第三編 鎌倉時代

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     一 羽黒衆徒地頭大泉氏平を鎌倉幕府に訴ふ

 藤原時代に於ける奧羽は安倍氏・清原氏・藤原氏の押領時代にして、約二百八十餘年間は朝廷にても容喙することできなかつた。この間羽黒の修驗道は漸次發達を遂げ、諸國より信仰者の登山も多くなつたらしいが、前記三氏の時代には記録を殘さないから不明の外無い。只鎌倉時代に至りて、羽黒の福田口田一萬八千枚とあるは前時代に領主より寄進されたものであらう。羽黒の舊記に諸種の記事あるは修驗社家一流の誇張虚説にして信ずるに足らぬ。中央の記録に始めて羽黒に關する記事の見えたのは吾妻鏡である。
 (吾妻鏡 一九)
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承元三年五月大
五日丁酉出羽國|里山《羽黒》衆徒等群參 是所[#レ]訴[#二]地頭大泉|二《次》郎氏平[#一]也 仍今日爲[#二]仲業奉行[#一]遂[#二]一決[#一] 當山先例非[#二]地頭進止[#一] 且可[#三]停[#二]止入取取捕[#一]之旨 故將軍御書分明之間 山内令[#二]安堵[#一]之處 氏牛或顛[#二]倒萬八千枚福田|※[#「米+斤」、上p39-11]《新》田[#一] 或於[#二]山内事[#一]致[#二]口入[#一]之條 無[#レ]謂之由衆徒申[#レ]之 氏平無[#二]指陳謝[#一]之間 背[#二]先例[#一]張[#二]行無道[#一]事 不[#レ]可[#レ]然之趣被[#二]仰下[#一]云々
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 寛永刊本には出羽國里山とあり、吉川子爵家に傳ふる古寫本には出羽國羽黒山とあれば、里山は誤寫であることは明かである。次に地頭大泉次郎氏平は大泉莊園の地頭であつて、越後國岩船郡は小泉莊といひ、其北に接する田川郡・飽海郡を大泉莊といひ、後に單に莊内と云つた。大泉氏の本姓は武藤氏であつて、古來當地方の土豪であつたのが源頼朝の奧羽平定に功を立てゝ地頭に任ぜられたものらしい。羽黒の領地は莊内に入交つてゐるので、地頭大泉氏との交渉摩擦を生ずるのは當然であつて、氏平は地頭の權威を振つて羽黒山内の政治にも關掌するやうになつた。斯くの如く地頭に壓迫されては羽黒にては兵力とて無ければ鎌倉幕府に訴へて其裁斷を請ふより外に方法は無い、之れが承元三年(一八六九)五月の羽黒方の訴訟であつて、將軍は源實朝、執權北條義時の時である。その判決を見るに故將軍は頼朝か頼家であつて、羽黒に賜ひたる書によりて、地頭は羽黒に關渉してならぬこと、又羽黒の領田一萬八千枚を顛倒することを禁止した、顛倒の意義は明かで無いが押領の義であらう。
 之れが中央の記録に現はれた最初の羽黒の記事であるが、羽黒が鎌倉將軍の安堵状を有し又多くの領田を所有して居つたことが知ることができる。大泉氏は代々田川郡大寶寺城に居る、大寶寺は今の鶴岡市である。

     二 天臺宗を眞言宗に改宗す

 熊野三山檢校増譽は天臺修驗道の開祖であることは前に述べた。増譽の跡を嗣いだのは行尊であつて、行尊は參議源基平の子で年十二にして園城寺に出家し、十七歳の時一※[#「竹/(工+卩)」、第3水準1-89-60]一笠全國の名勝を遊歴した。永久四年(一七七六)三井の園城寺長吏、保安四年(一七八三)延暦寺座主より熊野三山檢校となつた。行尊が羽黒山に來り入峰修行を爲したと傳へてゐる。手向村の東南に行尊塚と唱ふる所あつて、行尊塚と彫せる石碑を建てたのは安永四年(二四三五)である。次に又黄金堂前の大黒堂傍に行尊道と刻せる石標を立て、行尊塚に通ずる道路まであつた。行尊の羽黒來錫は輕々に信ずることできないが、羽黒の天臺宗であつて、熊野派に屬することは明かに物語るものである。
[#段落冒頭一字下げか]吉野金峯山寺の隆盛となつたのは鎌倉時代からであつて、百餘の僧坊を有し、多數の僧徒を貯へ、屡々京師を脅かし、保元中には高野山と其所領を爭つた。此間に羽黒山は本山派熊野三山の所屬を脱して當山派吉野金峯山寺に轉じたやうである。即ち天臺宗修驗より眞言宗修驗に改宗した。斯く改宗するについて諸多の事情のあることであらうが不明であつて、只時の勢力盛んなる吉野修驗に轉向したと見る外無いのである。羽黒の改宗した憑據は左記に據るのである。
 (仁和寺御日次記)
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承久二年庚辰
十二月十一日丁卯法印尊長宣爲出羽國羽黒山總長吏之由被下 宣旨
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 仁和寺は山城國葛野郡花園村字御室にありて、眞言宗の大本寺である。光孝天皇宇多天皇の開基にて累代親王相承けて總法務に任ずるので御室門跡の稱ある所以である。承久二年(一八八〇)は源實朝が弑せられた翌年であつて執權北條義時の代である。尊長が羽黒總長吏に任ぜられたことは羽黒の記録には見えぬが、天臺より眞言に改宗したことは羽黒記録には中世とか中頃とかにしてゐる。長吏は一山の主長にして、天臺眞言共に用ひ、座主又は別當と同じである。羽黒に羽黒山修驗廣法灌頂傳持血脈と題する歴代執行別當の系譜あるが、蜂子皇子を開祖とするもので後世の編纂である。之には尊長の長吏職を載せてゐない。

     三 北條氏の徳政と羽黒衆徒の訴訟

 羽黒の舊記に北條時頼康元元年(一九一六)薙髮隱退して最明寺に閑居し、陽に遊僧となりて全國を間行し、潜かに民治風俗を視察した。此間羽黒にも時頼の來錫を傳へてゐるが、信憑すべき資料が無い。又傳ふるには時頼羽黒に一人の探題を置き梅津中將を以て之に任じ、中將の子三人を長吏と爲し、一ケ月中十日づゝ交替にて仕置を司らしめ、上旬・中旬・下旬と稱し、太田・三澤・眞田・神林・小關氏等は其家老であると云つてゐる。之れは後世室町末期に地方の領主が、羽黒に探題長吏を置いて、當山衆徒の向背を監視したのであるが、之を時頼に附會したものである。羽黒三山は村山、最上、田川三郡の間に跨がり、戰國時代にありては諸領主の關渉地區であつた。依て地方の領主は探題長吏を置いたことは後に詳述する。
 時頼の孫北條貞時も民治に力を注いだ。羽黒山伏諸國を廻遊して上總に至りしに左程の犯罪も無くして捕へられて鎌倉に送られ、由井濱にて斬罪に處された。羽黒山伏之を聞いて十八人鎌倉に上りて訴えたれば、貞時取調の末廻國使の惡事露顯し、之を死罪或は流刑に處した。
 (北條九代記)
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    鎌倉北條の時羽黒山伏訴之事
鎌倉北條相模守貞時の頃、或はあらけなく門鐘を撞けるを、何ものをとて召入ければ、法師十八人也。是は出羽國羽黒山の山伏共也。訟申べき旨ありとて、一通の訴状を※[#「敬/手」、第3水準1-84-92]けたり。貞時是を見て大に驚き立出て對面あり、子細を尋聞給へは、先達と思しき山伏進ミ出て申けるやう、去ルニ月上總國より一人の羽黒山伏を搦めとりて鎌倉に參らせけるを、由井の濱にて首を刎られて候。凡羽黒の山伏諸國に修行して大道を求る輩いかほとも有之、其中にもしは惡事非法あれは搦とて本山につかわし罪科を糾明して刑に行ふ作法にて候。然に今度上總より直に鎌倉に送り殺罪せられて更に本山ヘハ知らさせ給はす、抑天下四海を治め給ふ政を掌りなから、先規を背き私に罪科に處せらる。其罪何事そや、罪科を糾さすして殺し給ふは政道に私ありと申べし、罪科きわまらはまつ本山に知らさせ給ふべし、何を佛法量の式を亂り給ふや、諸國に無道の者多く奉行頭人賄に耽り、非を是に成し惡を隱し善を覆ふ、此体ならは世人恨をいたし天道いかりをなし、國家果して穩なるへからすとそ訴ける。相州貞時つく/\と聞たまひ此事我さらに知らす、上下の遠き事誠に客僧達に恥しく候。諸國の無道賄賂の私慾なを是貞時か耳に告る人無し、大に恐て候。細かに尋極んほとに鎌倉に逗留し給へとて萬つの造作は貞時賄して強く吟味ありけれは、評定衆の態に依て、下として上を掠め、法令を破りて罪科の山伏を本山にも知らしめす、私に誅戮す、是偏ニ天下亂根のはしめなりとて回國の使三人を召のほせて問るゝに、たしかに罪科の證據なし、これによつて諸國につかわしける使者の惡事忽に露顯して、死罪流刑に行はるゝ輩百人にあまり、評定衆九人を遠島に處し、新評定衆十人をゑらひ居へられしかハ、羽黒山伏等大に悦ひ本山にそ歸りける、其後よりは諸國靜に治り人皆其善政をそ感しける。
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 (讀史餘論)
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永仁五年貞時國々へ使を遣し、守護の善惡民間の疾苦を問ひ、是より年毎に遣す。又其使の行く先にて惡事あるを貞時知らさりしが、出羽の羽黒山の山伏來て直訴せしにて使の惡事を糺明して罪に行はるゝを使百人餘也。其後諸國治りて人皆善政を稱す。
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 以上の記事は北條氏の徳政を誇張に述べたもので、悉く信ずるに足らぬは當然であるが幾分の事實はあつたことであらう。

     四 建治二年の鐘、元徳四年彌陀原無量壽佛

 羽黒には古來山上山下に多くの寺院あつたのであれは、多くの佛教關係の遺物あらねばならぬ。殊に密教修驗道なるを以て、各種の佛像を安置尊崇した。然るに今日殘存するもの實に少ない理由は時々の火災と明治後の廢佛毀釋に據るものである。今日殘存する紀銘年號・遺物の最古のものでは、建治二年の鐘と元徳四年の阿彌陀佛であつたが、近年に至りて羽黒本社前の池より多くの古鏡を出した。古鏡については最後に私見を述ぶることとし。鐘と阿彌陀佛について述ぶることゝする。更に其後のものについては次を追ふて述ぶる。
 羽黒山上三所權現堂の前で稍々東方に寄りたる所に鐘樓あり、鐘及び鐘樓共に近地方最大のもので、鐘の高サ八尺・口徑五尺五寸・厚七寸あり。銘文二十餘行あるが今全く讀むことできぬ。三山雅集其他によれば左の如くであつた。
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夫鐘……
  建治二丙子年八月廿七日……
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 舊記に應永十年十二月二日羽黒大鐘落つともあれば、此時火災にて燒落ちたではないか、之れで銘文磨滅したものらしい。
 (砂越來迎寺年代記)
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應永十年癸未十二月三日〈戌/刻〉羽黒大鐘落
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翌十一年は全國に天災ありて飢饉となつた。羽黒にも災異ありて天地鳴動すとあり。
 (羽黒山暦代記)
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應永十一年甲申正月廿一日天地一同鳴動
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 全國にては同十一年正月十一日下野國那須の地燒出でんとすとあり、又信陽雜志には同年天下飢饉とあり。之を以て見るに全國の天災は地震であつて、羽黒の天地鳴動も地震と見るを至當とする。依て應永十年十二月二日の羽黒大鐘の落ちたのも此頃の數次の地震の爲めでは無いかと思ふ。
 三山雅集の繪畫にこの鐘樓を石垣を高く積み上げた上に置いてあるのは、實際に合はぬことである。鐘樓は茅葺槻材にて修飾的工作を見ざる雄剛なる建造物で、元和三年(二二七七)大風にて倒壞したるを翌四年山形城主最上家信再建したるは之れであらう。柱根を繼いたのは寛延二年(二四〇九)である。
 羽黒山より月山に登る八合目に彌陀原あり、石を積んた障壁の中に阿彌陀堂一棟笹小屋數戸あり、阿彌陀堂に元徳四年(一九九二)在銘の金銅阿彌陀像を安置し、其銘に月山御田とあれば御田の唱呼は古いが、三山雅集に御田を日本書紀の日神之御田有三處とあるに起因させたのは附會である。彌陀堂安置の阿彌陀像即ち無量壽佛は、高七寸五分・肩巾三寸・兩膝巾五寸四分五厘、顏長二寸五分・巾一寸七分、臺座は青銅の岩石形で高二寸六分五厘・側巾五寸七分・前巾六寸一分、下巾後ろ五寸八分あり、三山雅集に「岩頭に彌陀如來の銅像を安置したり」とあるは青銅製の岩石をいふのであらう。この佛像の銘文左の如くである。
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(脊銘)
   月山御田
   願主觀乘
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(臺座)
   羽州月山
     御田之
       無量壽佛
    奉造立
    願主觀乘〈敬/白〉
    元徳〈二/二〉年〈歳次/壬申〉
      六月上旬
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 之を納めた觀乘の何人なるやは明かで無い。元徳四年(一九九二)は既に元弘二年になつてゐるので、二年前に改元になつてゐても舊年號を用ひてゐるのは、北條氏末期の亂世であることを證明し、且つ東北地方で鑄造されたことを推考さるゝのである。次に背に朱漆を以て銘文を書いてあるが後人の所爲であれは略す。
 この彌陀原阿彌陀堂は山上衆徒の三學院の受持で、同地の笹小屋は手向早坂氏の建造であつた。明治六年神佛分離の時宮司西川須賀雄は此阿彌陀像を廻館村銅屋に賣拂つた。早坂氏は之を聞いて廻館に至り將に地金に潰されんとしたのを買求め自宅に安置した。明治二十八九年頃鶴岡古道具屋阿部某に賣つたのを酒田米穀仲買鈴木久彌に賣り、今同氏子孫の所藏である。そこで前記の建治の鐘は銘文不明となつたからして、三山の遺品で在銘のものはこの彌陀像が最古である。
 三山雅集に手向村西端の稱名山蓮臺寺に元應二年(一九八〇)三月九日の碑ありとあるも、今所在不明である。
 羽黒山の藤原時代より鎌倉時代を通じて最も重要なる遺物は、羽黒山上の鏡ケ池より發見した數百面の古鏡である。之に就ては別に詳述する。
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