梶川日記

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梶川日記(かじかわにっき)

  • 幕府留守居番、梶川與惣兵衞の元禄14年(1701)3月の日記
  • 丁未雑記(東京大学史料編纂所所蔵)より
  • 出典にない、句読点、括弧・改行などを施す
  • 下記の丁未雑記にあるものは、事件直後に書かれたものをもとに、整理・書き直しされたものから筆写したと思われる
  • 事件直後に書かれたと思われるものの写本は、東京大学総合図書館の南葵文庫(紀伊徳川家の蔵書であった)にある

本文[編集]

一、十四日。今朝五ツ時、例の通登城、御廣敷へ參る。 「拙者儀今日御使に參り候に付、御口上の趣も可承、并に包熨斗請取申度」の段申込候処、岩尾殿御出候て、御臺様よりの御口上あらまし被申聞候て包熨斗を御渡し候故請取、夫より御下男部屋へ右包熨斗を持參候時、土屋勘助に逢申候へば、「主計殿被申候は『今日御使御勤被成候』由被仰候。其段手紙を遣し可申と存候」旨申聞候。

拙者「其段は相心得候」由を申、自分部屋へ參り刀を差置、御留守居衆の部屋へ參り候へば、主計殿御申には「先刻吉良殿より『今日の御使の刻限早く相成候』旨申參候」旨被申候故、「委細承候」と申て、夫より中の間へ參り候処、多門傳八被居候故、公家衆を尋候へども、居られ申さず候。 「然ば殿上の間に可被居候はんや」と申候処、「最早公家衆には御休息の間へ被參候」由に付き、「左候はゞ大廊下には高家衆被居可申哉」と申候へば「如何可有之哉」と被申候間、「然らば大廊下へ參り見可申」と申捨て、大廣間の後通りを參り候処、坊主兩人參り候。一人は大廣間の御縁頬杉戸の内へ入申候。一人は我等後の方へ參り申候。

さて大廊下御縁の方、角柱の邊より見やり候へば、大廣間の方御障子際に内匠左京兩人被居、夫より御白書院の御杉戸の間二三間を置候て、高家衆大勢被居候体見え候間、右の坊主に「吉良殿を呼びくれ候様」申候へば、參候て即立歸り「吉良殿には只今御老中方より御用の儀有之候て參られ候」由申聞候。

「左候はゞ内匠殿を呼參り候やう」申遣し候処、則内匠殿被參候故、「拙者儀今日傳奏衆へ御臺様よりの御使を相勤め候間、諸事宜しき様頼入」由申候。内匠殿「心得候」とて本座へ被歸候。

其後御白書院の方を見候へば、吉良殿御白書院の方より来り申され候故、又坊主呼に遣し、其段吉良殿へ申候へば、承知の由にて此方へ被參候間、拙者大廣間の方御休息の間の障子明て有之、夫より大廣間の方へ出候て、角柱より六七間も可有之処にて雙方より出会ひ、互いに立居候て、今日御使の刻限早く相成り候儀を一言二言申候処、誰やらん吉良殿の後より「此間の遺恨覺えたるか」と聲を掛け切付け申候(其太刀音は強く聞え候へども、後に承り候へば、存じの外、切れ不申、淺手にて有之候)。我等も驚き見候へば、御馳走人の淺野内匠殿なり。

上野介殿「是れは」とて、後の方へ振り向き申され候処を又切付けられ候故、我等方へ向きて逃げんとせられし処を、又二太刀ほど切られ申候。上野介其侭うつ向に倒れ申され候。其時に我等内匠殿へ飛かゝり申候(吉良殿倒れ候と大かたとたんにて、間合は二足か三足程のことにて組付候様に覺え申候)。

右の節、我等片手は内匠殿小さ刀の鍔に當り候故、それともに押付けすくめ申候。其内に近所に居合申されし高家衆、并に内匠殿同役左京殿などかけ付けられ、其外坊主共も見及候処に居合候者共、追々かけ来り取りおさへ申候。

さて最前倒れ申候上野介殿を尋ね候へども、一向に見え申さず。右の騒ぎの中に、何人か介抱いたし引退き候や、其近所には見え申さず候。後に承り候へば、豊前殿・下総殿など駈付けて上野介殿を引起し候へども、老人の手負故一向正氣無之候へば、兩人して引かゝへ、御医師の間の方へ連れ行き申され候由に御座候。夫より内匠殿をば、大廣間の後の方へ、何れも大勢にて取囲み參り申候。其節内匠殿申され候は「上野介事此間中意趣有之候故、殿中と申し、今日の事かたヾヽ恐入候へども、是非に及び申さず打果し候」由の事を、大廣間より柳の間溜り御廊下杉戸の外迄の内に、幾度も繰返しゝゝゝ被申候。其節の事にてせき申され候故、殊の外大音にて有之候。

高家衆を始め取囲み參り候衆中「最早事濟み候間、だまり申され候へ。あまり高聲にて如何」と被申候へば、其後は申されず候。

(此度の事ども後々にて存出し候に、内匠殿心中察入候。吉良殿を討留め申されず候事、嘸々無念にありしならんと存候。誠に不慮の急変故、前後の思慮にも及ばず右の如く取扱ひ候事無是非候。去ながら是等の儀は一己の事にて、朋友への義のみなり。上へ対し候ては、かやうの議論に及ばぬは勿論なれども、老婆心ながら彼是と存めぐらし候事も多く候)

夫より柳の間くらがり東の方御敷居際に引すゑ置き、皆々取巻き守り居候。高家衆より御目付衆呼に遣られ、我等事は初より大広間の後の方迄附き參り候へば、最早諸人大勢取付き候ゆゑ、片手を放し候て小刀を取り、内匠殿の腰にさし被居たる鞘を抜取候て小刀を納め、片手に持參り申候。 御目付衆被參候て、御徒目付を呼に被遣、早々參り候へば、右の衆へ内匠殿を渡し候て、高家衆始めいづれも立退き申候。其時我等五兵衞・傳四・平八へ申候は、「内匠頭帶し申され候小刀を、拙者取候て納め申候。坊主へ渡し可申哉」と斷り候へば「左様に可致」旨申され候間、則坊主へ渡し申候。

其時右の坊主申候は「其元最前よりの次第を委細見候」由申聞候。夫より柳の間を通り候節、ふと存じ付き候は「此以後今日の一件に付御尋の事も有之候時、右坊主衆の名を存ぜず、毎度見知り候へども、しかと姓名を覺え申さず候事はいかゞ」と心付き候間、又々立歸り、先刻の坊主を尋ね候て承り候へば「何の久巴と申候」由承り届け、又御白書院の方へ參り候処、「越中守殿御呼び被成候」旨坊主申聞候間、則罷越候へば、最早其処には御入被成、直に時計の間の御次へ參り候へば、豊後殿・相模殿・佐渡殿・丹波殿・大和殿・対馬殿・伯耆殿其外大目付衆も御列座にて、先刻の一件御尋有之候に付、初中終の趣逐一に申上候。

其後相模殿御申には「上野介手疵の儀は如何程の事に候や」と御尋ゆゑ、「二三ケ所にて可有之、尤深手にては有之間敷」旨申上候。豊後守御申には「上野介事其節脇差に手を懸け、或は抜合などいたし候や」と被仰候。「拙者見及び候へ共、帶刀には手は懸け不申」段申上候。 右御尋の事ども相濟候て、越中殿へ「私事是より御使に参り可申候や」と相伺候へば、「やはり可相勤」の由御申被成候。

一、十六日。御列座罷出。御尋。先日之通申上候。「誰々一二に參候哉」「其段不存。不殘坊主共欠付候」由。「意趣之分は内匠殿不被申」由。「上野介殿脇差へ手を懸け被申候哉」「見不申候。ぬきはらひ候はゞ見可申候得共、其段も見不申候。取付何も仕候以後見申候得ば、最早上野介居不申候」。「誰つれ候て參候哉」「此段も不存候」由申上候。豊前殿「先日申候通」の由被仰候。

一、対馬殿(私記、高家京極)被申「脇差取候由被申候へと、自分のうそつき成候」よし被申。「左様にてぞ可有候。我等取候故坊主きらはゞ渡候」由申聞候。是斗にては濟不申候故、不殘高家退去の刻、御祐筆部屋の御椽にて何もとめ、御老中の御前にて申候より、其上対馬殿脇差取候様申聞候得共、我等取候故、其段御老中えも申上候。安藤筑後殿も其段にて被申候。対馬殿とかふ不被申候。

一、十七日。明番。筑後殿・伯耆殿、対馬殿(私記、若年寄稲垣)被申候通り、[此間有脱文]成程聞届私歟[ママ]取候に紛無之、対馬殿手を付候」由六郎被申候。「手付被申候事は成程可有之事、左様無之と私も不被申」由相達候。金左より明日御成の廻状来る。

一、十九日。四ツ時登城。相模殿へ「拙者罷出候」段申上候。大和殿御呼被成候に付罷出候処「麻上下にて無之候間、麻上下着用罷出可申」と被申候。則着用仕り、九ツ時少し過ぐる頃、時計の間より桐の間通りに相詰め罷在候。

其後、御座の間へ被爲召候て「今度内匠頭不法の刻、其方取扱宜しく致し候に付、御加増被下置候」段上意有之、難有旨御礼申上、夫より御老中方・御支配方へも御禮申上、退座の節、御臺所の廊下にて出羽殿へ御禮申上候。尤何れも方へ御禮に参上申候。 其後戸川肥前殿御申被成候は「此度御加増五百石、領知の近所にて勝手次第に可相渡」段被仰候。拙者申候は「只今迄の知行所は近邊に川無之候故、通路の儀甚難儀仕候間、今度は何とぞ川岸有之候処にて拝領仕度」旨を申上置き候。