オウム真理教事件・麻原彰晃に対する判決文/chapter eighteen
[Ⅶ 松本サリン事件について]
〔弁護人の主張〕
1 次の証拠は,違法収集証拠として,証拠能力が否定されるべきである。
(1) D甲540の鑑定資料であるD5西駐車場の土砂は,司法警察員が付近の実況見分 に際し採取したものであるが,その所有者の承諾を得ることなく被疑者の遺留物として領 置した疑いが強い。したがって,D甲540の鑑定書は,その鑑定資料の押収手続に令状 主義に反する重大な違法があるから,証拠能力はない。
(2) D甲544の鑑定資料であるD5方及びB7方の各池の水は,司法警察員がその池の 所有者の承諾を得ることなく領置したものである。したがって,D甲544の鑑定書は,その 鑑定資料の押収手続に令状主義に反する重大な違法があるから,証拠能力はない。
(3) D甲566の鑑定資料であるK寮b号室の浴室内にあった洗面器内の水は,司法警 察員がその洗面器の所有者の承諾を得ることなく領置したものである。したがって,D甲 566の鑑定書は,その鑑定資料の押収手続に令状主義に反する重大な違法があるか ら,証拠能力はない。
(4) D甲693の鑑定書は,その鑑定資料である加熱容器3個(以下「本件加熱容器」と いう。)の押収手続に次のとおり令状主義に反する重大な違法があるから,証拠能力はな い。
ア 本件加熱容器の捜索差押えは,いわゆる地下鉄サリン事件の被疑事実に基づいて 発せられた捜索差押許可状(以下「本件捜索差押許可状」という。)によりいわゆる松本 サリン事件の被疑事実に係る物件を対象として行われたものであるから,憲法35条2項 に違反する。
イ 本件捜索差押許可状に基づく捜索差押えは,平成7年5月23日に実施され,その 後中断され,同年6月14日にその捜索差押えが再開されたものであるとしても,到底同 一の機会の捜索差押えが継続していることを前提とした中断とみることはできず,同日に おける本件加熱容器に対する捜索差押えは,それ以前の別の機会に行われた捜索差 押えと共に1個の令状で済ませたものであり,憲法35条2項に違反する。
ウ 本件加熱容器を差し押さえた捜査官は当時本件加熱容器が地下鉄サリン事件で 使用されたものでないことを認識していたから,本件加熱容器は,地下鉄サリン事件に係 る本件捜索差押許可状記載の「サリンの生成,試験,保管又は運搬に使用したと思料さ れる容器」に該当せず,同許可状記載の「差し押さえるべき物」の範囲を超えており,本 件加熱容器に対する捜索差押えは,憲法35条1項,刑訴法219条1項に違反する。
(5) D甲698の鑑定書は,その鑑定資料である本件加熱容器の付着物の収集手続に 次のとおり令状主義に反する重大な違法があるから,証拠能力はない。
ア 本件加熱容器の押収手続に前記の違法があるから,その付着物の収集手続も違 法である。
イ 本件加熱容器の付着物は,同容器に強く付着しているから,その所有権は,本件 加熱容器の所有者にあるところ,捜査官は,その所有者を確認する努力もせず,鑑定処 分許可状の要否を検討することもなく,漫然とその付着物を遺留物として領置したもので あるから,その収集手続は令状主義を潜脱した違法がある。
(6) D甲823の鑑定資料及びD甲825の鑑定資料のうち一覧表資料番号7ないし9は, 鑑定受託者である医師がB14,B13,B8から採取した血液,脳,肺などの生体資料であ るが,同医師は自らこれらの資料についての検査を行わず,これをいったん長野県警察 本部(以下「長野県警」という。)に任意提出し,長野県警から科学警察研究所(以下「科 警研」という。)に鑑定が嘱託されたものである。しかしながら,他の機関において鑑定さ せるのであれば,別個に鑑定処分許可状により資料の採取をさせるべきであって,上記 のように死体解剖のための鑑定処分許可状をもって,これに代えることは許されない。し たがって,この点において令状主義に反する重大な違法があるから,D甲823の鑑定書 及びD甲825の鑑定書のうち資料番号7ないし9に係る部分は証拠能力がない。
(7) D甲830の鑑定資料のうち一覧表資料番号1の水抽出物は,B7方の池の水につい て長野県警刑事部科学捜査研究所(以下「長野県警科捜研」という。)において抽出作 業をした後のものであるが,この元になる池の水は,B7方の所有物であるのに,何らの 令状もなく遺留品として領置したものである。したがって,D甲830の鑑定書は,上記の 鑑定資料の押収手続に令状主義に反する重大な違法があるから,同鑑定資料に係る部 分は証拠能力がない。
(8) D甲825の鑑定資料のうち一覧表資料番号3,4は,K寮,Mハイツにおいて窓や 家具などを拭き取ったガーゼであるとされているが,この点については何らの立証もされ ていない。したがって,D甲825の鑑定書は,上記の鑑定資料については関連性がない から,同鑑定資料に係る部分については証拠能力がない。
(9) D甲825の鑑定資料のうち一覧表資料番号10ないし15は,B14,B11,B15,B 8,B10,B12の鼻汁,血液などの生体資料であるが,その採取手続には鑑定処分許可 状又は捜索差押許可状が必要であるのに,被疑者が遺留した毒物を遺留物として領置 したものである。したがって,D甲825の鑑定書は,上記の鑑定資料の採取手続に令状 主義に反する重大な違法があるから,同鑑定資料に係る部分については証拠能力がな い。
(10)D甲827ないし829の医師C6作成の各鑑定書は,科警研における血液や現場遺 留物の鑑定の結果,サリン関連物質が検出されたことに依拠しているが,前記のとおり, 科警研における鑑定資料の収集過程に令状主義に反する重大な違法があり,これに基 づく科警研の鑑定書も証拠能力がない。したがって,同鑑定書に依拠したD甲827ない し829の各鑑定書も証拠能力がない。
2 発散現場又は被害者から採取された資料から検出されたものがサリン又はサリン関 連物質であるとする各鑑定の結果には疑問の余地があり,発散されたものがサリンであっ たとの事実について,合理的な疑いをいれない程度の立証がない。
B6サリン事件における弁護人の主張のとおり,青色サリン溶液中のサリンは,生成後約 4か月を経た本件時点においてはサリンはすべてイソプロピルアルコールによって分解さ れている可能性が高い。
3 気化発散されたものがサリンであったとしても,本件後に周辺住民を対象としてされ たアンケート調査では,平成6年6月27日午後8時から同日午後10時までの間に鼻水が 出る,息が苦しいなどの症状を自覚していた人が計13名,本件実行行為から既に7時間 以上経過している同月28日午前6時から同日午前11時までの間も多数の人が同様の 症状を自覚していた旨の結果となっている。本件の実行行為より前に症状を自覚した前 者の13名の症状については実行行為との因果関係が否定されるべきであり,後者の多 数の者の症状については相当因果関係が否定されるべきであるが,どの時点より前ある いはどの時点より後であるなら因果関係が否定されるのか,その限界について,明らかに されていないから,結論において,どの被害者の症状について,実行行為と因果関係が あるのかについて立証がなく,したがって,実行行為と被害者の死傷との間の因果関係 が不明であるというべきである。
4 次の理由から,被告人は,A6やA7らとの間で,判示の松本市内でのサリンによる 無差別殺りく,すなわち,松本市内でサリンを発散させて不特定多数の者を殺害する旨 (松本サリン事件)の共謀をしていない。
(1) 検察官が松本サリン事件の謀議が遂げられたと主張する,平成6年6月20日ころ被 告人の部屋で被告人,A6,A7,A19及びA14の間で行われた話合いにおいては,A6 が突然サリンを散布する旨の提案をしたものの,A7やA14から散布する側の危険性を 指摘されるなどして結局その提案は具体化されることなく否定されたものであって,その 話合いは松本市内でサリンを発散させて人を殺害する旨の共謀と評価されるべき実体を 持たないものである。また,被告人が,サリンを散布する対象を地裁松本支部から裁判所 宿舎に変更することを指示又は了承したことはない。同事件は,A6が,サリンの新しい噴 霧方法を実験してみたいと考え,独断でサリンを散布する計画を進め,A7ら他の実行メ ンバー6名と共に,教団で生成したサリンを松本市内で発散させたものである。
(2) そもそも被告人,A7,A19及びA14は,D3事件又はB6サリン事件等を通じて,教 団で生成したサリンが殺傷力を有するものではないと認識するに至っていた。A6もその 殺傷力に疑問を持たざるを得ない状況であったが,あきらめることなく噴霧方法の工夫に 取り組んでいた。A15は,サリンに殺傷力があることを知らず,A22及びA39は,松本市 内でサリンを散布すること自体を知らされていなかった。
(3) また,被告人は,地裁松本支部に係属していた民事訴訟について,売買部分は勝 訴するだろうとA10から伝えられ,賃貸借部分は当初の予定より手狭な建物が完成して いる以上勝訴しても意味のないことと考えていたのであるから,教団の主張を排斥するお それのある地裁松本支部の裁判官を殺害するために裁判所ないし裁判所宿舎を標的と してサリンを噴霧するという動機は成立し得ないものである。
〔当裁判所の判断〕
第1 弁護人の主張1(違法収集証拠排除)に対する判断
弁護人は,前記のとおり,鑑定書等について違法収集証拠としてその証拠能力が否定 されるべきである旨を主張するので,当裁判所がこれらの証拠についていずれも証拠能 力を肯定した理由について補足して説明する。
1 D甲540(D5西駐車場の土砂の鑑定書)について 関係証拠によれば,①平成6年6月27日深夜から翌28日未明にかけて松本市mにお いて,多数の死傷者が発生した事件が起きたことから,松本警察署警察官C7は,同日 午前6時ころから同年7月5日午後9時15分ころまでの間,付近一帯の全般的な実況見 分を行ったこと,②C7警察官は,何らかの毒物を発生させたとするとその発生源はわず かに白く変色している部分のあるD5西駐車場東側ではないかと考え,同月1日,実況見 分の一環として,2m四方を1区画として同駐車場東側を27区画に分け,各区画から表 面部分について握りこぶし大くらいずつの無価物でしかも毒物が混入している可能性の ある土砂を採取したこと,③D5西駐車場の所有者であるD5は,同日,同駐車場におけ る実況見分に立ち会い,駐車場の範囲等に関するC7警察官からの質問に応じていたこ と,④D5は,同駐車場における実況見分について格別の異議を申し出ていないこと,⑤ 同駐車場は,車両出入口が2か所あり,いずれも鎖はあるが張ってなく,いつも自由に出 入りできる状態になっていたことなどの事実が認められる。
以上の事実関係に照らすと,同駐車場東側における上記土砂の採取は,少なくともそ の所有者であるD5の黙示の承諾を得て行われたものであり,これを採取し領置した手続 に違法はないというべきである。
2 D甲544(B7方及びD5方の各池の水の鑑定書)について
関係証拠によれば,①平成6年6月27日深夜から翌28日未明にかけて松本市mのB7 方及びその周辺において,多数の死傷者が発生した事件が起きたが,松本警察署警察 官C8及び長野県警警察官C9は,その報を受けるとともに,同本部警察官から,C8警察 官においてはB7方の実況見分をするように,C9警察官においてはB7方の池の中に毒 物が混入している可能性があることなどからその池などの水を採取するようにそれぞれ指 示され,同日午前5時ころB7方に赴いたこと,②当時B7方で負傷者が出ていたためB7 らは子供1人を置いて病院に行っており,B7方にやってきた友人のD14がその留守を任 されていたこと,③C8警察官らはB7方でD14の承諾を得て実況見分を始め,同人がそ の立会人となったこと,④C9警察官はB7方の池に行き,その池の水を約250㏄採取し て領置し,さらに,フェンス等もなかったことからその南側にあるD5方の池をB7方の池と 誤信し,D5方の池の水を約250㏄採取して領置したこと,⑤C8警察官は,D14の見て いるところで,B7方の犬小屋の前にあった漬物樽のポリバケツ内の水を約250㏄採取し て領置したが,D14に格別異議を述べられることはなかったことなどの事実が認められ る。
これらの事実に照らすと,C9警察官は,B7方及びその周辺で多数の死傷者が出たと いう状況の下で,B7方の留守を任されているD14の承諾を得て開始されたB7方の実況 見分の一環として,屋外にあるB7方の池の無価物でしかも毒物が混入している可能性のある水を約250㏄採取したにすぎず,犬小屋の前のポリバケツ内の水の採取にも格別 異議が述べられていないのであるから,B7方の池の水の採取については留守を任され ているD14の推定的承諾があったと認められ,したがって,その採取し領置した手続に 違法はないというべきである。
また,C9警察官は,D5方の池の水をその所有者の現実の承諾なく採取したものでは あるが,B7方の適法な実況見分の一環として行う認識の下で,しかも,周囲の状況から D5方の池をB7方の池と誤信して,屋外にあるD5方の池の無価物でしかも毒物が混入 している可能性のある水を約250㏄採取して領置したものであるから,D5方の池の水を 採取し領置した手続に,これを鑑定資料とする鑑定書の証拠能力を否定するまでの瑕疵 があったとはいえないというべきである。
3 D甲566(K寮b号室浴室内の洗面器内の水の鑑定書)について
関係証拠によれば,①前記のとおり,平成6年6月27日深夜から翌28日未明にかけて 松本市mにおいて,多数の死傷者が発生した事件が起きたことから,長野県警警察官C 10は,同警察官C11らを補助者として,同日午前6時5分ころ,同所にあるK寮につい て,同寮の管理人らを立会人として,実況見分を始めたこと,②同寮b号室の居住者B14 は浴室内で倒れ病院に搬送され同日午前2時19分ころ死亡していたことから,C10警察 官は,管理人にb号室のドアの錠を開けてもらい,同室の実況見分を始め,その後,同警 察官から指示を受けたC11警察官が,管理人の立会の下で,同室浴室内の洗面器内の 無価物でしかも毒物が混入している可能性のある水を約250㏄採取し領置したことなど の事実が認められる。
したがって,上記洗面器内の水の採取については,K寮の管理人の承諾があるから,こ れを採取し領置した手続に違法はないというべきである。
4 D甲693(本件加熱容器の鑑定書)について
関係証拠によれば,①平成7年5月18日に発付された地下鉄サリン事件を被疑事実と する本件捜索差押許可状に基づき同月23日から第6サティアン等において捜索差押え がされたが,大規模複雑事案で捜索場所が広範で押収物が多数あることなどからその執 行が中止されたこと,②その後,警視庁警察官C12は,上司から,A27が松本サリン事 件で使った本件加熱容器等を第6サティアンに捨てたと供述している旨聞かされ,本件 加熱容器等の捜索差押えをするよう指示を受け,同年6月14日,本件捜索差押許可状 に基づき捜索差押えを再開し,第6サティアンを捜索し本件加熱容器等を差し押さえたこ と(以下,これを「第1次捜索差押え」という。),③A27がその加熱容器を示され,それが松 本サリン事件で使われたものと確認したことから,同月19日に発付された松本サリン事件 を被疑事実とする差押許可状に基づき,同月20日,本件加熱容器について差押えがさ れたこと(以下,これを「第2次差押え」という。)などの事実が認められる。
そこで検討すると,本件加熱容器は,これに付着残留しているサリン関連物質の鑑定 等を通じて地下鉄サリン事件で使われたサリンと松本サリン事件で使われたサリンが同じ ものであるか否かを明らかにすることにより,地下鉄サリン事件に係る裏付け証拠になり 得るのであるから,第1次捜索差押えは,地下鉄サリン事件の被疑事実に係る証拠につ いてされたものであり,本件捜索差押許可状に基づくそれ以前の捜索差押えとの継続性 も認められ,しかも,本件加熱容器は,地下鉄サリン事件の裏付け証拠となり得る松本サ リン事件で使われた「サリンの保管及び運搬に使用したと思料される容器」に該当するも のであって,第1次捜索差押えは,憲法35条,刑訴法219条1項に違反しないものと解 するのが相当である。もとより,本件加熱容器は,松本サリン事件の被疑事実に係る差押 許可状に基づき第2次差押えがされており,その押収過程に何ら違法はないというべき である。
5 D甲698(本件加熱容器の付着物の鑑定書)について
本件加熱容器の押収手続が違法でないことは前記のとおりであるから,その違法を前 提とする弁護人の前記主張は理由がない。
次に,関係証拠によれば,警視庁警察官C13は,平成7年6月16日,警視庁築地警察 署において,本件加熱容器の実況見分と並行して,上司の指示により,金ベラでこそぎ 落としたりすくったりし,キムワイプでふき取り,ピンセットで直接つまみ,鑑識採証テープ に押し当てて付着させるなどの方法により本件加熱容器の合計14か所から付着物を採 取したことが認められる。そして,このようにして押収物である本件加熱容器からその付着 物を取り去ること自体は,本件加熱容器の実況見分をするに当たっての押収物の処分と して許されるところ,その取り去った付着物自体は無価物であるからその占有をそのまま 取得できることは明らかである。したがって,本件加熱容器の付着物の収集手続に,その 付着物を鑑定資料とする鑑定書の証拠能力に影響を及ぼす違法があるものとは考えら れない。
6 D甲823,825(資料番号7ないし9関係)(B14,B13,B8から採取した血液の鑑定 書)について
関係証拠によれば,①医師C6は,平成6年6月28日,松本警察署からB8,B14及び B13の死因等について鑑定を嘱託され,同日,鑑定処分許可状に基づき,上記3人の 死体を解剖し,その際,3人の心臓血,脳,肺の各一部を採取し,その毒物の含有の有 無等について他の機関で検査してもらうために,これらを長野県警に任意提出し,同県 警から鑑定嘱託を受けた科警研で,上記の資料のうち心臓血についてだけ鑑定がされ, その経緯及び結果についてD甲823,825の各鑑定書が作成されたこと,②C6医師 は,その鑑定内容を参考にして,上記3人の死因等について鑑定を行い,D甲827ない し829の各鑑定書を作成したことが認められる。
ところで,死亡者の死因等について鑑定を受託した鑑定人は,鑑定について必要があ る場合には,鑑定処分許可状に基づき死体を解剖することができるとされている(刑訴法 225条1項,168条1項)が,死因等を鑑定するために解剖の際血液の一部を採取して 保管し,その毒物含有の有無等について自ら検査するのみならず,自らの鑑定を補助さ せるために他の機関に毒物含有の有無等の検査を依頼する意図でこれを捜査機関に 任意提出することもまた,格別遺族の権利ないし利益を新たに侵害することがないことか ら,許されるものと解するのが相当である。
したがって,C6医師は,死因等の鑑定のために,解剖の際血液の一部を採取して保 管し,自らの鑑定を補助させるために他の機関にその毒物含有の有無等について検査 を依頼する意図で,これを長野県警に任意提出したものであるから,その行為に違法が あるとは認められない。もとより,関係証拠から認められる遺族感情等に照らすと,当該血 液の処分について遺族の推定的承諾がないものとは考えられず,いずれにしても,前記 の鑑定書の証拠能力が否定されるいわれはないというべきである。
7 D甲830(資料番号1関係)(B7方の池の水の抽出物)について
関係証拠によれば,①長野県警科捜研は,前記2のB7方の池の水について毒劇物含 有の有無等について鑑定の嘱託を受け,その水についてノルマルヘキサンを加えて抽 出操作をするなどして鑑定を実施したこと,②科警研は,長野県警から同県警科捜研で 使用した残りについて毒物含有の有無等について鑑定の嘱託を受けて鑑定し,その鑑 定資料を資料番号1とするD甲830の鑑定書を作成したことが認められる。
そうすると,上記B7方の池の水を採取し領置した手続に違法がないことは前記2のとお りであるから,D甲830の鑑定書(資料番号1関係)の証拠能力が否定される理由はない というべきである。
8 D甲825(資料番号3,4関係)(K寮,Mハイツで窓や家具などをふき取ったガーゼ の鑑定書)について
D甲19,25,825,C7,C14及びC10の各公判供述によれば,①D甲825の資料番 号3は,平成6年6月28日及び同月29日に行われたK寮の実況見分の際同寮b号室の 各窓の外側・内側や家具等の表面をふき取ったガーゼ合計22枚であること,②D甲825 の資料番号4は,同月28日及び同月29日に行われたMハイツの実況見分の際同ハイ ツ3階の11室の窓や窓枠の外側又は内側をふき取ったガーゼ合計20枚であることが認 められ,D甲825の資料番号3,4の鑑定資料について関連性を優に肯定することができ る。
9 D甲825(資料番号10ないし15)(B14,B11,B15,B8,B10,B12の生体資料 の鑑定書)について
関係証拠によれば,①長野県警警察官C15は,平成6年6月28日午前7時50分ころ からB14ら死亡者7名の遺体の実況見分をした際,一定の地域で同時に7人の死者や 多数の傷病者が出たことから,その原因物質と思われる毒物を可及的速やかに究明する 緊急性及び必要性を認め,その指示によりB14,B11,B15,B8,B10及びB12の各遺 体から,若干量の血液が医師により注射器で採取され,又は,若干量の鼻汁が警察官に より採取され,いずれも領置手続がとられたこと,②これらの血液や鼻汁を資料番号10な いし15としてその毒物含有の有無等について鑑定嘱託がされ,科警研においてその経 過及び結果を含むD甲825の鑑定書が作成されたことが認められる。
そこで検討すると,まず,鼻汁の領置については,鼻汁は無価物であり遺体を傷つける ことなく容易に採取することができるから,その手続に違法があるとはいえない。次に,血 液の領置については,毒物と思われる物により一定の地域で同時に多数の死傷者が発 生したという重大事件の解明のために原因物質である毒物を早期に究明する緊急性及 び必要性の認められる状況の下で,毒物が含有されていると思料される血液を,しかも, 医師によりそれほど遺体を傷つけることなく少量採取して行われたものである上,関係証 拠から認められる遺族感情等に照らすと,血液の採取について遺族の推定的承諾がないものとは考えられないことなどに照らすと,その領置手続に鑑定書の証拠能力を否定 し得るほどの瑕疵があるとはいえない(なお,B8の鼻汁については鑑定がされていな い。)。
10 D甲827ないし829(B14,B13,B8の死因等の鑑定書)について
関係証拠によれば,D甲827ないし829の各鑑定書は,遺体から採取された血液や鼻 汁からサリン関連物質が検出された旨の科警研における鑑定結果を参考にしていること が認められるところ,科警研における上記鑑定資料の収集過程に令状主義に反する重 大な違法はなく,科警研の鑑定書の証拠能力を否定することができないことは,これまで 検討したとおり明らかであるから,その鑑定書を参考にしたD甲827ないし829の各鑑定 書の証拠能力もまた否定される理由はないというべきである。
第2 弁護人の主張2(気化発散された物質がサリンか否か)に対する判断
1 関係証拠によれば,次の事実が認められる。
(1) 前記の噴霧場所から数mくらいしか離れていないD5方の池の北方十数mくらいの ところにあるB7方にいたB9及びB7は,平成6年6月27日午後11時30分ころ,E32病 院に搬入され,その際,B9は,心肺停止状態にあり,瞳孔は縮瞳し左右共2㎜であり,血 液中のコリンエステラーゼ値は8(同病院の計測による正常値が100ないし240)という状 態であった。B7は,同病院に搬入された際,全身の筋肉の痙攣,著名な発汗,発熱等 が見られ,瞳孔は縮瞳し1㎜であり,血液中のコリンエステラーゼ値は低下し24(正常値 は上記のとおり)であった。D5方の池の北東やや東よりに四十数mくらいのところにある Mハイツのl号室にいたB17は,同月28日午前1時ころ,同病院に搬入され,その際,呼 吸困難,著名な発汗が見られ,瞳孔は縮瞳し左右共2㎜であり,血液中のコリンエステラ ーゼ値は低下し12(正常値は上記のとおり)という状態であった。同病院における上記3 人の診察,治療は,医師C16らが担当した。同病院には同じころ上記3人の他にも同様 の症状の患者が15人入院したが,これらの入院患者の介護や処置に当たった10人の 看護婦全員から,目が痛む,周囲が暗く見えるなどの症状が認められた。(D甲75,85 1,C16,C17等)
D5方の池の北東やや北寄りに四十数mくらいのところにあるLハイツのg号室にいたB 16は,同月28日午前1時25分ころ,E33病院に搬入され入院した際,眼振があって注 視することができない,口から泡沫状の分泌物が大量にある,呼吸状態が極めて不安定 である,全身の筋肉に筋線維束攣縮があるなどの症状が認められたほか,瞳孔は縮瞳し 左右共0.5㎜であり,赤血球中のコリンエステラーゼ値は0.1以下(同病院の計測による正 常値は1.1ないし2),血しょう中のコリンエステラーゼ値は21(同病院の計測による正常値 は109ないし249)で共に低下していた。B16の診察,治療は,同病院医師C18が主治 医を指名しこれを指導して行った。(C18)
(2) 松本警察署警察官が,平成6年6月28日午前2時56分ころからLハイツc号室の, 同日午前3時45分ころから同ハイツd号室の,同日午前4時19分ころから同ハイツf号室 の各実況見分をした際,それぞれの室内で死亡していたB8,B10及びB11の各瞳孔は いずれも縮瞳し,左右共それぞれ,約2㎜,約3㎜,約2㎜であった(D甲15ないし17,C 19等)。
医師C6は,平成6年6月28日午後2時58分から,D5方の池の東方二十数mのところ にあるK寮のb号室で倒れたB14の,同日午後7時21分からLハイツで死亡したB8の, 同日午後10時20分からMハイツで死亡したB13の各死体解剖をした際,3人共,主要 臓器の高度のうっ血,眼瞼結膜下に溢血点,暗赤色流動性血液などの強い急死所見が 認められ,瞳孔はいずれもやや縮小し,B14及びB8においていずれも3㎜,B13におい て4㎜であり,また,3人とも農薬の異臭はなかった(D甲827ないし829,C6等)。
(3) 長野県警科捜研技術吏員C3らは,B14が倒れていたK寮b号室の浴室で採取され た前記洗面器内の水,D5西駐車場の東側から採取された前記の土砂並びに前記の採 取に係るB7方の池の水,その池に注いでいる井戸の水,D5方の池の水及びB7方の犬 小屋の前にあったポリバケツ内の水に毒劇物が付着しているかなどについて,平成6年6 月28日から平成7年2月14日まで,GC/MS(EI法)等の方法により鑑定を行い,上記 の洗面器内の水,土砂,B7方の池の水,D5方の池の水及びポリバケツ内の水がサリ ン,メチルホスホン酸モノイソプロピル,メチルホスホン酸及びメチルホスホン酸ジイソプロ ピルを含有する旨並びに上記の井戸の水がメチルホスホン酸モノイソプロピル及びメチ ルホスホン酸を含有する旨の鑑定結果を得た(D甲540,544,566,C3等)。
(4) 科警研警察庁技官C20らは,上記C3技術吏員らが上記のB7方の池の水につい てノルマルヘキサンを加え抽出操作などをして鑑定をした,その残りの抽出物である有機 溶媒層の部分が毒物を含有するかなどについて,平成6年7月1日から同年9月20日ま で,GC/MS(EI法及びCI法)等の方法により鑑定を行い,上記の資料がサリン及びメチルホスホン酸ジイソプロピルを含有する旨の鑑定結果を得た(D甲830,C20等)。
(5) C20技官らは,前記のK寮やMハイツの実況見分の際同寮b号室及び同ハイツ3 階の窓等をふき取ったガーゼ並びにLハイツ,Mハイツ及びK寮で死亡した被害者7人 から前記の実況見分又は死体解剖の際採取された血液又は鼻汁が毒物を含有するか などについて,平成6年6月29日から平成7年1月27日まで,GC/MS(EI法又はCI 法)その他の方法により鑑定を行い,死亡被害者7人の各血液の血しょうブチリルコリンエ ステラーゼ(BChE)と赤血球アセチルコリンエステラーゼ(AChE)の各活性値(単位は U/ミリリットル),同各血液又は鼻汁におけるサリン,メチルホスホン酸モノイソプロピル(M IMP),メチルホスホン酸(MPA)及びメチルホスホン酸ジイソプロピル(DIMP)の含有 の有無について下記の結果を得たほか,上記の窓等をふき取ったガーゼがメチルホスホ ン酸モノイソプロピル,メチルホスホン酸及びメチルホスホン酸ジイソプロピルを含有する 旨の結果を得た。なお,健康人8人から採取した輸血用保存血について同様の測定条 件で得たコリンエステラーゼ値については,BChEは1.84~4.45で,その平均値は3.0 0,標準偏差は0.80,AChEは2.21~7.56で,その平均値は4.91,標準偏差は1.62 である。(D甲823,825,C20等)
記
B8 0.93 と 0.41 血液:MIMP,MPA,DIMP含有
B10 0.70 と 0.29 血液:MIMP,MPA,DIMP含有
鼻汁:サリン, MPA,DIMP含有
B11 0.51 と 0.66 血液:MIMP,MPA 含有
B12 0.43 と 0.41 血液:MIMP,MPA,DIMP含有
鼻汁:MIMP,MPA,DIMP含有
B13 0.82 と 0.22 血液:MIMP,MPA,DIMP含有
B15 0.60 と 0.32 血液:MIMP,MPA 含有
B14 1.26 と 0.59 血液:MPA, DIMP含有
鼻汁:MIMP,MPA,DIMP含有
(6) 科警研警察庁技官C2らは,サリン噴霧車の噴霧装置を構成する本件加熱容器か
ら採取された前記の付着物にサリン及びサリン分解物質が付着しているか否かについ
て,平成7年6月21日から同年10月2日まで,GC/MS(EI法及びCI法)等の方法によ
り鑑定を行い,前記採取に係る付着物がサリンの第1次分解物であるメチルホスホン酸モ
ノイソプロピル及び第2次分解物であるメチルホスホン酸並びにサリンの副生成物である
メチルホスホン酸ジイソプロピルを含有する旨の鑑定結果を得た(D甲698,C2等)。
2 上記認定事実のとおり,①上記負傷被害者4人の病院搬入時における縮瞳等の症 状や血液中のコリンエステラーゼ値低下の程度,②上記死亡被害者7人の縮瞳等の状 況や血液中のコリンエステラーゼ値低下の程度,③同死亡被害者7人の血液又は鼻汁 がサリン,サリンの第1次分解物であるメチルホスホン酸モノイソプロピル,第2次分解物 であるメチルホスホン酸又はサリンの副生成物であるメチルホスホン酸ジイソプロピルを 含有すること,④噴霧場所であるD5西駐車場東側の土砂,B7方の池の水,同池に注い でいる井戸の水,D5方の池の水,B7方のポリバケツ内の水,K寮b号室及びMハイツ3 階の窓等をふき取ったガーゼが,サリン,メチルホスホン酸モノイソプロピル,メチルホス ホン酸及びメチルホスホン酸ジイソプロピルを含有すること,⑤サリン噴霧車の噴霧装置 を構成する本件加熱容器の付着物がメチルホスホン酸モノイソプロピル,メチルホスホン 酸及びメチルホスホン酸ジイソプロピルを含有することなどに照らすと,サリン噴霧車から 加熱気化され発散された物質はサリンを含有するものであり,そのサリンに被ばくし,上 記死亡被害者7人がサリン中毒により死亡し,上記負傷被害者4人がサリン中毒症の傷 害を負ったものであることは明らかである。
そして,上記の生体資料や現場資料等の毒物含有の有無等に関する鑑定や,被害者 の血中コリンエステラーゼ値の検査,縮瞳その他被害者に見られる症状の確認は,異な る研究所や病院において,異なる研究者や医師により,本件の手段方法が明らかでない 時期に行われたものであり,しかも,その結果,いずれの鑑定資料からも,サリン,サリン の分解物又はその副生成物の少なくともいずれかが検出され,どの被害者にもサリン中 毒の症状である縮瞳や血中コリンエステラーゼ値の低下が認められるに至ったものであ って,上記の鑑定,検査及び確認は,相互にその正確性ないし信用性を補強し合ってい るものといえる。
3 これに対し,弁護人は,(1) 青色サリン溶液にサリンが含有されていたとしても,生成 から4か月を経た松本サリン事件当時においてはサリンはすべてイソプロピルアルコール によって分解されている可能性が高い,(2) 青色サリン溶液がサリンを含有するものであ っても,本来のサリンとしての殺傷力を有するものか否かは不明であるなどと主張する。
しかしながら,B6サリン事件における弁護人の主張に対する判断において,詳細に説 示したとおり,青色サリン溶液は,松本サリン事件当時においても,なお相当程度サリン を含有していたというべきであり,また,それが強い殺傷力を有するものであることは松本 サリン事件の結果をみても明らかである。
弁護人の上記主張は採用することができない。
4 弁護人は,C3技術吏員ら作成の各鑑定書(D甲540,544,566)について,①同 技術吏員は,毒劇物としてシアンを疑いながらこれを恣意的に除外してその検出を試み ることなく,しかも,サリンとの当たりをつけ,質量スペクトルにおいても質量数が50未満の ものは除外するなど恣意的に分析している,②GC/MSによる分析だけでは物質の同 定としては不十分である,③質量スペクトルにおける各ピークの強度比の数値が鑑定書 に記載されておらず明らかにされていない,④ライブラリーサーチの精度が8割というの ではその精度そのものが疑わしいなどの理由から,上記各鑑定書の正確性に疑問があ る旨を主張する。
しかしながら,関係証拠によれば,C3技術吏員は,現場の状況等から揮発性が高い有 機リン系の毒物ではないかと考え,ただ有機リン系の毒物でガス状の物質が分からない ので,とにかく加熱してガスを分析するという姿勢で操作をしたものであり,また,質量の 小さいもののピークは元の化合物を推定するに当たってさほど特徴的な情報を与えない 上,比較対照すべきニストのライブラリーも質量数50から表示されているので,質量数は 50以上のものをとったものであって,分析が恣意的であるという非難は当たらない。次 に,関係証拠によれば,GC/MSとは,物質に特有な保持時間と質量スペクトルを測定 してその化合物が何であるかを同定する検査方法であり,GC/MSにおいて保持時間 と質量スペクトルが一致するものがあれば,それは非常に強力な物質の同定の手段とな ると考えられているのであり,GC/MSだけでは物質の同定が不十分であるとはいえな い。さらに,質量スペクトルにおける各スペクトルの強度比は数値では表されていない が,チャートは添付されているのであるから,正確性に欠けるとはいえない。関係証拠に よれば,C3技術吏員は,ニストのライブラリーサーチにより,最初に類似度の最も高い物 質としてサリンがヒットした際,高い確率で鑑定資料がサリンであるとの認識を有していた ものである上,類似度第2位でヒットしてきた物質のスペクトルは明らかに違うスペクトルで あったものであるから,サリンと同定した結論に格別の問題はないというべきである。
以上のとおりであるから,上記各鑑定書(D甲540,544,566)の正確性ないし信用性 に疑問がある旨の弁護人の主張は採用することができない。
5 弁護人は,C2技官ら作成の鑑定書(D甲698)について,①GC/MSによる分析 だけでは物質の同定としては不十分である,②サリンとの当たりをつけてピークを取捨選 択するなど客観性を欠く分析をしている,③質量スペクトルにおける各ピークの強度比の 数値が鑑定書に記載されておらず明らかにされていないなどの理由から,上記鑑定書の 正確性に疑問がある旨を主張する。
しかしながら,①,③については前記4で説示したとおりであり,②については,関係証 拠によれば,主たる鑑定事項は鑑定資料にサリン及びサリン分解物質が付着しているか 否かであるから,サリン又はその関連物質と当たりをつけて分析してもその客観性に疑問 はないし,実際には,機械によるよりも正確に判断できる肉眼により特定できるすべての ピークについて解析をした上で結論を出しているのであり,その分析の方法に格別問題 があるとはいえない。
以上のとおりであるから,上記鑑定書(D甲698)の正確性ないし信用性に疑問がある 旨の弁護人の主張は採用することができない。
6(1) 弁護人は,C20ら作成の各鑑定書(D甲823,825,830)について,①血液のコ リンエステラーゼ活性値の測定の正確性に疑問がある,②血液の毒物検査について,G C/MSによる分析だけでは不十分である,③D甲823はB14の血液がメチルホスホン 酸ジイソプロピルを含有するとするが,標品とはスペクトルが一致しておらず,EI質量スペ クトルも得られていない,④D甲825の血液鑑定資料からメチルホスホン酸モノイソプロピ ル及びメチルホスホン酸が検出された点については,資料番号9の質量スペクトルしか添 付されておらず,恣意的である上,死亡被害者によりメチルホスホン酸モノイソプロピル やメチルホスホン酸ジイソプロピルの検出の有無が区々であり,矛盾がある,⑤D甲830 は,保持指標が文献値と完全に一致しているわけではなく,スペクトルの比較も不十分で あり,CI法も分子量を確定することができるわけではなく,リンを含むとしてもサリンと矛盾 しないというだけであるから,サリンと同定することはできない,⑥D甲825の資料14の鼻 汁について,その質量スペクトルはサリンのそれとは一致していないから,同資料からサ リンが検出されたとはいえず,同様に,D甲825の資料15の鼻汁について,その質量ス ペクトルはメチルホスホン酸モノイソプロピルのそれとは一致していないから,同資料からメチルホスホン酸モノイソプロピルが検出されたとはいえない,⑦C20技官は,標品として サリンを合成し又は自衛隊から入手した疑いがあり,鑑定資料と標品とを比較するとサリ ンと同定することができなくなるため,標品の質量スペクトルを提出しない疑いがあるなど の理由から,上記鑑定書の正確性に疑問がある旨を主張する。
(2) しかしながら,①についてみると,関係証拠によれば,死亡被害者らの血液のコリン エステラーゼ活性値の測定では,ピペッターの精度や分光光度計の読み等の誤差があ るため誤差自体は避けられないが,その誤差は5%前後にとどまるものであり,また,C2 0技官は,上記の測定において,原則として1検体につき2回測定してその平均値を結果 としたが,その差が10%を超える場合は測定回数を増やすなどして平均値を是正したも のであるから,上記の測定にその正確性に疑問を抱かせるような事情は見出せないし, もとより,死亡被害者らの血液のコリンエステラーゼ活性値が正常人のそれに比し著しく 低いことは前記認定に係る数値の比較から明らかである。
②については前記4で説示したとおりであり,GC/MSによる分析だけで不十分とはい えない。
③についてみると,関係証拠によれば,D甲823の鑑定資料のEI質量分析において は,妨害ピークが非常に強いため保持時間752秒に特異なピーク及び質量スペクトルは 得られなかったものの,不純物の影響を受けにくいCI質量分析においては,妨害ピーク が多いながらも,サリンの副生成物であるメチルホスホン酸ジイソプロピルの擬分子イオ ンピークm/z181及び特徴的なフラグメントイオンピークm/z139,97等が観測され, これらのイオンの強度比がメチルホスホン酸ジイソプロピルの標品のそれと類似しており, また,同鑑定資料からサリンの第2次分解物であるメチルホスホン酸が検出され,他の鑑 定資料の血液からもメチルホスホン酸ジイソプロピルが検出されていることなどを総合考 慮して,D甲823の鑑定資料がメチルホスホン酸ジイソプロピルを含有する旨の鑑定結 果が出されたものであり,格別その鑑定結果に誤りがあるとは認められない。
④についてみると,関係証拠によれば,C20技官は,D甲825において,すべての検 査結果のスペクトルチャートを添付すると膨大な量になり鑑定書として非常に見づらくな ることを考え,代表的なもののみを鑑定書に添付することとしたものである上,サリンを含 む4種のサリン関連化合物のそれぞれについて,検出しなかったものと検出したものに分 け,後者についてはさらにトータルイオンクロマトグラムで明確なピークが出たもの,トータ ルイオンクロマトグラムでは若干見づらいがピークとしてはっきり見えるもの,トータルイオ ンクロマトグラムではっきり見えないがマスクロマトグラムを使うとピークとして出てくるもの に分けて検出結果をまとめたものであり,格別その鑑定が恣意的であるとの疑いはない。 また,関係証拠によれば,死亡被害者によりメチルホスホン酸ジイソプロピルが検出され なかったのは,沸点の異なるサリンとメチルホスホン酸ジイソプロピルが気化発散した後 均一の状態で流れていき,双方が全く同じように体内に吸収され分解されたとはいえな いなどの種々の理由により検出レベルに達していなかったことによると考えられるのであ るから,死亡被害者によりサリン関連物質の検出の有無が区々となるのが矛盾であるとま ではいえず,むしろ,上記鑑定が誠実かつ正確に行われたものであることを示唆してい る。
⑤についてみると,関係証拠によれば,GC/MSにおいて,同じDB-5のカラムを使 う場合でもメーカーによる違い等があることから,保持指標の一致の有無の評価に当たっ ては,プラスマイナス10くらいまでは許容範囲であると認められる上,サリンの保持指標 については文献上817から829までとされているのに対し,D甲830の鑑定資料の各測 定法によるピークAの保持指標はその範囲内にある817,822,829のほか上記許容範 囲内にある813であるから,鑑定資料の保持指標がサリンのそれと一致していると認める ことに格別の支障はないというべきである。加えて,関係証拠によれば,四重極型GC/ MS(EI法)において,保持時間4.97分のピークについて,ライブラリーサーチの結果, 類似度第1位でサリンであることが示唆されたこと,イオントラップディテクター型GC/M S(EI法,CI法)においてもサリン特有のフラグメントイオンピークを持つ分子量140の化 合物であることが示され,上記ピークがサリンであることが支持されたことなどに照らすと, D甲830におけるサリンの同定についての鑑定結果には何ら疑問がないというべきであ る。
⑥についてみると,関係証拠によれば,D甲825の資料14及び同15の各鼻汁につい て,イオントラップディテクター型GC/MS(EI法,CI法)等による分析がされ,資料14に ついては,その保持時間406秒がサリンのそれと一致し,不純物を多く含む生体資料に 由来する妨害を受けやすいEI法においてもサリンを比較的よく示す99と125のピークが EI質量スペクトルに含まれ,しかも,そのピークがサリンの場合と同様に3対1の割合で現 れていること,不純物の影響を受けにくいCI質量スペクトルではサリンのそれとほぼ一致するスペクトルが得られたこと,窒素リン検出器付きGCによる検査でもサリンの場合と同 等のピークが得られたことなどを総合して同資料がサリンを含有する旨の鑑定がされ,資 料15については,EI質量スペクトルでは不純物による妨害が多くメチルホスホン酸モノイ ソプロピルを示すピークについては153のもののみ確認できるにとどまるが,不純物の影 響を受けにくいCI法ではメチルホスホン酸モノイソプロピルの含有を強く支持する質量ス ペクトルが得られたことなどから,同資料がメチルホスホン酸モノイソプロピルを含有する 旨の鑑定がされたものであり,これらの判断に誤りがあるとは認められない。
⑦については,C20技官らが,サリン標品の質量スペクトルと鑑定資料のそれとの不一 致を隠ぺいしている趣旨の弁護人の主張は何ら根拠がないといわざるを得ない。
以上のとおりであるから,上記各鑑定書(D甲823,825,830)の正確性ないし信用性 に疑問がある旨の弁護人の主張は採用することができない。
7(1) 弁護人は,C6医師作成の各鑑定書(D甲827ないし829)は,①同医師は,死体 検案医師からの情報やマスコミ報道等により原因物質がサリンであるとの予断を抱いて, 死亡被害者の死因をサリンによる中毒死とした,②信用性のない科警研の鑑定書を問題 のないものと考え,これを引用して,死因についてサリンによる中毒死との結論を出して いる,③C6医師には,コリンエステラーゼ活性値についての判断能力が欠如している, ④同医師は,原因物質はサリンであるとの予断に基づき,縮瞳が明確ではなかったにも かかわらず,縮瞳がある旨の所見を鑑定書に記載した,⑤同医師は,死亡被害者の急 死所見として主要臓器のうっ血があったことを供述するが,鑑定書にその記載はなく,ま た,同医師のサリン中毒に関する見解は一般的なものではないし,毒物の摂取経路につ いて経口からの可能性を考えることなく,胃の内容物の検査もしなかったなどの理由を挙 げて,上記各鑑定書の正確性ないし信用性に疑問がある旨を主張する。
(2) しかしながら,関係証拠によれば,同医師は,死体解剖の際の急死の所見や縮瞳 の状況に加え,前記のとおり,血液からサリン関連物質が検出され,血液のコリンエステ ラーゼ値が低いという,信用性の高い科警研の鑑定結果をも総合考慮して上記の鑑定を したものであって,原因物質がサリンであるとの予断に基づき恣意的に鑑定をしたとは認 められない。また,同医師はコリンエステラーゼ活性値についての判断能力が欠けている とはいえないし,同医師は,解剖時における瞳孔の大きさの標準である5㎜と比較して各 死亡被害者の瞳孔径3㎜,4㎜を縮瞳とみたものであり,それが誤りであるとはいえない。 さらに,同医師は,公判で,鑑定書に基づきうっ血を示す所見を具体的に供述している し,サリン中毒の具体的な機序については専門家により説明の仕方が千差万別であり同 医師のそれも他の専門家と全く同じというわけではないが,サリンの中毒作用に関する同 医師の見解は,アセチルコリンエステラーゼ活性の阻害を中心に考える一般的なもので ある。加えて,同医師は,上記鑑定に当たり,胃の内容物の検査はしていないが,少なく とも農薬由来の異臭がないことは確認しており,その検査をしなかったことが鑑定結果を 左右するとは考えられない。
以上のとおりであるから,上記各鑑定書(D甲827ないし829)の正確性ないし信用性 に疑問がある旨の弁護人の主張は採用することができない。
8(1) 弁護人は,①負傷被害者4人がサリン中毒による傷害を負ったとするには,カーバ メイト系薬物,メチルホスホン酸モノイソプロピル,メチルホスホン酸などのサリン以外の薬 物による中毒でないことが客観的に判断される必要があるが,これらの被害者を診察した 医師は,そのような判断をすることなくサリン中毒の診断をしている,②B7を診察したC1 6医師は,その重要な臨床所見として著名な発汗を挙げたが,医師記録や看護記録に その記載がないから,そのような所見はなかったものである,③B17について,診断書 (D甲851)の根拠となった診療所見表は縮瞳の記載に誤りがあるなど症状の記録がで たらめである上,保険診療録にはサリン中毒の記載がなく,同被害者の転院前の診療所 見が中等症とされているのに対し,転院後のC17医師の診療所見は重症としているのは 不合理である,④B16の治療に当たったC18医師は,その治療の過程において,ジアゼ パム及び硫酸アトロピンを投与したがパムを投与していないなどサリン中毒を念頭に置い た治療をしておらず,また,同被害者には心室性期外収縮(いわゆる不整脈)が生じてい るがこれは本件で散布された物質による中毒の症状ではないことなどを理由として,負傷 被害者4人がサリン中毒の傷害を負った旨のC16医師,C17医師及びC18医師の各公 判供述並びに診断書(D甲851,B17関係)は信用することができない旨を主張する。
(2) しかしながら,①についてみると,関係証拠によれば,(ア) B9,B7及びB17の3人を 診察したE32病院医師C16は,これら3人にみられた縮瞳,呼吸困難,著名な発汗等の 症状やコリンエステラーゼ値の低下などから有機リン中毒を疑い,さらに,現場からサリン が検出された旨の警察発表を踏まえ,上記の症状がサリン中毒の症状と合致すること, 被害者から農薬を服用したときのような異臭がしないことや,被害者らと長く接触していた看護婦らに目が痛み周囲が暗く見えるなどの二次汚染が生じたことなどを併せ考慮し て,上記被害者3人がサリン中毒の傷害を負った旨の診断をしたものであること,(イ) 転 院後のB17の診断治療に当たったE19病院医師C17は,まず縮瞳やコリンエステラー ゼ値の低下などから有機リン中毒の一種と考え,現場から有機リンの一種であるサリンが 発見された旨の警察発表から,縮瞳やコリンエステラーゼ値の低下が何百人単位で起き ていることも併せ考慮した上で,同被害者がサリン中毒の傷害を負った旨の診断をしたこ と,(ウ) B16の主治医を指導したE33病院医師C18は,B16の縮瞳,筋線維攣縮,呼吸 状態等やコリンエステラーゼ値の低下などから有機リン系の毒物による中毒を最も疑い, 最終的には,周囲からサリンが検出された旨の警察からの情報を踏まえ,集団で中毒が 発生していることや,B16の尿を分析したところ,サリンの分解物であるメチルホスホン酸 及びメチルホスホン酸モノイソプロピルを検出したことなどを併せ考慮し,同被害者がサリ ン中毒の傷害を負った旨の診断をし,あるいは,その旨の公判供述をしたことが認めら れ,これらの医師の診断又は公判供述に格別不合理な点はないというべきである。
②についてみると,C16医師は,公判で,看護記録や医師記録にB7の著名な発汗に ついて記載がされていないことを認めた上で,6月28日午前8時半ころ同人に著名な発 汗があり,それゆえに全身の脱水を考え,重症看護記録に記載されているように合計25 00㏄の点滴をした旨の,具体的な根拠に基づく信用性の高い供述をしており,その供述 に沿う著名な発汗があったと認められる。
③についてみると,関係証拠によれば,(ア) 弁護人の指摘する診療所見表には若干の 記載ミスがあるものの,診断書(D甲851)には縮瞳について正確に記載されており,(イ) 保険診療録にはサリン中毒の記載がないが,保険診療の事実上の制約から,疑われる 他の傷病名が記載されたものであり,(ウ) サリン中毒は症状判断が確立していない傷病 で,重症かどうかの判断について専門家の間で見方の相違があったとしても不思議では なく,C17医師はB17のコリンエステラーゼ値が死亡被害者より低いことに着目して重症 である旨の診断をしたものであって,その診断に不合理な点はうかがわれない。
④についてみると,関係証拠によれば,C18医師は,B16の傷病名について当初はサ リンと特定することなく何らかの有機リン系の毒物による中毒であると判断した上で,パム を使うと他にも存在するかもしれない毒物が別の症状を引き起こすのではないかと考え, パムの使用経験が少ないことや,現に硫酸アトロピンで症状が改善してきていることなど もあってパムの使用を控えたものであるが,前記のとおり,同医師は,現場からサリンが検 出された旨の警察情報などをも併せ考慮して最終的にB16がサリン中毒の傷害を負った 旨の診断をしたのであるから,上記の経緯があったからといって,その診断が誤ったもの であるということにはならない。また,C18医師は,公判で,「B16は,今回の事件の前に 心電図の異常を指摘されたことがなく動悸も感じたことがなかったのに今回の事件後は 自覚症状として動悸を感じるようになるとともに,事件後現れた徐脈が改善してきた段階 で,著しい心室性期外収縮(いわゆる不整脈)が出現し,その後改善傾向を示しているこ とに照らすと,上記の心室性期外収縮は今回の事件によって生じた傷害である。」旨の 同医師の診断結果及び根拠を供述しているが,その診断内容は,格別不合理な点はな いというべきである。なお,この点に関連して,弁護人は,B16が回復までに長期間かか ったとしてもそれがすべて本件で散布された物質によるものではない旨を主張するが,関 係証拠によれば,同人が加療等を要する症状は,上記の心室性期外収縮だけではなく 脳波異常も含まれ,しかも,いずれの症状もサリンによるもので加療等日数として613日 間を要するものと認められるのであるから,もとより,弁護人の上記主張は理由がないとい うべきである。
以上のとおりであるから,負傷被害者4人がサリン中毒の傷害を負った旨のC16医師, C17医師及びC18医師の各公判供述並びに診断書(D甲851)は信用することができな い旨の弁護人の前記主張は採用することができない。
第3 弁護人の主張3(因果関係の存否)に対する判断
サリンを気化発散させた本件実行行為により死亡被害者7人がサリン中毒により死亡 し,負傷被害者4人がサリン中毒症の傷害を負ったこと,すなわち,本件実行行為と死傷 被害者合計11人の死傷との間に因果関係が存することについては,これまで個別に検 討してきたことから明らかであり,それ以上に一般的にどの時点より前あるいはどの時点 より後であるなら因果関係が否定されるのかについてまで明らかにする必要はないという べきであるから,弁護人の主張3はそれ自体失当というべきである。
なお,弁護人の主張にかんがみ検討すると,E34作成の松本市有毒ガス中毒調査報 告書(弁70)によれば,松本市が本件実行行為がされた現場に隣接し居住する住民に 対し,平成6年7月中旬,自覚症状の有無等を調査し被害の実態を把握するため健康に 関するアンケート調査を実施した結果,アンケート回答者で自覚症状を感じた者約470人のうち,本件実行行為がされる前の時点である同年6月27日午後10時までの間に自 覚症状を感じたと回答した者が13人いたものであるところ,その自覚症状には,くしゃみ が出た,鼻水が出た,せきが出た,息苦しかったなど,サリン中毒以外の原因で起こる症 状も少なくないし,また,そのうち1人は,同日午後8時から同日午後9時までの間に目の 前が暗いという症状を自覚したものでもあるが,2週間以上も後の調査でその時間帯を覚 えていたのかどうか,実際に「目の前が暗い」と感じたのかどうか,どのように目の前が暗 いと感じたのかなどという点について十分な吟味もされていないのであるから,同日午後 10時までの間に自覚症状を感じたと回答した者が13人いたことから直ちに,本件実行 行為と死傷被害者11人の死傷との因果関係が否定されることになるわけではない。さら に,同報告書によれば,同月28日午前6時以降自覚症状を感じたと回答した者が多数 に及んでいるが,そのころ以降現場付近で採取された土砂や水からサリンが検出された ことに照らすと,そのころ起床した人が,残存していたサリンの影響により,種々の自覚症 状を感じたということも十分考えられることであり,さして不可思議な現象とはいえないか ら,そのことから,直ちに上記の因果関係が否定されることになるわけではない。むしろ, 同報告書によれば,自覚症状を感じた時間のピークが同月27日午後11時からの1時間 で全体の約30%を占め,同日午後10時台以降自覚症状を感じた者が全体の97%以上 に及んでいるのであり,そのこと自体が本件実行行為と死傷被害者11人の死傷との間の 因果関係の存在を裏付けているものといえる。
第4 弁護人の主張4(被告人の指示ないし共謀の有無)に対する判断
1 関係証拠によれば,判示犯行に至る経緯及び罪となるべき事実(本件犯行につい ての被告人及び共犯者の殺意,共謀に係る部分を除く。)に係る事実のほか,松本サリ ン事件におけるサリンの噴霧開始以後の経緯について,次の事実が認められる。
(1) ワゴン車内のA7らは,サリンの噴霧が始まった後,周囲の見張り等をしていたが,A 39の防毒酸素マスク内に酸素ボンベから酸素が流入しなかったことから,A39が「空気 が出ない。空気が出ない。」と言ってパニック状態になり,騒ぎ出したため,A14は,予備 のボンベに切り替えるなどした。
(2) A6は,サリンを約10分間噴霧し続けた後,噴霧を終え,A15に指示をしてサリン噴 霧車を発進させ,これに続き,ワゴン車も同駐車場を出たが,その際ワゴン車が,右側面 を出口の石柱にこすって車体に傷を付けた。ワゴン車内の実行メンバー5名は,出発後 もしばらくは防毒酸素マスクを着けていたが,そのうち1.5立方メートルの酸素ボンベか ら各人の防毒酸素マスクに酸素が供給されなくなったため,その後は7立方メートルの酸 素ボンベから出ているホースを順に回して口に当て酸素を分け合って吸った。
当初はサリン噴霧車の後にワゴン車が走っていたが,なお噴霧車からサリンが少し出て いたことから,A14は,車内の者に,危ないからワゴン車が先に行こうと言ったことがあっ た。
(3) その後,実行メンバー7名は,松本市内のR駐車場にワゴン車とサリン噴霧車を停 め,2台の車両から偽造ナンバーのシールをはがし,農薬用噴霧器等で中和剤をサリン 噴霧車やワゴン車の外側に掛けて中和作業をし,サリン噴霧車のコンテナの開口部を閉 めるなどし,同所を出発して,平成6年6月28日午前1時か2時ころ,e1村の教団施設に 到着した。
(4) A14は,同日午後,X1棟で,A27に手伝ってもらい,手袋と防毒マスクを着用した 上で,サリン噴霧車の内部及び外部に農薬用噴霧器等を使って中和液を掛けたり,配 管内に中和液を入れたりするなどして中和作業をし,その廃液をポリタンクに入れて富士 川の河川敷に捨てた。
また,A14は,サリンが付着した物をすぐに処分することが怖かったことから,サリンの 保管や噴霧等に使用したテフロン容器,灯油用ポンプ,ポリタンク等は中和剤の水溶液 に二,三日浸した後,焼却した。
(5) A19は,同月29日,A20と共に,ワゴン車で東京都内のファミリーレストランに行 き,その駐車場で,ワゴン車の前記の損傷部位と同じ箇所をわざと柱に擦り付け,同所で 初めて同箇所の損傷が生じたかのように警察官に届け出て事故証明書を得た上,レンタ カー会社にワゴン車を返した。
2 ところで,被告人の松本サリン事件への関与について,A7及びA19は,公判で次 のとおり供述する。
(1) まず,A7は,公判で,ア 平成6年6月20日ころ行われた松本サリン事件の謀議の 状況,イ 省庁制の発足式における被告人との会話,ウ サリンを噴霧する目標を裁判所 から裁判所宿舎に変更した際の状況,エ サリンを噴霧した後e1村の教団施設に帰る途 中電話で被告人に報告した際の様子について,要旨次のとおり供述する。
ア 「6月20日ころ,第6サティアン1階の被告人の部屋に,被告人,A6,私,A19及びA14が集まったとき,被告人が『オウムの裁判をしている松本の裁判所にサリンをまいて サリンの効果を試してみろ。』という趣旨のことを言い出した。続いて,A6が『昼間,まくこ とになる。サリンの噴霧車ができあがり次第,実行する。』旨言った。私は,第2次D3事件 の際警備していた車に追い掛けられてサリンに被ばくしひん死の状態に陥ったことから, そのようなことを心配し,『警察とか警備の人が来たらどうしますか。』と尋ねると,被告人 は『警察が来たら排除すればいいじゃないか。』と答えた。私が『どうやって,排除をすれ ばいいのですか。』と尋ねると,被告人は『X7,X8,X9を使えばいい。』と言った。防毒マ スクについては,A6が第2次D3事件の際使用した防毒酸素マスクを使用することを提 案し,被告人もこれを了承した。被告人の指示で,サリン噴霧車の運転をA15がすること になった。そして,サリン噴霧車ができたらすぐ計画を実行するということになり,被告人 が『あとはおまえたちに任せる。』と言って話合いが終わった。」
イ 「私は,省庁制の発足式の際,A6から明日昼ころ出発すると聞いた後,被告人に 『あしたA6さんと一緒に行きますから。』と言うと,被告人は,しっかりやってこいというよう な感じの激励の言葉を掛けてくれた。」
ウ 「私は,Iの駐車場で休憩した際,既に裁判所が閉まっている時間であったので,A 6に対し,『裁判所は閉まっているけど,どうするんですか。』と尋ね,『裁判所の官舎なら 地図で調べられますよ。』と言って,裁判所と裁判所の官舎が同じページにある住宅地図 を見せながら,裁判官をねらうなら時間帯から考えて裁判所では意味がないのでサリンを 噴霧する目標を裁判所から裁判所宿舎に変更することを暗に提案し,『考えてくださ い。』と言うと,A6は,その地図を持って,駐車場内の公衆電話ボックスの方に歩いて行 った。私は,トイレの方に行きながら,A6が電話ボックス内に入るのを見た。それを見て, 私は,A6一人の判断では決断できないから,被告人の指示を仰ぐのかなと考えた。私が 小用を足すなどして車の方に戻ると,A6が私に『官舎にするから。』と言って,サリンを噴 霧する目標を裁判所から裁判所の官舎に変更する旨を伝えた。」
エ 「e1村に戻る途中,被告人から電話があった際,私は,暗号で,サリンをまいて,今 帰っているという趣旨の返事をした。」
(2) また,A19は,公判で,オ 松本市内でサリンを噴霧してe1村の教団施設に戻った 後,被告人にその旨を報告した際の状況等,カ 松本サリン事件の報道を聞いた際の被 告人の様子等について,要旨次のとおり供述する。
オ 「私は,被告人に報告するためにA14と共に,第6サティアン1階の被告人の部屋 に行くと,既にA6とA7がいた。私とA14は,『今戻りました。』と報告すると,被告人から 『ご苦労。』と声を掛けられた。そして,私が『現場から出るとき車をぶつけてしまったんで すが,どうしたらいいでしょうか。』と指示を仰ぐと,被告人が『だれが運転したんだ。』と聞 くので,私は『X8師です。』と答えた。すると,被告人が『だれがX8に運転させたんだ。』と 聞くので,私が『X6正悟師です。』と答えると,被告人は『どうしてX8なんかに運転させる んだ,しょうがないな。』と言った。その後被告人はワゴン車の傷について『X10(A20)に 直させろ。』と私に指示した。それで,私は,A20にその旨を伝えにいき,A20に修理を 頼んだが傷が大きすぎて簡単な修理では手に負えないと言われたことから,その旨を被 告人に伝えると,被告人から『X10と東京にでも行って,同じところをぶつけて事故証明 をもらって,返せ。』と指示された。それで,被告人に言われたとおり実行した後,事故証 明をとったことやワゴン車を返したことを被告人に報告した。」
カ 「私が松本サリン事件の報道記事を見た前後ころ,被告人が『まだ原因がわからな いみたいだな。うまくいったみたいだな。』と言っていたのを聞いて,報道自体が何者かに よる行為ではなくて単なる事故として報道されているので,被告人がそのようなことを言っ たのだと思った。」
3(1) A7及びA19の上記2の各公判供述(アないしカ)の信用性について検討すると, アないしカの各公判供述は話合いや発言の内容等について具体的かつ詳細に再現さ れたもので,相互に符合してその信用性を互いに補強し合い,特に,A7のアの公判供 述については,A14やA19も,公判で,被告人から裁判所にサリンをまく旨の指示があ った事実を含め大筋においてこれと同旨の供述をし,A7のエの公判供述については, これを裏付けるA19の公判供述があり,A19のオの公判供述については,A14も公判で これと同旨の供述をしている。また,上記アないしカの各公判供述は,前記認定の松本 サリン事件の犯行前後の状況を述べたものとして自然であるのみならず,当時,被告人 が,東京に大量のサリンを散布するなどして首都を壊滅して国家権力を倒しオウム国家 を建設して自らその王となり日本を支配するという野望を抱き,一方では,出家信者の大 量獲得に動き,自動小銃の製造を企て出家信者に射撃等の軍事訓練をさせ,サリンプラ ントの早期完成を目指してそのメンバーに強く発破を掛けるなどして教団の武装化を強 力に推し進めるなどし,他方では,将来の国家体制を担うオウム国家の憲法草案の起草を命じて国家権力を主権の属する神聖法皇である被告人に集中させる旨の草案を作成 させ,組織を改編して国家の行政組織に習い被告人を頂点とする省庁制を採用すること とした事実関係ともよく整合するものである。
したがって,上記のA7及びA19の各公判供述の信用性は高いというべきであり,同公 判供述のほか関係証拠を総合すれば,被告人が,A6やA7らとの間で,松本市内の裁 判所宿舎に向けてサリンを発散させて不特定多数の者を殺害する旨の謀議を遂げた事 実をはじめとして判示犯行に至る経緯に係る事実及び罪となるべき事実を認めることが できる。
(2) なお,A7は,捜査段階で検察官に対し,「サリン噴霧の場所の変更を裁判所から裁 判官官舎にしたことについては,自分は被告人に了解を取ったり,連絡したりしていない し,A6も報告しておくとは言ってなかった。携帯電話をそれぞれ持っていたし,店にも公 衆電話があったので被告人に電話をすることはできたが,私はしていないし,A6もしなか ったと思う。」旨供述し,A7のウの公判供述と異なる供述をしている。
しかしながら,A7は,公判で,この点について「捜査段階では,被告人をかばい立て し,被告人の心証を少しでもよくしようと考えて,私とA6の2人が独断で噴霧目標を官舎 に変更したように供述した。この部分は私しか知らない事実であり,その事実を述べるの は忍び難かった。私が証言することによって,かつての法友たちが苦しむとしたならば, それは慈悲に反するのではないかと考えて慈悲の実践として黙秘,証言拒否をしてきた が,被告人に関しては,被告人自身は迷妄に陥ってなく,むとんちゃくの実践をしている から,私が何を言おうが苦しまない,だから,証言をすることとした。」旨供述しているとこ ろ,6月20日ころの謀議についてはA14やA19も知っていることであるのに対し,Iの駐 車場でA6がサリン噴霧目標の変更に関するA7の提案を受けた後公衆電話ボックスのと ころに行ってボックス内に入り,その後戻ってきた際にA7にサリン噴霧目標の変更を告 げたという事実関係については被告人を除けばA7しか知り得ないことであり,捜査段階 ではその事実を述べることが忍び難く,被告人をかばい立てしたというA7の心情は容易 に理解できるところである。また,前記認定に係る,A7が,松本市内でサリンを噴霧してe 1村の教団施設に帰る途中に被告人から電話を受けた際の報告内容,A7らが第6サテ ィアン1階の被告人の部屋で被告人に報告した際の状況,被告人が松本サリン事件に関 する報道記事に接した際の被告人の話の内容は,A6とA7が被告人に断りなくサリンの 噴霧目標を変更したことを前提としたものとは言い難いし,前記のとおり強く教団の武装 化を推進していた当時の被告人の教団幹部らに対する命令服従関係等を考慮すると, そもそもこのような重大な事柄についてA6及びA7が被告人の了承を得ることなく変更す ること自体不自然であることなどに照らすと,A7のウの公判供述の信用性は高いというべ きである。
4 以上に認定した事実関係に照らすと,被告人は,平成6年6月20日ころ,A6,A7, A19及びA14に対し,他にA15,A22及びA39を使い,地裁松本支部にサリンを発散 させて不特定多数の者を殺害することを指示し,A6ら4名がこれを承諾して同人らとの間 でその旨の謀議(以下「6月20日ころの謀議」という。)を遂げ,その後,A7から上記殺害 計画の実行を指示されこれを承諾したA15,A22及びA39との間でもその旨の謀議を 遂げ,さらに,同月27日午後8時ころ,A6から電話を受けて,サリンの噴霧目標を地裁 松本支部から裁判所宿舎に変更する旨のA6の提案を了承し,A6を介して他の実行メン バーにもその旨告げられてその承諾が得られ,ここに改めてA6ら実行メンバー7名との 間で,裁判所宿舎にサリンを発散させて不特定多数の者を殺害する旨の謀議を遂げた ことは明らかである。
以上のとおりであり,6月20日ころの謀議とされている話合いは松本市内でサリンを発 散させて人を殺害する旨の共謀と評価されるべき実体を持たない旨及び松本サリン事件 はA6の独断で行われたものである旨の弁護人の主張4(1)は,いずれも採用することがで きない。
5(1) ところで,弁護人は,前記弁護人の主張4(2)のとおり,被告人やA7,A6,A19及 びA14は教団で生成したサリンに,A15はサリンそのものにそれぞれ殺傷力があるとは 考えておらず,A22及びA39は松本市内でサリンを噴霧することを知らなかった旨を主 張する。
(2) しかしながら,被告人がB6サリン事件当時において青色サリン溶液中のサリンに強 い殺傷力があることを認識していたことはB6サリン事件における弁護人の主張に対する 判断において説示したとおりであり,B6サリン事件の後,B6弁護士が元気であり,結果 が出なかったことを確認したものの,①被告人は,A19及びA14らと同様に,そのサリン を使用する態様が,B6車両の外気導入口付近に少量の青色サリン溶液をただ単に滴 下させそれを自然に気化発散させてこれを吸入させるというものであると認識していたこと,②被告人は,B6サリン事件後,A10,A19及びA14からその報告を受けた際,A10 から,B6車両にサリンを滴下したがその後B6が車に戻らず喫茶店に行ってしまった旨聞 いたこと,③被告人は,A19及びA14らと同様に,A7が第2次D3事件の際教団で生成 したサリンに被ばくしてひん死の状態に陥ったのを目の当たりにしたことなどに照らすと, B6サリン事件の結果が出なかった原因としては,B6弁護士がB6車両に乗車するまでに サリンが全部気化して雲散霧消したためではないかなどとまず考えるのが自然であり,B 6サリン事件の結果が出なかったとの一事をもって,直ちに被告人が青色サリン溶液中の サリンに殺傷力がない旨認識するに至ったとは考えられない。
むしろ,④被告人は,A6と相談した上で,A7がサリンに被ばくしてひん死の状態に陥 った第2次D3事件の際に使用した加熱式噴霧装置とは熱源等が異なり,電気ヒーター でサリンを加熱する新たな噴霧装置を搭載したサリン噴霧車を製作し,加熱気化したサリ ンガスを噴霧してどの程度の死傷の結果が発生するかを実験しようと考え,それゆえに6 月20日ころの謀議の際,「オウムの裁判をしている松本の裁判所にサリンをまいて,サリ ンが実際に効くかどうかやってみろ。」とA6,A7,A19及びA14に指示し,その際,第2 次D3事件で使用した防毒酸素マスクが有効であった旨の報告を聞いて,それと同じ防 毒酸素マスクを使用することを了承したこと,⑤被告人は,松本市内でサリンを噴霧して 帰ってきたA6,A7,A19及びA14から報告を受けた際,A19から,現場から出るときレ ンタカー業者から借りたワゴン車をぶつけて同車両に傷を付けた旨を聞いて,再度その 部分を別の場所でぶつけ事故証明をもらって業者に返すように罪証隠滅工作を指示し, 松本サリン事件が教団による犯行であることの発覚を防ごうとしていること,⑥被告人は, 松本サリン事件の報道内容を知って,格別これを意外に思うことなく,「うまくいったみた いだな。」などと期待したとおりの結果であることに満足している旨の発言をA19の前でし ていることなどは,被告人が,青色サリン溶液中のサリンに殺傷力がある旨認識している ことを物語っている。 したがって,被告人が松本サリン事件当時においても青色サリン溶液中のサリンに強い 殺傷力があることを認識していたことは明らかである。
(3)ア 次に,A14及びA19が,B6サリン事件当時において青色サリン溶液中のサリン に強い殺傷力があることを認識していたことは前記(B6サリン事件における弁護人の主 張に対する判断)のとおりであり,その後,B6サリン事件の後,B6弁護士が元気であり結 果が出なかったことを知らされたものの,前記(2)の①ないし③の事情のほか,⑦A14及び A19は,B6サリン事件の際,A38がサリンをB6車両に滴下する際にサリンガスを吸って 気分が悪くなり目の前が暗くなったことからパムを注射し,A14及びA19自身も目の前が 少し暗く感じたのでお互いにパムを注射し合ったことなどに照らすと,被告人の場合と同 様に,直ちに青色サリン溶液中のサリンに殺傷力がない旨認識するに至ったとは考えら れない。
イ むしろ,A14については,前記(2)の④⑤の事情のほか,⑧A14は,あらかじめ,サリ ン中毒を予防,治療するために予防薬のメスチノン,治療薬のパム等,注射器,防毒酸 素マスク,酸素ボンベ等を準備したこと,⑨A14は,エアラインを通して空気が供給され る防毒マスクと手袋を着用してサリン噴霧車のタンクにサリンを注入したこと,⑩A14は, その際,自分がサリン中毒になったときに備えてA19にX5棟に待機してもらっていたこ と,⑪A14は,松本市に行く途中,実行メンバー全員に対し,予防薬を渡して飲ませたこ と,⑫A14は,松本市に行く途中,A7やA19も乗車しているワゴン車内で,A39及びA 22に対し,噴霧するガスは非常に危険なガスで,吸ったら視界が暗くなり呼吸が困難に なるなどの症状が出るので症状が出たらすぐ申し出るように注意したこと,⑬A14は,サリ ンを噴霧するに当たり,他の実行メンバーに防毒酸素マスクを着用させ,実行メンバー7 名は,サリンの噴霧を終え現場から出発して逃走中もしばらくは防毒酸素マスクを着用し て酸素を吸い,1.5立方メートルの酸素ボンベから各人の防毒酸素マスクに酸素が供給 されなくなった後は,7立方メートルの酸素ボンベから出ているホースを順に回して酸素 を分け合って吸ったこと,⑭サリンの噴霧開始直後,A7,A19,A14,A22及びA39の 乗車しているワゴン車内で,A39の着用している防毒酸素マスク内に酸素ボンベからの 酸素が流入しなかったことから,A39が「空気が出ない。空気が出ない。」と言ってパニッ ク状態になり騒ぎ出したため,A14が予備のボンベに切り替えるなどしたこと,⑮A14ら 実行メンバーは,松本市内でサリンを噴霧後ほどなくして別の駐車場で,サリン噴霧車や ワゴン車の外側に中和剤を掛けて中和作業をしたこと,⑯A14は,e1村に帰った後も, サリン噴霧車の外部,内部及び配管について念入りに中和作業を行い,サリンの保管, 注入に使用したテフロン容器,灯油用ポンプ等は中和剤の水溶液に二,三日浸した上, 焼却したことなどに照らすと,A14は,松本サリン事件当時においても,青色サリン溶液 中のサリンに強い殺傷力があることを認識していたことを優に認めることができる。
これに対し,A14は,公判で,B6サリン事件と同様に,青色サリン溶液中のサリンに殺 傷力があるとは思っていなかった旨供述するが,その公判供述に信用性が認められない ことや,A14の検察官調書における反対趣旨の供述,すなわち,「サリンが非常に危険 な毒ガスであることは十分過ぎるほど分かっており,12リットルもの大量のサリンを噴霧す れば,目標としている裁判官のみならず,裁判官が住んでいる官舎の住民及び官舎周 辺に居住している大勢の人が死亡したり負傷することも,これまた十分過ぎるほど分かっ ていました。」などの供述の信用性が高いことは,B6サリン事件における弁護人の主張に 対する判断において説示したとおりであるほか,上記の事実関係に照らしても明らかであ る。
ウ また,A19については,前記(2)の④ないし⑥や上記⑩ないし⑮の事情に照らすと, A19は,松本サリン事件当時においても,青色サリン溶液中のサリンに強い殺傷力があ ることを認識していたことを優に認めることができる。 これに対し,A19は,公判で,B6サリン事件と同様に青色サリン溶液中のサリンをまい ても人が死ぬとは思っていなかった旨供述するが,その供述に信用性が認められないこ とは,B6サリン事件における弁護人の主張に対する判断において説示したとおりである ほか,上記の事実関係に照らしても明らかである。
(4) A7は,第2次D3事件の際,教団で生成したサリンを加熱式噴霧装置により加熱し 気化させて噴霧したサリンガスに被ばくしてひん死の状態に陥ったことから,そのような方 法で噴霧した教団で生成したサリンには強い殺傷力がある旨認識するに至ったものと認 められるところ,前記(2)の④⑤や(3)の⑪ないし⑮の事情に照らすと,A7は,松本サリン 事件当時において,教団の生成した青色サリン溶液中のサリンに強い殺傷力があること を認識していたことを優に認めることができる。
これに対し,A7は,公判で,青色サリン溶液中のサリンの効果について,謀議の時点 では死傷者が出る可能性はあるかもしれないと思っていたが何人の人が死ぬとかそのよ うなことまで考えていたわけではない旨述べ,青色サリン溶液中のサリンが強い殺傷力を 有するとの認識までなかったかのような供述をするが,その公判供述に信用性が認めら れないことや,A7の検察官調書における「サリンについては,私自身はD3事件の時に その怖さは身をもって体験しているので,サリンを直接吸ったり浴びたりすれば,解毒剤 など急には用意できないでしょうから,その人はまず間違いなく死ぬだろうと思っていまし た。」などの供述の信用性が高いことは,上記の事実関係に照らし明らかである。
(5) A6は,第2次D3事件の際,教団で生成したサリンを加熱式噴霧装置により加熱し 気化させて噴霧したサリンガスにA7が被ばくしてひん死の状態に陥ったのを目の当たり にしたことから,A7と同様に,そのような方法で噴霧した教団で生成したサリンには強い 殺傷力がある旨認識するに至ったものと認められるところ,前記(2)の④⑤,(3)の⑪⑬⑮ の事情のほか,A6は,松本サリン事件当時,被告人の指示により,サリンプラントの建設 を統括する立場にあったこと,A6は,教団で生成したサリンの効果を最大限に引き出す ために自ら新しい加熱式噴霧装置の開発製造に取り組んだこと,A6は,松本サリン事件 の報道記事内容についてA19やA14らに知らせていること(A19及びA14の公判供述) などに照らすと,A6は,松本サリン事件当時において,教団の生成した青色サリン溶液 中のサリンに強い殺傷力があることを認識していたことを優に認めることができる。
(6)ア A15は,平成6年6月25日にA7と共に地裁松本支部周辺の下見に行った際に, A7から,同裁判所に向けてサリンを噴霧する計画があり,その際,A15がサリン噴霧車 の運転をすることになっている旨告げられてこれを承諾したこと,A22及びA39は,同月 27日早朝までに,A15と共に,A7から,同日松本に行き地裁松本支部に向けてサリン を噴霧すること及びサリンを噴霧している最中に警察官等による妨害があった場合には3 人でこれを排除することを告げられ,3人はこれを承諾したこと,サリンについてはその殺 傷力や予防治療法を含め,被告人の説法の中で,そのころまでに繰り返し言及されてい たことのほか,前記(3)の⑪ないし⑮の事情等を併せ考えると,A15,A22及びA39のい ずれも,A7から地裁松本支部に向けてサリンを噴霧する旨を告げられてこれを承諾し, また,A6やA7らからサリンを噴霧する目標を地裁松本支部から裁判所宿舎に変更する 旨を告げられてこれを承諾した際,サリンを噴霧するとこれを吸入した不特定多数の者が 死に至ることを認識していたものと認められる。
イ これに対し,A15は,公判で,サリンを噴霧しても鼻水が出るとかだるくなる程度の 効果しかなく,付近の人が死ぬかもしれないということは考えていなかった旨供述する が,上記の事実関係のほか,A15の検察官調書における反対趣旨の「毒ガスのサリンを まけば裁判所にいる人がサリンを吸って死んでしまうということは分かりました。」という上 記の事実関係によく符合する供述を公判で上記のとおり変更させた理由について合理 的な説明をし得ていないことなどに照らすと,上記の公判供述を信用することはできない。
ウ また,A22は,公判で,「平成6年6月27日昼過ぎに,ヴィクトリー棟において,A7か ら,A15及びA39と共に,これから松本の裁判所に裁判の邪魔をしに行くので,その警 備をしてもらうと言われ,街宣車でその裁判所に行って街宣活動的な形の邪魔をすると 思った。毒物をまくという発想はなかった。現地に着いてマスクをかぶれと言われてマスク をかぶった。何かまいてもどうせ効果は出ないのだから,単にここで捨てるつもりなのかな というふうにしか思っていなかった。」旨,A39は,公判で,「平成6年6月27日昼過ぎこ ろ,ヴィクトリー棟において,A7から『松本にガスをまきにいく。A39とA22はA6が作業し ている間に警察官など邪魔する者が来たらぼこぼこにしろ。』と言われた。それを聞いて, 教団施設にガスをまいている相手方にガスをまき返すのだと思った。ただ,まき返すガス は,一,二回まいたくらいでは健康被害が生じない程度のものだと認識していた。」旨そ れぞれ供述して,両名共に強い殺傷力のあるものを散布する旨の認識を否定し,A7も, 公判で,「平成6年6月27日午後2時くらいに,ヴィクトリー棟で,A15,A22及びA39に 対し,『今から松本の裁判所に裁判の邪魔をしに行く。警備の人が来たら対処をしてほし い。』と言った。サリンをまきに行くんだということは伝えていない。行く道中のワゴン車内 でサリンは話題になっていなかった。」旨供述する。
しかしながら,サリンを噴霧する最中に警察官等による妨害があった場合に,これを排 除するのがA22ら3人の役割であるから,A7としては,A22らの安全のために,殺傷力 を有するサリンを噴霧することを同人らに伝えてしかるべきであること,実行メンバーが, あらかじめ予防薬を飲み,噴霧時には防毒酸素マスクを着用するなどしているのに,何ら 効果のない物を捨てるくらい,あるいは,一,二回まいたくらいでは健康被害が生じない 程度のガスをまき返すくらいの認識しかなかったというのは不自然不合理であること,そ の他前記アで摘示した事実関係に照らすと,A22及びA39の上記各公判供述は到底 信用することができない。
加えて,A7は,検察官調書において,「平成6年6月27日の未明か早朝に,A15,A2 2及びA39に対し,『明日松本に行き松本の裁判所にサリンをまいてくる。サリンをまいて いる最中,警察等が来て妨害があった場合は君たち3人でその妨害を排除してほしい。』 旨言った。」旨供述するところ,さらに,「私が3人に説明したときには『サリンをまく』とはっ きりと『サリン』という名前を出しており,『毒ガス』とか『あるもの』とか中途半端な言い方は していない。」と付加して,サリンをまく旨明確に伝えた旨を供述し,あるいは,「3人が実 際にどのような道具を持っていったかどうかについては,結果的に使わずにすんだせい か余り記憶がないのでこの3人に聞いてください。」と述べて,3人に関して供述が難しい 部分はその旨断るなど,その意味ではA7が真しな態度で供述していることがうかがわれ ること,A7の上記公判供述の内容が真実であるなら,捜査段階で検察官に対しなぜこの ような供述をしたかについて合理的な説明をし得ていないこと,むしろ,A7の公判供述 は,かつての部下であるA22やA39がサリンを噴霧する旨の認識や共謀を争っているこ とから,これに自身の供述を合わせてA22やA39の刑事責任を軽減させるために,捜査 段階で検察官に対し述べたことと異なることを公判で供述するに至ったとの疑いが濃厚 であることなどをも併せ考えると,A7の上記公判供述は直ちに信用することができない。
(7) 以上のとおりであるから,弁護人の主張4(2)は採用することができない。
6 弁護人は,弁護人の主張4(3)のとおり,被告人は,地裁松本支部に係属している民 事訴訟において,売買部分は勝訴するものと考え,賃貸借部分は勝訴しても意味のない ものと考えていたのであるから,教団の主張を排斥するおそれのある地裁松本支部の裁 判官を殺害するためにサリンを噴霧するという動機は成立しない旨主張する。
しかしながら,前記認定のとおり,被告人は,平成4年12月に行われた教団松本支部 の開設式における説法の中で,地主,不動産会社や裁判所が一緒になって平気でうそ をついたため,教団松本支部道場は当初の予定の3分の1くらいの大きさになってしまっ た旨述べ,地主やその申立てを認めて教団松本支部を手狭にした地裁松本支部裁判 官に反感を抱いていたこと,賃貸借部分については勝訴すれば支部道場を拡張すること も物理的には可能となるのであり,賃貸借部分について勝訴しても全く意味がないとはい えず,むしろ,敗訴することによって,教団松本支部道場をこれ以上拡張できなくなること が決まってしまうこと,のみならず,住民側代理人は売買部分と賃貸借部分の結論が異 なることの不合理性などを主張しており,A10も,売買部分について,勝訴するとまでの 断定的な言い方は控えるなどし,被告人においても,場合によっては賃貸借部分のみな らず売買部分も敗訴してしまうのではないかという思いを完全には払拭し切れなかったこ と,そして,被告人は,「またヴァジラヤーナを始めるぞ。」と言って教団の武装化を再開 し,あるいは,全国の大学での講演会で「これから2000年にかけて,筆舌に尽くしがたい ような,激しい,しかも恐怖に満ちた現象が連続的に起きる。世界的に戦争が起き,そこでは核兵器だけではなく生物兵器や化学兵器も使用される。その結果,文明国では10 人中9人は死んでしまう。」などと説いていたころ,前記の教団松本支部開設式において, 「私たちの近い未来において大いなる裁きが訪れることを予言している。」「圧力を加えて いる側から見た場合,どのような現象になるのかを考えると,私は恐怖のために身のすく む思いである。」などと述べ,地裁松本支部裁判官や地主ら反対派住民を敵対視し,こ れらの者には将来恐るべき危害が加えられることを予言する旨の説法をしたことなどに照 らすと,被告人が,新たに開発製造する加熱式噴霧装置による教団で生成したサリンの 噴霧実験の対象として,被告人が反感を抱きこれまで敵対視してきた,そして,現に継続 中の民事訴訟事件において教団側の主張を排斥する判決を言い渡すのではないかとい う思いを払拭し切れない地裁松本支部裁判官を選んだと認められるところ,そのような被 告人の動機は十分に成立し得るというべきである。
したがって,弁護人の主張4(3)の主張は採用することができない。
7 以上のとおりであるから,被告人は,A6やA7らとの間で,松本サリン事件の共謀を していない旨の弁護人の主張4は採用することができない。
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