楽浪遺蹟出土漆器の銘文

 
オープンアクセスNDLJP:221 楽浪遺蹟出土の漆器

  一、本文漆器第二十四参照 竪最長二寸四分横最長二寸一分

  二、同第二十三参照 縦横の数を失記す

 附、出土印文

  一、永寿康寧 玉印 方五分

  二、王盱印信 五官掾王盱印 並に木印 方七分

    この二木印は拓本なるを以て左文の如くなれり

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楽浪遺蹟出土漆器の銘文
 
 朝鮮に於ける楽浪遺蹟に漆器の発見せられしは、大正五年以来の事にして、其の銘文の発見せられしは、たしか昨年なりしかと聞及ぶ。今年に至り、東京帝国大学が細川侯爵の出資によりて、探検隊を派遣せしより、其の聞え益々噪しくなれり。朝鮮総督府発掘の漆器につきては、関野工学博士、藤田文学士(亮策)、小場恒吉氏等已に数年来、其の研究に従事せられ居り、東京大学発掘のものに就きては原田文学士(淑人)等研究中なりとのことなれば、其の詳細なる報告は遠からず発表せらるべきを信ず。余は去年十月京城に赴きし際、総督府博物館にて藤田文学士の好意により、同館保存の漆器を一覧することを得、又小場恒吉氏が手録せられたる者により、其の未だ見ざる者を補ひ、再び梅原末治氏の手録せる銘文をも補ひ、東京大学の発掘品は、之に従事せる田沢金吾氏の手録本により其の銘文を遂録し得たるを以て、先づ左に其文を録載することとしたり。上述諸君の詳細なる発表は、之を異日に期するのみ。
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始元二年。蜀西工長広成。丞何放。護工卒史勝。守令史母夷?。嗇夫索喜。佐勝。髹工当。彤工将夫。画工定造。

    二

始元二年。蜀西工長広成。丞何放。護工卒史勝。守令史母夷?。嗇夫索喜。佐勝。髹工当。画工文造。

    三

始元二年。蜀西工長広成。丞何放。護工卒史勝。守令史母夷?。嗇夫索喜。佐勝。様工当。彤工将夫。(下欠)

    四

(首欠)佐勝。髹工芒柳。彤工将夫。画工母放造。

    五

陽朔二年。広漢郡工官。造乗輿採彤画木黄釦𣙥。容二升。素工広。髹工厳。上工貴。銅釦黄塗工助。画工長。彤工尊?。清工博。造工同造。護工卒史成。長廷。丞為。掾憙。佐宜王主。

    六

永始元年。蜀郡西工。造乗輿髹彤画紵黄釦飯繁。容一升。髹工黄。上工広。銅釦黄塗工政。画工年。彤工威。清工東。造工林造。護工卒史安。長孝。丞。掾譚。守令史通主。

    七

永始元年。蜀郡西工。造乗輿様彤画紵黄卸飯 。容一升。髹工寿。上工壺?。銅釦黄塗工甲。画工恭。彤工之。清工東。造工林造。護工卒史安。長孝。丞君。掾譚。守令史通主。

    八 銅釦漆盒

綏和元年。供工〻彭造。掾臨主。守右丞何。守令鳳省。

    九

元始三年。蜀郡西工。造乗輿髹彤画木黄耳棓。容一升十六崙。素工豊。様工頼。上工譚。耳黄塗工充。画工譚。彤工戎。贛工政。造工宜造。護工卒オープンアクセスNDLJP:225 史章。長良。丞鳳。掾隆。令史寛主。

(以上総督府発掘)


    十

元始四年。蜀郡西工。造乗輿髹彤画紵黄塗辟耳槫。容三升。蓋髹工予?。上工浩。銅辟黄塗工古。画工欽。彤工戎。清工平。造工宗造。護工卒史章。長良。丞鳳。掾隆。令史裒主。(〈橋都芳樹氏旧蔵、今東京美学術校に帰す。〉

    十一

元始四年。蜀郡西工。造乗輿髹彤画?(以下欠)(〈六角氏紫水氏採集〉

    十二 漆槃残字

(首欠)史博。長敵。守丞况。掾豊。令史譚主。(〈橋都氏旧蔵、今東京美術学校に帰す。〉

    十三 漆槃残字

居摂三年。蜀郡西工。造乗輿髹彤画紵□□□□造工弘造。護工卒史厳。長(以下欠、右方に重圏を附せるものは文字不明にして推読せしものなり、下同じ)。

    十四

居摂三年。蜀西工。造乗輿髹彤画紵黄釦果槃。髹工広。上工広。銅釦黄塗工充。画工広。彤工豊。清工平。造工宜造。護工卒史章。長良。守丞巨。掾親。守令史厳主。

    十五

常楽大官。始建国元年。正受第千四百五十至四千。

    十六

(首欠)五年。子同郡工官。造乗輿髹彤画木黄耳棓。容一升十六籥。素工□。髹工豊。上工証。黄耳工立。画工敖。彤工威。清工昌。造工成。護工史輔。宰音。守丞□。掾忠。史倉。掌大尹播。威徳子□□。

    十七

□都郡工官。造乗輿髹 輔。宰音。令掾忠。史欽。掌尹感。臧里附城新省。(〈以上五点、総督府発掘。〉

    十八

(首欠)様工□上工□銅釦黄?(下欠)(〈六角氏紫水氏採集〉

オープンアクセスNDLJP:226     十九

建武廿一年。広漢郡工官。造乗輿髹彤木俠紵杯。容二升二合。素工伯。髹工魚。上工広。彤工合。造工隆造。護工卒史凡。長匡。丞□掾恂。令史主。

    二十

建武廿八年。蜀郡西工。造乗輿俠紵容?。二升二合羹棓。素工回。髹工呉。沈工文。彤工廷。造工忠造。護工卒史□。長氾。丞庚。掾翕。令史茂主。

    二十一

永年十二年。蜀郡西工夾紵行三丸。宜子孫。盧氏作。

    二十二

永平十二年。蜀郡西工綊絞紵行三丸。治千二百。盧氏作。宜子孫。牢。(〈以上四点、東京大学発掘。〉

    二十三

舞陰家比五十六(〈総督府発掘〉

    二十四

安?盖巸(〈平壌住某氏採集、稲葉岩吉氏を経て今余に帰す。〉

    二十五

鄭氏案

    二十六

大利忠□(〈以上二点総督府発掘〉

    二十七

利王(〈東京大学発掘〉

 此外に総督府にて発掘せし中に「永寿康寧」の玉印、及び王雲の銅印あり、東京大学の発掘中に「五官掾王盱印」及び「王盱印信」の両面木印あり。

 元来漢代に於て河南郡南陽の宛県、済南の東平陵県、泰山の郡並に奉高県、頴川の陽翟、河内の懐県、蜀の成都県、広漢の郡並に催県等に工官を置きしことは、漢書地理志に見えたるも、其の職制は百官表にも更に見る所なかりしが、此の漆器によりて、護工卒史、長、丞、掾、合史等の官を設け、王莽の時には多少官名を改め、護工史、宰、丞、掾、史、オープンアクセスNDLJP:227 掌大尹等と為せることを知るを得。又工人中に種々専門の者あり、又造者、主者、省者、各其の職を分ちしことを見るべし。各工中彤工の彤は元と㳉に作るを以て其の釈読に苦しみしも、那波文学士(利貞)が之を彤と釈せる者尤も当を得たれば、今之に従へり。又王莽時代の作品中、子同郡にて作りしは、其の郡名によりて、王莽時代たることを知り得れども、五年は始建国か天鳳かを分ち難し、□都郡とあるは或は就都郡即ち広漢郡の王莽改名ならんか。

 蜀、広漢諸郡より漢代に漆器を出せしことは、漢書貢禹伝に禹が元帝に上りし書ありて、

蜀広漢主金銀器。歳各用五百万。三工官。官費五千万。

とあり、如淳〈魏時の人〉が注に

地理志。河内懐、蜀郡成都、広漢皆有工官。工官主作漆器物者也。

とあり、顔師古は三工官を少府の属官、考工室、右工室、東園匠なりとして如淳の説を非なりとし、清の銭大昭は又別に三官に異説を出したれども、如淳が漢を去ること遠からざる時に於て、蜀広漢諸郡の工官が漆器物を作りしことを言へるだけは、三工官の解釈如何に関せず、事実に相違なかるべし、貢禹の書中に

臣禹嘗従之東宮。(〈太后の宮なり〉)見賜杯案。尽文画金銀飾。非当所以賜食臣下也。

といへるは、発掘せられし漆器に徴して、その事実の恰当せることを覚え、前漢末の文化が極度に達せし状態を想像し得。五官掾は列郡太守の属官にて、発掘せる印材にも木を用ゐる程の微職なるに、尚ほ且つ工官が乗輿即ち天子の御用として作れる漆器を用ゐるを見れば、奢靡の風が一般に行はれたるを見るに足る、貢禹の上書は当時の世相を徴すべき有力なる資料なるが、出土の諸器物は又貢禹の上書を実証すべき適切の資料といふべし。

(大正十五年一月芸文第十七年第一号)


  附記

大正十五年二月史学雑誌第三十七年第二号に田沢金吾氏の「東大文学部の楽浪古墳発掘」(中)といふ小論文あり、参看すべし。

(昭和四年三月記)

 
 

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