「らい予防法」違憲国家賠償請求事件判決文/section five

提供:Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動

第五節 損害について (争点三)

第一 原告らの主張

 原告らは、被告の違法行為によって受けた損害を、①隔離による被害、②烙印付け被害 (スティグマによる被害)、③退所者の被害等、様々な角度から分析しつつ、これらを総体として、社会の中で平穏に生活する権利を侵害された被害として包括的に評価すべきであるとして、原告らに共通の損害 (以下「共通損害」という。) につき、いわゆる包括一律請求をしている。

 そこで、以下では、まず、原告らの被害の実態を概観し、次いで、包括一律請求の可否及び本件訴訟で賠償の対象となる共通損害の内容等について検討し、最後に、賠償額の算定について論じる。

第二 原告らの被害の実態の概観

 以下では、原告本人尋問を実施した数名の被害状況を見ながら、原告らの被害の実態を概観する。

 一 退所経験のない原告について

 1 原告五番

 原告五番は、昭和二年四月に沖縄県の石垣島で生まれ、昭和一四年四月に沖縄本島にある高等女子学校に進学したが、昭和一五年一二月 (当時一三歳)、皮膚の一か所にわずかな異変があることを見つけた教師から、診察を受けるように言われたことがきっかけとなって、父と共に、星塚敬愛園を訪れた。その途中、同原告は、垂水港からタクシーで同園に行こうとしたところ、同園に行く患者を乗せられないとして乗車を拒否され、ハンセン病に対する社会的差別の厳しさを初めて思い知らされた。同原告は、診察を受けるだけのつもりであったが、同園でハンセン病と診断され、そのまま入所することになった。同原告の症状は軽く、大風子油の治療でほとんど症状がなくなり、わずかの期間プロミン治療を受けた後は、ハンセン病そのものの治療を受けていない。

 同原告は、入所当時から退所に強い意欲を持ち、昭和二一年三月、社会復帰につながるのではないかとの思いもあって、軽症の男性入所者と結婚した。なお、結婚時に、夫が優生手術を受けたことから、子をもうけることはなかった。同原告ら夫婦は、結婚当初、他の三組の夫婦と共同の一二畳ほどの大部屋に入居したが、昭和二五年に四・五畳のささやかな個室を与えられた。夫は、昭和三八年ころ、無断外出を繰り返して自動車の運転免許を取得し、社会復帰のために一〇年近く就職活動を続けたが、ハンセン病に対する差別・偏見が根強い中で療養所が住所となっていることが障害となり、就職先を見つけることができなかった。こうして、同原告は、社会復帰を果たすことができず、現在まで療養所で暮らし続けている。

 2 原告九番

 原告九番は、大正一一年三月に鹿児島県で生まれ、学校を卒業後、両親の下で家業の農業を手伝っていたが、昭和一六年ころから、顔に少しずつ皮膚の異変が現れるようになった。そして同原告は昭和二五年ころから、役場の職員等から、うつる病気だから特別の病院に入らなければならないと強く入所を迫られるようになった。あくまで入所したくないと考えた同原告は、自宅から離れた山奥の小屋で一人暮らしをすることにしたが、その後も、執拗な入所勧奨が続き、「どうしても行かなきゃ手錠を掛けていくぞ。」、「山狩りをしてでも連れていく。」などと言われ、自殺も試みるまでに追い込まれた末に昭和二八年三月一三日 (当時三一歳) に星塚敬愛園に入所することになった。

 同原告は、昭和三〇年に入所者同士で結婚したが、夫が結婚時に優生手術を受けたことから、子をもうけることはなかった。昭和四四年ころ、夫の目が見えなくなり、耳も聞こえなくなったことから、同原告は、その看病に専念したが、昭和五四年に夫が死去した。同原告は、夫の兄に葬式に出てくれるよう頼んだが、「家族にも隠してあるから、行けません。」と言って断られ、その後も音信はない。同原告は、現在まで、療養所で暮らし続けている。

 3 原告一一番

 原告らの中で入所時期 (再入所を除く。) が最も遅い原告一一番は、昭和一〇年八月に〇〇ママ県で生まれ、昭和三七年ころ、あこがれていた〇〇〇〇ママとなり、昭和三九年に結婚し、二人の子をもうけた。同原告は、昭和四八年六月ころ、勤務中に受傷し、その治療を終えて、同年八月に復職しようとした際、職場の上司から、よくない病気だから自宅で待機するようにと言われた。その後、突然、自宅を訪れた県の職員と〇〇〇〇ママ園副園長が同原告を診察し、病名を告げることなく、再診察を受けるようにと述べたことから、同原告は、昭和四八年八月二一日 (当時三七歳)、〇〇〇〇ママ園がらい療養所であることも知らないで、普通の入院程度のつもりで同園を訪れ、妻と二人の子を残して、そのまま入所することになった。

 同原告は、入所後、他の入所者や看護婦から、短期間で退所することなどできないと聞かされ、医師に退所を申し出ても取り合ってもらえなかったことから、絶望し、自殺を考えて包丁を購入したりもした。

 同原告は、昭和五六年ころ以降、妻ががんで入院したことから、自宅で子供の面倒を見、療養所外で就労するという自宅、職場、療養所を行き来する生活を送っており、療養所に完全に縛られた生活をしていたわけではないが、入所により職を失い、人生を大きく狂わされたことは明らかである。

 4 原告一五番

 原告一五番は、昭和八年一〇月に宮崎県に生まれ、昭和一八年に父が病死した後は女手一つで育てられた。同原告は、小学校三年生ころ、膝に数センチメートル程度の斑紋ができたが、だれからも指摘されることなく、治療も受けずにいたところ、昭和二二年と昭和二三年の二度にわたって、自宅を訪れた保健所の職員から入所勧奨を受け、さらに、昭和二四年の春、予防着を身に付けて診察に訪れた医師らから、入所を迫られたが、いずれも母がこれを断った。しかし、三回目の入所勧奨で、同原告がハンセン病であるとのうわさが近所に知れ渡ったため、村八分のようになり、自宅を訪れる者がいなくなったり、姉が破談になって「このうちにはいたくない。」と言って家を飛び出したり、弟や妹の遊び相手がいなくなって孤立するなどした。このような状況に耐えられなくなり、同原告は、昭和二四年一一月三〇日 (当時一六歳)、星塚敬愛園に入所し、家族もこれと同時に差別を避けるため転居を余儀なくされた。

 同原告は、入所後一年経ってようやく一週間程度の帰省を許され、その後も昭和三五年ころまで、一年に一度帰省をしていたが、その後は、家族に迷惑が掛かることをおそれて帰省をしなくなった。ハンセン病に対する差別・偏見のため、同原告は、弟や妹の結婚式にも呼ばれず、彼らの配偶者と一度も会ったことがなく、母の死も初七日の後に知らせを受けた。同原告は、現在まで、独身のまま、肉親との音信もなく、療養所で暮らし続けている。

 5 原告三四番

 原告三四番は、昭和五年二月に宮崎県で生まれ、昭和二〇年三月に国民学校高等科を卒業後、家業の農業を手伝っていた。同原告は、昭和二四年ころ、皮膚の異変で医師の診察を受けたが、その数日後、保健所に呼び出されて、ハンセン病であることを告げられた。その後、同原告は、頻繁に入所勧奨を受け、隣家から村八分のような扱いを受けるようになったことから、両親と泣き崩れて別れを惜しみながら、昭和二六年一〇月三〇日 (当時二一歳)、星塚敬愛園に入所した。

 同原告は、入所当時、熱こぶが出るような状況であったが、病棟看護等の患者作業を割り当てられ、これに従事せざるを得なかった。同原告は、昭和三三年ころ、菊池恵楓園に転園したが、そこでも、昭和四八年ころまで不自由舎付添い等の患者作業に従事した。

 同原告は、一人娘であったことから、退所して家を継ぐつもりであったが、昭和四二年に両親が養子を迎えた後、ハンセン病患者に対する社会的差別をおそれる母から、帰ってくるなと言われるようになった。

 入所時に別れを惜しんだ肉親ですら、帰ることを拒むようになるのはハンセン病 に対する差別・偏見があったからであり、これにより、入所者が被った精神的苦痛には、並々ならぬものがあるというべきである。

 6 原告六七番

 原告六七番は、昭和四年三月に岡山県で生まれ、ハンセン病で入所勧奨を受け自殺した父の後を継いで農業を営んでいたが、昭和二五年ころ、発病した。そこで、同原告は、大阪大学病院に通い、当時としては非常に高価だったプロミンを数回分持ち帰って投与し、これにより症状が落ち着いて、昭和二九年一二月には結婚をし、子をもうけた。ところが、同原告は、昭和三一年ころから、再び症状が現れ、何度も入所勧奨を受けるようになった。同原告は、あくまで自宅での治療を臨ママんだが、大阪大学病院でプロミンの持ち帰りを断られ、やむなく、昭和三五年九月 (当時三一歳)、妻子を残して長島愛生園に入所した。入所後しばらくは、農作業の手伝いに年二回帰省していたが、その期間は一週間に厳しく制限された。

 同原告は、入所後三年ほどのプロミン治療で、ハンセン病自体の症状はなくなったが、療養所での養豚作業中に麻痺している足を受傷し、それ以来足の治療を受け続けている。同原告は、足の治療のため、一時多磨全生園に転園しているが、退所することなく、現在に至っている。

 7 原告八四番 (なお、同原告は退所経験があるが、戦前のことであるので、ここで紹介することにした。)

 原告八四番は、昭和三年一月に徳島県で生まれた。同原告は、幼いころからハンセン病の症状が現れ、昭和一七年七月二一日 (当時一四歳)、邑久光明園に入所したが、昭和二〇年五月に同園から逃亡し、実家に戻った。しかし、同原告は、昭和二三年に保健所から度々入所勧奨を受け、以前は手に入った大風子油も手に入らなくなったことから、同年五月三一日 (当時二〇歳)、大島青松園に入所した。

 同原告は、昭和二五年二月に入所者同士で結婚したが、当時は、女性一二人が住む二四畳の大部屋に毎夜通わねばならず、惨めな結婚生活を味わい、昭和三〇年にようやく四・五畳の部屋が与えられた。

 同原告は、昭和四〇年ころ、入所者の団体旅行に参加しようとしたところ、医務課長から、菌指数がプラス三であるという理由で、參加を許可されなかったことがあった。また、同原告は、昭和五〇年ころには、外出先で社会的な差別を感じることも多く、買物に行って代金を支払っても、そのまま受け取らず「金はそこへ置いといて。」などと言われたり、食堂で「作れませんから帰ってください。」などと言われたりすることがあった。

 同原告は、妻と共に社会復帰したいと考え、昭和四〇年代に何度か退所を申し出たが許可されず、現在まで療養所で暮らしている。

 8 原告八七番

 原告八七番は、昭和二三年一〇月に愛媛県で生まれたが、三歳のころ、ハンセン病であった母が死亡し、祖母に育てられた。同原告は、昭和三一年ころ、発病し、県の職員から、数回にわたる入所勧奨を受け、その際、祖母が「島流しをさすのはかわいそうな。」と言って抵抗したものの、結局、昭和三二年四月一六日 (当時八歳)、大島青松園に入所した。同原告は、大島青松園に向かう列車の中で、好奇の目にさらされ、つらい思いをしたことを今でも記憶している。同原告は、入所時に少女舎へ向かう坂を登っていったときの心境を「一歩一歩が暗いトンネルでも入っていくような感じ」だったと述べている。

 同原告は、同園内で義務教育を修了後、長島愛生園に転園し、同園内の邑久高等学校新良田教室に進学した。同教室在学中に唯一の頼れる肉親である祖母が死去したが、同原告は、参列に反対する親戚の意向で、葬式に呼ばれなかった。

 同原告は、同教室卒業後、再び大島青松園に戻り、昭和四五年九月に入所者同士で結婚したが、与えられた夫婦寮は障子一枚と廊下をはさんで他に二組の夫婦が暮らしており、心が安まるところではなかった。同原告は、昭和四七年と平成二年に妊娠したが、子を産み育てることを許さない療養所において、出産するということは選択肢として全く念頭になく、いずれも堕眙手術を受けた。

 同原告は、退所を全く考えたことがないという。いまだ社会性が育まれていない八歳という幼少の時期に肉親と引き離され、孤島でほとんど外界に接することなく大人になった同原告が、このような心境になるのは、正に隔離そのものがもたらした結果というべきである。

 9 原告一二六番

 原告一二六番は、昭和四年一月に高知県で生まれ、昭利二六年に結婚し、子をもうけたが、昭和四一年に離婚し、息子と二人で暮らしていた。同原告は、昭和四三年ころから、神経痛や斑紋が出て、病院で診察を受けたところ、病名を告げられることなく、大島青松園に行くようにと言われ、同園がらい療養所であることも知らないまま来園し、同年六月七日 (当時三九歳)、中学校二年生の息子を姉に託して入所することになった。息子と生き別れた同原告は、悲嘆にくれ、食事も取れず、次第に衰弱して一時危篤状態にまでなった。その後、同原告は、同年一二月に原告一二五番と結婚した。

 同原告は、買物をした際、店員が代金をはさみではさんで取ったときのことを鮮烈に記憶し、ハンセン病に対する社会的差別が根強いことを感じている。同原告は、手に後遺症を残し、ハンセン病に対する社会的差別を恐れる思いから、退所を考えたことはないといい、ただ、ひっそりと生を終えたいと考えて、現在まで療養所で暮らしている。

 二 退所経験のある原告について

 1 原告七番

 原告七番は、昭和二三年一一月、鹿児島県で生まれ、母が病死した後は父一人に育てられたが、昭和二九年ころから、発熱や斑紋が出るなどの症状が現れ始めた。同原告は、昭和三七年九月一曰、校長から突然「もう学校に来なくてよいから帰りなさい。」と言われ、その二日後、自宅を訪れた県の職員が父に「子供まで殺していいのか。」と言っていたのを漏れ聞き、父に言われるまま、同年九月五日 (当時一三歳)、星塚敬愛園に入所した。

 同原告は、入所の約一年後、二泊三日の帰省許可をもらい、喜び勇んで実家に戻ったが、父から「世間体があるから、もう帰ってきてくれるなよ。」と言われて愕然とし、その後、実家には帰らなかった。

 同原告は、昭和四三年一一月に同園から無断で退所し、関東方面でパチンコ店の店員や塗装工等の職を転々としたが、病状が再燃し、昭和四六年八月、診察を受けるつもりで多磨全生園を訪れたところ、医師の指示でそのまま入所することになった。同原告は、昭和五〇年五月、同園から星塚敬愛園に転園し、平成五年六月に初めて治癒したことを告げられたが、現在まで、療養所で暮らしている。

 2 原告一二番

 原告一二番は、佐賀県で生まれたが、昭和二三年 (当時一六歳) ころ、九州大学病院でハンセン病と診断され、ここでは新薬が手に入らないから菊池恵楓園に行くように勧められて、同年三月、同園に入所した。同原告は、昭和三三年に原告一六番と結婚し、昭和三四年四月に妻が妊娠していることが分かった。同原告は、何とか出産させたいと考えたが、療養所で子を産み育てることはできないとあきらめ、妻は堕胎手術を受けた。その後、同原告は、優生手術を受けなかったが、婦長から何度も優生手術を受けるように言われた。

 同原告は、退所したい一心で治療を受け、昭和三七年に菌陰性となった後、昭和四一年にようやく退所を許可され、退所後は、山林を切り開いて作った鶏舎で養鶏をした。

 同原告は、平成二年に後遺症があった足の傷が悪化して同園に再入所し、現在まで、療養所で暮らしている。

 同原告は、自分の病気のために、妹の結納まで交わした縁談が破棄されたという。また、同原告は、家族に差別が及ぶことを恐れて、平成元年に死去した父の葬儀にも出ず、平成一〇年の養女の結婚式にも参列しなかった。

 3 原告三一番

 原告三一番は、昭和一〇年六月、宮崎県で生まれたが、一三歳のころから両手の握力がなくなるという症状が現れ、昭和二五年一一月、学校の教師に連れられて保健所に行き、さらに、星塚敬愛園に診察を受けに行って、同年一二月一一日 (当時一五歳)、同園に入所した。

 同原告は、昭和三八年一〇月に治癒と認められて退所し、実家に戻ったが、入所時に実家が消毒を受け、自分が療養所に入所したことが近隣に知れ渡っていたことから、周囲の差別・偏見を感じながら生活をした。同原告は、新聞配達の仕事をしたが、三か月くらい経ったところで、雇用主から「あの人が配るんであればもう新聞はいらない。」という苦情があることを聞かされ、配達地域の変更を余儀なくされた。同原告は、差別・偏見から逃れるために転居を重ね、入所歴をひた隠しにして、現在まで暮らしている

 4 原告四二番

 原告四二番は、昭和九年一〇月、沖縄県で生まれたが、二一歳ころから斑紋が現れ始め、二二歳ころから、顔が腫れるようになった。同原告は、昭和三四年ころ、小さな自動車修理工場を経営していたが、医師から沖縄愛楽園で検查を受けるように言われ、同年三月二八日 (当時二四歳)、同園で検査を受けたところ、ハンセン病と診断され、帰宅も許されず、妻子を残して、そのまま入所することになり、工場を手放さざるを得なくなった。同原告は、同園に入所したことを妻に隠し、別の病気で入院していると告げていたが、妻にハンセン病のことが分かると、妻から「もう来るな。」と言われて絶縁状態となり、昭和四二年に正式に離婚した。

 同原告は、昭和三九年八月に同園を退所し、入所歴を隠して自動車整備工として働き、自分の工場を持つまでになり、同園の退所者を数名雇ったりしたが、ハンセン病患者だといううわさが立ち始めたころから急に経営不振となり、工場を手放さざるを得なくなった。同原告は、再婚した妻の兄弟から、ハンセン病のことであからさまに差別的な言動をされたこともあった。

 同原告は、ハンセン病の症状が顔に現れるようになり、差別を恐れる妻から、遠くの療養所に入ってほしいと言われ、昭和五四年一二月、星塚敬愛園に入所し、昭和五八年五月に軽快退所して沖縄に戻ったが、また、再発し、平成四年一一月ころ、多磨全生園に入所し、平成五年六月に宮古南静園に転園して、現在に至っている。

 5 原告四三番

 原告四三番は、昭和一五年五月に大阪府で生まれ、それまで病気であるとの自覚はなかったが、小学校六年生のときに学校の健康診断で異変が見つかり、大阪大学病院で診察を受け、母に言われるまま、昭和二七年五月一日 (当時一一歳)、長島愛生園に入所した。同原告は、昭和三五年の父の葬儀の際、母から、参列しないように言われ、それ以来、実家に帰っておらず、その後、自分の知らない間に家族が転居していたこともあって、音信が途絶えた。

 同原告は、昭和四八年ころ、二度と戻らないつもりで同園を抜け出したが、就職に苦労し、新聞の勧誘や集金等の仕事をして生活した。同原告は、昭和五二年、昭和五八年、平成元年の三度、足の後遺症や再発の治療のため、多磨全生園に一時入所した。そして、同原告は、平成五年に長島愛生園に入所し、現在に至っている。

 6 原告一二〇番

 原告一二〇番は、大正一四年九月に岡山県で生まれ、それほどの症状は出ていなかったが、昭和一一年に父と共に連行され、同年七月二一日 (当時一〇歳) に大島青松園に入所した。同原告は、昭和二一年に原告一二一番と結婚し、昭和二二年に優生手術を受けた。

 同原告は、昭和三八年四月、同園を軽快退所し、先に社会復帰をした退所者を頼って関東方面に出て、入所歴を隠してボールベアリングの会社に就職し、研磨工として稼働ママした。幼いころに入所した同原告は、それまで社会生活をほとんど経験しておら ず、電話の掛け方も分からないような状況でとまどったが、翌年一一月には、妻を呼び寄せて、二人で暮らし始めた。しかし、同原告は、後遺症の残る足の腫れがひどくなり、元入所者であることが発覚することを恐れて病院にも行かないまま無理を重ねたことから、更に症状を悪化させ、結局、昭和四二年五月に妻と共に大島青松園に再入所した。同原告は、約四年間の社会での生活について、差別を恐れて病気をひた隠しにし、多くの苦労を重ねたが、それでも、人生の中で貴重なものだったと述べている。

第三 包括一律請求の可否及び共通損害の内容等

 一 前記第二で概観したとおり、原告らが被った被害の全体を直視すると、その被害は極めて深刻であると言うべきであるが、本件は、新法及びこれに依拠する隔離政策による被害に関するこれまで例を見ないような極めて特殊な大規模損害賠償請求訴訟であり、その被害は、短い者 (原告一一番) でも、昭和四八年以降新法廃止ころまでの二三年間という極めて長期間にわたる上、その内容も、個々に取り上げると、身体、財産、名誉、信用、家族関係等、社会生活全般に及ぶ実に多種多様なものであって、その一つ一つにつき、立証を求めていたのでは、訴訟が大きく遅延することは明らかであり、真の権利救済は到底望めず、また、訴訟運営上も明らかに相当でないこと、もともと、慰謝料には、個別算定方式による場合であっても、各費目の損害を補完・調整して、全体としての損害額の社会的妥当性を確保する機能があることなどからすれば、原告らが主張する被害の中から、一定の共通性の見いだせる範囲のものを包括して慰謝料として賠償の対象とすることは、許されなければならない。

 二 原告らは、本件の共通損害を、社会の中で平穏に生活する権利と表現しているが、その中身として、個々に挙げているところは、極めて多岐にわたっている。このうち、財産的損害、特に逸失利益については、慰謝料算定の根拠を著しくあいまいにするものである上、本件において、これに一定の共通性を見いだすことは困難であるから、これを許容することはできず、また、身体的損害 (断種、堕胎、治療機会の喪失、患者作業による後遺症の発生等) についても、個々の原告による差異が著しく、これを共通損害として、本件の賠償の対象とすることはできない。

 原告らが社会の中で平穏に生活する権利の中の主要なものとして取り上げる隔離による被害については、確かに、入所時期及び入所期間か、各原告によって異なっている上、既に検討したとおり、その時期によって、隔離による自由の制限の程度や入所者に対する処遇内容にも大きな差があり、単純に入所期間の長短のみによって、隔離による被害の程度を評価することはできない。しかしながら、隔離による被害については、時期を特定すれば、一定の共通性を見いだすことが可能であり、各療養所における取扱いの違い等、個々の原告間の被害の程度の差異については、より被害の小さいケースを念頭に置いて控え目に損害額を算定する限り、被告に不利益を及ぼすものではない。

 原告らは、入所時期、入所期間、入所の形態、入所時の症状、入所動機等はそれぞれ異なるが、いずれも、隔離の必要性が失われた昭和三五年以降に入所していた経験を持つ者であり、その入所期間中に新法一五条による自由の制約下に置かれていた点では共通しているのであるから、これを共通損害として見るのが相当である。

 また、原告らは、社会から差別・偏見を受けたことによる精神的損害を、スティグマによる被害 (烙印付け被害) あるいはその一部として、共通損害である社会の中で平穏に生活する権利の中に含ませている。この点、ハンセン病に対する誤った社会認識 (偏見) により、原告らが社会の人々から様々な差別的扱いを受けたことそのものを賠償の対象とすべきものではなく、そのような地位に置かれてきたことによる精神的損害を被害としてとらえるべきであり、これにも、一定の共通性を見いだすことができる。原告らの中には、発病が発覚して以来ずっと入所しており、差別偏見を恐れてほとんど外出しなかった者、退所し、周囲の者に元入所者であることをひた隠しにしてきた者、故郷に帰ったため周囲からの激しい差別・偏見にさらされてきた者、後遺症があるため元入所者であることを隠すことができず、ずっと病毒を有しているように誤解されてきた者等、様々な者がいるが、ここでも、このような差異があることを念頭に置いて、控え目に損害額を算定する限り、これを共通損害としてとらえることが可能である。なお、ハンセン病に対する社会的な差別・偏見は、古来より存在していたものであり、被告の行為のみによって生じたものではない。このことも、慰謝料の算定上は十分考慮すべきである。

 ところで、この二つの共通損害は、互いに密接に結び付くものである。すなわち、隔離による被害は、入所者にのみ認められるものであるが、入所者の退所を妨げる要因は、法的制約のみではなく、社会内の差別・偏見の存在も大きく、とりわけ、退所の制限が緩やかになった昭和五〇年代以降においては、むしろ、後者の要因が主であるといえる。したがって、入所者の被害については、この二つの共通損害を別々に金銭評価するのではなく、これらを包括して、社会内で平穏に生活することを妨げられた被害としてとらえるのが相当である。

 三 右の二つ以外を共通損害としてとらえることはできないが、以下、これに関係するものとして、優生政策と患者作業の位置付けについて検討する。

 優生政策については、前記第二節第三の五で述べたが、これに関する被告の主張を見る。

 被告は、一般に国立療養所において入所者同士が結婚し子供を持てないのは当然のことであり、その反面、退所すれば子供を持つことに何らの制限もないし、もとより、在宅患者は断種手術などだれからも要請されることもないのであるから、療養所では子供は持てないとか、ハンセン病患者は子供は持てないと考えていたという問題は、入所者に退所の自由があったのかどうかの問題であって、これを優生政策と結び付けるのは、明らかな論理の飛躍であると主張する。

 しかしながら、被告は、少なくとも、原告らの大半が入所した昭和三〇年代以前においては、退所させることをほとんど念頭に置かないで、患者を隔離してきたのであり、患者らは、いったん入所すると、家族や社会と切り離され、療養所外の生活基盤を失い、退所することが極めて困難な状況に置かれ、その結果、多くの入所者が、療養所を生涯のすみかとして暮らさざるを得ず、現実に、入所者の大半が、退所することなく、生涯を療養所で過ごしているのである。したがって、国立らい療養所とそれ以外の一般の国立療養所とでは、入所者の置かれた状況が全く異なっているのであり、これを同列に見る被告の右主張は失当である。昭和三〇年代まで、優生手術を受けることを夫婦舎への入居の条件としていた療養所があったが、これなどは、事実上優生手術を強制する非人道的取扱いというほかない。被告の右主張は、入所者らの置かれた状況や優生政策による苦痛を全く理解しないものといわざるを得ず、極めて遺憾である。

 優生政策による被害を退所者をも含めた意味で、前記二の別個独立の共通損害として評価することはできないが、隔離による被害を評価する上での背景的事情として見ることとする。

 患者作業による被害についても、すべての原告が従事していたわけではないので、右1と同様、隔離による被害を評価する上での背景的事情として見るにとどめることとする。

第四 損害額の算定 (なお、原告二五番、同二六番、同四二番については、後記第六節において検討する。)

 一 慰謝料の算定は、次のとおりとする。

 1 原告らの被害発生の始期は、ハンセン病発病時ということもできないではないが、原告らの発病から入所までの状況は様々であり、また、原告のほとんどが、発病の発覚後間もなく入所していることから、本件訴訟では、入所前の被害については共通損害として取り扱わない。

 2 昭和三四年以前においても、個々の患者 (特に、神経らい患者) を取り上げてみたときには、隔離の必要性を欠く違法な隔離により損害を被ったということもあり得るが、この点に着目した立証・反証はなされていないことから、昭和三四年以前の被害は共通損害の対象としない。

 3 入所時期及び入所期間以外の個別的事情を損害評価の基礎とすることを明確に位置付けてこなかった本件訴訟の経過から、右個別的事情の有無によって慰謝料額に差を設けることはせず、入所の形態、入所時の病状、入所動機等に様々な個別的事情があることを念頭に置いて、慰謝料の算定を控え目にすることとする。

 4 隔離による被害自体は、年々軽減されていき、特に、昭和五〇年代以降は、右被害が著しく後退していった。また、入所者の処遇は次第に改善されており、特に、昭和五〇年代以降顕著である。

 このことを踏まえて、共通損害全体を年代ごとに段階的に評価するのが相当である。

 また、昭和五〇年以降においては、隔離による被害の著しい後退と処遇改善を考慮し、入所の有無及び期間によって、慰謝料額に差を設けないこととする。

 5 慰謝料算定に当たっては、①まず、昭和三五年以前から入所し新法廃止まで退所を経験していない原告の基準額を考え、②それより入所時期が遅い者は、共通損害のない昭和三五年から入所時までの期間部分の慰謝料を①から減額し、③昭和三五年から昭和四九年までの一五年間に退所していた期間がある者については、当該期間に係る隔離による被害部分の慰謝料を①から減額するという考え方によることとする。

 6 廃止法二条は、国は、療養所において、同法施行 (平成八年四月一日) の際現に療養所に入所している者であって、引き続き入所する者に対して、必要な療養を行うものとしている

 また、廃止法三条一項は、療養所長は、同法施行の際現に療養所に入所していた者であって同法施行後に療養所を退所した者又は同法施行前に療養所に入所していた者であって同法施行の際現に療養所に入所していないものが、必要な療養を受けるため、療養所への入所を希望したときは、入所させないことについて正当な理由がある場合を除き、療養所に入所させるものとし、同条二項は、国は、前項の規定により入所した者に対して、必要な療養を行うものとするとしている。

 このように、療養所の入所者及び元入所者には、療養所で療養を受ける権利が保障されており、このことを慰謝料の減額事由として評価する。


 7 以上を踏まえて、慰謝料額を次のとおりとする。

 ㈠ 初回入所時期が昭和三五年以前で、退所を経験していない原告

 一四〇〇万円

 ㈡ 初回入所時期が昭和三五年以前で、退所を経験している原告について

  ⑴ 昭和三五年から昭和四九年までの一五年間の退所期間 (ただし、昭和三五年から昭和三九年までの五年間は二倍に換算する。以下「換算退所期間」という。) が、二年未満の者。

 一四〇〇万円

  ⑵ 換算退所期間が、二年以上一〇年未満の者 (原告二一番、同一六番、同二七番、同二九番、同三〇番、同四四番、同五一番、同六六番、同九八番、同一二〇番、 同一二一番、同一二三番)

 一二〇〇万円

  ⑶ 換算退所期間が、一〇年以上一八年未満の者 (原告二八番、同三一番、同四五番、同五六番、同六二番、同七九番、同一一五番)

 一〇〇〇万円

  ⑷ 換算退所期間が、一八年以上の者 (原告一〇番、同三七番、同九四番)

 八〇〇万円

 ㈢ 初回入所期間が昭和三六年から昭和三七年までの原告

  ⑴ 昭和四九年以前に退所を経験していない者 (原告一四番、同六三番、同七二番、同一〇五番、同一〇六番)

 一二〇〇万円

  ⑵ 原告七番

 退所期間を考慮し、一〇〇〇万円

 ㈣ 初回入所時期が昭和四三年から昭和四五年までの原告四〇番、同五五番、同一二六番

 一〇〇〇万円

 ㈤ 初回入所時期が昭和四八年の原告一一番

 八〇〇万円

 以上の基準に従い、原告らに対する慰謝料額を別紙八のとおりとする。

 二 弁護士費用

 各原告につき、別紙八の慰謝料額の一割とする。

 三 なお、慰謝料額の算定について補足する。

 本件で慰謝料額が最高でも一四〇〇万円にとどまっているのは、原告らが選択した包括一律請求によるところが大きいが、それだけではなく、新法廃止前の処遇改善努力や新法廃止後の処遇の維持・継続を十分に評価した結果である。

 したがって、本判決が、廃止法二条、三条による処遇の在り方を左右するような法的根拠となるものでないことは明らかである。

この著作物は、日本国著作権法10条2項又は13条により著作権の目的とならないため、パブリックドメインの状態にあります。同法10条2項及び13条は、次のいずれかに該当する著作物は著作権の目的とならない旨定めています。

  1. 憲法その他の法令
  2. 国若しくは地方公共団体の機関、独立行政法人又は地方独立行政法人が発する告示、訓令、通達その他これらに類するもの
  3. 裁判所の判決、決定、命令及び審判並びに行政庁の裁決及び決定で裁判に準ずる手続により行われるもの
  4. 上記いずれかのものの翻訳物及び編集物で、国若しくは地方公共団体の機関、独立行政法人又は地方独立行政法人が作成するもの
  5. 事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道

この著作物は、米国政府、又は他国の法律、命令、布告、又は勅令等(Edict of governmentも参照)であるため、ウィキメディアサーバの所在地である米国においてパブリックドメインの状態にあります。“Compendium of U.S. Copyright Office Practices”、第3版、2014年の第313.6(C)(2)条をご覧ください。このような文書には、“制定法、裁判の判決、行政の決定、国家の命令、又は類似する形式の政府の法令資料”が含まれます。