都の西北
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- 正式な名称は「早稲田大学校歌」。「都の西北」は曲名ではないが、通称として広く認められている。早稲田大学関係者の愛唱歌である。
[編集] 歴史
1907(明治40)年の創立25周年を祝うため、創立者・大隈重信の銅像建立と並び、学生には愛唱歌としてのカレッジ・ソングを「贈り物」とすることが計画された。坪内逍遙と島村抱月が、その任にあたった。前年の1906(明治39)年10月に「早稲田学報」誌上において「早稲田大学校歌募集」の広告が掲載され、併せて開催された講演会では、学長の高田早苗や島村抱月が、応募の要領を学生らに伝えている。「早稲田大学百年史」によると、応募作は23篇ほど寄せられたものの、いずれも採用には至らず、翌年4月にもあらためて再募集を実施したが、適当なものは得られなかった。最終的に、大学関係者の中の適当な者に委嘱することとし、作詞は「早稲田文学」の編集をしていた相馬御風に、作曲は東儀鉄笛に依頼された。
当時の「校歌」は、カレッジ・ソング(学生による愛唱歌)の訳語であって、必ずしも学校主体の行事での奏楽・斉唱を目的とする楽曲ではなかった。「都の西北」も、創立25周年の記念式典では歌われた記録がなく、その後の余興の中の寸劇で「劇中歌」として歌われ、同じく夜半に実施された提灯行列において楽隊の伴奏によって行進用に歌われたのを初めとする(「早稲田学報」明治40年10月号には、歌詞とともにその模様が報告された)。
また、イェール大学の学生歌である「オールドイェール」の旋律を採り入れている[1]。
校歌誕生から20年後の御風の述懐によると、曲中の印象的な「わせだ、わせだ…」のリフレインは、坪内逍遥の「ご発案による」と記録されている。坪内逍遥は校閲者ということになっているが、「わせだ、わせだ…」の7回の連呼を、作詞・作曲のいずれの時点で逍遙が考えついたかについては、はっきりとした一次資料は残っていない。
[編集] 歌い方
入学式・卒業式や早慶戦などの公式行事で校歌を歌うときは、男女の別なく起立脱帽して、左手は腰に当て右手を上下に振って歌い、振っていた右手を高く上げた状態で歌い終わる。肩は組まない。
[編集] 都の西北
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- 都の西北 早稲田の森に
聳 ゆる甍 は われらが母校- われらが日ごろの 抱負を知るや
- 進取の精神 学の独立
- 現世を忘れぬ 久遠の理想
- かがやくわれらが 行手を見よや
- わせだ わせだ わせだ わせだ
- わせだ わせだ わせだ
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- 東西古今の 文化のうしほ
- 一つに渦巻く 大島国の
- 大なる使命を 担ひて立てる
- われらが行手は 窮り知らず
- やがても久遠の 理想の影は
- あまねく天下に 輝き布かん
- わせだ わせだ わせだ わせだ
- わせだ わせだ わせだ
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- あれ見よか(注:作詞当初は「あ」)しこの 常磐の森は
- 心のふるさと われらが母校
- 集り散じて 人は変れど
- 仰ぐは同じき 理想の光
- いざ声そろへて 空もとどろに
- われらが母校の 名をばたたへん
- わせだ わせだ わせだ わせだ
- わせだ わせだ わせだ

