修身要領

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慶應義塾は單に一所の學塾として自から甘んずることを得ず其目的は我日本國中に於ける氣品の泉源智徳の摸範たらんことを期し之を實際にしては居家處世立國の本旨を明にして之を口に言ふのみにあらず躬行實踐以て全社會の先導者たらんことを欲するものなり

以上は曾て人に語りし
所の一節なり
福澤諭吉記

脩身要領

凡そ日本國に生々する臣民は男女老少を問はず萬世一系の帝室を奉戴して其恩徳を仰がざるものある可らず此一事は滿天下何人も疑を容れざる所なり而して今日の男女が今日の社會に處する道を如何す可きやと云ふに古來道徳の教一にして足らずと雖も徳教は人文の進歩と共に變化するの約束にして日新文明の社會には自から其社會に適するの教なきを得ず即ち脩身處世の法を新にするの必要ある所以なり

第一条
人は人たるの品位を進め智徳を研きます其光輝を發揚するを以て本分と爲さざる可らず吾黨の男女は獨立自尊の主義を以て脩身處世の要領と爲し之を服膺して人たるの本分を全うす可きものなり
第二条
心身の獨立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの之を獨立自尊の人と云ふ
第三条
自から勞して自から食ふは人生獨立の本源なり獨立自尊の人は自勞自活の人たらざる可らず
第四条
身體を大切にし健康を保つは人間生々の道に缺く可らざるの要務なり常に心身を快活にして苟めにも健康を害するの不養生を戒む可し
第五条
天壽を全うするは人の本分を盡すものなり原因事情の如何を問はず自から生命を害するは獨立自尊の旨に反する背理卑怯の行爲にして最も賤む可き所なり
第六条
敢爲活溌堅忍不屈の精神を以てするに非ざれば獨立自尊の主義を實にするを得ず人は進取確守の勇氣を缺く可らず
第七条
獨立自尊の人は一身の進退方向を他に依頼せずして自から思慮判斷するの智力を具へざる可らず
第八条
男尊女卑は野蛮の陋習なり文明の男女は同等同位互に相敬愛して各その獨立自尊を全からしむ可し
第九条
結婚は人生の重大事なれば配偶の撰擇は最も愼重ならざる可らず一夫一婦終身同室相敬愛して互いに獨立自尊を犯さゞるは人倫の始なり
第十条
一夫一婦の間に生るゝ子女は其父母の他に父母なく其子女の他に子女なし親子の愛は眞純の親愛にして之を傷けざるは一家幸福の基なり
第十一条
子女も亦獨立自尊の人なれども其幼時に在ては父母これが教養の責に任ぜざる可らず子女たるものは父母の訓誨に從て孜々勉勵成長の後獨立自尊の男女として世に立つの素養を成す可きものなり
第十二条
獨立自尊の人たるを期するには男女共に成人の後にも自から學問を勉め知識を開發し徳性を脩養するの心掛を怠る可らず
第十三条
一家より數家次第に相集りて社會の組織を成す健全なる社會の基は一人一家の獨立自尊に在りと知る可し
第十四条
社會共存の道は人々自から權利を護り幸福を求むると同時に他人の權利幸福を尊重して苟も之を犯すことなく以て自他の獨立自尊を傷けざるに在り
第十五条
怨を構へ仇を報ずるは野蛮の陋習にして卑劣の行爲なり恥辱を雪ぎ名譽を全うするには須らく公明の手段を擇むべし
第十六条
人は自から從事する所の業務に忠實ならざる可らず其大小輕重に論なく苟も責任を怠るものは獨立自尊の人に非ざるなり
第十七条
人に交るには信を以てす可し己れ人を信じて人も亦己れを信ず人々相信じて始めて自他の獨立自尊を實にするを得べし
第十八条
禮儀作法は敬愛の意を表する人間交際上の要具なれば苟めにも之を忽にす可らず只その過不及なきを要するのみ
第十九条
己れを愛するの情を擴めて他人に及ぼし其疾苦を輕減し其福利を増進するに勉むるは博愛の行爲にして人間の美徳なり
第二十条
博愛の情は同類の人間に對するに止まる可らず禽獸を虐待し又は無益の殺生を爲すが如き人の戒む可き所なり
第二十一条
文藝の嗜は人の品性を高くし精神を娯ましめ之を大にすれば社會の平和を助け人生の幸福を増すものなれば亦是れ人間要務の一なりと知る可し
第二十二条
國あれば必ず政府あり政府は政令を行ひ軍備を設け一國の男女を保護して其身體生命財産名譽自由を侵害せしめざるを任務と爲す是を以て國民は軍事に服し國費を負擔するの義務あり
第二十三条
軍事に服し國費を負擔すれば國の立法に參與し國費の用途を監督するは國民の權利にして又其義務なり
第二十四条
日本國民は男女を問はず國の獨立自尊を維持するが爲めには生命財産を賭して敵國と戰ふの義務あるを忘る可らず
第二十五条
國法を遵奉するは國民たるものゝ義務なり單にこれを遵奉するに止まらず進んで其執行を幇助し社會の秩序安寧を維持するの義務あるものとす
第二十六条
地球上立國の數少なからずして各その宗教言語習俗を殊にすと雖も其國人は等しく是れ同類の人間なれば之と交るには苟も輕重厚薄の別ある可らず獨り自ら尊大にして他國人を蔑視するは獨立自尊の旨に反するものなり
第二十七条
吾々今代の人民は先代前人より繼承したる社會の文明福利を増進して之を子孫後世に傳ふるの義務を盡さざる可らず
第二十八条
人の世に生るゝ智愚強弱の差なきを得ず智強の數を増し愚弱の數を減ずるは教育の力に在り教育は即ち人に獨立自尊の道を教へて之を躬行實踐するの工風を啓くものなり
第二十九条
吾黨の男女は自ら此要領を服膺するのみならず廣く之を社會一般に及ぼし天下萬衆と共に相率ゐて最大幸福の域に進むを期するものなり

明治三十三年
六月

病後初筆  
福澤諭吉

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。