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エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教46

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エジプトのマカリオス50の霊的説教

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説教46

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<< 神の言葉とこの世の言葉、そして神の子らとこの世の子らの違いについて。>>


1. 神の言葉は神であり、世の言葉は世である。そして神の言葉と世の言葉、そして神の子らと世の子らとの間には大きな相違と隔たりがある。生まれたものはすべてその親に似ている。それゆえ、御霊の子らが世の言葉と地上の物事と現世の栄光に身を委ねることを選ぶなら、それは人生の真の満足を見出すことができず、挫折し滅びる。その満足は、それが生まれた所にのみある。主が言われるように、この世の煩いに取り囲まれ、地上の束縛に縛られている者は窒息し、神の言葉から実を結ばなくなる。同じように、肉の意図にとらわれている世の人も、神の言葉を聞きたいと望んでも窒息し、理性を失った者のようになる。というのは、悪の欺瞞に慣れている彼らは、神について聞くと、退屈な話に圧倒され、心がうんざりしてしまうからである。


2. パウロは言う、「生まれながらの人は、御霊の賜物を受け入れません。それは彼には愚かなものだからです」。また預言者は言う、「神の言葉は彼らにとって吐き出したものと同じでした」。あなたがたは、各人が生まれながらに受け継いだ言葉に従わなければ生きることはできないと分かります。別の言い方にも耳を傾けなければなりません。肉の人が変わることを許すなら、まずその方面で死に、以前の悪行の生活に関しては実りを結ばなくなります。しかし、人が病気や熱病にかかっているときのように、その体は床に伏していて、地上の活動を何も成し遂げられないのに、その心は静まらず、仕事のことであれこれと心をかき乱され、医者を尋ね、友人を彼のもとに送ります。同じように、戒めを破ったことで激情に弱り、無力な状態にある魂は、主のもとに来て信じ、主の助けを見出します。そして、以前の邪悪な生活を否定したとき、それはまだ昔の弱さの中にあり、人生の仕事を真実に成し遂げることはできないが、それでも熱心に人生に関心を持ち、主に願い、真の医者を求めることができる。それはすでに持っているし、できるのです。


3. 間違った教えに惑わされた一部の人々が言うように、人間は一度限りで死んでしまい、何の良いことも成し遂げられないというのではない。赤ん坊は何かを成し遂げる力がなく、自分の足で母親のところに行くこともできない。しかし、赤ん坊は転がり、声をあげ、泣きながら母親を捜す。その間、母親は赤ん坊を哀れに思い、赤ん坊が苦労して泣きながら母親を捜すのを喜ぶ。赤ん坊は母親のところに行けないが、子供が必死に捜すので母親は赤ん坊への愛に圧倒されて自ら赤ん坊のところに行き、赤ん坊を抱き上げ、慈しみ、深い愛情をもって育てる。これが、神が神のもとに来て神を慕う魂に対して、人間に対する慈愛をもってなさることである。いや、ましてや、愛に駆り立てられて、主は自らの意志で、主の内に本来備わっている、完全に主自身の善良さにおいて、その魂の意図に執着し、使徒の言葉によれば、それと一つの精神になる。魂が主に執着し、主が憐れみ、愛し、魂のもとに来てそれに執着し、そしてその意図がその時から主の恵みに絶えず忠実であり続けるとき、それらは一つの精神、一つの複合物、一つの意図、魂と主になる。そして、それに属する体が地上で平伏している間、魂の意図は天のエルサレムで完全に会話を交わし、第三の天にまで昇り、主に執着し、そこで主に仕える。


4. そして、主は、天の都の高き所の威厳の玉座に座しておられながら、魂に属する肉体において、完全に魂と一体となっておられます。主は、聖徒たちの天の都エルサレムに魂の似姿を据え、また、ご自身の似姿、すなわち、神の言い尽くせない光の似姿を魂の肉体に据えられました。主は肉体の都で魂に仕え、魂は天の都で主に仕えます。魂は天で主を受け継ぎ、主は地上で魂を受け継いでおられます。主は魂の相続財産となり、魂は主の相続財産となります。暗闇の中の罪人たちの意図と精神が肉体から遠く離れ、遠くに滞在し、一瞬のうちに遠い国々に旅することができ、しばしば肉体が地上に横たわっている間にも、精神は愛する人とともに別の国にいて、自分がそこに住んでいるのを見ているのなら、罪人の魂が非常に軽くて移り気なので、精神が遠く離れた場所に行くことを禁じられないのであれば、聖霊の力によって暗闇のベールが取り除かれ、精神の目が天の光によって照らされ、恥の情熱から完全に解放され、恵みによって清められた魂は、霊において天で完全に主に仕え、肉体において完全に主に仕え、思考が非常に広がって、自分が望むところならどこにでも行き、主が望むところでは主に仕えるようになるでしょう。


5. 使徒はこう言っています、「それは、あなたがたがすべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるようになるため、そして、あなたがたが神の満ちみちた豊かさにまで満たされるためです。 魂の言い表せない奥義を考えなさい。主は、魂を覆う暗黒を取り去り、魂を現し、また魂に現されます。主は、魂の思いを、目に見えるもの、目に見えないもの、すべての被造物の広さ、長さ、深さ、高さにまで広げ、拡張されます。 魂は偉大で神聖な作品であり、実に素晴らしいものです。 魂を形作るにあたり、神はその性質に悪を一切入れず、聖霊の美徳のイメージに似せて造られました。 神は、聖霊のイメージに従って、美徳の法則、識別力、知識、分別、信仰、愛、その他の美徳を魂の中に入れられました。


6. 知識と思慮深さと慈愛と信仰において、主は今もなお彼女、人の魂に見出され、現されています。主は彼女、魂の中に知性、さまざまな能力、意志、支配的な精神を授けました。主は他にも多くの巧妙さを彼女の中に座らせました。主は彼女を動きやすく、移り気で、疲れ知らずにしました。主は彼女に一瞬で行ったり来たりすること、そして彼女の思いの中で聖霊が望むところに主に仕えることを授けました。全体として主は彼女を花嫁として、主と交わりを持つことができるように創造しました。それは主が彼女と交わり、彼女と一つの霊となるためです。使徒が言うように、「主に結ばれた者は一つの霊である」。主に永遠に栄光がありますように。アーメン。


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