、時には賛美することで、各人が手紙を読むときに、何が自分にとって有利で何が自分に不利であるかを理解できるようにしています。パウロは一つの民から二つの民に書き送っています。それは、悪意のある者を戒めるとき、これらのことが書かれていることを彼らが自ら知るためです。同様に、パウロが賛美するときも、戒めを守る者は自分自身に語りかけられていることを知るためです。それゆえ、パウロはこう言っています。

私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、いつもあなたがたのために神に感謝しています。パウロは、神の恵みはキリスト・イエスにあって与えられていると言っています。この恵みはキリスト・イエスにあってこのように与えられています。キリストを信じる者は、行いによらず救われることが、神によって確立されているからです。信仰のみによって、罪の赦しが無償で受けられるのです。


(5節) あなたがたは、キリストにあって、すべてのことにおいて、すべてのことばにおいても、すべての知識においても豊かになりました。これは、彼らが受けた恵みと真理の教えの言葉によって、霊的な知識を得続けたことを意味します。それゆえ、パウロはこれらのことについて神に感謝をささげています。[113]


(6節) キリストの証しがあなた方の中で確固たるものとなったように、キリストの証しは彼らの中で確固たるものとなりました。彼らは信仰を強められ、人に頼らず、キリストに全き希望を託し、快楽の誘惑に惑わされることがなかったからです。


(7節) 主イエス・キリストの現れを待ち望むあなたがたは、何事においても恵みに欠けることのないようにするためです。私たちがこの慎重で不安な裁きの日を待ち望んでいることは明らかです。パウロは、神の未来の裁きについて語っています。その裁きにおいて、私たちの主は信者にも不信者にも現れ、不信者は、これまで信じようとしなかったことが真実であることを知り、滅びます。しかし、信者は、思っていた以上に多くの善を見出して喜びます。


(8節) 主は、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のとき、あなたがたを最後まで責められるところのない者としてくださいます。パウロは、彼らが将来の審判まで傷つけられることのない者となることを、喜びをもって確信しています。なぜなら、多くの考え方の違いや、様々な混乱の中にあっても、決して変わることのできなかった彼らは、疑いなく同じままでいることを示しているからです。パウロは彼らを称賛することにより、にせ使徒たちの誤りによって堕落した人々を招いているのです。なぜなら、彼らの信仰を宣べ伝えながら、悔い改めへと招いているからです。


(9節) 神は真実な方です。あなた方は神によって、御子イエス・キリストとの交わりへと召し入れられました。神の約束と信仰を、だれが疑うことができましょうか。それは、私たちがキリストを信じて、ご自身の養子とされることが、神が約束されたとおりであるに違いありません。神は私たちにこれを与えてくださり、私たちはそれを信じています。キリストが神の御子であると信じている私たちは、キリストが神の御子であると信じているのと同じ尊厳にとどまるようになるのです。交わりとは兄弟愛です。キリストが、このことにおいて汚れのない神の信仰を私たちに示してくださったように、私たちも不信心で不信仰な者とならず、神の子としての立場を堅く保ち続けるように。


(10節) 兄弟たちよ、わたしは主イエス・キリストの、み名によってあなたがたに勧めます。あなたがたは皆、同じことを言うべきです。パウロは今、すべての人々に祈っています。それは、彼らが新しく生まれ、神の子と呼ばれた時の思いを一つにするためです。彼は今、全教会に語っています。それは、かつて信仰に異を唱え始めた者たちが、信仰を持ち続けた者たちの中に称賛されているのを見て、彼らが始めた信仰に立ち返るためです。

あなたがたの間に分裂があってはなりません。同じ意味で、同じ知識において完全でありなさい。パウロは、彼らが意見の相違を抱かないように、自身が彼らに伝えたのと同じ意味で完全であることを望んでいます。なぜなら、彼は、彼らがこのことを実感し、擁護できるように、上で称賛した者たちの模範に倣うよう彼らに求めているからです。


(11節) 兄弟たちよ。クロエ出身の人々から、あなたがたの間に争いがあることをわたしに聞いた。彼らは打ち倒されたが、それでも神は彼らを兄弟と呼んでいる。預言者イザヤにおいても、神は彼と共にいた人々に、にせ預言者を信じた人々にこう言うようにと言われた。「あなたがたはわたしたちの兄弟となる」(イザヤ書 66章5節)。それは、彼らが兄弟であるかのように、彼らと意見が合わないことがないようにするためである。しかし彼がこう言うとき、「クロエ出身の人々」。ある人たちには、彼らは神の信仰にとどまって実を結んでいる人々であると思われる。ある人たちには、たとえば「アンティオキア出身の人々」と言われるように、場所があるように思われる。しかしある人たちには、神に身を捧げた女性がいて、彼女と共に神を礼拝する多くの人々がいて、彼らの信仰は否定されなかったと思われる。コリント人から彼らが持ち出した言葉、すなわち彼らの間に争いがあったという事実が真実であるように思われる。彼は彼らの間に争いがあったと言い、主の戒めに関する彼らの考え方の違いを示しました。そして、それが何であったかを述べて、こう言いました。


(12節) しかし、私はこう言います。あなた方それぞれが、「私はパウロにつく、私はアポロにつく、私はケパにつく、私はキリストにつく」と言っているのです。パウロは誤りを指摘していますが、その発言者の名前は挙げていません。彼らは立ち止まることなく、純朴な人々を惑わし始めたからです。彼が名指しした人々は確かに良い教師でしたが、パウロは彼らの偽装の下に、にせ使徒たちについても触れています。もしパウロがこれらの教師たちを誇るべきではないと言うなら、まして悪い教師たちの教えを教義の中で言及していることは、さらに誇るべきではありません。しかも彼は、その中に、自分は人のものではなくキリストのものであると言った、忍耐強い者たちも含め、前述の箇所で彼らを称賛しています。


(13節) キリストは分裂している。パウロは、キリストは分裂していると言う。なぜなら、人々がキリストの栄光を自分たちの間で分け合っているからだ。フォティノス派、アリウス派、カタフリギア派、ノヴァティアヌス派、ドナトゥス派、マニ教派と呼ばれても恐れない異端者として、コリント人も様々な異端者というレッテルを貼られ始めた。[114] コリント人は、キリストではなく人間を崇めているように見せかけるために、様々な異端者というレッテルを貼られ始めた。彼らはキリストについて様々な見解を認めながら、キリストを分裂させている。ある者はキリストを単なる人間として受け入れ、ある者はキリストは人間性も肉体もない純粋な神であると告白し、ある者はキリストは預言者によって預言されたと言い、ある者は預言者がキリストについて語ったことを否定する。このように、キリストは唯一の神であり人であるのに、彼らはキリストについてそれぞれ異なる見解を主張し、キリストを分裂させている。そして、キリストの名の下に多くの教会を形成している。パウロはこう付け加えた。

「パウロはあなたがたのために十字架につけられたのか」。ですから、パウロは自分自身から話を始めたのです。他人を貶めて自分の人格を擁護したと思われないようにするためです。キリストが私たちのために死んでくださったのなら、どうして私たちは、キリストの恵みと人々への恩恵を、キリストの不当な扱いに帰することができるでしょうか。

「それとも、パウロの名によってバプテスマを受けたのですか」。しかし、もし私たちがキリストの名によって義とされるため、信じてキリストに結ばれるバプテスマを受けたのなら、私たちが最初に抱いた信仰を忘れて、人間をこの信仰の創始者とすることに何の意味があるのでしょうか。


(14-16節) クリスポとガイオのほかは、あなたがたのうちにだれにも洗礼を授けなかったことを神に感謝しています。それは、わたしが自分の名で洗礼を授けたと、だれにも言われないためです。また、ステパナの家の者にも洗礼を授けました。ほかの人に洗礼を授けたかどうかは、知りません。彼は、多くの者に洗礼を授けなかったことを神に感謝しています。それは、このことに関して誤りが生じたために、彼の名によって多くの人に誤りが生じ、洗礼を授ける者も受ける者も、救い主の洗礼の恵みを人に負わせ、栄光のために偽善を働いた者たちが非難されることのないようにするためです。彼らは、今のノバティアヌス派やドナトゥス派のように、自分たちが洗礼を受けたと主張し、私たちから洗礼を受けた者たちを拒絶していました。そして、彼らから洗礼を受けた者たちは、自分の人格を誇りとしていました。そして、キリストの名を捨てて、ノバティアヌス派やドナトゥス派と呼ばれることを誇りとしていました。パウロが証しのために名指ししているコリント人はクリスポとガイオです。彼らは使徒パウロによって洗礼を受け、そのためにパウロに栄光を与えるべきではないと主張したからです。一方、ステパナの家はアカイアの初子であり、パウロはこの手紙の最後の部分で、彼らが聖徒たちの奉仕のために自らを準備したことを証ししています。


(17節) キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためです。福音を宣べ伝えることは、バプテスマを授けることよりもさらに偉大です。それゆえ、キリストは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるために遣わされたと語っておられます。なぜなら、すべての儀式の権威は監督にあり、監督は他の会員たちの頭だからです。監督は、多くのものを与えた者たちを謙虚にさせます。なぜなら、彼らも彼らからバプテスマを受けたからです(使徒行伝 10章48節)。それは、バプテスマを授けることは大したことではないことを、彼らが知るためです。なぜなら、バプテスマを授ける者が皆、福音を宣べ伝えるのにふさわしいわけではないからです。バプテスマにおいては、厳粛な言葉が語られるからです。最後に、使徒ペテロは信者コルネリオとその仲間たちにバプテスマを受けるように命じましたが、牧師たちがいる間は、ペテロはそれをしませんでした。もし彼らがそれを怠ったとしても、ペテロ自身が、やむを得ずそれをしたでしょうから。それゆえ、パウロは、彼らが崇拝していた者たちよりも、どれほど自分が優れているかを示している。しかし、神の栄光を人の名において主張することが危険であることを知っていたにもかかわらず、自分の名においてそのような定めがなされることをパウロは許さなかった。それは、いわば偶像崇拝に等しいからである。

御言葉の知恵によってではなく、そうでないとキリストの十字架が虚しくなってしまいます。キリスト教の説教には、言葉の華美さや儀式は必要ないので、漁師のような未熟な者が福音を説教するために選ばれました。それは、教えの真理そのものが、徳の証しとして、自らを推薦するためでした。それは、真理ではなく、人間の知恵の狡猾さや悪知恵によって受け入れられると思われないようにするためです。人間が発明した規律では、理性ではなく、徳が求められますが、言葉の構成が求められます。そして、言葉でキリストの信仰を飾ろうとする者は、それによって自分の栄光を求めています。彼は言葉の輝きで信仰を覆い隠し、信仰ではなく、自分自身が称賛されるようにするのです。ちょうど、にせ使徒たちが、世の賢者に愚か者と思われたくないために、人間の知恵によって、二重の方法でキリストを説教したのと同じです。それは、雄弁を学び、この世が愚かだと判断する事柄を避けるためであり、処女から生まれた神の子の受肉についても、将来の肉体の復活についても教えないようにするためである。なぜなら、この世の知恵と理性はこれを愚かだと見なすからである。これによって使徒は、人間の知恵によってキリストを宣べ伝えているとは言わない。キリストの十字架が無効にならないようにするためである、と彼は言う。なぜなら、人間の知恵によってキリストを宣べ伝える者は、私が上で述べたように、説教の真実性を否定するからである。


(18節) 十字架の言葉は、滅びる者にとっては愚かなものです。キリストの十字架を愚かだと感じる者たちは、滅びに陥っています。なぜなら、彼らは死によって地獄から救われないからです。


(19節) しかし、救われる者にとっては、それは神の力です。信じる者にとって、それは神の力であることは、明らかです。彼らは、キリストの十字架は弱さではなく力であると信じているからです。十字架において死が征服されたことを理解しているからです。十字架のしるしを持つ者は救われます。なぜなら、彼らは十字架に捕らわれることはできないからです。

イザヤ書にこう書いてあります。「わたしは知者の知恵を滅ぼし、さとき者の悟りを捨てる」(イザヤ書 29章14節)。彼は、自分が不可能だと否定することを行うことで、賢者の知恵を破壊している。また、彼らが無関心だと言っている神が、彼らが愚かだと思っていることで攻撃されたこと、聖母マリアから化身した神の子が人類の救済のために十字架につけられたことを証明することで、思慮深い人々の理解を拒絶している。その行為を、彼は言葉ではなく力で真に証明しているのです。


(20節) 賢者はどこにいるのか。学者はどこにいるのか。この世の探求者はどこにいるのか。これらの言葉で、彼はユダヤ人と異邦人の両方を攻撃している。ユダヤ人の学者も律法学者も、神に御子がいると信じるのは愚かだと考えているからである。同様に、異邦人もこれを嘲笑する。しかし、ユダヤ人は律法の中でこれが明確に示されていないので、律法を信用しない。しかし異邦人は、この世の理性がこれを受け入れないからである。なぜなら、混ぜ合わせなければ何事もできないと言い、それを愚かだと判断するからである。ところが、このこの世の探求者こそが、星座に従って行動し、十二宮の昇り降りを計算によって行うように定め、その動きなしには何事もできないと考えているのである。

神はこの世の知恵を愚かなものにされたではないか。この世の知恵は愚かになった。自らを賢いと思っていたが、思慮が浅いことがわかったからである。不可能と思っていたことを可能だと宣言したので、神は無関心だと考えたのです。世界を創造したのに、その管理をしないなどという主張ほど愚かなことがあるでしょうか。もし神がなさったことが、神自身のものではなかったとしたら、一体何をなさったというのでしょうか。彼らは、ある者がこの世を幸せに楽しみ、ある者が虐げられ、善を行う者が蔑まれ、悪意ある者が高慢になっているのを見て、神は無関心であると信じたのです。神は無関心であると言う者は、神が悪意や不公平であることを否定しません。なぜなら、神は世界を裁かれるかたわら、不公平であり、善を覆い隠し、悪が行われるのを許しておられるからです。ですから、神の律法への憎しみが無視されているのを彼らが観察すれば、この原因は、神の裁きを待つ私たちによって終結していることが分かります。その裁きにおいて、暴虐な者は高められ、暴虐な者は低くされるのです。なぜなら、神は人を差別されないからです(ローマ 2章11節)。


(21節) 神の知恵によって世は神を知らなかったので、神は説教の愚かさを通して信じる者を救うことを喜ばれました。世、すなわち人々は、神の知恵によって神を知りませんでした。彼らは神の唯一の威厳を偶像や精霊に託し、神を欺き、肉の知恵によって見えるものを拝むべきだと考えていたからです。それゆえ、神は彼らには愚かに思える説教を命じることを喜ばれました。それは、彼らが信じないものを信じることで救われるためであり、彼ら自身は罪に定められていたからです。このように、神の計画によっていつわりが真実から断罪される変化が起こったのです。


(22節) ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を尋ねます。ユダヤ人はしるしを求めます。それは、それができるかどうか疑わないからではなく、実際にできたかどうかを尋ねるからです。アロンの枯れていた杖が芽を出し、実を結んだこと(民数記17章8節)や、ヨナが鯨に呑み込まれ、三日三晩その腹の中にいた後、生きたまま投げ出されたこと(ヨナ記2章1節)を知っているからです。しかし彼らは、モーセが火の中で神を見たようなものを見ることを何よりも求めています。そこで彼らは、「私たちは神がモーセに語られたことを知っています」(ヨハネによる福音書9章29節)と言います。しかし、それよりもさらに大切なことは、死んで悪臭を放っていたラザロが、四日目に墓から生き返ったことです(ヨハネによる福音書11章44節)。しかしギリシャ人は知恵を求めます。なぜなら、彼らは世の理によって可能になること以外は聞こうとしないからです。


(23節) しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。これはユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことです。ユダヤ人は、キリストが神の子であると告白し、安息日を破るのを聞くと、つまずきます。しかし、異邦人にとっては愚かなことです。なぜなら、彼らは、処女懐胎や死者の復活など、この世の理には合わない、無意味に思える説教を聞くからです。[116]


(25節) しかし、ユダヤ人とギリシャ人自身が、キリストは神の力、神の知恵と呼ばれたのです。言葉よりも強い説得力によって、キリストを信じたユダヤ人は、まずしるしを求めて、キリストが神の力であることを理解しました。ギリシャ人もキリストを神の知恵とみなしていました。しかし、かつて彼らが思慮分別と考えていたこの世の知恵は、最大の愚かさでした。ですから、力は神から来るのです。父なる神は、キリストによって万物を造られたからです。しかし、知恵は、神がキリストによって知られたからです。神から出た者以外には、神を知ることはできませんでした。御子と、御子が父を啓示しようと望まれる者以外には、父を知る者も、父を見た者もいないからです(マタイ11章27節)。

神の愚かさは人よりも賢いからです。神の愚かさは、彼が言うように、真に愚かであるからではなく、人が愚かだと考えるからです。それは世の理性に合わないからです。霊的な理性だからです。そして、これによって神の愚かさは人よりも賢いことが分かります。霊的なことは肉的なことよりも賢いからです。霊的なことは肉的なことによって成り立っているのではなく、肉的なことは霊的なことによって成り立っています。それゆえ、肉的なことは霊的なことに従属しているのです。

神の弱さは人間よりも強い。確かに天にあるものは地上にあるものに打ち勝つ。それゆえ、神の弱いものは弱いのではない。なぜなら、キリストの弱さは偉大な勝利だからである。詩篇50篇で「あなたがたは裁かれるとき、勝利するであろう」(詩篇50篇 [51篇]6節)と述べているように、キリストは敗北したように見えた時に勝利した。不当に殺された者こそが勝利者であり、殺した者によって罪を犯させられるのである。


(26節) 兄弟たちよ、あなたがたの召しを思いなさい。肉に従って賢い者は多くなく、力ある者は多くなく、高潔な者は多くないからです。明らかに、この世のことで思い上がる者、すなわち、天の運行を観察し見分ける者よりは、少ないのです。しかし、パウロは彼らについて、肉に従って強い者と思慮深い者の両方について述べています。そして、それゆえに強いのです。なぜなら、彼らはキリストの十字架の受難の弱さを主張するからです。不義は強く、彼らにはしばらくの間勝利をもたらすように思われるからです。高潔な者たちでさえ、彼らを通して自分たちの迷信の起源を古代に求め、私たちを新しい者と称します。ですから、神は少数派にあるこの主張を選ばれなかったのです。


(27節) 神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選ばれました。この世の愚かなこととは、処女が子を産み、神の御子が十字架につけられたことである。神はこれを信じることを愚かなこととみなしている。それゆえ、神は彼を惑わすために、これを信じる者たちを選ばれた。彼はこれを愚かなこととみなしている。賢い者たちは、少数の者が否定することを多くの人が告白するのを見て、惑う。多数の意見は少数の者の意見よりも優れていることは疑いないからである。

そして神は、強い者を惑わすために、この世の弱い者を選ばれた。意味は同じである。少数の者が弱いと考えるもの、すなわち、この世で思慮深く、希望を疑う者たちを、多くの人々は力とみなすからである。信じない者よりも信じる者のほうが多く、彼らは恥をかくからである。彼らはキリストという名の弱い者が悪霊を制し、奇跡を行うのを見る。しかし、弱い者は世に害を及ぼす。そして、救い主の情熱は、これを知らないがゆえに、力へと昇る。なぜなら、この理由から、キリストは死に打ち勝つために、これらの苦しみを自ら受け入れたからである。不当に苦しみ、抵抗することができ、意志を持たないことは、忍耐する者の栄光であり、滅びる者の非難である。


(28節) 神はこの世の卑しいもの、見下されるもの、また無価値なものを選び、価値の有るものを滅ぼされました。それゆえ、神は卑しく軽蔑すべきものを選ばれたのです。それは、それらが真に卑しく軽蔑すべきものであるからではなく、世によってそのように裁かれるからです。彼らはキリストを信じて世の理を軽蔑しています。それは、キリストが真に卑しく軽蔑すべきものを滅ぼしてくださるためです。裁く者こそ、より深く裁かれ、罪に定められるべき者だからです。彼らの主張は誤りによるものであり、初めからあったものではありません。しかし、私たちの戒めは初めからあるのです。ですから、証拠もなく、ただ言葉で主張されると、それは滅ぼされます。しかし、私たちの戒めは言葉だけでなく、力による証言によっても証明されます。


(29節) それは、肉なる者が神の御前で誇ることがないようにするためです。これは、肉の知恵がその誤りを恥じるようにするためです。裁く神よ。肉の感覚は、神の力、処女が生まれたことなどを疑うことであり、肉に似たこの世の理性はこれを受け入れないからです。


(30節) あなたがたは、この方からキリスト・イエスに結ばれているのです。私たちがキリストを信じる信仰を持つのは、この方、すなわち全能の神からです。神の御旨は、私たちがキリストを通して神の真理と憐れみを学ぶことです。真理は三位一体の奥義、まことに憐れみです。なぜなら、私たちが捕らわれ人であったとき、神は私たちを贖い出してくださったからです。


(31節) キリストは、私たちにとって神の知恵、義、聖化、贖いとなられました。信じる者たちの確信のために、キリストは、ご自分がなさったことは神の御心によってなされたと語っておられます。それは、私たちがキリストを通して真に知恵を学び、聖化され、義とされ、神から贖われたことを知るためです。なぜなら、自分のもの以外を贖う者はいないからです。ですから、私たちが贖われたのか、聖化されたのか、つまり肉の業と偶像の汚れから清められたのか、義とされたのか(創造主を礼拝し、他のすべてを軽蔑するのは正しいことです)、あるいは、私たちが無知な人々に教えたことを通して賢くなったのか、これらすべてはキリストを通しての神の恵みです。しかし、これこそが私たちの贖いです。なぜなら、キリストは、それを望んだ悪魔にご自身を差し出し、ご自身の内にある罪の矛盾を取り除き、その捕らわれ人を解放してくださったからです。

ですから、こう書いてあるとおりです。「誇る者は主を誇れ」。これは預言者エレミヤ書に記されています(エレミヤ書 9章24節)。預言者が「神を誇ろう」と述べるのは適切です。主を誇れる者は辱められることはない。主の御業と偉大さは、なされたことの中に見られるからです。それゆえ、彼はこう言います。「雨を降らすことも、天地を造ることもできない偶像に辱められるのだ」。同じように、人間を誇る者たちも、もちろん人間が無力であることを知っている。それゆえ、聖書はこうも言っています。「人の望みはむなしい」(エレミヤ書 17章5節)。


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出典

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翻訳文:

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