私の履歴書/大麻唯男

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一、少年時代(1)[編集]

私の故郷は熊本県玉名市梅林である。

そこで私は明治二十二年七月七日に生まれ、中学へ行くまでの間父母の膝下で育てられた。

そのころ-まだ数え年で十になったかならない腕白盛りのころ、私には思い出の事件がある。

私たちの間ではドロンという遊びがはやっていた。これは私達の部落だけか、あるいは大麻家独特の遊びであったのかもしれない。かくれんぼと兵隊ごっこを合わせたようなもので、二組にわかれ、それぞれ敵方を見つけ次第「何々さんドロン」という。いわれた方はすぐ死んでしまう、つまりいい気になって顔を出すと「唯男さんドロン」といって殺されてしまうわけだ。最後に殺されない者が残った方が勝になる、という遊びである。

この遊びで最後の勝を占めるには、あまり活躍しないで、奥深くかくれていれば一番いい。私は研究をつんで、この道理を考え出した。そこでなんとか人の目につかぬところにかくれてやろうと思った。これはと思うところを見つけて、真夏であるが昼なおうす暗いところを奥の方に入っていった。ところがずぶっと足をとられた。何だかわからぬが非常にくさい。田舎のことで肥壷(こえつぼ)に転げ込んだのである。

ちょうどそのときはお盆で、新しい浴衣を着せてもらい、新しい手ぬぐいを下げていたのだが、それを全く台なしにしてしまった。そこで早速川に飛び込んで、ハダカになって洗たくした。なんといっても家へ帰っていうのははずかしいので、日が暮れて、着物が乾いてから帰ろう、というわけでその間ハダカで遊んでいた。

夕方になって帰ると両親はじめ家のものは庭先きに飯台を並べて食事をしている。おそいものだから口々に帰ってきたかい、さあ早くご飯を食べなさい、といってくれる。何くわぬ顔をして食べはじめた。するとだれかが何だかくさいと言い出した。そのうち妹が「唯男兄さんだ」と言い、父や母も唯男がくさいよということになって、とうとうことの次第を白状しなければならないことになった。

灯を近よせて、まあこんなものをきて、早くハダカになんなさい、とやにわに脱がされて、シャボンをつけて頭から手足の先まで母に洗ってもらった。恥しくもあるし、自分でも悪いとは思うし、臭くもあるし、全く弱った。私は小さいときから骨格が大きくて、腕白でもあったので、妹や弟それに近所の悪童どもにまで、相当の威力を持っていたのだけれども、妹や弟たちが、この醜態をみたものだから、以後あまり尊敬しなくなった。こっちもシュンとなってしまって、一朝にして権威を失墜、当分その勢力を盛り返すことができなかったものである。

二、少年時代(2)[編集]

肥溜(こえだめ)事件の余韻(よいん)もおさまり、腕白大将の権威も復活したころ、私は学校の教科書を自分で買いにいけるようになった。教科書は私の家から一キロばかり離れた高瀬の町-今は同じ玉名市だが-まで買いにいくのである。当時一冊の値段が九銭、私は十銭ずつもらって買いにいった。というのは途中ちょっとした川を渡らなければならない、この川は菊池川といって熊本四大河川の一といわれ、関東近辺でいうならば、多摩川くらいはありそうな川幅である。この川に木橋がかけてあって、渡賃を片道五厘とった。だから十銭というのは教科書代とこの渡賃というわけだ。

ところで、その当時ウチキリといって、黒砂糖のアメみたいなお菓子を町で売っていた。これが一個一厘、一銭買えば十もらえるわけである。私はそれが食べたくてしようがない。けれども家からはギリギリの十銭しか金をくれない。お菓子代をくれというのもなんだかぐあいが悪い。よしあの橋をただで渡っちゃおう。そうすればお菓子代が出ると考えた。

しかし番人がなかなか厳格で、いかに子供でもタダで渡してくれない。その残念さは当時の子ども共通のものだったようで、同年輩の者と話してみると、みんなその経験をもっているらしい。

ゴマかすのがだめとわかったので、私は一計を案じた。どこかに浅瀬がないかと探すと、ちょうど格好なところがあった。そこからまっぱだかになって、ふんどしや帯もとって頭にしばりつけ、胸のあたりまでつかりながら歩いて渡った。これに成功して以来、教科書にかぎらず町へ買物にいくときは、いつでもこれでお菓子を食べたものだった。

そのうち、それはある冬の、ちょっと寒い日であったが、例の通り渡っていくと、その往還を私の父が通っていた。父がなにげなく横を向いてみると、子供が頭の上に何かしばりつけて両手を広げて川を渡っている。あの子は何をしているのかと思って、よく見てみると、なんとそれが自分の二男坊主だ。びっくりして川端まで走ってきて、「唯男、唯男、危いぞ、早く帰ってこい」と叫んだ。非常に大きな声で呼ばれて、こっちはこっちでびっくりした。しまった見つかったというわけである。見ると父のハゲ頭がしきりに招いている。やむを得ないから戻っていくと「何をしているか、バカなことをして、危ないぞ」と大目玉だ、私はしようがないから、ウチキリを食いたいが、橋番をごまかせないから……というと、やはり親の情であろう、父はすぐ金を出して、お菓子代はやるからこんなことをしてはいけない、というわけである。父は母にもこのことを話して、とんでもないことをする子供だから、これから先は、何か買いにやるときは一銭だけ多く渡してやれということになった。よほど父もこれには閉口したらしい。

ここらは今は私の選挙区の中心地となっている。自動車で東西に走り回るまん中である。車で通るたびにこの話が思い出されてしようがない。悪童時代の思い出もっとも深いところである。選挙の時など応援に来てくれる人にもこの話をするので永井柳太郎君をはじめ応援に来てくれた友人の間ではお前にもそんなことがあったかといって手をたたいて笑われたものである。

三、少年時代(3)[編集]

私の子供のころの学制は尋常小学校四年、高等小学校四年であった。いなかのせいもあったのか当時は秀才であろうが鈍才であろうが、例外なしにこの八年をやってから中学へ行ったものである。

私もこのコースにしたがって小学校から高等科へ進んだ。高等三年のときのことである。あるとき四年担任の先生が休みで、私たちの受持の先生が二教室かけ持ちで教えたことがある。私たちには習字をけいこしろといって、二階の四年生の教室で算術を教えるというわけである。

そのうち四年生の一人が私を呼びにきた。先生がお呼びだという。私がなんだろうと思いながら二階に上がっていくと、この算術をやってみろという。

その問題は一番下が二十五俵、一番上が一俵の三角形に積みあげた俵の数を計算しろというものだ。あとでいきさつを聞いたのだが、この問題を先生が出したところ、四年生が一人もできなかった。先生はおれの担任の大麻ならこんなものはできるといってしまった。そんならやらしてみてくださいということになったわけである。

そのときは私はそんなことは知らないから、やれといわれるままに黒板に向かってやりはじめた。ところがなかなかできない。先生も気が気じゃないのか「大麻あまり深く考えんがいいぞ」などとそばからいってくれるが、どうしてもできない。とうとうしかたがない、先生がやるから大麻見ておれということになった。

ところが先生がまた同じところでつっかかってしまった。そのときやっと私は一俵足す理屈を考えついたので手を上げた。こんどはできたが先生がわからない。どういうわけでこうなるかというから、こうこうこうだと答えた。先生は「なるほどそうだ。先生ができないのを大麻はできた。帰ってもよろしい」と面目をほどこした。

その翌朝、学校へ行くと門の前に四年生がずらっと並んでいる。私がいくなり最敬礼といって、口々に「大麻先生お早うございます」とおじぎをする。それでギューッとなってしまった。以来私のアダ名は大麻先生ということになった。そればかりではない。学校の行帰りには上級生がこっちからつき当り、あっちからつき当り「いやこれは失礼しました、大麻先生」というわけだ。上級生だからなぐるわけにもいかないし、なぐってみたところで勝てるものでもない。とてもたえられない。

そこで私は、ええ、こんなところにいるもんかとばかり、熊本中学の入学試験を受けた。その翌年には玉名郡に中学が出来ることになっており、父は来年すぐ家から通えるところに中学校が出来るじゃないかというが、私はその理由をいうのも残念だし、いや熊中はいい学校だからいかなきゃいかんとがん張った。そうすると兄は済々黌に入学するから、学校は違っても同級生になるわけだ、しかし兄は太腹だから唯男はできるからそれがいいだろうと賛成してくれた。こんなことで人にいじめられたことから熊中に入り、兄弟一緒に剣道を励んだ。大麻兄弟の剣といってかなり有名になったものである。いい学校に行くのだなどと理由をつけてはいたが、実は人にいじめられるのがいやさに熊中にいっただけのことである。教師が自分の受持の生徒を自慢するということがとんだ結果を生じるのである。

四、少年時代(4)[編集]

当時、熊本中学校は野田寛先生の校長時代であった。野田先生は非常に篤学な人で、肥後の哲人と称されていた。私の父は教育に熱心な人だったからこの野田校長に頼みにいって、私を先生の家に置いてもらった。先生は非常に厳格であったが、家族同様にして育ててくれた。今私の性格に、きちょう面で責任を重んずる精神があるならば野田先生の薫陶の賜物だろうと思う。

先生は英国のイートン、ハーローの学校を手本に、士君子を育てるという主義だった。勉強もキチンとしなければならないし、間食も一切いけない非常に厳格な教育である。

先生の家には後に逓信省の局長になった佐々信一、五高教授となった松尾精一と私の三人がいたが、食事は一同そろって戴く。すると先生はどうして勘定しているか、何杯だれが食べているか知っている。たまによそでマンジュウなどを食べてくると、ふだん五杯も六杯も食べているのが、二杯ぐらいでどうしても入らなくなってしまう。すると先生が「唯男さんどっか悪いところはないか、えらいご飯に勢いがないじゃないか」といわれ、すぐ発見されるというわけである。

ある日のこと、奥さんが「唯男さん、ふきをおすきですか」という。それがはずかしながら私はふきを知らなかった。私の故郷にはふきはないのである。しかし私は知りませんというのが恥かしいから、つい好きでございます、といってしまった。奥さんは「あら、それはよかったですね、宅ではふきが好きな人ばかり寄っているんですよ」というわけである。

そのうち本物がとうとう出てきた。そうするとこれくらいきらいなものはない。今でも私はセロリーとかふきとか、匂いのするのはムカーッとして大きらいである。だがその時はふきを好きだといってしまったのだから、いまさらきらいですとはいえないから我慢して食べた。人間はだれでも大勢でいるときは、うまいものから先に食べ、一人でいるときはあとからうまいものを食べるようだが、それと同じ理屈で、先に食べてしまって、あとからうまいものを食べればよい。そう考えてまずそのふきを目をつぶって食べた。するとそれをみた奥さんが「あら、唯男さんは本当にお好きですね」とまたついでくれた。これには全く往生したものである。これを長い間とうとうやり通した。野田先生のご一家には随分かわいがられたけれども、これだけは苦しかった。

後に私が数え年三十六歳で代議士になったとき、この中学から、はじめて代議士が出たというのでたまたま上京された野田先生を中心に、同級生がお祝いの会を開いてくれたことあある。その時「士君子を作ろうという学校から、しかも野田先生の家で育った愛弟子の大麻君が大言壮語をもってみずからよしとする代議士になったということは実に皮肉だ」と祝辞を述べたのは現在全国医師会長をやっている小畑惟清君である。私は「いや違う。おれは非常に正直なむしろ気の小さい男ではなかろうかと思う」といって、このふきの話をした。すると聞いておられた野田先生はびっくりして「それはとんでもないことだった。そんなに苦しかったかい。亡くなった家内が聞いたらさぞ気の毒がったろう」といわれたのには、私は当時を思い出して感慨無量だった。

五、高校時代(1)[編集]

第五高等学校英法科三年のとき、英法と独法が野球、庭球、柔道、剣道の対抗試合をやったことがある。ところが柔道の試合はお互が二十五人ずつ出して戦うというのに、たとえ一ぺんでも柔道の稽古(けいこ)したことがある、というのまでかり集めても二十三人しかいない。それであとの二人のうち一人は相撲の強い中村岩記というのが選ばれた。もう一人どうしても足らないので、全校の剣道部の主将である大麻出てくれという交渉を受けた。私は柔道を稽古したこともなければ稽古着を着たことさえない。極力辞退したけれども、数を合わせるのだ、なんとかやってくれ、といわれてやむなく承諾した。さて始まると中村は引分けとなった。とにかく一人はかせいだわけである。

二番目が私、相手は品川瀞という大きな男だ。ほんとうはそう強くはないが、熱心に稽古していたから私よりはもちろん巧者だ。私は引きずられるものだから、へっぴり腰になる。その格好は自分で考えてもおかしい。剣道では威勢よくやるやつがその格好なので、全校の生徒がおもしろがって、冷やかし半分「大麻がんばれ」と応援してくれる。ますますへっぴり腰が醜態である。

そのうち相手が右足をあまりうるさく前へ出すから、その足をひょいと握って持上げてみた、すると品川先生は左足だけで立っている。シメタと思ってその左足を払ったら、まっさかさまに倒れてぼんのくぼを強く打ったらしい。審判をやっていた柔道部の大野熊雄が、「一本」というわけだ。これが非常にこっけいだというので大変な喝采(かっさい)であった。

よし二人目は押え込んでやろうと思って、こっちの大将の児玉勲にどういうふうにしたら押え込みになるかを聞いておいた。まず飛び込みさま投げると、うまく相手が倒れて、「業あり」と声がかかった。そのまま手で首をまいて押え込みにいった。審判が「押え込み」という。とうとうそのまま五分間続けてまた勝った。大麻が柔道をやっておるというのでみんな見にくる。ちょっとした人気者になった。しかしもう三人目で、こっちも疲れているから、引分けにしてやろうと思ってしゃがみ込んでしまった。

森という相手の男は非常に大きくて力も強いが、私を押え込もうとしても、どうしても抑え込みにならない。それで私に馬乗りになって上からウンウン突っつく。そんな乱暴なことするなといっても向うも手がないのである。これを見ていたこちらの大将が“がんばれ、がんばれ”というから、私は怒った。「ちょっと待った」とやっておいて大将に向かい「おれにがんばれとはなんだ。もう二人も抜いたじゃないか、こんなにがんばっているのにがんばれとは失礼だろう、そんなことをいうならもうやらん」と談判した。「いやおれが悪かったあやまる、やってくれ」というわけだ。それで試合は続けたがこれは予定通り引分けとなった。

結局この対抗試合はこっちが勝って、私は最優秀成績だというので表彰を受けた。それはよかったが、その晩には体中が痛んで熱を出す始末である。その当時私は剣道なら一時間や二時間やったって弱るような体ではなかったのに、この試合は前後を通じて十五分ぐらいである。柔道は力の入れどころが分からないし、無理をしたのが原因らしい、児玉が心配して卵を持って来て食べさせるやら、医者をよぶやらしてくれたが、肋骨が痛くて肋膜か肺病にならないかと思ったほど、とうとう十日間ばかり寝ついてしまった。やっぱり運動でもなんでも法にかなってやらないと、ひどい目にあう。今でもこのことを思い出すと若い時代の無鉄砲さを悔いている。なんでもむりをしてはいけないものだ。人生もそうではないだろうか。

六、高校時代(2)[編集]

当時、国立の高等学校として、九州には五高と鹿児島の七高とがあった。

私が五高の三年のとき、鹿児島へ遠征して野球、庭球、柔道、剣道の対七高対校試合をやった。剣道の試合は最終日であったが、それまで三種目とも五高が勝った。私は剣道部の主将だったので、ぜひ剣道も勝たねばならぬと緊張していた。ところがやってみるとよほど腕が違ったとみえて、両チーム十五人ずつの勝抜き戦で、十人目で向うの大将を切ってしまった。五高の完勝である。

試合が終り、七高の岩崎校長があいさつされ、五高の方がこれに答えることになった。そこで私が答辞を述べた。ところがそのあいさつの途中で、七高の諸君が何か激昂(げきこう)した様子がちょっと見えた。しかし何事もなく紫雲館という宿に引揚げた。そこへ七高の学生が八十人ばかり一升ビンを数本ブラ下げて「お祝いにきた」という。まあ上がれというわけで、こちらは剣道部の選手と補欠、事務員などまで入れて二十人ほど部屋をブチぬいて酒になった。

すると向うの野次(今でいえば応援団)の大将で児玉静雄というのがいて、これが私の前へ座ると大きな茶わんに酒を一杯ついで、グッと飲んで「大麻、一杯いこう」とさしてきた。私は元来、酒をたしなまない。けれども相手の気配がただならぬ様子なので飲みほして返した。元来鹿児島の学生と熊本の学生とは島津、加藤の昔からの因縁かどうか、いさかいが多い。それで無理をしたのだが、相手はまたもう一杯ときた。もう飲めんというと、男が差した盃(さかずき)を受けんかという。一杯受けたからもういいじゃないか、もう飲めんと私もがん張った。すると「そうか。きくところによると、大麻はよかチゴだそうだ、チゴになれ」といってきた。気がついてみると八十人からの学生が、盃も下に置いたまま、じっと眼をすえて二人のやりとりを見ている。何かあればやろうという構えである。「やられた、これはしまった。衆寡(しゅうか)敵せずだ」と思った。

そこで私は立ち上がって「よしわかった。けど肥後と薩摩はチト違うぞ、オレの腰の運転ぐあいを見ろ」といってハカマを脱いだ。手ぬぐいでほおかぶりをして、ビッコをひきひきステテコを踊り出した。「向う横町のお稲荷さんに-ウントサのヨイトサ、ウントサのヨイトサ-」という歌である。私が前から、よく踊った踊りである。五高の連中はよく知っているから、ウントサのヨイトサと手拍子ではやしを入れる。調子がおもしろいものだからそこは学生、七高の連中もつられて手をたたいて和する始末だった。

長い踊りだが、やっと終ると非常な喝采(かっさい)だ。すると児玉は「さっきの貴公の答辞はどういうことをいったんだ」と聞く。私は「九州に優秀な高等学校が二つある。これがきょう試合をしたのは決して勝敗を争うのでなく、たがいに技を磨き心胆を練るのが目的だ。勝敗は眼中にない。来年はどうぞ皆さんの方から熊本にご遠征をこう。われわれはお待ちしています、といったんだ」とそう説明した。

ところが向うは「負けてくやしかったら来年かたき討ちにこい」と聞えたという。これは私が演説が下手なものだから「諸君敗れたり、しかし勝敗は論外である」とやったのを、そうとられたらしい。

しかし、やっと了解がついたらしく「大麻わかった。七高の諸君、大麻は無類の快男児である。この人間に悪意があるはずはない。こういう快男児に指一本でもさしたら鹿児島の名折れになるぞ。引揚げい」というわけだ。えらい統制力で、いきり立っていたのもすっと引揚げた。こうして私は危うきをまぬかれた。

この児玉君は後に長野県の土木部長となり、やめた後は独立して工務所を経営している。今日までも私は親しい交わりを結んでいる。

七、徴兵検査[編集]

七高遠征のあと、七高では五高の大麻はよかチゴだといっていると聞いた。私は年の少ないせいもあって顔が若かったので、ほおひげを立てることにした。上京して東大に入ってもこのひげのおかげで、老書生扱いをされた。

このひげは大正三年に大学を出て山梨県庁に月給四十円の属官として採用された時、添田敬一郎知事(後に衆議院議員)から「大麻君、そのひげはそらんかい。若いのに老人に見られていかん。やっぱり役所に入ったら若い格好をした方がいいぞ」といわれ、心残りながらもそってしまった。

その甲府では粉屋という旅館に下宿して県庁に通った。この旅館の二階には某という連隊区司令官も泊っていた。この大佐については婦人関係などの噂(うわさ)を聞いていたので、私はあまり敬意を払っていなかった。するとある日、宿の娘さんが「この間、乗合馬車で鰍沢へ行かれた時、司令官が乗っておられたのをご存じですか」ときいた。「いや知らん」というと、「司令官がせまい馬車の中で会ったが、オレを知らんらしい。大麻という男は若いくせにぼんやりだっていってましたよ」というわけだ。だから私も「何いってるか、甲府ではいばっているかもしれないが、大佐ぐらいをいちいち覚えていられるかい。東京へいってみなさい、大将や中将がザラにいるんだ。大佐やそこらを覚えていてたまるもんかといっておけ」とやった。

数日すると私は内務部長に呼ばれて「君、司令官がきて“大麻という男は少しなまいきだ、注意しておきたまえ”といっていたぞ」といわれた。宿の娘さんが、私のいった通り伝えたらしい。私は「バカなやつですね」といったところが「おいおい、君は徴兵検査前じゃないか、検査には連隊区司令官が絶対の権限を持っているんだ。あの軍人はむちゃだからなにをするか分らん、兵隊にとられるぞ」とおどかされた。これには驚いて、検査はわざわざ郷里熊本へ帰って受けた。

検査に行ってみると二十一歳の農村の青年ばかりのなかに、羽織ハカマで頭髪をのばし、メガネをかけていた私はどうも目立ったらしい。まず郡長の注意があって、メガネをとれという。私は強度の近視なのでメガネをはずしていると不愉快だ。そこで、一度とったがまたかけた。司令官が「メガネをとれというのにまたかけたやつがいる、とれ」というので仕方がないからとった。注意が終ってから、こんどは軍医になぜかけたと大勢の前でしかられた。これを知らぬかと注意書もつきつけられた。見ると一、郡長の注意。二、司令官の訓示。三、検査開始と書いてある。そして検査開始になったらメガネをとれと書いてある。そこで「まだ検査開始になってないじゃありませんか」といったが、「黙れ、理屈はあとで聞こう」と大勢の前でどなられてとうとう最後に残された。

当時、私の兄は一年志願出の予備の中尉で県の在郷軍人連合会長で、その席にも来ていた。司令官とは非常に懇意で私の家にいつも酒を飲みにくるような間柄、弟が帰ったら一緒に飲もうと約束までしてあったから、兄も弱ったらしい。そのうち私の目は本当に悪いのでどんな試験をしてもインチキじゃないということが分った。それに司令官もこれが兄の弟だということが分ったらしい。最後に「あなたは体は強健でどこも悪いところはございません。ただ遺憾ながら眼が悪い。それで立派な体格であるけれども不合格、丙種。しかしあなたが国家のために尽す方法は兵役につかなくともおのずからありましょう。どうぞご自重願います」とお世辞をいってくれた。しかしその時には他の者は皆帰ったあと、だれも聞いていないから結局は叱られ損というわけである。口は災いのもととはこのことであろう。

八、立候補[編集]

郷里熊本の旧藩主、細川護立候が、在京の県出身高等官を呼んでご馳走してくれたことがある。私は内務省に転じて間もなく、四十何人集まったなかの一番末座である。当時枢密院副議長の清浦奎吾子爵が筆頭である。答礼に立った子爵が「人間が自己の真価を人に知らしめるのには文章と弁舌の二つがある。由来、熊本人は文章は出来るが弁論はすこぶる不得手である。それはいけないからおのおの将来大いに弁論を練るべし。きょうは細川候の招待であるが、その手始めとして各人おのおの自己紹介して五分間で自分の意見を開陳したらよかろう」と提議してみずから範を示した。小橋一太以下の面々がこれにしたがって五分間演説をやった。なかには雄弁は銀なり、沈黙は金なりといって拒否したものもあった。これなどが上等の方で役人だから概してしかめつらしい話ばかり。最後に私の番になった。

私は学校卒業後、山梨から山形を経て横浜にいって警察の外事課長になり、今は内務省に勤めている。その横浜時代を顧みると、外国人を視察するにはどうしても外国人の交際範囲に入らなければならない。それには外国語をうまくしゃべらなくてはならない。英語は中学から十二年、ドイツ語は高等学校から七年習っているけれども、英語はまあ拾い読みぐらいで会話はカラキシだめだ。ドイツ語に至っては全部忘れてしまっている。そこで英会話のけいこを始めた。ところがけいこをするのにも外国人ばかりだとなんとかやれるように思うが、一人でも日本人がいるとなかなかやりにくい、その日本人が自分より英語が上手ではなかろうかと思う人だとますますやりにくい。弁論のけいこもそうではあるまいか。子爵のいわれるように弁論の必要は自分も認める。善は急げというからよいことならすぐ始めればいいこともわかっている。けれども今晩は不適当である。なぜならばこの席にはわれわれが祖先以来藩公として尊敬してきた細川侯爵がおられる。その横には朗々たる音吐(おんと)とともに日本一の雄弁家といわれる清浦子爵がおられる。こういうところで弁論をけいこをしろというのは大先輩の言といえどもすこぶる残酷無慈悲な提示である。仰せにはしたがいかねるといって拒否した。ちょうど五分間である。

これをきいていた清浦さんは「うまいな、きょうのテーブル・スピーチの白眉である。チト屋敷に遊びにきなされ」といわれた。私は清浦さんにずいぶん愛されて、亡くなられた際は万事後事を託されたが、このご縁の始まりはこれである。

清浦内閣ができると私は首相秘書官となったが、たまたま議会解散となり、郷党の先輩、友人から推されて政友本党から立候補することになった。大正十三年、三十四歳のときである。

その選挙中東京に留守をしていた家内から内閣書記官長小橋一太氏の夫人に誘われたから応援にいくといってきた。私は熊本だが家内は山形だ。言葉も習慣も違うし、郷里の人をよく知らない。そんな人が選挙にきてはトンチンカンが起るに違いないと思った。また国柄からいっても、当時婦人で選挙運動をする人はない。だから私はすぐ「選挙はわが輩一人の責任にてこれをなすなり、おん身は留守を完全に守ればそれにて十分なり、ひっ込め、もし命にそむくにおいては離縁することもあるべし」と打電した。これは留守を守ってくれた総司令官の小畑博士(現日本医師会会長)にさすが大麻だといって大変ほめられたものだ。

しかるに過般の選挙では星移り年変り、万事は家内がやってくれた。私は二週間ほど帰郷したばかりである。たまたま小畑博士が来たとき「三十年前には君にほめられたが、今日は選挙区から帰ってくる家内をこれから東京駅に迎えにいくところだ」というと小畑博士も「いや、ずいぶん変わったな。細君の評判はなかなかいいぞ。オレも迎えにいってやろう」と一緒に来てくれた。まことに隔世の感がある。私もずいぶん進歩したものである。

九、平福百穂先生[編集]

代議士になってから間もなく、郷里熊本から人が来て、熊本で共進会を開くので、美術展覧をしたい、それには京都の竹内栖鳳、東京の平福百穂先生に特別出品してもらい錦上花をそえたい、ついてはあなたの奥さんは平福さんのお嬢さんだそうだから、あなたから頼んで戴きたい、とのことである。

私が違うというと、非常に落胆している。それほど平福画伯にはちょっとやそっとでは描いてもらえなかったのだ。それでは私も平福さんを知らないわけでもないから頼んでやろうと電話をかけて、このいきさつを話した。

「あなたの絵が出品されれば私も郷里に面目が立つ」というと簡単に電話で承知してくれた。私が平福さんを知っていたのは、当時新橋に「かけす」という料亭があり、そこで毎月十一日に集まる十一日会と称する会があった。会員は各方面の人でたとえば日比谷銀行の日比谷裕三、安田善五郎、浜野茂、中上川鉄三郎、黒田秀雄などという人で、山形時代の親友佐々木秀司君が世話焼きの形だった。それに平福画伯も入っており、代議士としては私が会員だったわけである。その会員は皆平福さんの画を欲しがっていたが、なかなか描いてもらえなかった。だからその後の会の時私が「平福さん、出品したあとの絵は私がもらいましょうか」というと、皆ワイワイいう。「君は百穂の絵がいくらするか知っているか、こっちに譲れ」「いや、おれによこせ」と大騒ぎだ。

私は「じょうだんいうな、おれは貧乏代議士だが、家屋敷、田地田畑全部売ってもゆずらぬ」とがん張る。すると画伯は「じょうだんいっちゃいけない。大麻さんにかいてあげて金をもらおうとは思わない」というわけだ。「ただじゃもらわぬ」「いやあげる」ということで、押問答したが結局戴くことになった。今も家宝として持っている。

その後の会でも選挙が近づいている時など皆が「金がいるだろうからあれを売れ」という。どんなに困っても売らんといって手洗いに立つと画伯に出くわした。「大麻さんお売りなさい、私の絵は好きな人にぶつかれば相当に売れますよ、あなたにはまた書いてあげます」私は「どうして私だけにそうしてくれるのか」ときくと、あなたが好きだからだという。どうして好きかはいえないというので、酒の勢いもあって「いわなきゃ便所を出さないぞ」としつこく聞くと、決して他言せぬとゲンマンした上で「ではいおう」といった。

平福さんが幹事の時には引出物に半折をくれるのが例だったが、あなたはそれをどうしたかといわれてハッとした。これはなんとも申訳ない。「あんた、あれを人にやったでしょう」「やりました、相すいません」これは私が帰るとき、玄関であまりなじみのない芸者が「あらいいわね」としきりに感心しているので「そんなに欲しいならやろうか」といってやったことを知っていたのだ。

「あの芸者はあなたの芸者じゃないでしょう、あなたの好きな芸者はほかにあるでしょう」これから先はいわない。もう一度ゲンマン、「私は高慢なヤツといわれるかもしれないが、今私の絵をたとえ半折でも、見ず知らずの人に無造作にやる人はないと思う。天下広しといえども、見ず知らずの芸者に古ぞうりのようにやっちゃう人はない。大麻という人は欲のないりっぱな人だと思ってそれから非常に好きになったのだ」というわけである。こんなことから交わりは密になった。

私の親分であった小橋一太文相が事件の時、特別弁護人として世話になった花井卓蔵、岩田宙造両博士のお礼に平福さんの画を贈ろうとした時も手づるがないので私に頼まれ、私から平福さんに頼んで書いてもらったこともある。私の娘圭子の結婚祝いにも画を贈られた。妙な縁故で平福さんにはいろいろの画を書いてもらった。大金を積んで頼んでも描かないことがあった人なのに、画心もない、お礼もしない私には頼みもしないのにいくつでも描いてくれた平福さんは無欲てん淡といおうか、尊敬すべき性格の持主であったと思う。おりにふれて画伯をおもうの情、まことに切なるものがある。

十、幹事長[編集]

数え年で四十四歳のころ、私は民政党の情報部長をやっていた。その関係で新聞記者諸君との往来が激しく、記者諸君を通じて政界の表裏などを教わったものである。そのころの民政党には先輩の方が多く、若いところは永井柳太郎の五十代ひとり、六十代は松田源治、小川郷太郎両氏などで、その他はたいてい七十代の片岡直温、町田忠治、頼母木桂吉、富田幸次郎、桜内幸雄、小泉又次郎、俵孫一、川崎卓吉というような人ばかりだった。これは時の反対党の政友会と比べても年寄りの多い党といわれ、党の若返りの方法を考えなければならんという議論が党の内外にあった。

そこで民政党担当の新聞記者諸君から、ここでひとつ思い切って若手から幹事長を出して、党の若返りを図れという話が出て、私は記者団に推された格好で数え四十六歳で幹事長になった。時の総裁は若槻礼次郎氏である。

若槻さんというのは、無類に頭のさえた人だった。岡田啓介大将に組閣の大命が降下した時、岡田さんは若槻総裁をおとずれて「党員を入閣させて援助してほしい」と申入れた。その時の返事はいまでも私は感心しているのだが、「わが党にはわが党としての主義主張がございます。この主義主張といちじるしく相反せざる限りにおいては、党員を入閣させてお助けしましょう」というのである。

若槻総裁は私を呼んで、この約束をしたことを言い、「この趣旨にそって党員諸君の了承を求めてほしい。私はきょうはちょっと行かれんから君が片をつけてきてくれ」という。これが幹事長になって一番はじめの難関であった。

由来民政党という党は非常に議論が多い。そこへなりたての若い幹事長が、総裁からそれだけ聞かされて幹部会、議員総会を開いたのだが、議論百出、いろいろと先輩達から質問があって、こういう場合はどうか、ああいう場合はどうかと責められる。しかしどこからこられてもこの総裁の約束の言葉で答弁に窮することはない。たとえば新聞の伝えるところでは入閣者二人ということだが、一人の場合はどうするかと聞かれれば、総裁は人数のことは何も約束していない。ただ主義主張があうかあわないかを援助するかしないかの境にしていると答える。またこういうわが党の政策は岡田内閣と違うじゃないか、といわれれば、わが党の主義主張といちじるしく相反せざる限りというのだから、いちじるしく反したら党員を引揚げるのだといえばよい。とうとうこの総裁の言葉をタテに問答をして了承を得てしまった。総裁にまた聞きにいく必要もなかったわけだ。これを切抜けたので私は総裁の信用を得たが、私もこれで若槻総裁が実に用意周到で頭のいい人だとつくづく感じさせられた。先が見えすぎるほどで、シッポをつかまれることはない。世間ではこの人のことをとやかくいう向きもあるが、スジだけは通した人で、私はやはり傑出した政治家の一人だと思う。

私の幹事長就任当初若槻総裁は「党のことは君にまかせるから思う存分やりたまえ、人間の考えることはそう大きな違いのあるものではない。君が常識で考えて国家のため、また党のためにいいと思ったら、思い通りにやりなさい。私が考えてもそう違うはずはない。もし君のやることで違っていると思うことがあったら私の方から注意する」といった。いま考えてみても党としては若輩である私に、あれだけ先輩のいるなかでよくそこまで信用してくれたものだと思っている。

十一、町田総裁[編集]

若槻民政党総裁が突如として辞任を申出た。党内はびっくりした。猛烈な留任運動が起った。党内テンヤワンヤの騒ぎのあと、後任総裁に町田忠治氏を指名するまで二十日間かかった。町田氏は「天分にあらず」といってことわった。由来政友系ではつねに総裁争いがあったようであるが、民政系はそのあべこべで若槻総裁でも浜口総裁でもみずから運動して総裁になるようなことはしなかった。政友系と民政系の積極、消極の気質の違いであろうか。

党の長老連は町田さんがなかなか受けないので、徐々に事を進めて、いま総務が九人いるから欠員を補充して町田氏を総務にし、十人の総務の合議制でいこうと言い出した。だが私はおよそ人類の団体に一人の大将がなくてその団体が栄えるはずはない。どうしても総裁もしくはこれに類似のものを作らなければならないと固く決意した。そこで私は総務会長というものをわが国政党史上はじめて考え出した。

そこで丸の内会館で総務会を開いてこれをはかった。ところが町田さんはなんでも人の頭になるのがいやだというので、大将になるのがきらいなんだ。総裁と同じような総務会長なんてものは絶対に受けない、なるもんか、という意見ばかりである。ダメダメといって総務会は散会しようとした。そこで私はちょっとまった、もし町田さんが承知したら幹事長はきょうの総務会で新総務町田氏を総務会長に互選したものとしてとりはからってもよいかと聞いた。そりゃあもちろんだ、ということで総務会は散会してしまった。私はこれを新聞記者に発表した。

一体、町田は承知したのかと聞かれたので、これから行って承知させるつもりだと答えた。私にしてみれば若い幹事長が党のためにこんなに心配しているのに、それを最長老の町田さんが見殺しにするような政界に未練はない。町田さんが受けなければ私は世間に誤報を伝えた罪を謝して幹事長はもちろん代議士を辞任すると意気込みをみせてしまった。

この日、町田さんの商工大臣就任祝賀会を秋田県人会が早稲田の大隈会館でやっていた。私はそこへ自動車で乗りつけた。私は町田さんにまず「きょう十一時に総務会を開き先生を総務に選任いたしましたからどうぞご承知を願います」といったらニコニコ顔で「いやありがとう」という。総務なら受けるというわけだ。「そののち引続き総務会で町田新総務を会長に互選しましたからこれはおふくみおきを願います」というと「幹事長それはなんだい」というから「いやなんでもありません、県会には県会議長あり、帝国議会にも議長あり、裁判に裁判長があるように、合議体には長がなくてはなりません。責任は十人の総務が共同の責任です。総務会長は内部に向かっては総務会の議をまとめ、外部に向かっては党の名誉を代表するものであります。お祝いや葬式のような普通のことは幹事長でもやりますが、それではどうしてもすまない場合があります。そういうときに党の名誉を代表するのが総務会長です」とのべたてた。

町田さんは解(げ)せぬ顔をしているから、「先生これをことわってはおかしいですよ、いかにも先生がすねているようだからお受けなさい」といった。町田さんは小首を傾けていたが、しばらくして「大麻君、皆さんと心を合わせて党のためにおつくししましょうという返事ではどうだろうか」といった。私は結構ですといって党に帰ってこのことを報告し、困り抜いていた全党員は拍手をもって迎えた。

その夜、町田さんの招きによって行ってみると各新聞の夕刊を集めてニコニコ笑って見ている。「幹事長、これは大変なことになったじゃないか、まるで総裁じゃないか」というから「それで党も安泰ですよ。これで選挙にも臨めますよ。わが党万歳です」といったら「お役に立ったら私もしあわせです」といった。町田さんは慎重居士で総裁になるまでそれから約八十日かかった。けれどもそのために町田さんの総裁時代は党内はすこぶる結束が固く、二回の総選挙にも私は町田総裁の下に幹事長をつとめたが、二回とも選挙に勝つことを得た。容易に受けなかった町田さんの総裁問題も思えば大きな政治であったように思う。

十二、相撲(上)[編集]

日本が敗戦途上にあるとき相撲協会が経営困難でまさにつぶれようとしたことがある。戦前からの多くの好角家も相撲に関与しているいとまがない。有力な好角家がみな相撲界から姿を消したときに、私は微力の限りを尽して力を注いだ。

日本人は相撲を愛好する。日本の男子で一度も相撲をとらずに死ぬ人があるだろうか。私はいやしくも日本人の男なら、オギャーと生まれてから死ぬまでに、どんな人でもヨイショといって必ず一ぺんくらいは相撲のマネをしていると思う。ひょっとするとすこし活発な婦人は、女でも一度くらいやっているんじゃないかと思う。それくらい日本人に愛好されている相撲を日本民族からなくしてはいけないと私は思った。

私は戦争中に日本の議会政治をどうしてもつぶしてはいかん、せっかく明治時代に興ったものを、跡形もなくしてはいかんと思って、前田米蔵君とはかって、がん張って来た。それと同じように日本特有のスポーツである相撲を、絶やしてはいけないと考えたのである。議会政治と相撲を一緒にしては不謹慎といわれるだろうが、それほど私は相撲の愛好者である。

そこで私は「要は立派な力士を養成、輩出せしむるにあり、相撲の経営方法よろしきを制するにあり。この二条件さえあればわが国の相撲は決して亡びない、諸君安心して可なり」と全力士を激励した。

私はこの間に、出羽海と時津風両親方の手を握らせるなかだちをした。相撲協会の責任者である出羽海秀光君は常ノ花時代からのじっ懇である。また元の横綱双葉山は私の最も愛好した力士であった。出羽海は相撲経営者としては古今独歩、第一人者である。時津風は不世出の大力士である。この二人をそのまま放っておけば、二派に分れて早晩協会にひびが入る。反対にこの二人がお互に長所を認め合っていけば相撲協会の基礎は磐石だと思っていた。謀略縦横ですぐれた手腕家の出羽海と温厚着実の双葉山が手を握れば鉄桶のかまえになるだろう。相撲界の前途は非常に栄えていくに違いない。こう思った。

そこで二人を招いてその話をし、一年余かかって全く相知り合う間柄にしてしまった。そうしておいて古風なことだが義兄弟の杯(さかずき)をさせた。その杯をするときになって、時津風がちょっと伺いたい、この杯を飲めば兄弟分になってケンカができない、兄弟分になったらなんでも兄貴のいう通りになるというのは困る、もしも出羽さんがいうことで納得のいかない場合は先生に訴える。先生まで出羽さんのいうことが正しいというなら納得がいかないでも従います。もし私が正しいときには、時津風のいうようにした方がいいといってくれるかどうか、そこのところを伺わないとこの杯は飲めませんと言いだした。出羽海はそれはあたり前のことじゃないか、だがそれならいっそ先生も兄弟の中に入ってくれませんか、二人が問題を起こしたとき一番上の兄貴分の先生が裁くということでどうだろうか、というわけである。

結局、三人でその杯を飲んだ。以来大麻唯男は二人の義弟を持ったわけだが、出羽海と時津風の二人は水魚の交りで一ぺんもケンカをしない。お互に長所を認め合って欠点を助け合いつつ相撲協会のためにやっている。これは私として相撲界にとって一つの大きなヒットではないかと思っている。

十三、相撲(中)[編集]

ある時、出羽海親方が見えて、愛弟子の横綱千代ノ山に女房を持たせたいと思うが、その媒酌(ばいしゃく)を頼むといってきた。大阪に「花月」といって有名な料亭を手広くやっている伊藤作之進という人で、千代ノ山を大のひいきにしているお客さんがある。その人があるとき劇場で千代ノ山を見かけた。満員の劇場のうしろの方で千代が立って見ているが、お母さんを片腕で抱いて一時間半以上もみせている。それを見てああ親孝行な関取だ、あんな関取にうちの娘をやりたいといってこの話が始まったのだという。そのお嬢さんは来年三月松蔭女子大学を卒業するので、そうしたら式をあげたいとの話である。

それから間もなく私が郷里熊本に帰るとき、大阪駅にご本人はじめ伊藤さん家族十四、五人があいさつに来られた。なかなか立派な婦人である。私はすぐ車中から東京の師匠出羽海へ電報を打った。「ただいま伊藤光恵さんに会った。容姿端正、誠にあいくるしい令嬢にして、将来横綱婦人たるに十分な資格ありと見えたり。善は急げの言葉はかようなときに用うべき言葉と思う。来年を待たずすみやかに挙式せられたし」。

東京に帰ってみると千代ノ山は家がない、また令嬢は在学中である、学校を卒業してからというので来年といっているらしい。そこで千代は奥さんの卒業免状と結婚するわけでもあるまい。また伊藤令嬢は千代の家に嫁にいくものでもあるまい。早く式を挙げた方がいいと私はいって、話を決めてしまった。いまになって「先生半年だけもうけた」と笑っているが、一子をあげて非常に円満な家庭である。巡業先から毎晩電話がかかってくるらしい。

この千代ノ山は杉村といっていた時分から横綱を嘱目され、出羽海が非常にかわいがっていた。その千代が横綱になった時、出羽海は非常に喜んで祝杯をあげたが、その日に早速千代を呼んで土俵入りの型を教えた。夢中になって何回も教えているうちに、拍手して十分に前に両手を突出し、そして思いきって左右に開き、思い切って後へ引け、そうすると大きくみえるといってやってみて、せのまま後に倒れて大の字になってグウグウいびきをかいて眠ってしまった。千代ノ山も驚いたが、出羽海は大きいからいかに横綱でも抱えられない。弟子や孫弟子を呼んで、大勢で眠っている師匠をエッサエッサと寝床へ運んでねかした。相撲取の師弟の愛情というのはそんなものである。

横綱鏡里も私が媒酌した。これも双葉山の頼みで、親方の姪(めい)にあたるつね子という婦人が新婦であった。いま二人子供ができて非常に円満な家庭をつくっている。

その子供たちは始終、双葉山のところへ遊びに来ているが、あるとき双葉山がアンマをとっていると、その子供がじじいをいじめたらいやだといって泣き出した。ところが鏡里がアンマをとってもおもしろいおもしろいと手をたたいて喜んでいる。そんなふうだから双葉山もこの子供を目を細くしてかわいがっている。

あるときこの鏡里が、私の郷里菊池郡の恵楓園というライ病院で土俵入りを見せたことがある。それはそこの患者が一ぺん相撲を見たいと熱心に希望していたので、私が協会へ話したところ、出羽海と双葉山が相談して先生の要望だからということで、たまたま都合のついた鏡里がいってくれることになった。

大体相撲のファンというものは相撲取りがそばを通ると、よく体にさわりたがるものだ。だからそういうところへ行って体にさわられては気持が悪い。土俵入りの道も一間半くらいの広さにしておくといったようにはじめはみんなビクビクだったらしい。ところがその日になると、鏡里が大胆に近くまで寄って、しかも非常に見事な土俵入りをみせた。これには手が片方しかない人や目が片方しかない人たち、非常に不遇な何千人という人たちが涙を流して喜んだそうである。

師匠の双葉山の話では、鏡里もはじめは恐かったが、あの不幸な人たちが、あんなに自分の土俵入りを喜んで見ておられると、涙なくしていられなかった、よしオレも天下の横綱だ、体にさわりたかったらさわれという気持になった。その気持だから土俵入りもよくできたんだろうというのである。そして双葉山がいうにはうちの喜代治がよくそこまで決心してくれた。あの時ほど喜代治がかわいいと思ったことはない、とつくづくいっていた。私もよくやってくれた、きっと何かいいことがあるぞ、といっていたが、やがて二場所続けて優勝した。

鏡里とはそういう人間である。

十四、相撲(下)[編集]

千代ノ山が横綱になることに決まったときのことである。歴代の横綱が免許をもらうことになっていた熊本吉田司家のことが問題になった。というのはこの吉田司家の当主がなにか刑事事件を起こしたとか新聞に載ったことがある。それで相撲協会の理事や好角家、さては一般力士の間でそんな人から横綱をもらいたくないという議論が起こった。

協会でも心配して私に意見を求めた。そこで私は相撲の由来とかしきたりとかからいえば横綱は称号だとかなんだとかいろいろの議論はあるだろう。しかし今日では横綱というものは力士最高の地位だと一般に思っているのではないだろうか。大関の上の地位だと考えている人がほとんどだ。お前は幕下、お前は十両、幕の内、お前は小結、関脇、大関と、これはみな協会の役員会で決めているのじゃないか、横綱も相撲最高の地位とみれば協会の役員会で決定してはどうだ。現在でも協会の役員会で決めて吉田家に免状をもらうというのが実情ではないか。だからこう考えれば協会が決めるのが当然である。またその免状は、わが国相撲中興の天子たる明治天皇の御神前で協会から授与したらよかろう。

もっともこのような形にしたからといって、相撲は伝統を尊ぶべきものであるから、古来のしきたりもそのなかに生かしたらよろしい。それには司家の問題の当主は隠居し、若い当主の叔父たる後見人が上京し、授与式に出席して綱そのものを力士に与えるようにしたらよいではないか、というのが私の判断であった。

そうして明治神宮の拝殿前で横綱になって最初の手数入りを明治天皇の御霊にご覧に供する。これは荘厳、厳粛な式であるが、同時に西海の果ての熊本でやるのと違い、各新聞には大きく報じられるし、すこぶるハデな授与式になったわけである。

古来横綱たるの資格については相撲界はもちろん、学者、好角家の間にいろいろの説がある。強いことを第一条件にあげているのもあれば、人格を要件にするものもある。清廉潔白を筆頭にあげるものがあるかと思えば、技術風格を欠くことのできない要素に数える人もある。文献でも七ヶ条をあげるものもあり五ヶ条のものもある。横綱とは何ぞやというわけで盛んな議論がかわされた。そこで私は「品格力量抜群につき横綱に推挙す。大日本相撲協会」という案を出した。古来のいろいろの条件というものもこの品格力量の四字に含まれると思ったし、協会が決めるのだから推薦ではなし、推薦といえば横綱の方が協会より上になる。そこで推挙がよかろうと考えたわけである。私の提案にはどこにも異議がなく、この案通りに決まった。

相撲界数百年の伝統を改めたことになったわけである。こうして四十一人目の横綱千代ノ山にはこの方式で横綱が与えられ、それ以来鏡里、吉葉山、栃錦いずれもこの方式が続けられているが、私は今でもこの方法は適当だったと思っている。

十五、閑居[編集]

終戦ほど日本にとってふしあわせなことはない。われわれは大いにその責任を感じた。なんとかして、少しでもその補いをしなければならないと思ったのである。それには日本再建に渾身(こんしん)の努力を払い、わが民族の発展と幸福のために尽さなければならないと考えて、それには議会政治を完全に復活すべきだと思った。そこで一つの政党をつくろうと同士諸君とともによりより画策していた。ところが大量の公職追放というものがあり、私は一切の政治的活動を禁じられてしまった。

自分は終生を政治にささげるつもりであったが、それがかなわなくなったわけだ。人間はあきらめが肝心だから、追放されたら素直にその処置に服するのがよいと思った。世間には自分の子供とか兄弟その他を身代りに政界に出して後日の再起をはかる挙に出た人もあったけれども、私はその道を選ばず、きれいにその処置に服してなんにもしなかった。

人間生活というものは、何も政治だけではない。政治のほかに広い生活の分野があることは分っているから、それによって生きていければいいと思った。それで無鉄砲にも雑誌の経営を始め、全財産を投じようと考えた。しかしなかなか困難がある。そこで菊池寛君を頼んで顧問になってもらい、同君の女婿(じょせい)の藤沢僩二君に手伝ってもらって娯楽雑誌読物クラブを発刊した。同人は宮沢胤勇、中村庸一郎、野田武夫、真鍋儀十君などであって、一時はなかなか盛大であった。がものより士族の商法で長続きするはずのものではない。たちまち失敗、菊池君は二年くらいは続くだろうといっていたが、その二年もあやしかったほどである。

けれどもそのころは体の自由なままにいろいろのことをやった。舞踊を大まじめでけいこしたり、小唄にこって名取りになり、ちょっと得意になって芝の美術クラブで友人知己百名ばかりをまねいてその披露宴をやったこともある。その時野村吉三郎君が、名取披露宴の案内状を見違えたらしく、きょうは大麻君の銀婚式の披露かといってやって来たりして大笑いになったこともある。あるいはプロ野球大映スターズの顧問になったり、相撲はもとより本職みたいなものだからその振興に全力を尽した。

大崎の本宅には長女圭子夫婦に入ってもらい、私たち夫婦は鎌倉の別荘に閑居して二十年の闘病に悩んでいる二女の栄子とともに暮して安らかな家庭生活を営み病娘の看護も十分に出来た。

この間、交友も広くなって、高浜虚子、菊池寛、永田雅一、吉川英治、常磐津文字兵衛、大仏次郎、久米正雄、吉屋信子、星野立子、川口松太郎、加瀬俊一、松尾邦三、大川博、小林富佐雄、木暮実千代、三益愛子など各界の人々と交際するようになった。いままで政治家とばかり交際していたのが、これらの人との交際で急に世間が開けたような気がしたものである。これは私の生涯に非常に大きなプラスだったと思う。

十六、観音像[編集]

私ども夫婦には子供がないため家庭は大変さびしい。私はさびしがりやであるから、兄の子供を二人つれてきて私の家庭に入れた。はじめは叔父様、叔母様といっていたが、一緒に生活しているうちに叔父様、叔母様では満足できなくなり、お父様、お母様と呼ばせたくなった。そこで兄に強談判をして二人を養女にしてしまった。姉を圭子、妹を栄子という。

圭子は家内の弟の西野重孝の妻となって、いま子供も信子、治子、千賀子の三人があり、これが私ら夫婦の孫と称して、老後の愛の対象になっているのである。重孝は医学博士で両陛下の侍医として宮中に仕え、家庭も円満で幸せに暮している。

ところで妹の栄子は、十五歳で胸を患いついてしまった。そこで鎌倉に別荘を建てて住まわせた。そして二十年間全力をあげて療養につとめさせ、家内も半生を栄子に尽したといってもよい。しかしその療養の甲斐なくして三十五歳でとうとう亡くなってしまった。

それが私にはいかにもふびんでしようがない。悪いけれども自分の両親が死んだときよりも数倍悲しく感じた。それで栄子の思い出話をつづり、私として初めての本にまとめてみたが、それでも自分の気が済まない。

とうとう栄子が帰依していた長谷観音の境内に名工八柳五兵衛に頼んで観音菩薩を建立し、菩提(ぼだい)を弔うことにした。私の心情を知ってくれて、出羽海と双葉山は三トンほどもある石を丈夫石と称して観音の前に供えてくれたし、除幕式のときは私の友人知己が五百人くらいも寄ってくれた。高浜虚子さんが「永き日のわれらがための観世音」[1]という一句をたむけてくれたので、これも刻みつけてもらった。

そして私はその裏に「浄智院釈妙栄信女、大麻栄子、十五歳にして胸を患い、素直に両親の希望をいれ、よく医師の注意を守り、気をおおらかにして療養に務め、闘病二十年、三十五歳にして没す、病中深く観世音に帰依し安心の境地に達したるものの如く、ほほえまんばかりの気色で、私の一生は本当に幸せでございました、の一語を残して永眠せり。観世音菩薩の大慈悲に感謝し、栄子の冥福を祈るとともに、世の病に悩める人々の幸福を祈念してこの御姿を建立する。大麻唯男、世津」私の親心の涙とともに刻み込んだのである。

私はこの文を吉川英治君に直してもらおうと思っていた。それで草稿を送ったところ、吉川君はそのまま手を入れないで送り返してきた。

[2]

という手紙をもらい、私は今もこの手紙を大事にしまってある。

十七、文化会館[編集]

昭和二十八年のこと、郷里の婦人会の四十何名かの人々が宮城清掃の奉仕に上京した際、一夕、私は会食したことがある。その婦人たちの純情にはすこぶる心を打たれた。つづいて郷里の青年団員諸君がまた上京して会食の際「郷里には先生の後をついで社会国家のためにお役に立ちたいと、つとめておる青年が二万人ある、ということを記憶にとどめてほしい」とあいさつした。それを聞いてまた心を打たれ、郷党青年婦人のために何か役に立つことをしたいと痛感したのが私の大麻文化会館建設である。

そこでまず郷里の玉名市に二千坪の土地を求めた。そして二百五十坪の集会室、事務所、大ホールなどを建て、さらに私の生家の兄の使っていた剣道の道場と、父が自慢にしていた門を移して大麻文化会館が誕生した。落成式は二十九年四月十八日と十九日の二日間にわたって行ったが、延べ一万人くらいもの人が集まってくれた。第一日は三千人ほどを呼んで披露し、第二日は運動会、レクリエーションなどで、東京の友人たちも大勢来てくれた。大映社長の永井雅一君、今の国連大使加藤俊一君、出羽海や双葉山、川口松太郎、三益愛子夫妻、そのほか体育大学長栗原義彦君はじめ今度もオリンピックの体操選手になった田中敬子、竹本正男選手たちも来てくれて体操をやってみせてくれるなど大変なにぎわいだった。

私はこの落成式のとき、私の微意として「わが国内外の情勢は国民の非常な決意を要求しております。独立日本の再建を期するには中央はもちろんでありますが、同時に地方でもわれわれ郷土の開発振興に努めなければならず、その基礎となるべき郷土の文化向上を図ることはこの際最大の要務であると信じます」といって建設に至るまでの経緯や何かを述べたのだが、そのなかでこの会館を財団法人として運営は郷里の各種団体から理事、評議員を出してもらって、その人たちに一任したいということを表明した。

またこの会館の落成式の時披露した高浜虚子さんの祝辞には非常なかっさいを受けた。そのなかに

大麻さんは政治家である。したがって俳人である自分とは違うが、それにもかかわらずなんとはなしに相通ずるものがあるように思う。大麻さんはああみえてもすこぶるさびしがりやである。また涙もろい性質である。今回の文化会館が出来たのもこの大麻さんのさびしがりやの涙もろさがさせたことではなかろうか。

一滴の男の涙大桜

というようなことがあった。

私はこの句を茨城県から御影石を取寄せ、鎌倉で彫らせて、文化会館に句碑として建てた。八十いくつになる虚子さんが、その句碑を一ぺん見に行きたいといっておられる。それで行かれることになったら私もお供をするつもりで待っている。

この文化会館は今でも、青年団、婦人会、農産物研究会などという会が有効に使ってくれているほか、市議会などにも使うなど、一日もあいている日はないそうですこぶる満足である。これとは別に大麻家伝来の家屋敷、敷地約千坪、建坪百坪余を勇次、唯男、博之[3]三兄弟の名で玉名市に寄付した。これは保育園になっているが、数年に一回大麻家の法事があるときは一部を使わしてもらう約束になっている。この間、久しぶりに帰ってみたら、七十人くらいの子供たちが昼寝の最中であった。いささか付近の子供たちのためにはなったのではなかろうか。さだめて私の先祖父母もよくやったと喜んでくれているのではなかろうかと思う。

十八、陛下と相撲[編集]

天皇陛下は非常に相撲がお好きであらせられる。私は恐縮ながら歴代の天子のうちで、今の陛下ぐらいご不幸で、苦労をなさった方はあるまいと思う。われわれは敗戦の責任を大いに大なりと考えているが、陛下はご自分一人でその責任を引受けたつもりになっておられる。全国を行脚されたご趣旨もよくわかる。そして日常はなんのお楽しみもない。わずかに生物学のご研究に鬱(うつ)をはらしておられるようにお見受けする。

お好きなお楽しみといったら相撲ぐらいのものではあるまいか。これまでも宮中に力士を呼んでその勝負をご覧になったり、水交社で花相撲をご覧になったりしたことはおありのようである。しかしどうしても国技館の本場所においでになって一般大衆とともに力士の命がけの真剣勝負をご覧にならなければ本当の相撲の味わいがわかるものではない。ぜひ本場所の相撲をお目にかけてお慰めしたいと思って私は心をくだいた。念願かなって昭和三十年五月、陛下が蔵前国技館に行幸、一般大衆とともにわが国の国技たる、お好きな相撲の本場所を観覧あらせられることとなった。私は心の底からこれを喜んだ。陛下は約三時間の間、われを忘れて相撲を観覧あらせられているように拝した。陛下は一勝負ごとに鉛筆をとってしるしをつけたり、あるいは身をのり出して勝負に力をお入れになったり、さては拍手を送って一般大衆とともにお楽しみになった。

このお姿を見た国民はひとしくああ陛下がお喜びになっている、といって目に涙を浮かべて喜んだ。この情景は昔の言葉で言えば君民一如が具現されたようなものであり、戦前には見ようとしても見られない光景であった。

翌年正月になってその時の御製がはじめて発表された。

[4]

というのであって私が想像していた通り、陛下も心からお喜びになったようである。

今年の五月もまた国技館においでになった。おそらくこれが例になって今後は毎年五月場所には本場所をご覧になることと思う。

大日本相撲協会ではこれを光栄として三十一年九月十五日宇佐美宮内庁長官謹書の御製を碑に刻み、時津風親方の序幕、出羽海理事長のあいさつで厳粛な式を挙行した。この碑に刻み込むために私は求められるままに謹んで次のようないわれの一文を選んだ。

「昭和三十年五月、天皇陛下親しく蔵前国技館に行幸、はじめて国民とともに本場所を観覧あらせられた。陛下は終戦時国民をおもい『五内ために裂く』と仰せられた。また日常国民の上に御心の休まる間とてもない。しかるにご観覧中は、いすを進められ拍手を送られ大衆もこれに和するという光景を現出したのであった。天皇が一般国民と一つになってわが国の国技たる相撲をご覧になった和やかな情景は戦前には見られないことであった。陛下がかくもお喜びになったことが新聞、ラジオ、テレビジョンによって伝えられるや国民全体はまた心の底から喜んだのである。これはその時の御製であって翌年正月に初めて発表せられたものである。わが国相撲道の発展興隆期して待つべく大日本相撲協会の光栄まことに大なりというべきである。昭和三十一年九月十五日 大麻唯男謹識」

脚注[編集]

  1. 初出時は「長き日の-」とあったが10月23日に訂正されているため、ここでは訂正後の記載とした
  2. 吉川英治の手紙全文が掲載されているが、著作権保護期間内のため現時点では伏せる
  3. 初出時は「持之」とあったが10月23日に訂正されているため、ここでは訂正後の記載とした
  4. 昭和天皇の御製が掲載されているが、著作権保護期間内のため現時点では伏せる

出典[編集]

日本経済新聞昭和31年(1956年)10月6日 - 10月23日