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エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教37

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エジプトのマカリオス50の霊的説教

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説教37

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<< 楽園と霊的法則について。>>


1. この世との友情は、書かれていることによれば、神との敵対である。このため、聖書はすべての人に、自分の心をすべての努力をもって守るようにと命じている。それは、御言葉を心の中に保って、楽園のように恵みを楽しむためである。蛇が快楽のために助言するときに、内に巻きつく蛇に耳を傾けず、それによって兄弟を殺す怒りが生まれ、それを生む魂は滅びる。むしろ、主がこう言われるのを聞くのである。「信仰と希望とに注意しなさい。それによって神と人に対する愛が生まれ、永遠の命が与えられる。」ノアはこの楽園に入り、戒めを守り、働き、愛によって怒りから救われた。アブラハムはこの楽園を守って、神の声を聞いた。モーセはこれを守ったので、顔に栄光が与えられた。ダビデも同様にこれを守り、働き、そこから敵に対する支配力を得た。サウルも、自分の心を保っている間は栄えていたが、ついに罪を犯し、ついには見捨てられた。神の言葉は、それぞれの人に応じて量り分けられるからである。人が堅く守っている間は、堅く守られ、守っている間は、守られる。


2. このため、聖なる預言者、使徒、殉教者たちは皆、その言葉を心に留め、他のことは何も気にせず、地上のものを軽蔑し、聖霊の戒めを守り、すべてのものよりも、神に対する聖霊の愛と聖霊の善を優先し、言葉だけでなく、単なる知識だけでなく、言葉と行いにおいても、実際の実行によって、富の代わりに貧困、栄光の代わりに不名誉、快楽の代わりに苦しみ、享楽の代わりに苦難、そしてそれゆえに怒りの代わりに愛を選びました。彼らは人生の甘美な物を憎むと同時に、それを奪う者を、目的のために共に働く者としてむしろ愛し、善悪を知ることを控えました。彼らは善人を否定せず、悪人を責めず、すべての人を等しく主の摂理の使者とみなしました。したがって、彼らはすべての人に対して善意の慈悲を持っていました。主が「赦しなさい。そうすれば、あなたたちも赦される」と言われるのを聞いたとき、彼らは自分たちに不当な扱いをした人たちを恩人だとみなしました。なぜなら、彼らから自分たち自身も赦される機会を得たからです。また、「あなたたちが人々にして欲しいと思うことは、あなたがたも人々にしなさい」と聞くと、彼らは良心に従って善良な人々を愛するようになりました。彼らは自分の正義を捨て、神の正義を求め、そこに愛も当然含まれていることに気付きました。


3. 主は愛に関する多くの戒めを与える際に、神の義を求めるようにと私たちに命じました。なぜなら、主はそれが愛の母であることを知っておられるからです。隣人を通してのみ救われる道があります。主は「赦せ。そうすれば、あなたも赦される」と命じられました。これが、忠実な心に書き記された霊的な律法であり、第一律法の成就です。私は律法を破棄するために来たのではなく、成就するために来たと主は言われます。どのように成就するのでしょうか。お話ししましょう。第一律法は、罪を犯した者を、罪を犯された者以上に罪に定めた正当な理由によります。なぜなら、あなたがたが他人を裁くことは、自分自身を罪に定めているからです。律法はこう言っています。「裁くときには裁き、打つときには打撃」。


4. 赦しは律法の成就です。私たちはこれを「第一の律法」と呼んでいます。神が人々の前に二つの律法を定めたのではなく、一つの律法を定めたのです。その律法は本質的に霊的なものです。しかし、報復に関しては、各人に正当な報復を与え、赦す者を赦し、争う者と争うのです。清い者とは清くあり、よこしまな者とは格闘せよとあります。ですから、これを霊的に成就し、相応の恵みを受けた人々は、霊的な愛をもって、善行をした人々だけでなく、善行による報いを求めて非難し迫害した人々をも愛するようになりました。善行とは、彼らが受けた不正を黙認したからではなく、彼らが不正行為者の魂に善行を施したからです。彼らは、至福を得る手段として、悪行を神に委ねました。聖書にこう書いてある。「人々があなたたちをののしり、迫害するとき、あなたたちは幸いである。」


5. 彼らは霊的な律法の下で、このように考えるように教えられました。彼らが耐え忍び、内なる柔和さを保っている間、主は、攻撃を受けても心の忍耐と自制心を失わない愛を見て、隔壁の真ん中の壁を打ち破り、彼らは完全な憎しみを捨て去り、彼らの愛はもはや逆らうものではなく、安堵を伴うものとなりました。主は、考えをかき乱すあらゆる方向に向く剣を無に帰し、彼らは幕の内側に入りました。そこには、私たちの先駆者である主が入りました。彼らは御霊の実を喜び、心の安らぎをもって来たるべきものを見たので、使徒が言うように、もはや鏡に映るおぼろげなものではなく、彼らは、目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの、神を愛する者たちのために神がいかに多くのものを備えておられるかを語りました。

しかし、私はこの素晴らしい質問をします。


6. 質問。もしそれが人の心に入っていないのなら、どうしてそれを知ることができるのですか。特に、使徒行伝で、あなた方は私たちと同じ情熱の人間であると告白しているのに。

答え。さて、パウロがこの質問に対して何と答えるか聞いてみてください。しかし、神は、御霊によって私たちにそれを明らかにされたと彼は言います。御霊はすべてのことを探り、まことに、神の深みにまで及ぶからです。しかし、使徒たちだったので御霊が与えられたが、私たちには生まれつきそれを受ける能力がないなどと誰かが言うことのないように、彼は他の祈りの中でこう言っています。「神が、あなたがたの内なる人を力づけてくださり、キリストがあなたがたの心のうちに住んでくださるように。」また、「しかし、主は御霊です。主の御霊のあるところには自由があります。」また、「もしキリストの御霊を持たない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」


7. ですから、私たちは、聖霊にあずかって、完全な確信と経験を得て、私たちが出てきたところに入り、怒りの親、虚栄の相談役、貪欲と貪欲の霊である蛇が、将来私たちから遠ざけられるように祈りましょう。そうすれば、私たちは堅い信仰を得て、主の戒めを守り、主の中で成長して、背丈にまで達する完全な人に成長し、この世の欺瞞に支配されることがなくなり、聖霊の完全な確信を持ち、悔い改める罪人でさえ神の恵みが喜ばれることを信じないことはありません(なぜなら、恵みによって与えられたものは、以前の弱さとの比較では測られないからです。そうでなければ、恵みはもはや恵みではありません)。全能の神を信じて、自然の働きとの比較ではなく、信仰によって聖霊の参加を与えてくださる神に、単純で過度に心配しない心で近づくことができるでしょう。聖書にはこう書いてある。「あなたがたは律法の行いによってではなく、聞いて信仰によって御霊を受けたのです。」


8. 質問。「教会で自分の理解力で 5 つの言葉を話したい」という文章の意味は何ですか?

答え。教会という言葉は、信者の集まりと複合的な魂という2つの異なるものから理解されています。教会が霊的に個々の人間についてとらえられるとき、教会は彼を複合的な全体として表します。「5つの言葉」は、さまざまな配分方法で人間全体を築き上げる包括的な美徳を意味します。主の中で語った人が5つの言葉ですべての知恵を理解したように、主に従う人は5つの美徳を通して信心を豊かに構築します。それらは5つであり、すべてを理解します。まず祈り、次に節制、施し、清貧、忍耐です。これらは切望と決心を持って実行され、主によって語られ、心が聞いた魂の言葉です。主が働き、次に聖霊が声もなく語り、心が望むだけ外的な顕現で実行します。


9. そして、これらの美徳はすべての美徳を包含しているので、それらは互いに生み出し合います。最初のものが欠けているなら、すべての終わりがあります。同じように、2番目のものを通して、それに続くものが生じ、以下同様に続きます。聖霊の働きによらなければ、どうして祈ることができましょうか。聖書はこう言っています。「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であると言うことはできない。」祈りも助けもなしに節制の道に入った人は、どうして耐えることができましょうか。すべてのことにおいて節制しない人が、どうして飢えた人や不正を行う人に施しをすることができましょうか。施しをしない人は、自分も進んで貧困に屈することはありません。また、恨みは、お金があるかどうかにかかわらず、お金に対する欲望に似ています。しかし、徳の高い魂は、何をしたかではなく、何を欲したかによって、このように教会に築き上げられるのです。人を救うのは、その人自身の働きではなく、その人に力を与える主です。ですから、主の印に耐える人は、たとえ普通のことをしたとしても、何事にも誇りを持たず、ただ愛し、行動するために努力したということだけを誇りましょう。あなたがたの徳において、主と共にあったなどと決して思ってはなりません。主はこう言われます。「主は、あなたがたのうちに働きかけて、御心のままに望ませ、行わせてくださるのです。」


10. 質問。それでは聖書は人間に何をするように命じているのでしょうか。

答え。人間は生まれつき努力する力を持っているとすでに述べたが、これが神の要求である。したがって、神はまず人間が熟考し、熟考した後は愛し、努力するために意志を用いるべきであると命じている。しかし、心を動かされたり、労働に耐えたり、仕事を成し遂げたりすることは、神の恵みが意志を持ち信じた人間に授けたものである。したがって、人間の意志は物質的な支えのようである。意志がなければ、人間の自由ゆえに神自身も何もできないのに、何もしない。神の効果的な働きは人間の意志にかかっている。一方、私たちが全意志を捧げれば、神は全働きを私たちに帰する。神はすべての点で驚異的であり、私たちの理解の及ばないところまで達する。しかし、私たち人間は、聖書に頼って、あるいはむしろ聖書によって知性化されて、神の驚異の一部を語ろうと努める。なぜなら、誰が主の心を知ったか、と聖書は言うからである。しかし、神ご自身がこう言っています。「わたしは何度あなたの子らを集めようとしたが、あなたは応じなかった。これによって、わたしたちを集めてくださるのは神であり、わたしたちに求めておられるのは意志だけである、とわたしたちは信じるのです。」しかし、自発的な労働以外に、意志を表明するものは何でしょうか。


11. 鉄は、鋸で切ったり、切り倒したり、掘ったり、植えたりすると、すり減って駄目になる。しかし、別の方がそれを動かし、当て、打ち砕くと、赤く熱して新しくする。同じように、人は良いことを行なって疲れ果てても、主はひそかにその人の内に働き、疲れ果てて打ち砕かれると、その人の心を慰め、新しくする。預言者が言うとおりだ。「斧は切る者を離れて誇ることができようか。のこぎりは、それを抜く者を離れて高ぶることができようか。」悪についても、人が悪に従い、それに備えるとき、同じである。すると、サタンもまた、強盗が剣を抜くように、その人を引き抜いて研ぐ。私たちは、心が物に対して無感覚で、非常に固いので、心を鉄にたとえた。しかし、私たちは、無感覚な鉄のように、私たちを支えておられるお方を知らないでいるべきではありません。そうでないと、私たちの農夫である言葉から、悪魔の暗示にすぐに変わってしまうでしょう。むしろ、牛やロバのように、気質に応じて私たちを駆り立て、導いてくださるお方を知るべきです。聖書には、「牛はその飼い主を知っており、ロバはその主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルはわたしを知らない」と書いてあるからです。ですから、神についての知識を受け、霊的な律法を教えられて、神の聖なる戒めを成就し、父と子と聖霊を永遠に讃えることができるように祈りましょう。アーメン。


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翻訳文:

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