久田船長

提供:Wikisource

本文[編集]

 青森・函館間の連絡船東海丸は、多數の船客を乗せ、郵便物・貨物を積んで、夜半に青森港を出港した。大分しけ模様であつた。明治三十六年十月二十八日のことである。
 津軽海峡特有の濃霧が,海上をおほつてゐた。波も次第に高くなつて行つた。しかも雨は雪に變じ、それが吹雪となつて,あたりを吹きまくつた。暗は暗し、其の上濃霧と吹雪では、全く黒白も辨じない。東海丸はしきりに汽笛を鳴らし、警戒しつゝ新港を續けた。かうして,翌朝四時頃には,渡島半島矢越岬の沖合にさしかゝつてゐた。
 すると、まことに突然、右手のすぐそこに、此方をさして突進して來る船があつた。それは、室蘭で石炭を積んで、ウラヂボストツクへ廻航するロシアの汽船であつた。
 東海丸の船長久田佐助は,眼前に迫る此の危急をさけるのに全力を盡くしたが、しかしもうおそかつた。忽ち一大音響と共に、ロシア汽船の船首は,東海丸の船腹を破つてしまつた。海水は、ようしやなく浸入する。東海丸の船體は、極度に傾いた。
 すは一大事。久田船長は、早速乘組員に命じて部署につかせた。五隻のボートは下された。彼は,わめき叫ぶ船客をなだめつゝ、片端からボートに分乘せしめた。此の間にも、東海丸は刻々と沈んで行つた。
 船客も船員も、すべてボートに乘つた。船長は幾度が確めるやうに、
「みんな乘つたか。」
「乘りました。」
「一人も残つてゐないな。」
「残つてをりません。」
残つたのは,たヾ船長一人であつた。
「船長,早くボートへ乘つて下さい。」
だが、返事はなかつた。一體何をしてゐるのだらう。
船員の一人は、たまらなくなつて、はせつけた。
「船長、早くボートへ。」
 しかし、船長は、船橋の欄干に身を寄せて動かうとしなかつた。見れば彼の體は、旗のひもで,しつかと欄干に結び附けられてゐる。沈み行く船と運命を共にしようとする覺悟なのだ。
「船長,私も一しよにお供いたします。」
それは、全く船員の感激の叫びであつた。
 船長は厳かに答へた。
「船と運命を共にするのは船長の義務だ。お前は速く逃げろ。一人でも多く助つてくれるのが、私に對するお前たちの務ではないか。」
悲痛な、しかも威厳のある聲に、船員は思はずはつとした。彼は、すごすごとして最後のボートに身をゆだねた。
 東海丸からは、引切なしに汽笛が高鳴つて,暗い海の上を壓した。聞く人々は全く斷腸の思であつた。やがて、其の音は聞こえなくなつた。東海丸は沈没したのである。最後の瞬間まで、非常汽笛を鳴らし讀けた久田船長もろ共に。
 暗夜と荒天の海上に、五隻のボートは木の葉のやうに動揺した。中には、波にのまれてしまつたのもある。しかし、乘客・船員の過半は、からうじて助ることが出來た。
 四十歳を一期として,従容しょうよう死についた船長久田佐助の高潔な心事は、忽ち世に傳へられ,日本全國の人々をして涙をしぼらせた。
「船長たる者は、萬一の場合、決死の覺悟がなくてはならぬ。百人中九十九人まで助れば、或は自分も生きてゐるかも知れぬが、さもなければ歸らぬものと思へ。」
とは、久田船長が、かねてから其の妻に言聞かせてゐた言葉であつた。だから,東海丸遭難第一の電報を手にした時、妻は早くも夫の死を察し,見舞の客に對しても、あへて取りみだした様子を見せなかつた。人々は此の事を聞いて、今更のやうに久田船長のりつぱな心掛に感動すると共に、夫をはづかしめぬ此の妻の態度をほめたゝへた。

この著作物は、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。