死刑宣告

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序文[編集]

私の詩への警告●●

私の詩をデカダンの如く思ふ者、それ自身が一つの嘲笑はるべき近視眼だ!

私は私の詩集に「野獣性なる人間的なる愛の詩集」と名づけたく思ふ程の、いはゆるデカダンを擯斥する者である。必然にデカダンに追ひ込まんとする近代文明的所設の諸手段に、私は貫通する意志を持つ私が解体する如く見える日の自分を、意地の悪い憤怒と嘲笑とをかくしまぢえた日の、われ自身の「ブルジヨア的(労働者に対する資本家の意味に非ず)サチイズム」に警戒せよ!

また私の詩に対する、喧騒・鳴動・雑音・醜悪の言を吐く、愚鈍なる彼女の心臓への発矢!

われにとつて欲望はひるがへせない旗幟鮮明なるモツトーだ!馴養されたる一切のアカデミーの非力への虐殺だ!

俗悪なれば、低劣なればこそ、と云ふ言葉は、すでに通行をゆるされない。軽蔑する!圧殺する!単にそれだけが持つ新価値!飼ひ馴らされたる番犬的精神のみが吠え猛る!彼等自身を盲目にした所の芸術に、道徳に、一つの擁護運動として、

何物かを神聖化してゐねば、安心してゐられない群羊!神聖化する事によつて、自らを瞞着し、価値を認めやうとする臆病!汝自身を常に不自由に一つの檻をつくつて監禁し、汝自身を定型によつて住まはせねば安眠出来ぬ神経衰弱者!

偶像の義僕よ!

詩人は詩をつくり、詩人とは詩とは何ぞや?を完全に答へられねば何等かの権利を有しないと思ふやうな心!言はねばゐられない他へ対する自己の恐怖心にかくれた利巧!

詩を検討し詩の向上のためと云ふ事は、自らを安心させると共に、他のものに対する恐怖心をとりのけ、人々の目に、自分自身を立派なものにする、最も有効な方法ではあらうぞ!猿め!

然し、ほんとうの詩は、詩人は、「詩は斯うだ!」「詩は斯うしろ!」と云ふ旗印の下に戦ふことに成立するものでなく、むしろ全く、全然かゝる誤謬の旗下に戦はない事にのみ成立する。

されば私は私にとつてのみ必然なる詩の氾濫と噴出について、前もつて一言してをかふ。私の第一運動を経過した過去のために——

一篇の詩は、われ自身の函の中の音楽を聴くと共に、都会の雑音にまぢる高架鉄道の轟音を聞く。輪転機の音と側のペンの走る音と、一匹の虫の音とを聞く。歓喜と哄笑と憤怒と泣訴と叫号と打撃は、一時の落下によつて、爆発し、甦生し、誕生し、疾走する。真つ黄色の噴煙は盛なる排出する心臓を圧搾する。

詩句を、一行を、散文の如く重荷を背にして疲れしむ勿れ!

次行まで叮嚀に運搬せしむ役を放棄せしめよ!各行各自に独立せしめよ!独特なる強烈なる哄笑であらしめよ!また絶叫であらしめよ!強き、強き感覚を齎しめよ!

しからざる限りにをいては、一行自身が未だ全部露出しきらない間に、はや次の行に廻転する急速なるテンポを一行に齎しめよ!不発の精神は爆煙を引きつゝ転変して廻転してゆくであらう。

いとまなき新事実、いとまなき戦い!いとまなき変化——それが発狂に及ぶまでの最高の興奮と陶酔に至るまでの過程!

然して、われの美は平静とクラシツクの美と宗教的整調と重厚と獣性と処女性とボロ布れと南京虫と貴婦人と自動車と入りまぢつてもまだ、私たちの欲する美とは云はれない!

われの美は、欲情は、何処にさすらうか?

左りから書きつけて、上下から書きつけて、如何なる方面から読んでも、大小の活字を乱用しても、絵を挿入しても時間の許す限り、飽きるまで熱中しても、未だ未だ私達の美は求め得られないであらう。われの美は、欲情は、何処にさすらうか?

われの詩は全部でない!一部である。全体は無限である。一部はただ加速度の廻転をつづけるのみだ!一部から全体の意味を見出するよりない。さればついに完全なるものへ到着する事は出来ない。不完全にのみ永遠の激しき姿はある。ただ怖ろしき鳴動のトンネルをくぐる。破壊と復讐と埋没と甦生と一時に発動する中に、われの姿は激流を登る!

思ふ儘である。感じたまゝである。ただ走り出す、動き出す熱量である。力量である。一切の最大目的を達せんとする無目的である。現在と過去の生活を圧しつぶして進みゆく、偽善と飢餓の上を、自我の貝殻の上を急行する巨大なる、ローラーである。

ただに積極に!せめてわれを慰するものは、善悪の批判を超えて、あらゆる権力を越えて罪悪に至るまでの過程をふくむ、直交する意志である、すでにわれの精神の上に一つの高塔の建つを知る。一つの重なり重なりゆく姿を知る。また轟然と崩れゆくものを見る。そのかげに、蒼ざめ戦く、引き裂かる驚異、恐怖、歓喜は熱く冷く長く短く急激に一瞬に、もつれ渦まく飛散と躍動と没落とを!一茎の花すらも蒼ざめブリキの如く感ず。擯斥と禁止と重囲さる抑圧の中に只僅かにも一言洩る苦しげなる声!われは知る!こゝに共通する精神を!友を!群集を!時代を!こゝに知れ!われらの詩の喧騒を!泡だちを!立体多層を!進むゆくものゝみの一大騒音を!非芸術を!(真正なる芸術を!)人間を!

そしてまたわれの憂欝なる怠惰も!急走する破砕する力のよどむ、また一時に停止した時の、生活を!絶無を!空無を!悪戯を!平静を!古代の精神を懐ふ!クラシツクの美を思ふ、また彼等の偉大を!正気を!に至るまでの虚無の拡大を!

一廻転毎に、豊富に微細に鋭敏に、伸縮発熱の度激しき最大無限のまたかかる虚無にまで、到達せんとする廻転!廻転!この廻転の止む時に私の生命は死である。この廻転の軌道を外れた時に骸は横はる。

自由!自由!あらゆる奴隷よ去れ!汝自身のおこがましくも微弱なる良心までも!恥づべき過去に、とり憑かれたる記憶に過ぎない良心までも、何等の願望を齎さない所の—————

ただ、今私にあるものは、直交的なる一切のものに過ぎない!一種の動力的熱量に過ぎない!私は私の詩の友達に、それだけはぜひ知つて貰ひたい事である。そして第一期の私の意識的破壊の運動を全芸術に投弾しさらに第二次にうつさうための過程を知つて貰ひたい。以後、私の詩は更に猛に破壊と創造の運転を開始するだらう。そして私達のインテリゲンチヤの最後にまで到達し没落するまでの期間を———。

千九百二十五年九月
萩原恭次郎

例言[編集]

詩集例言
  1. 過去の生活にとつて、私に勿論芸術生活なぞと云ふものは無い。私の詩は、その時々の慰楽であつた。されば、私の詩は詩自身で私の過去の全景を眺望され得ない。むしろその正反対である。
    堪えまなき飢餓と、無名と、独立と、孤独と、闘争と、憤怒と、勉学と、云ふやうな外界の肉体的焦燥の疲労と、暗き思索と、反省の、堪え間なき嚙争に、私は詩を思ふ程の、時間も無い程に、極度の疲労を靴の先にぶらさげ乍ら生活した。深夜、疲労のために眠れない間に、にぢみ出る思ひに、僅かなる述懐や悪戯を、断片的に夢遊病者の如く、書きつけて寝台の上に転々としてゐた。
    まつたく私の詩は、生活そのものでない。かかる私の生活の時々の反映に過ぎない。今、詩集一巻とするに及んで、自らの何分の一も表出されてゐないのを発見して慚愧と悔恨の念に馳られている。されば、私を識つて貰ふためには、一篇の詩よりも全篇を通じて私自身を構成して識つて貰ひたい。今は之等の詩を一つの記憶として自分は廃棄するより無い。
  2. 集中の詩を大体九章に類別した。「装甲弾機」篇最も古く、すでに五年前の作である。ただ懐かしさのために載録した。掲載順はほぼ三四年来のものを創作年代の順序によつて配列した。今年に入つてからの作は、「煤煙」と「広告塔!」のみである。
    とにかく詩集としてみやうと思つたのは、実に最近の気持である。芸術に対する愛好の心持が知らず識らずの間に、自分の自己一個の独特なる自信をもたせるやうになつて来た。それは詩に対する心も他の何事に対する心も、少しも変らないと云ふ事だ。で、出版の遅れ過ぎた事は、また止むを得ない。けれ共、私の詩は、今、漸く黎明を呼ばふとしてゐるらしい。今日の若き詩壇に、不思議にも私の詩は迎へられ、また多くの同傾向の詩人の簇出するのを目撃する。理由のない恐怖に似た羞恥と幸福を感ずる。
  3. この詩集の命題は、最初「恭次郎の脳髄」とした。またスタイルも四六倍版、全アート紙に四号組みにする筈であつたが、思ふ所あつてそれらはみな変更された。二三の予告を破約するため一言する。
    されど、この詩集の装幀も紙面構成も、未だわが国最初にして、新鮮なる発明を誇り得ると思ふ。これらの労を快諾し、尽力してくれた岡田龍夫氏に、深く感謝する。別項同氏の一文を参照せられたい。
  4. さて、また多くの挿画を特にほつてくれた諸氏及び川路柳虹氏の私及び私の詩に対しての長い間のご好意に厚く感謝の意を表したい。

目次[編集]

詩集 死刑宣告 目次 詩八十三篇



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