日本女性美史 第二十一話

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第二十一話[編集]

江戶大奧の女性[編集]

大奧は江戶城中の女護ケ島である。御臺所(みだいどころ)(將軍の夫人)ここに棲まひ、侍女はじめもろもろの役目の女が詰めてゐる。
侍女は仲﨟(ちうらう)と呼ばれた。將軍付と御臺所付とにわかれ、御臺所付中﨟は自分たちのことを「御淸(おきよ)」と稱した。これは將軍付中﨟がたいてい將軍の愛妾となるのに對し、自分たちは、婦道をまもつてゐるとの自負心からでもあり、嫉妬心からでもある。その證據には、御淸(おきよ)はみんな綺量の惡い女ばかりであつた。
將軍付中﨟は表面上、政治には一切口を出されない掟ではあつたが、政務取次役たる御側御用人たちは彼女たちを畏怖し、將軍によくとりなしてもらふことを望んでゐた。彼女たちの中、世つぎの男子を生んだ者は忽ち「御部屋樣」となつて御臺所につぐ待遇を受け、諸大名も、御臺所に對すると同樣の敬意を表した。德川十五代にわたる將軍には妾腹の出が多かつたが、生母の家柄には隨分といかがはしいものもあつた。中﨟の將軍と思はれた者は世間に知られないやうにと、城外に出ることをゆるされなかつた。
中﨟の部屋付の年寄は、諸大名との儀禮上の交涉、社寺への代參、大奧出入の商人、藝人などへの應待のことに當るので、その權勢はおのづからすばらしかつた。また、その下に仕える女どもは視眼(みるめ)、嗅鼻(かぐはな)となつて世間の風說、實情、評判などを密吿し、それが「御部屋樣」を通じて將軍に通じられるので、部屋付年寄の權勢には諸役人もはばかるほどであり、中には年寄の生家に取り入つて自分の安全をはかる者さへあつた。
中﨟が召抱えられることについて一つ面白い話がある。
四代將軍家綱の時、矢島局(やしまのつぼね)と云ふ女が召抱え〔ママ〕られることになつた。身元は、牧野內匠頭信成の家中の者で、屋島治太夫と云ふ百石の士の妻であつた。一人の子を生んでゐたが、きれいなので召抱へられたのである。その時、掛の老中は松平信綱であつた。信綱が局にその方の夫治太夫は主人方にて祿何程であるか、と尋ねた。局は夫が身分低きものと思はれてはいけないと思つたので、三百石にて馬廻りをつとめておりまする、と答へた。すると信綱が、それなら身分も申分がないから早速とりきめるであらう、ついては直ちに歸宅いたし何かと用意するやうに、とのことであつた。局は大急ぎで歸つて、さて夫に、實は今日、御老中樣からあなたの祿高を尋ねられましたので、三百石にて馬廻りと申上げましたら無事に御召抱えときまりました、と、したり顏に話した。すると治太夫は興さめた顏で云つた。どうしてそのやうなたわけたことを申したのか、士は百石は當り前で、ちつとも恥かしいことはない、然し一旦お前がさう申上げたのなら致し方ない、わしからとりあへずお頭役にありのままを申上げよう、と、早速頭役のもとに行き、かやうかやうと仔細を吿げた。頭役は呆れ返つたが、すておくわけには行かぬので、その旨を老中に傳へた。すると、やがて老中から牧野內匠頭に指圖があつて、改めて治太夫は二百石の加增で妻のついたうその通りに、三百石の馬廻にして貰つた。そればかりでない、治太夫との間に生れた子は、矢島局が世つぎの男子を生んだために、先づ御小性〔ママ〕として召抱へられ、のちに越前守となつて、五百石を獲得した。生母の橫着のお蔭である。
尙ほ、私の大奧の女中についてのお話はすべて池田晃淵氏の「大奧の女中」によつた。

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