イズムと云ふ語の意味次第

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 イズムを持つ必要があるかどうか。かう云ふ問題が出たのですが、実を云ふと、わたしあいにくこの問題にだいぶ関係のありさうないはのはうめい氏の論文なるものを読んでゐません。だからそれに対する私の答も、幾分しんてう記者なり読者なりの考と、焦点が合はないだらうと思ひます。

 実を云ふとこの問題の性質が、私にはよくのみこめません。イズムと云ふ意味や必要と云ふ意味が、考へ次第でどうにでもげられさうです。又それを常識で一通りの解釈をしても、イズムを持つと云ふ事がどう云ふ事か、それもいろいろにこじつけられるでせう。

 それをさしあたり、我我が皆ロマンテイケルとかナトウラリストとかになる必要があるかと云ふ、通俗な意味に解釈すれば、勿論そんな必要はありません。と云ふよりもむしろそれは出来ない相談だと思ひます。元来さう云ふイズムなるものは、便宜上のちになつて批評家に案出されたものなんだから、自分の思想なり感情なりの傾向の全部が、それでおほはれるわけはないでせう。全部がおほはれなければそれを肩書にする必要はありますまい。(もつともそれが全部でなくとも或いちじるしい部分を表してゐる時、批評家にさう云ふイズムのはりふだをつけられたのをきよようする場合はありませう。又許容しない事がよろしくない場合もありませう。これはいついくたちやうかう氏が、論じた事があつたと思ひますが。)

 又そのイズムと云ふ意味をひつくり返して、自分の内部活動の全傾向を或イズムと名づけるなら、この問題は答を求める前に、消滅してしまひます。それからその場合のイズムに或名前をくつつけて、それを看板にする事も、勿論必要とは云はれますまい。

 又もう一つイズムと云ふ語を或思想上の主張と翻訳すれば、この場合もやはり前と同じ事が云はれませう。

 唯、必要と云ふ語に、幾分でも自他共べんぎと云ふ意味を加へれば、まるで違つた事が云はれるかも知れません。それなら私は口をつぐんだ方がいいでせう。一つにはイズムの提唱に無経験な私は、さう云ふ便宜をあきらかにしてゐませんから。

(大正七年五月)

この著作物は、1927年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物はアメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。