私の履歴書/吉井勇
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[編集] 一、恵まれた詩歌への道
父の名は幸蔵、昭和二年十月七日に、年七十三歳で世を去った。少年時代に欧米に留学、あちらで成人したので、英、仏、独、いずれの外国語も達者であった。帰朝後、海軍兵学校に入り、海軍少佐の時、台湾征討軍に遣問使として行ったが、濁水溪というところで、地雷火のために頭部をやられ、それ以来軍職をやめて、やや癒えてから貴族院に入った。私がまだ子供の時分、父は酔うとよく「思ひきや彌彦の山を右手(めて)に見て立ちかへる日のありぬべしとは」という祖父の歌を、くりかえしうたって聞かせてくれたが、こういうことも私の一生に、それとなく影響しているのではないだろうか。
母の名は静子、元治元年生れで、今年(三十四年)九十六歳であるが、いまだにすこぶる健在で、道を歩くのもなかなか足が速く、眼鏡をかけずに針仕事もする。いま東京世田谷の私の弟の家にいるが、記憶がなかなかしっかりしているので、明治初年以来の思い出などを、弟に頼んで筆記してもらっている。それによると母の実家の猪飼という家は、鹿児島の稲荷馬場というところにあって、敷地が二千坪あまり、大きな池や滝のある広大な屋敷だったらしい。西南戦争のあった明治十年は、母がちょうど十四歳の時で、ある日突然父から戦があるから逃げなければならぬといわれ、そこから二里ほどさきにある七窪というところの知らない人のところに避難したが、そこは郷士の家であって、下は崖(がけ)になっている谷間だった。そこに逃げて来る途中、西郷方の抜刀隊に会ったりしたうえ、海上からは龍攘、春日など官軍の軍艦からの艦砲射撃があったりして、全く生きた心地もしなかったそうである。
私は今こうして母の思い出の筆記を読みながら、九十余年にわたる一人の女性の生涯といったようなことを考えているが、元治、慶応、明治、大正、昭和といったように、およそ一世紀におよぶ時代の推移を思うと、なんだかおそろしい運命の歯車の音が、ひびいて来るような気がしてならないのである。思わず余談になったが、もし私が今後、何年か生きていることができるならば、最後の願いとして自分の家の系譜を書いてみたい。
そういう心持からもう一人、祖父のことを付け加えると、祖父の名は友実、前名を幸輔といって、明治二十四年四月六十四歳で世を去ったが、いわゆる維新の志士の一人であって、西郷隆盛や大久保利通とともに国事に奔走した仲間である。最後は枢密顧問官になって没したのであるが、私はそういった官職の高かった祖父よりも、子どもの時分に父から聴かされた「思ひきや」の歌が、いまだに思い出されるように、むしろ南画を描いたり歌を作ったりした文人的な祖父の方に親しみが感じられる。
今は散逸してしまって私の手元にないが、富岡鉄斎、下条桂谷、川村雨谷などと寄せ書をした絵の幅も、かなり後まで残っていたし、歌を書いた短冊ならば、まだ四、五枚幅に仕立てたものを愛蔵しているので、ときどき書斎の床に掛けて、もう今ではおぼろげになったその面影をしのんでいるが、私が歌を作るようになったのには、どうもこの祖父から伝わった何ものかがあるように思われてならないのである。
試みに祖父の短冊の歌を一、二首あげて見ると「梅遠薫」という題で詠(よ)んだものに「うめの花水上遠く匂ふなり折りてかざさむいそげ舟人」というのや「十二、三年前に植ゑ置きし松の生長せるを見て」という詞書(ことばがき)のある「植おきし松のみどりも池水に影さすばかりなりにけるかな」というのがあるが、別に新味はないけれども題詠を主とした当時の歌としては、まず素直なものといってもいいであろう。
私はこういう祖父と、こういう父と、こういう母とを持って明治十九年十月八日、東京市芝区高輪南町五十九番地に生まれた。