コンテンツにスキップ

エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教30

提供: Wikisource

エジプトのマカリオス50の霊的説教

————————————

説教30

[編集]

<< 人の魂が神の王国に入るには聖霊によって生まれなければならない。そして、それがどのように実現されるかについて。>>


1. 御言葉を聞く者は、御言葉が自分の魂に働いていることを証明すべきです。神の御言葉はむなしい言葉ではなく、魂に働きかけます。このため、御言葉は「働き」と呼ばれることがあります。その「働き」が聞く者のうちに見出されることを念頭に置いてです。ですから、主が聞く者のうちに真理の働きを与え、御言葉がわたしたちのうちに実り豊かになるようにしてくださいますように。影がからだに先立ち、影がからだを現し、真理がからだそのものであるように、御言葉はキリストの真理の影のようなものです。しかし、御言葉は真理に先立ちます。

地上の父親は、自分の体と魂から、自分の本性の子供を生み、生まれたら、自分の子供として、彼らが成人し、後継者、相続人になるまで、熱心に注意深く教育します。父親の目的と全責任は、最初から子供を生み、相続人を持つことであり、もし彼らが子供を生まなかったら、彼らは大きな悲しみと悲嘆を味わったでしょう。一方、子供を生んだときは、それに応じた喜びを味わいました。親族や隣人も同様に喜びます。


2. 同じように、私たちの主イエス・キリストは、人類の救いを心に留め、初めから父祖や族長、律法や預言者を通して摂理的な配慮をすべて行い、最後には自ら来られ、十字架の恥辱をいとわずに死に耐えられました。そして、このすべての労苦と配慮は、ご自分から、ご自分の性質から、子供たちをもうけるためであり、彼らが上からの霊によって、ご自分の神性から生まれることを喜ばれたのです。そして、もし子供がいないと、それらの父祖たちが悲しむように、人類を自分の似姿として愛された主は、ご自分の神性の種から子供たちをもうけることを望まれたのです。同じように、もし彼らのうちの誰かが、神の霊の胎から生まれるという誕生に至らないなら、キリストは、彼らのために苦しみ、彼らを救うために多くのことに耐えた後、大きな悲嘆に服するのです。


3. 主はすべての人にこの誕生の特権を与えることを望み、すべての人のために死に、すべての人を命に召されました。しかし、命とは神の上からの誕生です。命がなければ、魂は生きることができません。主はこう言われます。「人は上から生まれなければ、神の国を見ることはできない。」そして、その一方で、主を信じ、来てこの誕生の特権を受ける者はみな、彼らを生んだ両親に天国で喜びと大きな楽しみをもたらします。そして、すべての天使と聖なる力は、霊から生まれ、霊そのものとなった魂を喜びます。この体は魂の似姿であり、魂は霊の像です。魂のない体は死んでいて、まったく何もできないのと同じように、天の魂、つまり神の霊がなければ、魂は王国から死んでおり、霊なしには神のことの何一つを行うことができません。


4. 肖像画家が王の顔に目を留めて絵を描くとき、​​王の顔が自分のほうを向いていて、絵に集中しているときは、肖像画は簡単に上手に描けるが、顔を背けると、顔が画家に向いていないので描けない。同様に、良き芸術家であるキリストは、彼を信じ、絶えず彼を見つめる人々のために、直ちに自身の似姿に似せて天の人を描き出す。キリストは自身の霊から、光そのものの実体、言い表せない光から、天の似姿を描き、その上に善良で慈悲深い配偶者を授ける。人が他のすべてを見過ごして絶えず彼を見つめなければ、主は自身の光で自分の似姿を描かないであろう。したがって、私たちは主を見つめ、主を信じ、愛し、他のすべてを捨てて主に心を向けなければなりません。そうすれば、主はご自身の天の姿を描き、それを私たちの魂に送ってくださり、こうして私たちはキリストをまとって永遠の命を受け、この世でも完全な確信と安らぎを得ることができるのです。


5. 金貨が王の肖像の刻印を受けなければ、市場に出回らず、王の宝物庫に保管されず、廃棄されるのと同じように、魂も、言い表せない光の中にある天の御霊の肖像、すなわちキリストの肖像が刻印されていなければ、天の宝物庫にふさわしくなく、王国の良き商人である使徒たちによって廃棄される。招かれていながら結婚式の衣装を着なかった者は、天の肖像を着けていないという理由で、異邦人として異国の闇に追い出された。これは、言い表せない光の御霊である主の印でありしるしである。死人は役に立たず、その土地の人々にとって何の役にも立たないので、人々は死人を町の外に運び出して埋葬する。同様に、魂の命である神の光の天の肖像を帯びていない魂は、投げ出され、廃棄される。死んだ魂は、輝く神聖な霊を帯びていないので、聖徒の町にとって何の役にも立ちません。この世で魂が肉体の命であるように、永遠の天界では魂の命は神の霊なのです。霊の命がなければ、この魂は天界の人々にとって死んだものであり、何の役にも立ちません。


6. ですから、信じて主のもとに来ようとする者は、地上で神の霊を受けられるようにと祈るべきです。なぜなら、その霊は魂の命であり、主がこの地上で魂に命、すなわち主の霊を与えるために来られたからです。主はこう言われます。「あなたたちに光があるうちに、光を信じなさい。夜が来ると、あなたたちはもはや働けなくなります。」ですから、もしこの世で自分の魂に命、すなわち神の霊の光を求めなかった人がいたら、肉体を離れるとき、その人はすぐに左手の暗黒の領域に分けられ、天国に入れず、悪魔とその使いたちとともに地獄で終わりを迎えます。

金や銀は火の中に投げ込まれると、より純粋で、よりよく証明され、木や干し草のようにそれを損なうものは何もありません。なぜなら、金や銀は近づくものすべてを焼き尽くし、それらも火になるからです。同様に、聖霊の火と神の光の中を昇り降りする魂は、どんな悪霊によっても害されることはありません。たとえ何かがそれに近づいたとしても、それは聖霊の天の火によって焼き尽くされます。あるいは、鳥が飛んでいるとき、鳥捕りや悪い獣を恐れることなく、心配することはありません。なぜなら、鳥はそれらを非常に高いところから嘲笑するからです。同様に、魂は聖霊の翼を受け取り、天の高みに飛び立ち、すべてのものの上にいて、それらをすべて嘲笑します。


7. モーセがその日海を分けたとき、肉によるイスラエルは海の下を通ったが、神の子である彼らは、悪の力の苦い海の上を歩く。彼らの体と魂は神の家となった。

アダムが堕落したその日、神は園を歩いて来た。神はアダムを見て、いわば泣いて言った、「なんという善の後になんという悪を選んだのか! なんという栄光の後になんという恥辱をまとっているのか! なんという闇が今やお前を覆っているのか! なんという醜悪な姿だ! なんという堕落だ! なんという光の後になんという闇がお前を覆っているのか!」そしてアダムが神から堕落して死んだとき、彼の創造主は彼を嘆き悲しんだ。天使たち、すべての力、天と地、そしてすべての生き物は彼の死と堕落を嘆いた。なぜなら、彼らは彼らの王として与えられた彼が敵対的で邪悪な力の奴隷になったのを見たからである。それゆえ、彼は自分の魂に闇をまとった。それは苦くて邪悪な闇であり、彼は闇の君主に服従したからである。エルサレムからエリコへ下る途中、強盗に傷つけられ、半死半生になったのは彼であった。


8. 主が蘇らせたラザロもまた、悪臭を放ち、誰も墓に近づくことができなかったが、魂が悪臭を放ち、黒さと暗闇で満たされたアダムの象徴であった。しかし、アダムと傷ついた男とラザロのことを聞くとき、まるで山に思いを馳せるようにしてはならず、自分の魂の中にいなさい。なぜなら、あなた自身も同じ傷、同じ悪臭、同じ暗闇を負っているからである。私たちは皆、彼の息子であり、その暗い種族であり、同じ悪臭を帯びている。彼が患った病気は、アダムの子孫である私たち皆が同じ病気に苦しんでいる。そのような病気が私たちに降りかかった。イザヤが言うように、「それは傷でも、打ち身でも、腫れ物でもない。軟膏も油も塗ることも、包帯を作ることもできない。」このように、私たちは癒すことのできない傷を負いました。主だけがそれを癒すことができました。このために、主は自ら来られました。昔の人も、律法も、預言者も、誰もこの傷を癒すことができなかったからです。主だけが来られることによって、魂のその傷、その癒すことのできない傷を癒したのです。


9. それでは、私たちの神であり主である真の癒し主を歓迎しましょう。主は私たちのために多くの労苦をなさった後、私たちの魂に来て癒すことができる唯一の方です。主はいつも私たちの心の扉をたたいておられます。私たちが主に向かって開き、主が入り、私たちの魂の中で休んでくださり、私たちが主の足を洗って油を塗り、主が私たちとともに住まわれるようにするためです。主はその箇所で足を洗わなかった人を叱責し、また別の箇所でもこう言っています。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでもわたしに向かって開けば、わたしはその人のもとに入るであろう。」このために主は多くの苦しみに耐え、ご自分の体を死に渡して、私たちを奴隷状態から買い取って、私たちの魂に来て、そこに住まわれるために、多くの苦しみを耐え忍ばれました。このため主は、審判の日に悪魔とともに地獄に送られる左側の人々にこう言われます。「わたしは旅人であったが、あなたたちはわたしを受け入れなかった。わたしは飢えていたのに、あなたがたはわたしに食べ物を与えず、わたしは渇いていたのに、あなたがたはわたしに飲み物を与えなかった。主の食物と飲み物、主の着る物と住まいと休息はわたしたちの魂の中にある。それゆえ、主は絶えず門をたたき、わたしたちの内に入りたいと願っておられる。それゆえ、主を受け入れ、わたしたちの内に迎え入れよう。なぜなら、主はわたしたちの食物であり、飲み物であり、永遠の命だからである。今主を受け入れて休息を与えていない、むしろ主に休息を見出さなかった魂は、聖徒たちとともに天の王国を受け継ぐことはなく、天の都に入ることもできない。しかし、主イエス・キリストよ、あなたはわたしたちをそこへ導き、父と聖霊とともに永遠に御名をたたえてください。アーメン。


トップに戻る
この文書は翻訳文であり、原文から独立した著作物としての地位を有します。翻訳文のためのライセンスは、この版のみに適用されます。
原文:

この著作物は、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。

 
翻訳文:

原文の著作権・ライセンスは別添タグの通りですが、訳文はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。