アウグスブルク信仰告白

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信仰告白書序文[編集]

 1530年、アウグスブルク議会において、無敵なる皇帝カール5世、カイザル・アウグストゥスに奉られたる信仰の告白書。
 「われまた王たちの前になんじのあかしを、かたりて恥ずることあらじ」(詩篇119篇46節)

第1条 - 第2条 - 第3条 - 第4条 - 第5条 - 第6条 - 第7条 - 第8条 - 第9条 - 第10条 - 第11条 - 第12条 - 第13条 - 第14条 - 第15条 - 第16条 - 第17条 - 第18条 - 第19条 - 第20条 - 第21条 - 第22条 - 第23条 - 第24条 - 第25条 - 第26条 - 第27条 - 第28条 - 結語


皇帝カール5世にたてまつる序文[編集]

 最も無敵なる皇帝、カイザル・アウグストゥス、いといつくしみ深き君主よ。
 陛下は、キリスト教の名と宗教の悪逆無比な伝統的旧敵、トルコ人に対し、強力なまた不断の戦備によって、その狂暴と攻撃に対抗し得る手段について審議するため、さらに、わが聖なる宗教とキリスト教信仰にかかわる紛争の故に、この宗教問題につき、各派の意見や判断が、相互の前で公聴せられ、互の愛、謙譲、親切において、相互間に理解せられ、また、比較考量せられて、聖書に関し、双方に異なった解釈をされたり、或は、誤解されたりしていた事柄が、取り除かれまた訂正せられて、これらの事項が、単一の真理とキリスト教の一致とに調和させられ、また引きもどされ、かくして将来、唯一の真実、まことの宗教が、われらによって信奉せられ、保持せられるようになるため、またわれらは、一人のキリストの下にあり、また戦うように、そのように唯一のキリスト教会内でもまた、一致和合して生活していくことが出来るように、アウグスブルクに国会を召集せられた。そして署名した選帝侯と諸侯たるわれら、ならびにわれらに加盟した他の者共は他の選帝侯、諸侯、貴族たちと同様に前記の国会に召集せられたので、勅令にかしこみ従わんがため、早くもアウグスブルクに参上した。誇りとして申す訳ではないが、われらは一番に到着した者たちの中にあったのである。
 それ故に、陛下が、アウグスブルクにおいても、また、国会の初頭にあたって、他の事項に加えて帝国の貴族の各自が勅令に基づいて、その意見と決定とを、ドイツ語とラテン語とで、提出するようにと、帝国の選帝侯、諸侯、また国会議員に提案せられた時、検討の後、水曜日に至って、われらは陛下にお答えして、われらの側では来る金曜日、われらの信仰告白の條文を奉るべき旨を申しあげた。
 それ故、われらは陛下の御意に敬意を表せんがため、宗教問題に関しわれらの説教者ならびにわれら自らの信仰告白を、今奉呈する。本告白の教理は、聖書と純粋な神の言に由来し、今日に至るまでわれらの国、公国、領土、諸都市で宣布せられまた諸教会で教えられて来たのである。他の選帝侯や諸侯や帝国の国会議員が上述の陛下の御提案に従って、ラテン語とドイツ語で同種の文書で、この宗教問題についての彼らの意見を、作製するならば、われらのいともなさけ深い主なる陛下の前で、前掲の諸侯やわれらの友と共に、出来るだけ体面を尊んで、われらが一致し、われら両派間の問題が、平和的に討議せられ、憎しみの論争なしに、神の助によって、紛争が取り除かれ、唯一まことの一致せる宗教につれかえされるようにするため可能な手段方法について協議する用意がある。われらはみな、ひとりのキリストの下にあって戦うように、われらは、また、陛下の勅令の御趣旨に従って、ひとりのキリストを、告白しなければならない。そして万事が、神の真理にまで、ひきもどされねばならない、そのことを、われらは、切なる祈をもって神に祈るものである。
 しかし、他の選帝侯、諸侯、国会議員に関しては、もし、これら他派のひとびとにして、陛下が、賢明にもよしとし給うた方法、すなわち相互に文書を提出し合い、われらの間での、冷静な協議によって処理せられるという仕方でする宗教問題の処理法は、進行しないとか、結果において無であるとか主張するとしても、われらは、キリスト教の一致を推進するに役立ち得るものは、何事でも(神と良心とが許す何事でも)決して回避しないという明かな証拠を残すであろう。陛下も、帝国の他の選帝侯も、国会議員も、そして宗教に対する真摯な愛に動かされ、またそれに関心をもつ者ことごとく、またこの問題について公平に聞こうとする者は皆、われらの告白から、このことを、好意をもって推察しまた理解せられるであろう。
 陛下は、また一度ならず繰りかえし、選帝侯、諸侯また帝国の他の国会議員に、優渥にも予告せられ、また1526年に開かれたシュパイエル国会において、所定の勅諭と訓令の形式に従って、公に朗読せしめまた宣言せしめられた。それは、この宗教問題については、陛下の名で述べられた或る理由のために、陛下が、何事をも決定することを好み給わず、或は何事にも結論を出すことが出来なかったこと、しかし、陛下は、ローマ教皇をうながして、一般会議を召集するよう、陛下の職権をもって熱心に努力しようとされたことである。同様の事態は一年前シュパイエルに開かれた最近の公開の総会で一層十分に、表示せられた。そこでは、ボヘミヤ・ハンガリヤ王にして、われらの味方で、いつくしみ深い君主、フェルディナンド殿下を通し、後には、陛下の代弁者や委員を通して、陛下は、他の提案を含めて次のことを、宣言せしめ給うた。即ち帝国内の陛下の代表者、総理、帝室顧問官、および、ラティスボンに召集せられていた国会議員たちからなる協議会を召集する決議を、承知し、熟考せられたこと、そして陛下もまた、協議会を召集することが有利であることを判断し給うたこと、また、目下、陛下とローマ教皇との間で調整せられるべき事項は、一致とキリスト教的和解に近づいて来ているので、陛下はローマ教皇を促して、一般会議を召集させられることを疑い給わない。それ故、陛下と共に、教皇がこのような一般会議召集の教書を、可及的速かに、発するのに同意することを実現させるべく努力しようと予告せられたのである。
 それ故に、この宗教問題において、われらと他派との間の紛争が、友好的にまた愛をもって解決せられない場合には、われらは、恭順をもって陛下の前に出でて、このような一般的な自由なキリスト教会議において、われらの問題を発表し、これを守る用意がある。この会議召集については、陛下の御代に開かれて来たすべての国会において、選帝侯と諸侯と帝国の他の国会議員の側に、一致の行動と票決とがあった。この一般会議に対し、また陛下に対し、これまでも正当な方法と規定の形式で、事項中の最も重大な問題についてわれらの抗訴を行って来た。陛下と会議との両者に対する訴えを、われらはなお、固執する。われらは本文書によっても、他のどのような文書によっても、それを放棄する考えもなくまた、そうすることは、われらにとって出来ることではない。ただし、われらと他派との問題が、最近の勅令の趣旨に従って、友好的にまた愛において、調整せられ、解決せられ、キリスト教的一致にまでもたらされる時は、別である。上記の訴えに対しわれらはここに公に証言するものである。

第1部[編集]

主要信条


第1条[編集]

神について

 われらの諸教会は、一致して、かく教える。
 神の本質の一なること、三つのペルソナとに関するニカイア会議の教令は、真実であり、疑わずして、信ぜらるべきである。すなわち永遠にして、分たれずして非形態的、無限の能力、知恵、善性をもち、見えるもの、見えざるもの、すべての創造者にして保護者に在す神なる一つの神的本質が存在する。しかも、本質と能力を同じくし、共に永遠である、父・子・聖霊という三つのペルソナが存在する。そして、われらの諸教会は、教父たちが、この事柄に関して用いて来た意味で、ペルソナという語を用いるが、それは他のものにおける一部、あるいは、一つの性質を意味するのではなく、自存するものを意味するのである。
 われらの諸教会は、この條項に反対して起ったすべての異端を排撃する。善と悪との二つの原理を措定するマニ教派の如きがそれで、ワレンティアヌス派、アリウス派、エウノミウス派、マホメット教徒、その他これに類するすべてのものも同様である。われらの諸教会は、また、新旧サモサタ派を排撃する。彼らは、一つのペルソナのみの存在を主張する時、修辞学者流に、ずるくもまた不正に、御言と聖霊とをもてあそび、御言と聖霊とは、別個のペルソナではなくて、「御言」は、語られた言(verubum vocale)を意味し、「御霊」は、被造物における働き(motus)を示すという。

第2条[編集]

原罪について

 われらの諸教会は、また、かく教える。アダムの堕罪以来、自然によって生まれる人は、ことごとく、罪をもって生まれる。すなわち神をおそれず、神への信頼なく、肉欲をもっている。そして、この疾病すなわち原初の過誤は、まことに、罪であって、洗礼と聖霊によって再生しないものの上に、今でも罰をあたえ永遠の死をもたらすのである。
 われらの諸教会は、ペラギウス派及び他の諸派を排撃する。彼らは、この原初の過誤が罪であることを否定し、またキリストの功績とめぐみとの栄光を減少しようとして、ひとを自らの理性の力によって、神の前に、義とされ得るものと考える。

第3条[編集]

神の御子について

 また、われらの諸教会は、かく教える。御言、すなわち、祝福せられた処女マリヤの胎の中で、人性を取り給うた神の御子は、単一なるペルソナの中に、不可分的に結合した二性、すなわち神性と人性とがあり、一人なるキリストは、真の神であって、真の人であると。彼は処女マリヤから生れ、まことに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ給うた。これは父をわれらにやわらがせ、原罪だけでなく、人間の現実的罪のことごとくに対しても、犠牲となろうとし給うためであった。
 このキリストはまた、陰府にくだり、真実に三日目によみがえり給うた。その後、彼が天に昇り給うたのは、父の右に坐して、永遠に支配し、被造物ことごとくを統御し給わんがため、また聖霊を信ずる者の心におくってかれらを聖化し給わんがためであった。聖霊は信仰者を治め(聖化し、純化し、強め)、慰め、活かし、悪魔と罪の力に対して彼らを護り給うのである。
 この同じキリストが生ける人と死にたる人とをさばくため、公に再び来り給うことは、使徒信条の宣言する通りである。

第4条[編集]

義とせられることについて

 また、われらの諸教会はかく教える。人は、自分の力、功績、或は、わざによって神の前に義とせられることは出来ず、キリストのゆえに、信仰によって、代償なく、神の恩恵により義とせられる。その時、人々は、恩恵の中にうけいれられ、その死によってわれらの罪のために贖いとなり給うたキリストのゆえに、その罪が赦されることを信ずる。この信仰を神は御前に義と認め給うのである(ロマ書三章四節)

第5条[編集]

教会の役務について

 われわれがこの信仰を獲るために、福音を教え聖礼典を行うべき役務が設定せられた。御言と聖礼典とによって、いわば媒介によっての如く聖霊が、与えられるからである。聖霊は、み旨にかなう所と時に従って、福音をきく者の内に信仰を起こし給う。すなわち神は、われらの功績のゆえではなく、キリストのゆえに、恩恵に受け入れられたことを信ずる者を、キリストのゆえに義とし給うのである。
 われらの諸教会は、アナバプテスト派やその同類を排撃する。彼らは、聖霊が、福音の御言なしに、自らの準備や行為によって、ひとびとに与えられると考えている。

第6条[編集]

新しい服従について

 また、われらの諸教会はかく教える。この信仰は、必ず善きを結ぶものであり、また、神から命ぜられた善き業をするのは、みこころのためであって、その業によって、神の御前に義とせられるに価すると確信するためではないと。
 罪の赦しと義認とは、信仰によって把握せられるからである、「なんじらも命ぜられし事をことごとくなしたる時、われらは無益なる僕なりと言え」(ルカ伝一七・一〇)とのキリストの御言が証言するように。
 教会の古代の学者達も、同様のことを教えている。すなわちアンブロシウスは「キリストを信ずる者は業でなく、信仰のみによって、無代償で、罪の赦しを受けて、救われるということは、神の定め給うところである」と言っている。

第7条[編集]

教会について

 また、われらの諸教会は、かく教える。唯一の聖なる教会は、時のつづく限り、つづくべきものであると。さらに、教会は、聖徒の会衆(congregatio)であって、そこで、福音が純粋に教えられ聖礼典が福音に従って正しく執行せられるのである。
 そして教会の真の一致のためには、福音の教理と聖礼典の執行に関する一致があれば足りる。また、人間的伝承、人間によって設定せられた儀式、或は式典がどこにおいても、同じでなければならぬことはない。「信仰は一つ、バプテスマは一つ凡ての者の父なる神は一つなり」(エペソ書四・五-六)とパウロもいっている通りである。

第8条[編集]

教会とは何か

 教会は本来、聖徒と真の信仰者の会衆であるが、しかも、この世においては、多数の偽善者と、悪しきキリスト者が、混合しているゆえに、敬虔ならざる悪しき人によって、執行せられる聖礼典も有効である。「学者とパリサイ人とはモーセの座を占む云々」(マタイ伝二三・二)とキリスト御自身が示しておられるように。聖礼典と御言とはたとい悪人によって提供されるとしても、それらはキリストの設定と命令とのゆえに有効である。
 われらの諸教会は、ドナチスト派とその同類とを排撃する。彼らは、教会で悪しき人の役務を用いることの不可なること、また、悪しき人が役務を用いた時、それは無効なりと考えた。

第9条[編集]

洗礼について

 洗礼について、われらの諸教会はかく教える。洗礼は救いに必要であり、そして洗礼によって神の恩恵が提供せられる。また幼児は、洗礼を受けるべきであり、彼らは洗礼によって、神にささげられ、神の恩恵の中に受けいれられる。
 われらの諸教会は、アナバプテスト派を排撃する。彼らは幼児の洗礼を許さず、また幼児は洗礼なくして救われると主張する。

第10条[編集]

主の晩餐について

 主の晩餐について、われらの諸教会は、かく教える。キリストのまことの身体と血とは主の晩餐においてパンとぶどう酒という形体の下に、実際現在し、そこでわけあたえられ、そして受領される。われらの諸教会は、これと異なることを教える者否認する。

第11条[編集]

懺悔について

 ざんげについて、われらの諸教会は、かく教える。個人の赦罪宣言(absolutio privata)は諸教会内で保持されるべきである。しかし、懺悔においてすべての罪過を列挙することは、必要でない。なぜなら、詩篇に「たれかおのれの過失をしりえんや」(一九・一二)とあるように、それは不可能であるから。

第12条[編集]

改悔について

 改悔について、われらの諸教会は、かく教える。洗礼後罪を犯した者は悔改める時はいつでも、罪の赦しを得る。また協会は、悔い改めに至る者には赦罪宣言を与えるべきである。
 さて改悔は、本来二つの部分から成り立っている。一は、痛恨、即ち罪を認めて良心をさされる恐怖。他は、信仰である。信仰は、福音あるいは赦罪宣言から生じ、キリストのゆえに罪のゆるされたことを信じ、良心を慰め、良心を恐怖からまぬがれさせる。ついで、改悔の実なる善き業が必ずつづくのである。その場合、よき業はバプテスマのヨハネが「さらば悔改めに相応しきを結べ」(マタイ伝三・八)といっているように改悔の果(み)たるべきである。
 われらの諸教会は、アナバプテスト派を排撃する。彼らは、ひとたび義とせられたものが聖霊を失うこともあり得ることを否定し、また、或る者は、この世において、罪を犯し得ないまでの完全に至ることが出来ると主張する。ノヴァチアヌス派もまた排撃せられる。彼らは、洗礼後、罪を犯した者には、たとい彼らが再び悔改めても、赦罪宣言を拒否した。また、彼らは罪の赦しが、信仰によって得られることを教えないで、われらの贖いによって得られると教える。

第13条[編集]

聖礼典の使用について

 聖礼典の使用について、われらの諸教会は、かく教える。聖礼典は、ひとびとの間における信仰告白のしるしとなるだけでなく、むしろ、われらに対する神の御意の標識、あかしとなるように、またこれを用いる者のうちに、信仰を、かきたてまたこれを堅くしようとして、定められたのである。それゆえ、ひとは、聖礼典によって提供せられ、宣言せられる約束を信じる信仰が、加えられるように、聖礼典を用いなければならない。
 従って聖礼典は、施された業によって(ex opere operato)義となすと教え、聖礼典を用いるにあたって、罪の赦しを信ずる信仰が、要求せられることを教えない者を、われらの諸教会は排撃する。

第14条[編集]

教会の職制について

 教会の職制について、われらの諸教会はかく教える。何人も、正規に召されたものでないならば、教会内で公に教え、あるいは聖礼典を執行してはならない。

第15条[編集]

教会の儀式について

 人間によって考案された教会の儀式について、われらの諸教会はかく教える。罪なくして守り得られ、また教会内の平穏とよい秩序とに益となるもの、すなわち特定の祝日、祭日、またそれに類するものは守られるべきである。
 しかしながら、この主の事柄については、このようなことを厳守することが、救いに必要であるかのように考えて、良心が重荷をおわされるべきでない。
 神をなだめ、恩恵に値し、罪に対して償いの行為をするために設定せられた、人間的伝承は、福音とキリストの信仰の教理とに反していることを、ひとびとに注意するべきである。故に、恩恵に値し、罪の償いをするために設定せられた、食物や暦日に関する伝承その他この類のものは、無用であって、福音に反している。

第16条[編集]

公民生活について

 公民生活について、われらの諸教会はかく教える。正当な公民規定は神の善き御業である。すなわちキリスト者が、公職につき、裁判に列し、現行の国法や他の法律によって諸事件を決定し、正しい刑罰を定め、正しい戦争に従事し、兵士として行動し、法廷取引や契約をし、財産を所有し、裁判官の要求の際宣誓をし、妻をめとり、或は、子女を婚姻させることは正当である。
 われらの諸教会は、アナバプテスト派を排撃する、彼らはキリスト者に、以上の公職を禁じる。われらの諸教会はまた、福音的完成をば、神の畏れと信仰とにおかないで、公職を放棄することにおくひとびとを排撃するなぜなら福音は、心の永遠の正しさを教えるからである。同時に、福音は国家或いは家族の秩序と管理とを破壊しないで神の秩序としてそれを保持し、また、このような制度の中で、愛を実践することを特に要求する。それゆえ、キリスト者は、その為政者や、法律に従わねばならない。ただし彼らが、罪を犯すことを命令する時はこの限りではない。なぜなら、その時はキリスト者は、人に従うより神に従わねばならないからである(使徒行伝五・二九)

第17条[編集]

審判のためキリストが再び来たり給うことについて

 また、われらの諸教会はかく教える。終末の日に、われらの主イエス・キリストは、審判するため現れ、死人をことごとく甦らせ、敬虔な者と選ばれた者には永遠の生命と、つきない喜びとを与え給うが、不敬虔な者や悪魔には限りない苦悩を宣言し給うであろう。
 われらの諸教会は、アナバプテスト派を排撃する。彼らは、罰に定められた者も悪魔も永遠の苦悩を持たないであろうと考える。われらの諸教会はまた、現在、ユダヤ教的見解を流布して、死者の復活に先立って、敬虔な者がこの世の王国を占領し、不敬虔な者は、至るところで制圧せられるであろうと言う人びとをも排撃する。

第18条[編集]

自由意志について

 自由意志について、われらの諸教会は、かく教える。人間の意志は、公民的の正義を行い、理性が把握するような事柄を選ぶいくらかの自由を有する。しかし聖霊なくしては、神の義、すなわち霊的正義を行う力をもたない。なぜなら生まれつきのままの人は御霊のことを理解しないからである(コリント前書二・一四)しかし、御言によって、聖霊を受ける時、このことが、心の中で行われる。
 これらのことは、僞アウグスチヌスが、その著「ヒポグノスチコン」第三巻の中で多く言うところである。すなわち「われらはすべての人に自由なる意志が存在することを認める。なぜなら彼らは生来の悟性と理性をもつから。しかし、それは神なくしては、神にかかわる事柄を、はじめ、或いは確実に完成する能力なく、この世に属する業においてのみ、善或は悪を、選択する能力を持つのである。私が言う、善とは、自然の善性から出るものをいうので、畑で労働し、飲食をし、友を持ち、衣服を手に入れ、家を建て、妻をめとり、家畜を飼い、種々善いことの技術を習得しようとし、現世にかかわるすべてのよいことを望むことなどである。これらのものはことごとく、神の管理外にあるのではなく、それらは、神から、また神によって存在し始めたのである。しかし、私の言う悪とは偶像を礼拝しようとすること、殺人を犯そうとすることなどである」。
 われらの諸教会は、ペラギウス派や他の同類を排撃する。彼らは、聖霊によらなくても、生まれながらの力だけで、何物にもまさって神を愛し、また、神の戒めをわれらの行動の本質にふれる程に、実行することが出来ると教える。天性は、或る程度まで外面的な業をなすことは出来る(窃盗や殺人から、手をさし控えて置くことは出来るから)、しかし、それは、神畏敬、神信頼、貞潔、忍耐などのような内面的行動をなし得ないからである。

第19条[編集]

罪の原因について

 罪の原因について、われらの諸教会は、かく教える。神は、自然を創造し、また保存し給う、しかし罪の原因は、悪しき者、すなわち、悪魔と不敬虔な者の意志である。この神のたすけを受けない意志は、神に背く。キリストが「悪魔は、虚偽をかたる毎に己より語る」(ヨハネ伝八・四四)と言い給う通りである。

第20条[編集]

信仰と善き業について

第21条[編集]

聖徒崇拝について

 聖徒崇拝について、われらの諸教会は、かく教える。われらの職分に基づいて、聖徒たちの信仰や善き業に倣うように、聖徒を記念すべきである。例えば、皇帝がその国土からトルコ人を駆逐するための戦をするにあたって、ダビデの例にならうがよろしい。これは、両者が王であるから。しかし聖書は、聖徒をよびもとめること、或は、聖徒の助を求めることを教えない。仲保者、和解者、大祭司そして執成者で在し給う一人のキリストをわれらに提供するからである。このキリストは、われらの祈をきくことを約束し給うたのである。そして、このような礼拝、すなわち、あらゆる苦難の中でキリストがよびもとめられることをもっともよろこび給うのである。「人もし罪を犯さば、われらのために父の前に助主あり、すなわち義なるイエス・キリストなり」(ヨハネ第一書二・一)
 以上は、われらの教理のおおよその総括であって、この中で知られることは、聖書にもとるものは何もなく、あるいは、公同教会にもとるものなく、あるいは、教父たちの著書から知られるかぎり、ローマ教会にすらもとるものは何もないことである。このような事情であるから、われらを、異端者と見なされるべきであると主張する者達は、われらを過酷に判断するものである。しかし紛争は、確かな根拠もなしに、諸教会に潜入した悪弊に関するもので、これらの事項について、幾分の相違があるにしても、なお、われらが今、提出した信仰告白のゆえに、われらを寛恕するという寛仁は、監督諸賢にふさわしいことであろう。それは、教会法規でも、いたる所で同じ儀式を要求するほどに厳格ではなく、あるいは、いつの時代でも、全教会の儀式が、同一ではなかったからである。とはいえわれらの間では、大部分、古来の儀式が熱心に守られているのである。なぜなら、すべての式典、昔設定せられたすべての事柄が、われらの諸教会において廃止せられているということは、悪意ある中傷であるからである。しかし、公の不満は、悪弊が一般に用いられている儀式に結びついていることであった。これらは、よき良心をもっては、承認し得られないので、ある程度まで修正せられたのである。

第2部[編集]

改正せられた悪弊を詳論した条項

 われらの側の諸教会は、いずれの信仰条項においても聖書からも、公同教会からも逸脱せず、[一部は、時の推移と共に潜入し、一部は、暴力によって導入せられた]若干の新規な悪弊にして教会法典の本旨に反して、時世の過失によって受けいれたものを、除くだけであるから民衆が、その良心に反して、これらの悪弊を守るよう強要せられないために、陛下が、変更せられた事柄と、その理由とを、いつくしみ深く聞き給うよう願い奉る。また、陛下は、わが方に対し人々の憎悪をあふり立てようとして、民衆の間に奇怪な中傷を流布する者を信じ給わぬように。彼らはこのようにして、善良なひとびとの心をかき立てて、最初にこの論争を起こさせ、今、同様な工作によって、彼らは不和を助長しようと努力している。というわけは、われらの側における教理の形式と式典の形式と両者は、これらのよこしまの、また悪意をもったひとびとが、述べることよりも遥かに許容し得るべきものであることを、陛下が、疑いもなく、お認めになるであろうからである。その上、真理は、世間一般の風説や、敵方の非難から集められはしない。しかし諸式典が、諸教会において正しく行われるにまさって、礼拝の尊厳を保存し民衆の間に畏敬と敬虔の念を育てるに益となるものはないということは容易に判断し得るのである。

第22条[編集]

主の晩餐におけるパンとぶどう酒について

 主の晩餐においてサクラメントのパンとぶどう酒という二つのかたちが、信徒に与えられる。なぜなら、この慣習は「なんじら皆此杯より飲め」(マタイ伝二六・二七)との主の御命令をもつからである。ここで、キリストは明白にこの酒杯について、みなに飲めと命じておられる。そして、このことは、ただ祭司にだけ属するものだと何人もこのキリストの御言を勝手に解釈しないように、パウロはコリントの全教会がパンとぶどう酒という二つのかたちを用いていたことを示している(コリント前書一一・二七)また、この慣習は教会内に長い間存していた。それは歴史書や教父たちの著作によって証明される。キプリアヌスは、数ヵ所において酒杯が、信徒に与えられたことを立証する。聖ヒエロニムスも同様に「祭司は聖餐式に奉仕して、キリストの御血を平信徒に配分する」と立証している。実に、教皇ゲラシウスさえも、聖礼典を、分けてはならないと命じている(Dist. II De Consect. Cap. Comperimus)。礼典を分割することを命じている教会法典は見当たらない。
 又、このような聖礼典分割の慣習が、いつ、いかにしてなされるようになったかは誰も知り得ない。もっとも枢機卿クザヌスはこの慣習がいつ承認されたかを述べてはいるが。今や、このような慣習は神の言に反し、また古来の教会法典(Distinct. 8. c. veritate, cum sequentibus)にも反して取り入れられたもの、従って正しくないことが明らかである。ゆえに、キリストの定め給うたままに聖礼典を用いようと望む人びとの良心を圧迫したり、われらの主キリストの制定に反して取扱うよう強制してはならない。聖礼典の分割はキリストの定め給うところに反するゆえに、われらは従来行われて来た方法をやめることにする。

第23条[編集]

祭司の結婚について

第24条[編集]

ミサについて

第25条[編集]

告解について

 告解は、われらの諸教会で廃止せられない。なぜなら前もって吟味せられ、罪の赦しの宣言を受けた者でなければ、主の御体を与えないことになっているから。また人々は罪の赦しの信仰について、人びとは、最も慎重に教えられる。そしてこのことについて、従来少しも語られていなかった。われらの信者たちは、悔悛の秘跡における罪の赦しの宣言は、神の御声であり、また神の命令によって宣告せられるのであるゆえに、これを、極力、尊重しなければならないと教えられている。
 「鍵の権能」が推奨せられ、またそれが、どのように大きな慰めを恐怖せる良心にもたらすかを熱心に教えられている。また、神が、その罪の赦しの宣言を、天からひびいて来る神の声として、われらが信ずる信仰を求め給うこと、及びキリストに対するこの信仰は、まことに、罪の赦しを得、また、これを受けることも教えられる。
 以前は、償いの行為が、必要以上に、激賞せられておって、信仰について、キリストの功績、また信仰によって、義とせられること等については、何も語られなかった。故に、この点について、われらの諸教会は、決して非難せられる筈はない。改悔の教理が、最も熱心に、われらによって取扱われ、また鮮明せられることに対しては、われらの敵たちも、われらに、譲歩しなければならない。
 しかし、告解について、われらの諸教会は、こう教える。罪を数えあげることは、必要ではない、また、罪ことごとく数えあげる心づかいで、良心に、重荷を負わすべきではない。なぜなら罪をことごとく詳しく述べあげることは、不可能であるからである、詩篇も「誰かおのれの過失を知り得んや」(詩篇一九・一三)と立証する通りである。またエレミヤも「心は、万物よりも偽るものにして、はなはだ悪しし、誰かこれを知るを得んや」(一七・九)と証ししている。しかし詳しく述べあげられる罪でなければ、赦されないとすれば、良心は、決して平和を見出し得ない。人々は、きわめて多くの罪を、見ることも、記憶することも出来ないからである。
 昔の学者たちもまた、罪を数えあげることは必要でないことを立証する。教会の中でクリソストムスが言ったものとして引用せられていることは「私は、君に対してこう言わない。君は公に、君自身を、あかるみに出せとか、あるいは、他人の前で、自身を糾弾せよとか言わない。しかし私は『汝の途を主にあらわせ』と言っている預言者に、君が従うことを望むのである。故に、祈りをもって、まことの審判者である神の前に、君の罪を告白せよ。舌によらずして、良心の記憶をもって、君の過失を明言せよ」というのである。ここでクリソストムスが罪を数え上げることを強制していないことは明らかである。また教会法規注釈書(悔改めについて Dist. V., Cap. Consideret)も、告解は聖書によって命じられておるのでなく、教会によって設定せられたと教えている。
 それにもかかわらず、罪の赦しの宣言のきわめて大きな恩恵の故に、また、それとならんで、恐怖せる良心に与える、その他の効用の故に、告解は、われらにおいても、保持せられる。

第26条[編集]

食物の区別について

第27条[編集]

修道士の誓願について

第28条[編集]

教権について

 監督権について大論争が行なわれて来たが、監督の或るものは不都合にも、教会の権力と剣の権力とを混同したのである。そして、この混同から、きわめて大きな戦争や動乱が生じたが、一方、教皇らは、キリストによって与えられたいわゆる鍵の権能をたよりにして、単に新しい信心行事を制定し、赦罪宣言の留保事項によって、また乱暴な破門によって人びとの良心に重荷をおわせただけでなく、また、この世の王国を、或者から他の者へ移そうとしたり、帝王からその権力と権威とを剥奪しようと努めてきた。
 これらの非行は敬虔な学者たちによって、久しい以前から、教会内で非難されて来た。それゆえ、われらの教師たちは、ひとびとの良心を慰めるために、教会の権力と剣の権力との差異を示さねばならなくなった。そして彼らは、この二つは、神の戒めのゆえに、地上における神の主要な祝福として、正当に尊敬されるべきであると教えた。
 さて、彼らの考えは次のようである。鍵の権能、すなわち、監督の権力は、福音書によれば、福音を宣教し、罪を赦しあるいは留保し、聖礼典を執行すべき神よりの権能、すなわち、戒めである。なぜなら、次のような委託をもって、キリストが、その使徒たちを遣わし給うたからである、「父のわれを遣わし給えるごとく、われも亦なんじらを遣わす……汝ら誰の罪を赦すともその罪ゆるされ、誰の罪を留むるともその罪とどめらるべし」(ヨハネ伝二〇・二一-二三)。「全世界をめぐりて凡ての造られしものに福音を宣伝(のべつた)えよ」(マルコ伝一六・一五)と。
 この権能は、召命に応じて、多数のものか、あるいは個々の人に対して、福音を教え、説き、また聖礼典を執行することによってのみ行使される。なぜなら、それによって、形体的なものでなくて、永遠的なもの、すなわち、永遠の義・聖霊・永遠の生命のようなものが与えられるからである。これらのものは、御言の宣教と聖礼典の執行によるに非ざれば得られない。それはパウロが「この福音は、凡て信ずる者に救いを得させる神の力なり」(ロマ書一・一六)と言う通りである。
 それ故、教会の権力は、永遠的なものを与え、また御言の宣教によってのみ行使されるのであるから、それはこの世の政治に干渉しない。なぜなら、政治は、福音と異なった事柄を取扱うから。為政者は、魂を保護するのではなく、身体と、形体的事物を、明らかな危害から保護し、そして、この世の正義と平和とを維持するために剣と体刑とによってひとびとを拘束する。
 従って、教会の権力とこの世の権力とは、混同されるべきではない、教会の権力は、福音を宣教し、聖礼典を執行するという、自己自身の委託を持っている。教会の権力をしてこの世の王国を変転させてはならない。教権をして為政者の法律を廃止してはならない。教権をして、法律の遵守を棄却させてはならない。教権をして民事規定或は、民事契約についての判決に干渉せしめてはならない。教権をして国家の形態に関して、為政者に法律をおしつけてはならない。キリストは言い給う「わが国はこの世のものならず」(ヨハネ伝一八・三六)と、また「誰かわれを立てて汝らの裁判人また分配者とせしぞ」(ルカ伝一二・一四)と。また、パウロは言う「われらの国籍は天にあり」(ピリピ書三・二〇)、「それ、われらのたたかいの武器は、肉に属するにあらず、神の前には城砦を破るほどの能力あり、われらはもろもろの論説を破り」(コリント後書一〇・四)と。このようにして、われらの教師たちは、この両権力の任務を区別し、両者が神の賜物、また祝福として尊重され、認められるように命じている。
 もし監督たちが、剣の権力をもっているとすれば、彼らは監督として福音の委託によって、それをもつのでなくて、国王や皇帝から、それを受領して、彼らの持ち物のこの世的な管理のため、人間の法律によって持つのである。しかしこれは、福音の役務とは、別の職務である。
 それ故、問題が、監督の管轄権について求められる時には、この世界の権威は、教会の管轄権から区別されねばならない。また福音によれば、あるいは彼らの言うように、神の法によれば、監督は、監督としてすなわち彼らに委ねられた御言と聖礼典の執行権をもつ者として、罪を赦し、また教理を判断し、福音に一致しない教理を排撃し、また邪悪の明らかな者を人間の力によらず、ただ御言によって教会の交わりから除外する権をもつのほか如何なる管轄権も持たない。そしてこの点において諸教会は、神の法によって、監督たちに服従しなければならない。それは「汝等にきく者は、我にきくなり」(ルカ伝一〇・一六)という、キリストの御言があるからである。
 しかし、彼らが、福音に反して何事かを教えあるいは決定するならば、このような場合には諸教会は服従すべきではないという神の戒めをもっている。すなわち「偽預言者に心せよ」(マタイ伝七・七五)。「されど天よりの御使いにもせよ背きたる福音を宣伝うる者あらば呪わるべし」(ガラテヤ書一・九)「我らは真理に逆らいて能力なく、真理のためには能力あり」(コリント後書一三・八)。また「主の破るためならずして建ために我に給いたる権威あり」(コリント後書一三・一〇)ともある。教会法典も同様に命ずる(II. Quaest. 7,Cap.Sacerdotes,及 Cap. Oves)。またアウグスチヌス (Contra Petiliani Epistolam) も「カトリック教会の監督たちが、たまたま過ちあるいは、正典なる聖書に反して何事かを決定するならば、われらも、彼らに賛同してはならない」といっている。
 もし監督たちが結婚とか、十分の一税とかのような、或る問題を審理し、裁く時、何か他の権力、あるいは裁判権を持つとすれば、彼らは、それを、人間の法によって持つのである。しかし監督が、その職務に怠慢なる時には、諸侯は、平和を維持するため否応なしに、その民に対して裁判を行わなければならない。
 これらのことの外、監督或いは牧師達が、教会にあって式典を設定する権をもっているかどうか、また、食物、祝日、教職の階級或いは順位に関する掟を制定する権をもっているかどうかという論議がある。この権を監督たちに帰する人びとは、次のような聖句を証拠とする、「我なお汝らに告ぐべき事あまたあれど、今なんじら得耐えず、されど彼すなわち真理の御霊きたらん時、なんじを導きて真理をことごとく悟らしめん」(ヨハネ伝一六・一二、一三)と。彼らは、また、血と絞殺された物とを避けるように命じた使徒たちの例をも引いている(使徒行伝一五・二九)彼らは、一見、十戒に反するかに見える安息日を主の日に変更したことを引く。そして、どの例においても安息日変更に関して程に、彼らが利用するものはない。教会が十戒の一つの教えを省いたので、彼らは教会の権が、きわめて大であると言っている。
 しかし、この問題について、われらの諸教会は、かく教える。監督たちは、前掲のように福音に反して何事をも規定する権をもたないと。教会法典も、また同様のことを教える(「差別論」、第九)。なお、また、或る伝承の遵守を定め、あるいはそれを要求し、それによって罪の赦しに値しようとし、また罪のための償いとしようとすることは、聖書に反する。なぜなら、われらが、このような行事遵守によって、義とせられることに値しようと求める時、キリストの功績の栄光は汚される。しかも、このような見解によって、伝承は、教会において限りなく増加し、一方、信仰と信仰の義とに関する教理は、抑圧されていることは明らかである。なぜなら、次第に新しい祝日が設けられ、新しい断食が定められ、聖人たちを記念する新しい式典や礼拝行事が設定された。それは、これらの事柄の創始者たちは、これらの行為によって自分たちは恩恵に値しているのだと考えたからである。こうして、過去に、贖罪規定が増加し、われらは、今日なお、贖罪行為の中にその痕跡を見るのである。
 更に、伝承の創始者たちは、食物や日、のたぐいに罪を見、律法の束縛をもって教会に重荷を負わせ、キリスト者の間にあって義とせられることに値するためには、レビ記のような信心行事、すなわち、神が、使徒たちや監督たちにゆだね給うた制度がなければならないかのようにいうのは、神の戒めに反しているのである。彼らの或る者はこのように記し、また教皇たちも、幾分、モーセの律法の例によって、まどわされているように見える。従って次のような重荷が出て来る。すなわち他人につまづきとならないが、祭日に労働するのは、死罪であるとか、教会法典の定める祈とう時刻を省くのは、死罪であるとか、或る種の食物は良心をけがすとか、断食は神をなだめる行為であるとか、罪が保留せられた場合においては、これを保留した者の権威によらなければ、赦されることは出来ない等である。それにもかかわらず、教会法典そのものは、ただ教会的処罰の保留を語るだけで、罪の保留については言っていない。
 ペテロが「弟子たちのくびに軛をかくる」(使徒行伝一五・一〇)ことを禁じ、またパウロが、彼に与えられた権は、破壊のためではなくて、建てるためであったと言って(コリント後書一三・一〇)いるにもかかわらず、監督たちは、ひとびとの良心をわなにかけるために教会の上にこれらの伝承を押しつける権利をどこから得るのであろうか。なぜ彼らは、これらの伝承によって罪を増すのか。
 なぜなら、恩恵に値するためあるいは、救いに必要な事柄として、このような伝承を作ることを禁じる種々な明白な証拠があるからである。パウロは、コリント人に対して言う「されば、汝等食物或は、飮物につき祭あるいは、ついたちあるいは、安息日の事につき、誰にも審かるな」(コロサイ書二・一〇)と。また「汝等もしキリストと共に死して此世の初歩の教えを離れしならば何ぞなお世に行ける者のごとく人の誡命と教えとにしたがいて『さわるな、味わうな、ふるな』という規の下にあるか。これらの誡命は、知恵あるごとく見ゆれども実は……」(コロサイ書二・二三)と。またテトスに向って彼は、明らかに伝承を禁じている。なぜなら彼は、次のように言うからである「ユダヤ人の昔話と真理をすてたる人の誡命とに心を寄することなく……」(テトス書一・一四)と。またキリストは伝承をすすめるひとびとのことを次のように言い給う、「彼らを捨ておけ、盲人を手引きする盲人なり」(マタイ伝一五・一四)と。またこのような信心行事を排撃して「わが天の父の植え給わぬものは皆抜かれん」(同一三)と言い給う。
 もし監督たちが、無数の伝承をもって教会に重荷を負わせ、ひとびとの良心をわなにかける権利をもっているとするなら、なぜ聖書は、このように、何度も、伝承を作ったりまたこれにきくことを禁じているのか。なぜ聖書は、伝承を「悪鬼の教え」と呼ぶのか(テモテ前書四・一)聖霊がこれらのことをあらかじめ警告したのは、無駄であったのだろうか。
 従って、必要なものとして、あるいは、恩恵に値すると考えられて設定せられた規定が、福音に反しているからには、監督たちが、このような信心行事を設定し、あるいは、これを課することは、正当ではないこととなる。なぜなら、キリスト者の自由の教理、すなわちガラテヤ書(五・一)に「堅く立ちて再び奴隷の軛につながるな」と記されているように、律法の束縛は、義とされることに必要ではないということが教会内で維持される必要があるから。福音の主要条項、すなわち、われらは人の造った伝承遵守や礼拝行為のゆえではなく、キリストに対する信仰によって、無償で恩恵を得るのだ、ということの保持される必要がある。
 それでは、主日や教会のほかの儀式については、どの様に考えられるのであるか。これについてわれらの教師たちは、答えていう、諸事、教会内で順序よく行われるように監督たちや牧師たちが規定を作ることは正当である、但し、それによってわれらが、恩恵に値したり、あるいは罪の償いをするためではない。あるいは、ひとびとの良心がこれらを必要な信心行事と考えるように束縛せられたり、また、他人をつまづかせることも、これを破ると罪になると考えたりするためではない。パウロは次のように規定した、「教会にて女は物を被るべし」(コリント前書一・一六)、「もし異言を語る者あらば順次に語りて一人これを解くべし」(コリント前書一四・二六)などと。
 ………………
 ………………
 しかし、もし監督たちが、善き良心をもって守り得られないような伝承を固執しないとすれば、彼らは人びとの正当な服従を容易に保ち得るであろう。さて彼らは、独身生活を命じる、また彼らは福音の純粋な教理を教えないと誓うのでなければ、何人をも受けいれない。諸教会は、監督達に、その名誉を失ってまで、平和と一致とを回復してくれと願うものではない。もちろん、善き牧師たちは、それをすべきであるが。諸教会は、ただ、新しくまた公同教会の慣習に反して受けいれられている不正な重荷を取り除くよう求めるだけである。或る規定は、それが設けられた当時には、それ相当の理由があったのでもあろう。しかし、時代が経つにつれて不適当なものとなる。また或るものは誤って受けられいれたことは、明らかである。それ故に、それらを今、緩和することは、教皇の寛容にふさわしいことであろう。なぜなら、このような変更は、教会の統一を破棄するものではないからである。教会法典も告げているように、多くの人間が設立した伝承は、時とともに、変更されて来ているからである。しかしこれらの行事遵守が、罪なくして守り得られず、それらの緩和も獲得せられないとすれば、その時われらは「人に従わんよりは神に従う」ことを命じる使徒の規則に従わねばならない(使徒行伝五・二九)。
 ペテロは、監督たちが、支配者となり教会を支配することを禁じている(ペテロ前書五・三)われらの意図は監督たちから支配権を奪うことでなくて、ただ一つの事柄だけ、すなわち、福音が、純粋に教えられることを彼らが許すこと、また、罪なくして守られ得ないような数種の行事遵守を緩和することが要求される。しかし、もし彼らが、何をも赦さないなら、彼らは自分たちの頑迷によって、教会分裂をひきおこしたことに対し、神に向って、彼らがどのように申し開きをするかを知るべきである。

結語[編集]

 これらが論争中のものと思われる者の主要条項である。われらは、更に多くの悪弊について語ることが出来るけれども、不当な長さを避けようとして、要点だけを呈示したが、それによって他を判断することは容易である。赦免券、巡礼、破門の悪弊に関しての不平は大きかった。諸教区は、赦免券販売人によって、種々なことでなやまされてきた。教区の法律、懺悔、埋葬、特別な場合の説教、また無数の他の事柄について牧師と修道士たちとの間に際限のない論争が生じた。われらが、これらの事柄を省略するのは、この事項中、重要なものが、簡単に述べられることによって、悪弊が、一層たやすく、注目せられるようにするためである。ここに語られまた引用せられたことはいずれも、何人に対しても非難を投じる目的のためではなかった。われらの教理や式典において、聖書あるいは、公同教会に反して受けいれられたものは何もないことが理解せられるようにするため、語ることが必要と思われる事柄だけが、列挙せられて来た。我らが新しい不虔な教理が、われらの諸教会の中へ潜入しないように熱心に注意を払って来たことは、明白であるからである。陛下の勅令にしたがって、上記の条文を奉呈する。ここにわれらの信仰告白が存し、またここにわれらの間に会って教えるひとびとの教理の要綱が見られる。これ以上のことが望まれ、また神欲し給うならば、われらは、聖書に従って更に行き届いた報告を奉呈する用意をもつものである。

     陛下の忠誠、従順の臣

        ザクソン選帝侯   ヨハネス         

        ブランデンブルク候 ゲオルギュウス

        ルーネブルク候   エルネストゥス

        ヘッセン領主    フィリップス

        ザクソン候     ヨハネス・フリデリックス

        アンハルト候    フォルガングス

        ニュールンベルク  市長並市参事会員

        ロイトリンゲン   市長並市参事会員

出典[編集]

『信條集前編』(著作権者)日本基督教協議会文書事業部 新教出版社 1955

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