「青空」のことなど

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本文[編集]

三高にゐた頃、中谷孝雄、淺見篤、小林馨、故梶井基次郎等と三高劇研究会といふのを作つてゐた。その仲間の友情と、文学への同じ志望が、卒業後は東京へ出て、雑誌を発行する計画を持たせるやうになつた。
卒業を危ぶまれた梶井などは、人力車に乗つて教師の宅廻りをしたりした。しかしさてとなると、梶井は辛うじて卒業出来たが、大丈夫のはずだつた淺見が落第し、京都に止まらねばならないやうなことになつたりもした。
東大に入学した私達は、前記三人と、同じ三高出身の忽那吉之助、早稲田の歌人、故稲葉宗太郎、と私の六人で、雑誌発行の準備に取りかゝつたが、経済的な事情のため思ふに任かせず、漸く発行の目算が立つたのは、大正十三年の十月頃だつた。その頃の日記を抄録してみよう。
「漸く雑誌発行の目算立ち、中谷の所へ集る。梶井、稲森、小林、忽那。同人全部揃ふ。僕、岐阜の刑務所から取り寄せた見積などを見せ、説明する。活字悪いけど、我慢せんならんかと思ふ由言ふ。梶井見本見て困り顔なり。
梶井「鴉」といふ題名にも不満。各自、思ひ思ひに言ふ。梶井等頷かず。皆、次第に不愉快になる。梶井の頑固さが不愉快なのではない。皆、自分で言出しながら、その誌名ことりと腹にはまらず、不愉快なのである。煙草の煙、どんよりとした曇り空、最早、誰も物言はず。座、白け切る。
「窓をあけろ。」
不意に、中谷、立ち上り、窓をあけ、片手に煙草、片手は懐手のまゝ、不貞腐れたやうに窓に腰掛ける。
「あつ!青空が出た、万歳!」
「青空。」「いゝぢやないか。」殆ど異口同音だつた。
「うむ、なかなかえゝやないか。」
梶井、初めて相好を崩し、おもむろに腕組を解く。皆、重苦しい緊縛から解かれたやうに、急に笑声湧く。」
このやうにして、「青空」の誌名は決められた。「青空が出た、万歳。」といふのは、確か武者小路氏の一節であつたと記憶する。
十四年の一月号を創刊号として、「青空」は世に出た。中谷、梶井、私が小説を書いた。十二月、中谷と私は帰省の途、その「青空」を受け取るために、岐阜に立ち寄つた。冬の朝、長良川の清冽な水で顔を洗つた時のことが、今も忘れられない。
しかし「青空」は三号で早くも経済的な困難に陥つてしまつた。そこで、一級下の劇研究会の会員であつた、淺沼喜實、淀野隆三等の東上、加入を待つて、六月号から復刊した。それからは苦しいながら、毎月欠かさずに発行した。
三好達治、飯島正などが加つたのは、いつの頃だつたらう。「朱門」の同人だつた北川冬彦、阿部知二、古澤安二郎等を迎へたのは、十五年十二月のことだつた。その頃には、「青空」の同人も十六人の大勢になつてゐた。しかしそれから間もなく梶井は病気のため湯ヶ島に去り、中谷と私は生活のため、「青空」の経営に加はることが出来なくなり、思想的にも左傾する人も出て来て、三十号近くで、「青空」は遂に解散してしまつた。
何しろ若い日のことであつたから、私達の友情には、信頼といひ、反撥といひ、真剣なものがあつた。私達は毎日のやうに集つて、励ましあひ、戒め合ひ、激論、高笑、とにかく精一杯の一日一日だつた。
私は父の死に遇ひ、暫く父業を継いでゐたが、数年後、中谷等の「麒麟」に加はり「麒麟」と旧「青空」と、淺見淵、尾崎一雄等の「小説」とが合併して「世紀」、それが潰れて「木靴」「文學生活」「日本浪漫派」と、私の同人雑誌時代も長いものであつた。

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