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  • 狂瀾を既倒にめぐらした。まことに南朝の歷史は壯烈の極みである。その間に、女性の凛たる婦德とやさしい心ばえがあつて吉野朝忠臣の事蹟をいろどつてゐる。 楠木正成の室、正行の母。その名は慈子(しげこ)。ここは吉野朝の下、かんばしき婦德の花は開いてゐる。しばらく日本外史を朗讀して、正行に訓誡を與へる母慈子の精神をしのばうではないか。…
    4キロバイト (846 語) - 2019年2月26日 (火) 14:48
  • おさへるやうになつた。率直にいふと、男はお友達としての女性を失うてそのかはり、妻として、母としての新らしい性格を、日本女性に發見したのである。 私は楠木正行の母について多くを知らない。然し、それは本文において特に日本外史から引用した。あの一節で足りると思ふ。日本の女性美は母においてその最もよきものを…
    6キロバイト (1,321 語) - 2019年2月26日 (火) 14:42
  •  彼竹島ハ地図を以て側算  すレバ、九十里斗なるべし。  先頃井上聞太、彼島ニ渡り  し者ニ問しニ、百里ナリ、  とおふかた同じ事ナリ。  其島ニ渡る者の咄しニ  楠木ニよく似てありしもの、  広くハ新木在之、其外、  壱里余より弐里もあらん  平地ありしと也。島の流レ  ハ十里斗なりと、小弟曽而  長崎ニニて聞しニ何とも…
    8キロバイト (1,472 語) - 2022年3月23日 (水) 17:32
  • いニ候。どふぞ御きゝこみねん じいり候。扨、わたしがお 国ニおりし頃ニハ、吉村三太 と申もの頭のはげたわ かいしゆこれあり候。これが もち候哥本、新葉集 とて南朝 楠木正成公などの;ころよしのニて出来;しうたのほん也。 にてできし本あり。これ がほしくて京都にて 色〻求候得ども、一向手ニいらず 候間、かの吉村より御かりもとめ…
    11キロバイト (1,934 語) - 2014年1月11日 (土) 15:12
  • 時は大いに驚き、急に兵を京都へ上がらせて来た。天皇は、これをお避けになって、山城の笠置(かさぎ)山に行幸をなさった。 楠木正成が行在所にまいった 河内の国 金剛山の麓に住んでいた楠木正成は、天皇の御召によって、まっさきに笠置の行在所(あんざいしょ)にまいった。そうして、天皇に拝謁して、「賊軍がどんな…
    52キロバイト (16,129 語) - 2023年9月17日 (日) 12:48
  • 楠木は元来勇気無双の上智謀第一也ければ、一枚楯の軽々としたるを五六百帖はがせて、板の端に懸金と壷とを打て、敵の駆んとする時は、此楯の懸金を懸、城の掻楯の如く一二町が程につき並べて、透間より散々に射させ、敵引けば究竟の懸武者を五百余騎勝て、同時にばつと駆させける間、防手の上杉・畠山が五万余騎、楠木
    56キロバイト (13,578 語) - 2022年12月1日 (木) 08:02
  • 津守国貴  君をいのるみちにいそげば神垣にはや時つげて鶏(とり)も鳴くなり 菊池武時  もののふの上矢(うはや)のかぶら一筋に思ふ心は神ぞ知るらむ 楠木正行  かへらじとかねて思へば梓弓(あずさゆみ)なき数に入る名をぞとどむる 北畠親房  鶏の音になほぞおどろくつかふとて心のたゆむひまはなけれど…
    14キロバイト (2,634 語) - 2021年1月8日 (金) 04:06
  • となく、盛んに尊王の大義を說き、人々に深い感銘を與へました。 篤胤と同じころの學者賴山陽は、二十年の心血を注いで、日本外史といふ本をあらはし、特に、楠木氏や新田氏らの忠誠をたたへました。尊王の熱情にみちあふれたその文章は、人々を深く感動させました。 かうした學者の硏究や主張が、しだいに世の中にひろま…
    756バイト (4,492 語) - 2015年12月20日 (日) 02:10
  • 於て兵船を点じ、備前の児嶋に上て已に京都に責上んと仕候。御用心有べし。」とぞ告申ける。かゝりけれ共、京都には新田越後守義顕を大将として、結城・名和・楠木以下宗との大名共大勢にて有しかば、四国の朝敵共縦ひ数を尽して責上る共、何程の事か有るべきと、さまでの仰天もなかりけるに、同十一日、備前国住人児嶋三郎…
    74キロバイト (17,423 語) - 2022年12月1日 (木) 08:02
  • ま)へお出ましになり、諸國の武士に「賊軍を討て」との御(ご)命令をおくだしになりました。お召しによつて、眞先に兵を擧(あ)げたのは、河内(かはち)の楠木正成(くすのきまさしげ)と備後(びんご)の櫻山茲俊(さくらやまじしゆん)であります。正成は、時をうつさず行在所(あんざいしよ)へ參り、つつしんで申しあげました。…
    735バイト (29,398 語) - 2020年1月5日 (日) 16:29
  • 、是しかしなから、赤松かくんかうにて候はすや、またそのゝち、徳応三年の事にてあるに、南方の平家おこり、すてに河内国森口と申所に陣をとりて、同国の住人楠木の一門を大将にて、津の国の中島と雀か松原、小野のやとをかこひまはして、都にせめのほり、てんかをうちとらんとせしに、六人の諸大名は、御所様にうらみのし…
    3キロバイト (8,794 語) - 2024年4月21日 (日) 13:36
  • を始め奉り諸親王の御尽瘁と共に、幾多の忠臣の輔佐があつた。即ち忠臣には、北畠親房・日野資朝・日野俊基等を始め、新田義貞、楠木正成等があつて、回天の偉業が成就せられた。わけても楠木正戌の功業は、永く後人の亀鑑となつてゐる。太平記には「主上御簾を高く捲かせて、正成を近く召され、大義早速の功、偏に汝が忠…
    172キロバイト (36,495 語) - 2022年3月4日 (金) 04:08
  • ふ也それより奥州勢所々の合戦に打負伊勢路にかゝり登りけると也此忠賞として駿河国並数十所の御所領をたまはらせ給ふと也〈私云此奥州勢は北畠殿白河結城入道楠木左右近蔵人常陸国小田の少将以下の人々也〉 駿州御入部の初め富士浅間へ御神拝の時神女詫し云遠江の国ちかくて氏子にほしかりしまヽ笠しるしを得させし也さる…
    44バイト (22,911 語) - 2024年4月19日 (金) 06:58
  • 被退出ける。諸軍勢、大将の前後に馬を早めて、白鳥の前を打過ける時、見物しける女童部、名和伯耆守長年が引さがりて打けるを見て、「此比天下に結城・伯耆・楠木・千種頭中将、三木一草といはれて、飽まで朝恩に誇たる人々なりしが、三人は討死して、伯耆守一人残たる事よ。」と申けるを、長年遥に聞て、さては長年が今ま…
    87キロバイト (21,167 語) - 2022年12月1日 (木) 08:02
  • るめづらし。まゆみ。さかき。りんじのまつりのみかぐらのおりなどいとおかし。き(木)しもこそあれ。神の御前の物とおひはじめけむも。とりわきてかしこし。楠木は。こだちおほかる所にも。ことにまじらひてたゝず。おどろ〳〵しき思ひやりなどうとましけれど。ちえにわかれて。戀する人のためしにいはれたるぞ。たれかは…
    431バイト (30,673 語) - 2022年6月8日 (水) 09:37
  • し奉つた。親房は東國の諸族を招致して義兵を擧げしめまた紀伊を始め、中國·四國の水軍をして皇事に勤めしめたので、官軍の勢力は著しく挽囘した。楠木正行の忠烈その頃楠木正成の子正行は、よく父の遺志を體して、南河內を中心にその力を養ひ、近畿官軍の柱石となつて勤皇の軍を起し、北河內その他諸處に轉戰し、度々賊軍…
    681キロバイト (152,736 語) - 2024年1月27日 (土) 18:08
  • よろしき時こそあれ、かばかりのきはには何の儀式もなかるべし。笠置殿には大和河內伊賀伊勢などより兵ども參りつどふ。中に事のはじめより賴みおぼされたりし楠木兵衞正成といふものあり。心猛くすくよかなるものにて河內國におのがたちのあたりをいかめしくしたゝめて、このおはします所若し危からむをりは行幸をもなしき…
    398バイト (103,351 語) - 2022年10月1日 (土) 00:56
  • 五ヵ月の余に渡る長い長い冬を漸く通り越したという気がする。その頃まで枯葉の落ちずにいる槲(かしわ)、堅い大きな蕾を持って雪の中で辛抱し通したような石楠木(しゃくなぎ)、一つとして過ぎ行く季節の記念でないものは無い。  私達が学校の教室の窓から見える桜の樹は、幹にも枝にも紅い艶(つや)を持って来た。家…
    282キロバイト (56,209 語) - 2021年5月19日 (水) 16:05
  • 長に口答申輩前代始候条以爰可致当末二ケ条於無請者二度天下之赦免有之間敷者也     天正八年 八月日 此如御自筆を以て遊し 佐久間右衛門父子かたへ 楠木長安 宮内卿法印 中野又兵衛 三人を以て遠国へ可退出趣被仰出取物も不取敢 高野山へ被上候爰にも不可叶旨 御諚に付て高野を立出 紀伊州熊野之奥足に任せ…
    3キロバイト (101,980 語) - 2024年4月5日 (金) 17:57
  • 口答申輩前代始候條以爰可致當末二ケ條於無請者︀二度天下之赦免有之間敷者︀也     天正八年 八月日 此如御自筆を以て遊し 佐久間右衞門父子かたへ 楠木長安 宮內卿法印 中野又兵衞 三人を以て遠國へ可退出趣被仰出取物も不取敢 高野山へ被上候爰にも不可叶旨 御諚に付て高野を立出 紀伊州熊野之奧足に任せ…
    457キロバイト (106,867 語) - 2024年5月11日 (土) 11:54