カトリック トリエント公会議 義化に関する条例

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 義化についての草案の討議は1546年6月22日に開始された。修正されたものは、7月24日、9月23日、11月5日の3回教令の草案が討議された、この教令では、義化の方法と恩寵に対する人間の協力について、ルター(ルーテル:神の恐るべき決断、予定奴隷意志論:)の誤謬と、ヨハンネス・カルウィニスの救霊二重予定説に対する反論が為されている。同時に義化を受けそれを堅持する恩寵の必要を否定するペラギウスの説にも反論している。


第I章[編集]

 人の自然も律法も義化には無能である

 聖なる公会議(Synod)は第一に宣言する、義化の教義に正しく、そして健全な理解をすることが以下に必要である。また即ちこれ(この公会議[Synod])はアダムの罪の上に教令を置き、それは見分けと公言の両方に関して全ての人が彼らの無罪を失ったが故に、アダムの虚偽の中に--「汚れたものになった」、(イザヤ、lxiv(64). 6.)そして使徒は言っているように「憤りの自然の子供によって」(エペソ、ii. 3.)--彼らは「罪の奴隷」(ローマ、vi(6). 17.)としてそんなに離れてしまった、そして悪魔の力の下で、それはただ本性の自然の力のみでは、異邦人でも、しかし更にではユダヤ人はモーセの律法の言葉の非常によってでも、立ち上がることも、自由にすることが可能ではなく;それにもかかわらず、自由意志は、それの力では弱くなったが、曲がって落ち、その意味によっても彼らから自由意志はを消すことは無かった。

第II章[編集]

 天命の経綸(構成:計画)とキリストの来臨の秘義

…………
…「われわれの罪そしてわれわれの罪だけでなく、しかし全く全世界の罪の為である」(1,Joan.ii.2.)彼の神の『目的は』なだめの犠牲であり、「彼の流血の中の信仰を通して彼は仲介者とされた」。

第V章[編集]

 義化の準備の成人の中の必要性とその起源から進むために

……その義化の初めから言うと、神の恩寵から先行的起源は、彼らは召されたが、イエズス・キリストを通してそれは言い換えれば、彼らの少しの功績の成功は何も存在せず、彼らの部分に於ける、神の召命によって始まる、それから、そう彼らは罪によって神から妨げられた者が、彼の恩寵をもって、配置しそれを通して、協働して早めるそして手伝う、彼ら自身を彼ら自らの義化を、自由に承諾し協働することによって一緒に言う恩寵ために変えるであろう:そのような種類のそれは、聖霊の照明によって神が人の心に触れる間中、人は彼自身まったく何事も行うことなしにではなく、彼は神の霊感力を受け入れ、彼はまたもそれを拒否するのも可能であるのをみれば;神の聖寵なしには、まだ彼は聖寵宗教外自らの自然人性自由意志によってだけでは可能で無い、神の視覚の中の彼の義に彼自身を教会衆宗教(聖寵:2,3人集まる所にキリストも居るであろう)の外では自ら動かせない、それゆえに、その時それは聖なる書きものの中で言う:「あなたはわたしに戻る、そしてわたしの意志もあなたに戻る」(ゼカリヤ. i. 3.)とわたしたちはわたしたちの自由のうちに忠告する;そしてその時わたしたちは答えるであろう:「わたしたちを変えて下さい、おお、主よ、汝によって、わたしたちは変えられるでしょう」(哀歌、v(5).21.)とわたしたちは告白するのはわたしたちには神の恩寵が先行し(Praeveniri.)ているからであると。

第VII章[編集]

 不敬虔な人の義化とは何か、またその原因は何か

……………
……それに最も真実なことを言う、それは、「信仰も業無しには死んだものである」(ヤコブ、ii. 20.);そして、「キリストに於いては、割礼も少しも役に立たず、または無割礼も、しかし信仰の愛によって働くものに価値がある」(ガラテヤ. v. 6.)この信仰は洗礼志願者を教会に請う--使徒的伝統に同意できる:--先例のバプティスマの秘跡;彼らはその時信仰を永遠の生命と共に請うものである、それは、希望と愛なしには、信仰の授与無しにはではこの永遠の生命を齎(もたら)すことは出来無い;それから、その時まことのクリスチャンの正義を受け入れる、彼らは召しを直接受け再び生まれ、それは純粋な欠点のない状態に保つその法廷に立ち、それはアダムが彼自身とわたしたちが失ったものの代わりにイエズス・キリストを通して「初めの最も良い長い衣」(ルカxv.22)を着てそれを受けるであろう、そして永遠の生命を受けるであろう。

第IX章[編集]

 異端者の無駄な信頼に対して

………………
…--彼らは本当に必要な義化の状態でいるのは必ず必要な自分の力で立って居るとか、一切の疑い無しに、それは一緒に彼らが義認された事を彼らが決定したことであるとか、それでその罪から赦免された者は確かに一人もいないからであるそして義化に;しかし赦免また義認はこの信仰のみによっての結果であるとか:そしてこの神からの約束も恩寵もそうであるけれど、そしてこれを(無業の義認を)信じないまたは疑うことはキリストの復活と死の効果を疑うとか個人的の主張をしてはならない、たしかに敬虔な信心深い人のために、キリストの功績が、そして秘跡の効果と美徳の神の御慈悲を、ちょうど一人々々彼自身見做す固有の弱い所と不適正の悪い所と、恐れ、彼の自らの恩寵に関していることを心配して危ぶむことを怖れ疑うからである;それは誰ひとりとして間違いに属することが出来無いほどの、確かな信仰を持って、つまり自分が神の恩寵の下(もと)にあると確実に知る事が出来ないからである。

第X章[編集]

 受けた義化の増加

 それから、このように義化と神の家族内の友たちになった者等は(エペソ. ii. 19.)は、「美徳から美徳へ」(詩篇、lxxxiii(83). 8.)進み、彼らは神により更新し、使徒が言った「日より日へ」(コリント第二、iv. 16.)「あの日、彼らの自身の肉の抑制することによって」(コロサイ、iii. 5.)そして「聖化のための、正義の武装機関は」彼の存在によって(ローマ、vi. 13. 14.)彼らは神と教会の誡めを聞くことによって、信仰を善き業と共働し、正義に於いて増加し、それはキリストの恩寵を通して彼らが受け取ること、そしてまだなお義化されるのである、書いて曰く、「彼はいよいよ義に、まだなお義なる者となる」(黙示録、xxii. 11.);そしてまた、「死の時まで義化されることを伸ばして恐れるな」(集会の書、xviii. 22.);そしてまた、「人が義化されるのは働きによっているのをあなたは見るか、そして信仰にのみによるなしに」(ヤコブ書、ii. 24.);そしてこの聖なる教会は義化の増加を請う、その時彼女が祈った、「おお主よ、信仰の増加と希望と愛を増加し与え給え」(St. Aug. De Nat. etgr.c. 43.)

第XI章[編集]

 誡めを守ることと、それから必要な事と可能性

 然し、義化されるために如何(どう)するか誡めを聞くことから彼自身が免除されている者は一人もいないだろうか;一人もいない、父によってそれを禁止されている(律法を行なうことを禁止させられている) と、軽率な言動を取る人は、アナテマ(呪い、:破門)の下にある、--それは神の誡めを聞いて人が義化されることは不可能だと言うことは、神の誡めは不可能なものはない、然し、誡めと諭しの両方で、汝はそれを行うことを可能にされる、そして汝が可能では無いと祈ることは(St. Aug. De Nat,et gr.c. 43.)、そして可能になるように助けられるであろう;「誰にでも誡めは重いものではない」(ヨハネ第一、v. 3.)「だれにでも軛(くびき)は甘く、だれにでも荷は軽い」(マタイ、 xi. 30.)そう、神の子はそれは愛のキリスト;しかし「弟子等は、キリストを愛した、キリストの誡めを保った」(説教の言葉、ヨハネ、xiv. 15.)彼自身、証明宣言をする;それは自信をもって、神的の助けと共に出来るのである、彼らは恩寵に与(あづ)かることが出来る。そして然しながら、何とこの死すべき人の生命に於いて、そして聖人でも義人でも何時でも、日ごとの最も小さな軽い罪の神からの光に陥ることもあるが、それはまた、小罪と呼ばれる、かれらはその小罪の故に義人でなくなることはない、それについて義人は正しく叫び、「わたしたちの侵入の罪をゆるしてください」、卑下した、またはまことの両方で、そしてこの理由で、彼ら自身の義なる感じるべき、それ自身の中をもっと正しい道に歩く義務を負わせる、それは「罪から自由になり、神の僕となることにした」(ローマ、vi. 18.)彼らは生きて出来る、冷静、正しい、そして神的に可能な(ティト、ii. 12.)イエズス・キリストを通して、この恩寵に進み行き成長して、彼によって、それから彼の恩寵に接続し(ローマ、v(5). 2.)、神は彼の恩寵によって一度義化された者を見捨てない、彼らによって先に(神を)見捨てない限り神は見捨てない。そこから誰一人として信仰のみとお世辞を言う者を共に挙げる、(Nemo Sibi in sola fide blandiri debt, no one ought torely on faith)信仰のみによってと幻想するものは、彼は相続人として作り、そして相続権を手に入れる事が出来ると考え、キリストと共に苦しまなくても、彼は彼(キリスト)と共に栄光にされると考えても、(ローマ、viii(8). 17.信仰のみに頼ってはならない。キリストと彼自身と使徒たちがさらに言う、「そこから彼は神の子であったのに、苦しんだことから従順を学びそれにより忍耐してそれは完全にされ、彼はすべて神に従って来る者の、永遠の救いの原因になられた」、(ヘブライ、v. 8,9.)それは同じ使徒の義化の諭しで言う;「競技場の競争では皆が走るが、賞を受けるのは一人だけであることをあなたたちは知らないのか? あなたたちも(賞を)受けるために走れ。わたしはあてどなく走ることのないように走る:空を打たないように戦う。わたしは自分の体を苦しめてこれを奴隷にする。それは他人に宣(の)べ伝えながら、自分が除名されないようにするためである」(コリント第一、ix. 24,26,27.)。そう、これもまた、使徒の頭のペトロが;「より善業の労働者よ、あなたは召し入れと選びを本当に、それらの事を行ってゆくなら、あなたはどんな時にも失敗しない」。(ペトロ第二、i. 10.)これらは明白な、これらは正統な宗教の教義に反対である~~彼は義人でありながら罪を犯す者であり、すべての善い働きの中でのものが最小の罪でありそれをを犯すことが許さるべき、;またはこれはもっと耐えられない、それは彼の義の功績が罪で永遠の罰を招くとか;そしてまた、それらの義人のそれらの善なる状態の中ですべての彼らの善業の中でのものが、存在にして(偶像の)罪だとか、彼等の働きが、もしそれらの働きが彼らと聖寵とともに、最も神の栄光に向けられるなら、永遠の報いが見えるなら、秩序の中にある彼らの不情を刺激するなら、彼ら自身を励まし「競技場での道の中に走り」:それはこれなるが故に書かれている、「わたしの心を傾けさす、すべての行いについて汝の義化なる報いを」(詩篇、cxviii(118). 112.):そしてモーセとの関連によって、使徒の言う所の、「モーセは報いを一心に見つめた」(ヘブライ、xi. 26.)

第XVI章[編集]

 義化の結実と、善業の功績と、功績の天性聖寵超自然性

 人の前に、それから彼はかかる手法をもって義化された、--彼らは、恩寵の受け入れを中断しないで保つかどうか、またはその時彼らは失われたもの(義)を取り戻すかどうかを問わず、使徒の定められた言葉はこうである:「たくさんの善き働きの中で、それはあなたの雇い主は主であり、働きは無駄ではないことを知っている」;(コリント第一、xv(15). 58.)「神は不義な方では無いので、あなたがたがこれまで仕え、こうして示した御名への愛を忘れるような方では無い」;(コリント第一、x(10). 35.)「そしてあなたの信頼を裏切るような方では無い、それの偉大な報いをもって」。(マタイ、x(10). 22.)、そして永遠の生命の提案がそれらのよい働きの「終わりに至るまで」と言う理由によって(テモテ第二、iv(4). 8.)、神の希望、と両方の恩寵と慈悲深い約束の神の御子を通してイエズス・キリスト、の報いが、神の御自身の約束によれば、それが報いであるように、彼自身彼らの善き働きゆえにそして功績も忠実に与えたのである。これの彼の「正義の冠」は、使徒が「戦闘し彼のために上に置き彼のための正しい裁きのために与え、そして彼の為だけでなく、彼の来たることを愛する全ての為に」(Jugiter virtutem influat)そしてこの故に公然と公言したのである。そしてこれなるが故にイエズス・キリストが彼自身後継者彼の美徳、を義化と言うことの中に--仲間の中にキリストが頭として、そして葡萄の木の枝の中に、--そしてこの美徳がいつも進み絶えず力を与える、その力は先行しそして彼らの善き働きの為に伴い、それに続くのである。また、その恩寵の聖霊の力を除いては、神の御前に於いて称賛に値することと、神の喜びの意図を少しも出来ないこと、--私たちは何もそれ以上に彼らが義化を欲していることを信じなければならない、真に永遠の生命を受けるに値する行為を行うために必要なものを、彼らがみな持っているのである、神の律法が十分に満たされたことを、この世の生命の状態によれば、そして神の実に永遠の生命の掟を十分に果たし、またもや約束期日の時が来て、彼らはそれについて恩寵の内に死ぬ([地上を]離れる)ならば(黙示録、xiv(14).13,14.);わたしたちの救い主キリストから見れば、曰く:「わたしが与える水を飲む者は、誰でも、彼はそれから永遠に渇くことなく;しかしそれは彼の中で永遠の生命の水を吹き出す泉となる」(ヨハネ、iv(4). 14.)このように「わたしたちの自らに神の正義が確立されたのは、それはわたしたちの自らの力による正義でもなくあるいは、神の正義が拒否か無視されたりすることでもない」(ローマ、x(10).3.);なぜならこのわたしたちが内に留まってわたしたちを義化するものとして、わたしたちの義と呼ばれ、それらと同時にキリストの功績によって(正義の)神からわたしたちに浴されるようになった、神の義だからである。それらをも見逃してはならない、「彼は冷たい水をキリストの弟子であることから最小の者にも飲むように与えた、彼は報いから決して失われない」(マタイ、x(10).42.)とキリストは約束された。そして使徒は宣誓証言をされたそれは、「患難はつかの間で軽いものですが、いよいよ重みを増す永遠の栄光をわたしたちのために生み出す」;(コリント第二、iv(4). 17.)聖なる書き物に(聖書に於いては)、善業の価値はこれほど大きく認められている、しかしそれにもかかわらず人間の自己自身に信頼する栄光をクリスチャンに神は禁ずる、そして主の中に禁ぜず、そしてすべての人に偉大に気前よく与える、彼らの功績に対して、それは彼はみずからの賜物を彼らの立てることが出来る功績に応じて大きい好意をを持っておられる、(書簡、Caelest. i.c.12.Labb. T.ii. p.1617. De qua vid Constant in Ep.21. Caelest.)そして、「わたしたちは多くの踏み外し感情を害する」のだから、(ヤコブ、iii(3).2.)一人びとりが(神の)目の前にはすべての事が、慈悲深いものと好意と厳しい裁きと審判を考えなければならない;そして自分の良心にやましい点が無いとしても、自分を裁くことはだれにも許されていない、少しの一つも「義人でさえ彼自身、審判の場で……ごくささいな事柄です。わたしでさえ自分を調べることはしません」;(コリン第一、iv(4).3,4.)なぜならば、人の一人びとりはすべての生命は神から検査され判決され、人の裁きでは無く、しかも最高神全知霊感の裁きである。「主は、闇の隠れた事柄を明るみに出し、また心の計り事を明らかにされます。その時、一人びとり公けにすべて神から称讃の報いを受けるのです」(コリン第一、iv(4).5.)彼はそれは書かれている、「一人びとりすべてに公けにその振る舞いに応じて返報するのです」。(マタイ、xvi(16), 27.)

 このカトリックの義化における教義の後に、それはその人、忠実では無い者は堅く義化されない、それは聖なる公会議が善く見えた、すべての彼ら(信徒)が掴むべき、そして従がうべき、しかし避けるべきものについて。

 第1.条から第33.条までの誤謬を排斥する。[ここから以って以下略:誤謬であるから書く必要も無いか?!]

出典[編集]

デンツィンガー・シェーンメッツァー資料集、No._1521~1550.番引き続き及び、No._1583番迄。

この著作物は1925年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 

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