カトリック トリエント公会議 義化に関する条例

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第I章 自然も律法も人の義化には無能である[編集]

聖なる公会議(Synod)は第一に宣言する、義化の教義に正しいそして健全な理解をすることが必要である。またそうで(この公会議[Synod])は原罪の上に法令を置き、それは見分けと公言の両方に関して全ての人が彼らの無罪を失ったとたん、アダムの言い逃れの中に--「不潔に成って来た」、(イザヤ、lxiv. 6.)そして使徒は言う「憤りの自然の子供によって」(エペソ、ii. 3.)--彼らは「罪の奴隷」(ローマ、vi. 17.)としてそんなに離れてしまった、そして悪魔の力の下で、それは異邦人はただ本性の力のみでは、しかし更にではなくユダヤ人はモーセの律法の言葉の非常によってでも、自由にすることが可能ではなく、また、そこから立ち上る事が出来なく;それにもかかわらず、自由意志は、それの力では弱くなったが、[:罪に]曲がって落ち、その意味[:完全さからの堕落]によっても彼らから[:不完全ながらも、自由意志を]消すことは無かった。

第II章 天意の経綸とキリストの来臨の秘義[編集]

…………
…彼の神の「目的」はなだめの犠牲「彼の流血の中の信仰を通して」(ローマ、iii.25.)、「われわれの罪そしてわれわれの罪だけでなく、しかし全く全世界の罪の為である」(1,Joan.ii.2.)。

第V章 義化の準備の成人の中の必要性とその起源から進むために[編集]

……その始まる義化を言うと、神の恩寵から先行的起源は、彼らは召されたが、イエズス・キリストを通してそれは言い換えれば、彼らの少しの功績の出口はなかったが彼らの部分に於ける、神の召命によって始まるのである;それはそう彼らは罪によって神から不和になった者が、恩寵を影響しやすくする彼の早めるそして助力する、彼ら自身を彼ら自らの義化を、自由に承諾し協働することによって変えるために、その言う恩寵と一緒のために:そのような種類のそれは、聖霊の照明によって人の心に触れる神の間中、人は彼自身まったく何事も行うことなしにではなく、彼は神の感化力を受け入れ、彼はまたもそれを拒否するのも出来るのであるのをみれば;神の恩寵なしには、まだ彼は自らの自由意志によってだけではできない、彼の視覚の中の神の義に彼自身を動かせない、それゆえに、その時それは聖なる書きものの中で言う:「あなたはわたしに戻る、そしてわたしの意志もあなたに戻る」(ゼカリヤ. i. 3.)とわたしたちはわたしたちの自由のうちに忠告する;そしてその時わたしたちは答えるであろう:「わたしたちを変えて下さい、おお、主よ、汝によって、わたしたちは変えられるでしょう」(哀歌、v.21.)とわたしたちは告白するのはわたしたちには神の恩寵が先行し(Praeveniri.)ているからであると。

第VII章 不敬虔な人の義化とは何か、またその原因は何か[編集]

……………
……それに最も真実なことを言う、それは、「信仰も業無しには死んだものである(:お金も寄附も業!!)」そして利益なしには(ヤコブ、ii. 20.);そして、「キリストに於いては、割礼も少しも役に立たず、または無割礼も、しかし信仰の愛によって働く[:ものに価値がある]」(エペソ. v. 6.)この信仰は洗礼志願者を教会に請う--使徒的伝統に同意できる:--先のバプティスマの秘跡;彼らはその時信仰を永遠の生命と共に請う、それは、希望と愛なしには、信仰の授与無しには;それから、その時まことのクリスチャンの正義を受け入れる、彼らは召しを直接受け再び生まれ、それは純粋な欠点のない状態に保ちその初めの長い衣を(ルカ、xv. 22.)着て法廷に立ちそれの代わりに[:天に行く人14万4千人は]イエズス・キリストを通して受けるであろう、それはアダムが彼自身とわたしたちのために失ったものである、そして[:他の一般の者は]永遠の生命を受けるであろう。

第IX章 異端者の無駄な信頼に対して[編集]

………………
…--彼らは本当に必要な義化の状態でいる、少しも疑い無しに、それは一緒に彼ら自身それと共に捉えるそれは彼らが義認された、それでその罪から放免された者は確かに一人もいないからであるそして義化に;しかし放免宣言また義認宣言はこの信仰のみによっての結果であるとか:そしてこの神への約束のそれもそうだけれど、そしてこれを信じないことはキリストの復活と死の効果を疑うとか個人の発言してはならない神の恩寵の、キリストの功績の、秘跡の効果の美徳の、正確なそう両方の一つも疑ってはなく信じる事、彼自身をそして彼の自らの弱い所と不適性の所と、恐れ、把握を彼の自らの恩寵にさわっていることをあやぶむこととみなす;誰も見る事が出来なく、それは誰ひとりとして間違いに支配できないほどの、確実な信仰を持って、それは彼が神の恩寵の状態にあると確かに知る事が出来ないからである。

第X章 受けた義化の増加[編集]

それから、このように義化と神の家族内の友たち(エペソ. ii. 19.)は、「美徳から美徳へ」(詩篇、lxxxiii(83). 8.)進み、彼らは更新し、使徒が言った「日より日へ」(コリント第二、iv. 16.)「あの日、彼らの自身の肉の抑制することによって」(コロサイ、iii. 5.)そして「正義の器械(:武器)は彼の存在によって、聖化のための」(ローマ、vi. 13. 14.)彼らは神と教会の誡めを聞くことによって、信仰を善き業に共働し、正義に於いて増加し、それはキリストの恩寵を通して彼らが受け取ること、そしてまだなお義化されるのである、書いて曰く、「彼は正しく、まだなお正しくなる」(黙示録、xxii. 11.);そしてまた、「死の時まで義化されることを伸ばして恐れるな」(集会の書、xviii. 22.);そしてまた、「人が義化されるのは働き(:業:お金も業)によっているのをあなたは見るか、そして信仰にのみによるなしに」(ヤコブ書、ii. 24.);そしてこの聖なる教会の義化の増加を請う、その時彼女が祈った、「おお主よ、信仰の増加と希望と愛を増加し与え給え」(St. Aug. De Nat. etgr.c. 43.)

第XI章 誡めを守ることと、それから可能な必要な事[編集]

然し、義化されるために如何(どう)するか誡めを聞くことから彼自身が免除されるべき者は一人もいないだろうか;一人もいない、父によってそれを(:誡めを守ることを)禁止されている(:無律法主義?!)と、軽率な言動を取る人は、アナテマ(呪い、破門:ルターの無律法主義も)の下にある、--それは神の誡めを聞いて人が義化されることは不可能だと言うことは、神の誡めは不可能なものはない、然し、誡めと諭しの両方で、汝はそれを行うことを可能にされる、そして汝が可能では無いと祈ることは(St. Aug. De Nat,et gr.c. 43.)、そして可能になるように助けられるであろう;「誰にでも誡めは重いものではない」(ヨハネ第一、v. 3.)「だれにでも軛(くびき)は甘く、だれにでも荷は軽い」(マタイ、 xi. 30.)そう、神の子はそれは愛のキリスト;しかし「彼らは、彼を愛した、彼の誡めを保った」(説教の言葉、ヨハネ、xiv. 15.)彼自身、証明宣言をする;それは自信をもって、神的の助けと共に、彼らはそれを出来る。そして然しながら、この死すべき人の生命に於いて、何と聖なるそして正しく何時も、日ごとの最も小さな軽い罪の神からの光に陥ることもあるが、それはまた呼ばれる、軽いかれらはそこから正しくない理由(:罪)で、それについて正しく叫び、「わたしたちの侵入の罪をゆるしてください」、卑下した、またはまことの両方で、そしてこの理由で、彼ら自身の義なる感じるべき、それ自身の中をもっと正しい道に歩く義務を負わせる、それは「罪から自由になり、神の僕となることにした」(ローマ、vi. 18.)彼らは生きて出来る、冷静、正しい、そして神的に可能な(ティト、ii. 12.)イエズス・キリストを通して、この恩寵に進み行き、彼によって、それから彼の恩寵に接続し(ローマ、v. 2.)、神は彼の恩寵によって一度義化された者を見捨てない、彼らによって先に(神を)見捨てない限り神は見捨てない。そこからだれもお世辞を言う者を彼自身信仰のみと共に上げる、(Nemo Sibi in sola fide blandiri debt, no one ought torely on faith)信仰のみによってと幻想するものは、彼は相続人として作り、そして相続権を手に入れる事が出来ると考え、キリストと共に苦しまなくても、彼は彼(キリスト)と共に栄光にされると夢想し、(:苦しみ無しなんてプロテ…は恥ずかしい?!プロテ…は聖書を信じようとして居て教会って弱弱しい信仰ゆえに信ずるがプロテ…って言うの(ルターみたいに教皇さまに反対するんだとか!!)名前は悪(一部の信者:死の道だったと告白もする?!でも本当に解かって居るのかな?!)だと!!カトリックは自由だとか!!自由に悔い改めも?!悪い予定なしで!!って知っているが?!)(ローマ、viii. 17.)キリストと彼自身と使徒たちがさらに言う、「そこから彼は神の子であったのに、従順を学びそれにより苦しんだことからそれは成就され、彼はすべて神に従って来た、永遠の救いの原因で」、(ヘブライ、v. 8,9.)それは同じ使徒の義化の諭しで言う;「競技場の競争では皆が走るが、賞を受けるのは一人だけであることをあなたたちは知らないのか? あなたたちも(賞を)受けるために走れ。わたしはあてどなく走ることのないように走る:空を打たないように戦う。わたしは自分の体を苦しめてこれを奴隷にする。それは他人に宣(の)べ伝えながら、自分が除名されないようにするためである」(コリント第一、ix. 24,26,27.)。そう、これもまた、使徒の頭のペトロが;「より善業の労働者よ、あなたは召し入れと選びを本当に[:堅くするように]、それらの事を行ってゆくなら、あなたは罪にならない[:失敗しない]何時も」。(ペトロ第二、i. 10.)これらは明白な、これらは正統な宗教の教義に反対である~~彼は罪を主張する義人であり、最も小さな罪が許されるべき、すべての善い働きの中で;またはこれはもっと耐えられない、それは彼の功績が永遠の罰[:を招くとか];そしてまた、それらの状態が、それらはすべての彼らの業の中で、正(まさ)に罪だ[:偶像?!崇拝許したのは存在から罪!!ヱホバ天主は偶像では無い!!ヱホバはの偶像崇拝禁止の律法がある!!ヱホバはみずからの栄光を偶像に賦与されないと!!]とか、彼等の働きが、もしそれらの働きが彼らとともに、最も神の栄光に向けられるなら、永遠の報いが見えるなら、秩序の中にある彼らの不情を刺激するなら、彼ら自身を励まし「道の中に走り」:それはこれなるが故に書かれている、「わたしの心を傾けさす、すべての行いについて汝の義化なる報いを」(詩篇、cxviii(118). 112.):そしてモーセとの関連によって、使徒の言う所の、「彼は報いを一心に見つめた」(ヘブライ、xi. 26.)

第XVI章 義化の実と、善業の功績と、功績の自然性[編集]

人の前に、それから彼はこの手法をもって義化された、--彼らは、恩寵の受け入れを中断しないで保つかどうか、、またはその時彼らは失われたもの(義)を取り戻すかどうか、使徒の定められた言葉はこうである:「たくさんの善き働きの中で、それはあなたの雇い主は主であり、(善業は)無駄ではないことを知っている」;(コリント第一、xv. 58.)「神は不義な方では無いので、あなたがたがこれまで仕え、こうして示した御名への愛を忘れるような方では無い」;(コリント第一、x. 35.)「そしてあなたの信頼を裏切るような方では無い、それの偉大な報いをもって」。(マタイ、x. 22.)、そして永遠の生命の提案がそれらのよい働きの「終わりに至るまで」と言う理由によって(テモテ第二、iv. 8.)、神の希望、と両方の恩寵と慈悲深い約束の神の御子を通してイエズス・キリスト、の報いが、神の御自身の約束によれば、それが報いであるように、彼自身彼らの善き働きゆえにそして功績も忠実に与えたのである。これの彼の「正義の冠」は、使徒が「戦闘し彼のために上に置き彼のための正しい裁きのために与え、そして彼の為だけでなく、彼の来たることを愛する全ての為に」(Jugiter virtutem influat)そしてこの故に公然と公言したのである。そしてこれなるが故にイエズス・キリストが彼自身後継者彼の美徳(ヨハネ、iv. 13,14.)を義化と言うことの中に注ぐ--仲間の中に頭として、そして葡萄の木の枝の中に、--そしてこの美徳がいつも進み先行しそして同行して彼らの善き働きの為に追随する、それの助力なしには喜びの知恵を神の御前で少しも出来なかったことを除いて、神の御前で称賛に値する、--私たちは何もそれ以上に彼らが義化を欲していることを信じなければならない、もっとも働きが神の御前でなされることによって、彼らが算段し待つことをさせない、神の律法が十分に満たされたことを、この生命の状態によれば、また実に永遠の生命の功績は獲得された、またもや約束期日の来た時のはずである、もしそれがそうならば、彼らはそれについて恩寵の内に死ぬならば;わたしたちの救い主キリストから見れば、曰く:「誰でも水を飲みたいと思う者は、わたしが彼に与えよう、彼はそれから永遠に渇くことなく;しかしそれは彼の中で永遠の生命の水を吹き出す泉となる」(ローマ、x. 3.)このようにでもなくわたしたちの自らの正義;「確立された、それはわたしたちの自らの」(マタイ、x. 42.);「彼は冷たい水を最小の者にも飲むように与えた、彼は報いから失われない」そして使徒は証明宣言をされるそれは、「患難はつかの間で軽いものですが、いよいよ重みを増す永遠の栄光をわたしたちのために生み出す」;(コリント第二、iv. 17.)それにもかかわらず人間の自己自身に信頼する栄光を(:自己を誇ることを禁ずる)クリスチャンに神は禁ずる、そして主の中に禁ぜず(:主のために主ご自身を誇ることを禁ぜず)、そしてすべての人に偉大に気前よく与える、彼らの功績に、それは彼はみずからの賜物を彼らの功績に応じて事を持っておられる、(書簡、Caelest. i.c.12.Labb. T.ii. p.1617. De qua vid Constant in Ep.21. Caelest.)そして、「わたしたちは多くの踏み外し神を怒らせる」のであれば、(ヤコブ、ii.2.)(神の)目の前にはすべての一つ一つの事が、厳しい裁きと慈悲深い善き事柄を考えなければならない;少しの一つも「義人の良心のやましきなきとしてもそれでさえ彼は少しの事も裁きをし裁きの意識をすべきではない」;(コリン第一、iv.3,4.)なぜならば、人のすべての生命は検査され判決され、人の裁きでは無く、しかし神の裁きである「彼は隠された闇に光を持って来られ、そして心の協議の企てはそれはそれぞれの人が神からの賛美を受けるため」、(コリン第一、iv. 5.)彼はそれは書かれている、「おのおのによるものを全ておのおのの業によって報いるであろう」。(マタイ、xvi, 27.)
このカトリックの義化における教義の後に、それはその人、忠実では無い者は堅く義化されない、それは聖なる公会議が善く見えた、すべての彼ら(:信徒)が掴むべき、そして従がうべき、しかし避けるべきものについて。

第1.条から第33.条まで[:デンツィンガー資料集]の誤謬を排斥する。[ここから以って以下略:誤謬であるから書く必要も無いか?!]

出典[編集]

デンツィンガー・シェーンメッツァー資料集、No._1521~1550.番引き続き及び、No._1583番迄!!

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